たくやちゃんと赤ちゃんパニック −1
「ん〜……もうすっかり春だねぇ……」
バスに揺られながら窓の外を見つめていると、真新しい制服やリクルートスーツに身を包んだ人の姿につい目をやってしまう。
――あたしも院に進学しなかったら就職………できてたのかな?
考えるとちょっと不安になる。幼馴染の明日香が海外留学へ旅立ち、北ノ都学園で研究を続けると決めたあたしではあったが、ちゃんと男に戻れたはずなのに、またしても女へと性転換してしまっている。最近では麻美先輩と千里が競うようにあたしを元に戻すべく研究してくれてるから、その点では心配していないけれど……こんなあたしが就職しようとしたら、一体どんなトラブルが起きていたことか、考えるだけで頭が痛くなる。
もし仮に就職しようとして、履歴書に書いた性別と面接の時の性別が違ってたり、就職してから男に戻ったりすれば、「詐欺だー!」と訴えられてしまうかもしれない……実際の話、キャバクラや某豪邸のメイドさんなど、女のままでのバイト先には事欠かないぐらいに、今のあたしは可愛らしい。………あくまでも、“今のあたし”なのだが。だからこそ、女の姿を見せて就職したりすると後の話がややこしくなりそうなのだ。
――なんかもう、最近は女でいることにもすっかり慣れちゃったしね……とほほ……
あたし、相原たくやのこれまでの人生を振り返ると、男から女へ変わる性転換すると言う、普通なら一生に一度も人生に関わらないような特殊な経験を数え切れないほど体験しているのが最大の特徴だ。
つい先日も、後輩の弘二が性転換する薬を混ぜたコーヒーを不覚にも口にしてしまい、ショートカットがよく似合っている美女へと変貌してしまっている。ちょっと幼さの残った顔つきはそのままに、女性化を経るたびに体つきだけは女性らしく、ボンッキュッボンッと見事なボディーラインになってしまうので、毎回エッチな目にだけは事欠いていない。……ああ、男なのに、男にまさぐられて感じてしまう敏感な自分が恨めしい……
けれど今日のところは痴漢に襲われる心配はなさそうだ。
春休みの平日なのに加えて、今は通勤通学の時間では無い。北ノ都学園に向かうバスの車内に人の姿は数えるほどしかなく、あたしも人目を気にせずリラックスして椅子に腰を掛けていられる。
同乗しているのが、どこにでもいそうな中年の女性や、女の子を連れた母親など女性ばかりと言うのも、痴漢を警戒しないでいい理由の一つでもある。……同性(?)の男性の中より女性だらけの方が落ち着くなんてのも、度重なる女性化の問題の一つなのかもしれない。
――ん、あれは……
苦笑しながら窓の外を眺めていると、バスが停まろうとしている停留所に立つ一人の女性に目を止めた。
――妊婦さんだ。
停車したバスに乗り込んできた女性にに注目したのは、美人だからと言うわけでは無い。確かに整った顔立ちをしているけれど、それ以上に、ふくよかにお腹を膨らませた妊娠中の女性だったからだ。
「よっこいしょ…っと」
「大丈夫ですか? 手を貸しますよ」
あたしは座席を立つと、重そうなお腹を抱えて一段一段階段を登る女性に手を差し伸べた。手にした荷物を預かると搭乗口に近い二人掛けの座席へと誘導する。
「ありがとうございます。んっ…と」
一人掛けに窮屈に座るよりはいいだろう。人も少ないし。――言っては悪いだろうけれど、まるでお相撲さんのようなお腹を抱えて二人掛けの席に座る動きは、いかにも重そうで重労働そうに見えた。
運転手も妊婦さんが腰を下ろしたのを確かめてからバスをゆっくりと発進させる。軽くよろめいたあたしは座っていた席へは戻らずに、妊婦さんの座った座席の背もたれに手を付いて体を支えると、女性の足元へ手にしていた荷物をそっと返した。
「どうもすみません。こんなにおっきくなっちゃうとバスに乗るのも一苦労だから」
「こういうときは持ちつ持たれつ。気になさらないでください」
ちょっとした人助けだけれど、それでも気分はいい。女性と言葉を交わしていると、あたしの顔にも自然と笑みがこぼれてしまう。
「あなたはこの先の学校の学生さん?」
「ええ。今は春休み中ですけど、自分の研究には休みはありませんから」
「感心ね。私の赤ちゃんもあなたみたいになってくれればいいんだけど……」
いや、あたしみたいになっちゃいけませんって。男か女かわかんなくなっちゃいますから。……ま、そんな突っ込みを言おうにも、愛おしそうにお腹を撫でる女性の前では引っ込めざるを得なかった。
「……その中に赤ちゃんが入ってるんですよね」
と、言ってから慌てて口を塞ぐけれど、もう遅い。ちょっと不思議そうな顔で妊婦さんに見つめ返され、
「ち、違います、セクハラかなって今思ったけど、決してそんなつもりはありませんから!」
「まぁ。ふふふ、気にして無いわよ、そんなこと。あなたぐらいの年頃なら興味があって当然ですものね」
……あたしが男だって説明するべきだろうか? 説明し終える前に来たのと学園に着きそうだけど……
けれど、自然と目が女性のお腹へ行ってしまうぐらいに興味を引かれているのは確かだった。とは言え、妊娠中の女性をそう言う目で見るのも失礼かと思い、早急にこの場を立ち去ろうかと思っていると、
「ねぇ……よければ触ってみる?」
「え……い、いいんですか?」
「ええどうぞ。私の赤ちゃんもあなたみたいに美人のお姉さんになら大歓迎だって言ってるわ」
どうやって生まれてもいない赤ちゃんの言葉が分かるのやら……それでも何のためらいも無い明るい笑顔でそう言われては、母親と赤ん坊の間になる何かをつい信じてしまいそうになる。
「それじゃあ、ちょっとだけ……」
こんなのはちょっとしたコミュニケーションだ。自然に触れば何もやましいところは無い。……と言うのに、自分でもどうしようもないぐらいに緊張してしまっている。一度触ろうとして慌てて手を引っ込め、スカートで手の平をごしごし拭ってから、恐る恐る丸く大きく膨らんだ女性のお腹へ手を触れた。
――この中に赤ちゃんが入ってるのか……
なんだか不思議な気分だ。
男の体ではありえない、女性だけの特権と苦しみ。――手の平から伝わってくる温もりと赤ちゃんの感触に、それだけでは言い表せない感銘を受けながら、記憶と心に刻むように女性の腹部に手を滑らせた。
「……ありがとう。そんなに大事に触ってくれて」
「あ、す、すみません。あたし、つい……」
「誤ることは無いわよ。私の子もきっと喜んでるから。それに……あなただって、いつかは好きな人の子供をこうして身篭っちゃうのよ? もっと触って確かめておいたら?」
「えうっ……そ、それだけは絶対に無いと思うんですが……」
「そう言ってられるのも今のうちよ。好きになったら一直線なんだから。ふふふ……」
弱ったな……あたしは男なんだから妊娠させる方であって、するのとは無縁なんだから……
妊婦さんの言葉に頭を書きながら自分に言い聞かせてみる。その一方で、ある一つの可能性が芽生えつつあるのはさすがに誤魔化しきれなかった。
――あたしでも、赤ちゃんを妊娠するんだろうか……
「……なんですか、それは!?」
五条ゼミのゼミ室へやって来たあたしは、先に来ていた留美先生を指差して、そう叫んでいた。
「見て分からんか? 赤ん坊だ。まだ一歳にも満たない乳幼児だ」
留美先生の腕の中に赤ん坊が抱かれていた。
まだ立つ事も喋る事も出来ない、サルのような顔の小さな赤ん坊。……いや、それは分かる。だけどそれが得体の知れない物体であるかのように、留美先生の胸に抱かれている赤ん坊の存在を見つめたまま、あたしの頭の中は大混乱に陥っていた。
「まさか……先生、いつ出産をグはァ!」
この答えは間違いだったようだ。あたしの顔へ飛んできた分厚い研究書の直撃を受け、あたしはその場にぶっ倒れた。
「タタタ……し、失礼しました」
「言葉には気をつけるんだな、相原。仮にこの子が私の子供だとしたら、父親の心当たりは一人しかいないんだぞ?」
「ちょっと考えれば分かる事でした。………って、父親はあたしですかァ!?」
再び研究書が顔の真ん中に直撃する。しかも今度のはさっきのよりも分厚く重くて固かった。
「ズ…ズビバゼン……ダガラ本ヲ投ゲルノバ勘弁ジデクダザイ……」
「わかればいい。お前も研究者の端くれなら、軽々しく口は開かない事だ。熟慮しろ」
あうぅ……鼻が一センチぐらい引っ込んだかも……
「まあ、誤解するなと言う方が無理だろう。私もこういう子が一人ぐらいいてもおかしくない年齢なのだからな」
いつもどおりの白衣に髪を束ねた姿の留美先生は、あたしへ向けていたお叱りの声をフッと和らげ、少し恥じらいを含んだ声で話しかけながら、手を伸ばす赤ん坊の手に自分の人差し指を握らせる。
「隣人が急に出かけなければならなくなったらしいので、私が預かったのだ。ここなら“女手”もあるしな。寂しい思いをさせなくてすむ。人間として、こんな子を一人にはして置けまい?」
「………女手にはあたしも含まれてるんですよね……」
「相原には期待している。私がいない間は面倒を見てやってくれないか?」
―――なぜあたしの顔じゃなくて胸を見て言うんですか?
「はぁ……ま、あたしでよければ手伝いますよ。けど、赤ちゃんの世話なんてしたことありませんからね」
「頼まれてくれるか。なに、経験に関しては私も同じようなものだし、これから試行錯誤すればいい」
そう言うと、ダメージから復帰したあたしの両腕に早速赤ちゃんを預けられた。
「では頼む。私はこれから学会に向かわねばならん」
「………は?」
キョトンとして疑問の第一声を放つ間にも、白衣を脱いだ留美先生は変わりにコートを羽織り、カバンを手にしてゼミ室の扉へと向かって行く。
「ちょ……ちょっと待ってくださいよ! 留美先生、学会って、ええっ!?」
「安心していい。私が帰るのは三日後だ。隣人が帰ってくるのも三日後だ。受け渡しスケジュールに不備は無い」
「それよりなんで自分が学会に行くのに赤ん坊なんて預かってきたんですか!?」
「言っただろう? ここには“女手”があると」
ま……まさか最初からあたしへ預ける気だったのかぁぁぁ!?
「それでは相原、期待しているぞ。無事やり遂げられたら……そうだな、また食事でもどうだ?」
「あうっ……!」
食事と言う言葉に、留美先生と“いたしてしまった事”を思い出してしまい、反論の言葉を詰まらせてしまう。
「ミルクと紙おむつは机の上だ。―――む、もう出なければ汽車に間に合わないな。じゃ」
「『じゃ』って……留美先生、待ってくださいよぉ〜!」
赤ちゃん抱えてオロオロしている内に、なんで「汽車」なのかと聞き返す余裕すら与えてくれずに留美先生はゼミ室から出かけていってしまった。
「と、とほほ……赤ちゃんなんてどうすればいいのよォ……」
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