第十一章「賢者」51
―――なっ!? ぎ、ギルドマスター!?
おばあさんの言葉を聞いて驚いたのはあたしだけじゃない。綾乃ちゃんも、黒マントの少女も、そして村の男の人たちの多くも驚きを隠せないでいた。それほどまでに“魔法ギルド”の名前は世に知れ渡っている。
魔法ギルドとは、言うなれば世界最大の魔法使いの寄り合いだ。
山奥の庵に引きこもり、黙々と魔法の研究を個人で行う魔法使いがいないわけではない。アイハラン村で生まれ育ったあたしにしてみれば、一つの村に集まりながらも研究に関しては他者とあまり交わりたがらないタイプの魔法使いのほうが慣れ親しんでいる。けれどそれとは対照的に、魔法ギルドは大人数による組織だった魔法の研究開発を行うところだ。
最大の特徴は大学などを運営して魔法使いの育成を行っていることにある。個人の研究が大きな成果を挙げることも当然あるわけだけれど、その研究成果を受け継ぐ人がいなければ、いずれは霞のように消えて行くだけだけど、魔法ギルド内での研究成果は後進に連綿と受け継がれていく。そうして何世代も経て研究を重ね、新たな魔法技術を確立していく。
今の世に普及している魔法技術のほとんどが魔法ギルドによって生み出されたと言っても過言ではない。その中から多くの魔法の天才が生まれ、魔王戦争で失われた古代魔法文明時代の魔法も次々と蘇りつつあると聞いている。
アイハラン村が集まってくる個々人の才能によって“魔法使いの村”と呼ばれているのに対し、魔法ギルドは魔法に携わる人たちの協力しあって高みを目指す“魔法使いの塔”と言うべき存在だろう。そして魔法ギルドの“ギルドマスター”は、そう言った人たちの頂点に立つ人間である。すなわち、
―――世界“最高”の魔法使いの称号……
確かに、留美先生がギルドマスターと言われれば納得してしまえる。今まであたしが目にしてきた魔法技術は、無詠唱魔法、魔力ハンマーさえ跳ね返す障壁、時間逆行、そして魔王のエロ本ですら跡形も残さずに消し去った挙句に大空洞をも吹き飛ばした超魔法などなど、どれ一つとっても驚愕のものばかりだ。
だからだろうか、
―――あまりに当てはまりすぎてて……なんか留美先生の“正体”って言われても……
留美先生がギルドマスターであることは、今にも『ええい頭が高い、控えおろう!』と言い出しそうなお婆さんの言葉に少しだけ照れて困惑している留美先生の顔を見れば、ギルドマスターであることは事実なのだろう。……が、“ギルドマスター”の称号は肩書きであり、留美先生の“正体”ではない。それは“本質”とも言い換えられる。
―――やば……なんか変なこと考えてる。こんなの、今はどうでもいいことなのに……
やっぱり血が足りていないのだろうか、フラフラとしてわき道にそれようとしている思考をはっきりさせようと頭を振る。けれど逆に頭の芯から広がる頭痛がひどくなり、たまらずあたしは顔を歪めてしまう。
「先輩、大丈夫ですか…?」
「ん……平気平気。このぐらい、どってことないから」
心配げにあたしを見る綾乃ちゃんに、無理に元気を装って右腕を振り上げる。さすがに骨が折れてる左腕は動かさないけれど、それでもあたしの笑顔は折れた肋骨の激痛で引きつってしまう。
「本当にこれぐらいなんでもないから……あたしの怪我の治りの速さは知ってるでしょ? 一日二日で骨なんてすぐにくっついちゃうって」
普通の人ではありえない治癒速度は、今まで巻き込まれたトラブルで何度か体験済み。さすがに今回ほどのダメージを受けたのは初めてだけれど、この後のことはあまり心配していない……のだけれど、綾乃ちゃんの表情の暗さを簡単に拭い去ることは出来なかった。
「でも……私が一人で勝手に行動したせいで先輩にご心配をおかけして……」
「だけど綾乃ちゃんはあたしのピンチを助けてくれたじゃない。無茶して怪我してピンチに陥ってるあたしを助けてくれるのは、いつも綾乃ちゃんなんだから、チャラよチャラ。それに助け合うのが仲間ってもんなんだし……ね?」
「先輩……」
これで綾乃ちゃんも少しは表情の硬さを和らげてくれるだろう……そう思い、一息を突いていると、
「信じられるかよ、こんな女の言葉なんて!」
まだ頑なにあたしたちを犯人とする声が村の男の人たちの中から聞こえてきた。
「百年前にこの村を救ったって? ガキの頃からその話は聞かされてるけど、その女はババアでもなんでもないじゃねえか!」
「そうだそうだ。きっとそいつ、長老をだまくらかしてるんだ。みんな、信じるんじゃねえ!」
「何が海の主だ。お前ら、ぼさっとしてないで武器を取れ! あの化け物を倒さなきゃ、やられるのは俺たちなんだぞ!」
百歳を超える長老の言葉でも、とても人間のかなう相手ではない海龍王さんが姿を見せても、それでもあたしたちを悪だと決め付けるほどに憎しみは強いのか……と思っていたのだけれど、戸惑う村人たちの後方から離れて行く男たちと不意に視線が合ってしまう。
「ま、マズい、逃げろォ!!!」
「へ……?」
何で視線が合うだけで逃げられなければいけないのだろうか?
………いや、違う。
逃げ出した男たちの顔に見覚えがある。思い出すのに五秒ほど掛かったけれど、あれは間違いなく、
「あ〜〜〜! 寺田と一緒にいた男ども!?」
犯されるあたしを取り囲んでニヤニヤ笑っていた連中だ。忘れられるはずがない……のだけれど、あたしが指差して叫んだ時には、もうすでに村につながるほうとは別の洞窟の入り口にまで辿り着くところだった。
「留美先生、あいつら捕まえ……ッ!」
言葉は最後まで続かない。
叫んだことで胸が大きく上下し、その動きが折れた肋骨だけでなく全身から激痛を生む。あたしは苦悶の表情のままその場にうずくまってしまい、綾乃ちゃんだけではなく留美先生までもがこちらに目を向けてしまっている。
―――今は、何か絶対に知ってるあいつらを捕まえなくちゃいけないのに……!
先ほどから村の人を煽っていたのもあいつらの仕業に違いない。そう考えが至れば、声に聞き覚えがあったのも当然だ。だとすれば、あたしたちがマーマンを呼び寄せた犯人であることも容易に想像がつく。
―――それなのに……!
寺田とつながっていたあいつらを逃がしてしまえば、マーメイドの誘拐などの真相が一気に分かるかもしれない。それなのにみすみす逃げられようとするのを指を咥えて見ているしかないのか……と悔しがりかけていたあたしが目にしたものは、首筋にナイフを突きつけられ、後ずさりする男たちの姿だった。
「お客さん、こっちは通行止めだぜ」
―――大介、ナイスタイミング!
もう一方の洞窟へ綾乃ちゃんを探しに出ていた大介。まるで出てくるタイミングを見計らっていたんじゃないかと思うほどの登場の仕方だ。
「て…てめェ、何しやがる。俺たちに雇われてたんじゃないのかよ……!?」
「はぁ? 何言ってんの。俺が雇われたのはこの村にだぜ。てゆーか、俺“たち”って事はさ、この一件、やっぱり村長さんも絡んじゃったりしてる?」
絶対に隠れて話を聞いてたんだ……留美先生の強引な推論を跡付けるように大介が問うものの、男たちもまさか「そうだ」と断言はしないだろう。でも先ほどまで散々村の人を煽っていた口は噤(つぐ)まれている。
「俺さ、前いた街で情報屋やってたのよ。だから人の顔を見忘れるようなへまはしないんだけどさ……あんたら、依頼の契約する時に村長の背後にいたよな? だけど威圧するだけで依頼の話に口を出さなかったよな? なのに何で自分を依頼主だって思っちゃったわけ?」
さすがに元々情報屋なだけあって、戦闘はからっきしなのに脅しのナイフと脅しの言葉だけで男たちをまとめて後退させていく。
だけど男たちは口を開かない。洞窟の前から簡単には離れない大介と、自分たちの背後にいる村の仲間や留美先生や海龍王。どちらを相手にするのが楽かと問われれば、当然一人だけの前者を選択するだろう。しかも男たちは複数。一斉に掛かればと言う思考が今頃は頭の中で働いているだろう。
大介は逃走させないため、洞窟の前から離れようとしない。距離が開き、それがそのまま男たちの心に余裕を生ませる間合いになると、チラリチラリと目配せをし、手にした銛を突き立てるタイミングを計り始める……が、
「あんたら、村長に捨てられたぜ」
男たちが襲い掛かるよりも早く、逆にトドメをさす言葉が大介の口から放たれていた。
この期に及んでもまだ声を出さないけれど、男たちの動揺は他の人たちと共に離れた位置から見守っているあたしにも見て取れる。
「この洞窟の先に馬車を何台か用意してあったよな? 村長さんたち、それにフードかぶせた子を無理やり押し込んで、さっさと出発しちまったぜ」
「う…嘘だ、そんなのデタラメだ!」
ようやく発した言葉は震えていた。流れ的に犯人扱いされつつあることへの怒りか、それとも裏切られた怒りかは判らないものの、周りの男たちもその言葉を押しとどめようとはしていない。
「かわいそうにな〜。放って行かれたんだぜ、あんたたち。村長が何してんのかは知らないけどさ、逃げるように出て行った村にまた戻ってくると思うか? 仲間が減ったら、むしろ取り分増えてラッキーとか思っちゃわない?」
「違う…そんなはずない……村長が、俺たちを見捨てるなんて……」
「だったらみんなで洞窟の先を見に行ってみるか?」
大介が肩越しに背後の洞窟を指差すものの、逃げようとしていたはずの男たちは誰も動こうとしない。
冷静に考えて、この時点でこの場所に残り、村人を扇動している自分たちが馬車で出発した村長たちに追いつけないことを悟ったのだろう。しばらくすると、
「そう言えばお前ら、マーマンと戦ってる時にどこ行ってたんだよ」
「この人たちが犯人だって騒いだの、お前らだったよな?」
「さっきもずっと後ろで喚くだけ喚いて、全然前に出やがらねえ。危ない目に遭うのは俺たちだけか、あ?」
「最近、ずっと村長の家に入り浸ってたな……なに相談してたのか訊かせてもらおうじゃねえか」
あたしたちを倒しにきた村の男の人たちが村長一派を取り囲む。同じ村の人間、しかも男同士であるせいか、あたしたちと対峙した時よりも遠慮はない。背後から肩へ無遠慮に手や肘を乗せられると、抵抗しても無駄であることを悟ったのか、銛を次々に手放し、地面にがっくりと跪いていく。
「俺たちは……俺たちは悪くない……だってそうだろ? 相手はモンスターなんだぜ。モンスター捕まえて何が悪いんだよ……」
「あのガキだ、あのガキが話持ちかけてきたんだ……」
「ちくしょう……あと少しで大金持ちだったのに、あの女が……!」
なぜか恨みのこもった視線があたしへ向けられるけれど、気にしてなどいられない。悪い事して捕まったのだから自業自得というものだ。
―――だけど、本当に村長さんが一件に絡んでたんだ……エロ本が退治されてようやく終わったと思ってたのに、また話がややこしくなってきた……
お金にみみっちくて、最初から胡散臭い村長だとは思っていた。でも実際に悪の根源だとわかってしまうと、また一つ頭痛の種になってしまい、骨折の痛みとはまた異なる痛みにあたしは思わず顔をしかめてしまう。
「……でも馬車に乗って逃げられたんじゃ、今からだと追いつけないか」
もう一本の洞窟の長さがどれだけあるのかは知らないけれど、大介が綾乃ちゃんを探しに洞窟に入ってから戻ってきた時間から、それなりの距離があることは推測できる。しかも村長たちが出発するのを見てから大介は戻ってきたのだ。どうがんばった所で追いつけはしない。
まあ、そもそも無関係のあたしにしてみれば、今回の事件がここでいったん終わりを迎えるのならそれでもいいとも思える。後の追跡は冒険者ギルドや保安官などの仕事だろう。全身ボロボロのあたしは戦力にもなれず、はれてお役御免………のはずなのに、安堵のため息をついたところで留美先生が優しげな笑みを浮かべてあたしの右肩に手を置いた。
「ではたくや、行こうか」
「行くって……病院、ですよ、ね?」
そこはかとなく嫌な予感がする……あたしはこめかみに冷たい汗が流れ落ちて行くのを感じながら、血と汗と砂埃にまみれた顔に笑顔を浮かべて訊ね返すものの、留美先生は表情を一切崩すことなく、
「逃がすと面倒だから捕まえにいく。だからお前も来い」
それがさも当然であるかのように、死に掛けてるあたしに無茶振りした。
「む、無茶言わないでくださ…たたたたたっ。こ…これ以上無理したら、本当にあたし、死んじゃいますよ〜……」
「安心しろ、まだ死ぬことはないさ。なにしろ、お前の運命はまだここで終わらないのだからな」
………同じ言葉をつい最近、どこかで聞いた気もするのだけど……
そうして一瞬悩んだ隙を突き、留美先生はもう片方の手を持ち上げ、ぱちんと指を鳴らす。
「いやァ―――――――――ッ!!!」
有無を言わさず、留美先生お得意の空間転移。全身の皮膚があわ立ち、それに伴い身体の左側を中心に全身から筋肉を締め上げるような激痛が一気に駆け巡る。
「ひっ………は……あ………」
足の裏が地面から離れたのはほんの一瞬だったけれど、それでもショック死寸前にされるには十分すぎる時間だ。転移が終わるのと同時にあたしは糸が切れた操り人形のように地面へ倒れこみ、後ろへお尻を突き出した恥ずかしい格好のままぴくぴくと痙攣し始めてしまう。
「ほら、何をぼさっとしている。時間的に考えて、私の推測ではそろそろ村長どもがマーメイドを乗せた馬車がここへやって来るぞ」
「そ…んなこと…い…言った…って……」
固い地面から何とか顔を上げるものの、もう立ち上がる気力も体力もない。悠然と腕を組んであたしを見下ろしている留美先生を訴えるような涙目で見上げてから、あたしは思いため息を吐き出しながらあたりの光景に視線を巡らせる。
「……ってここ、街道じゃないですか」
見覚えのある光景は、漁村につながる街道だった。一週間にもわたって魔力ハンマーをドッカンドッカンぶっ放し、平らに均(なら)した場所だ。見間違えるはずがない。
「おや〜、たくやちゃんじゃないか。どうしたんじゃい、そんなところに座り込んで……って、えらい大怪我しとるのォ」
まだ街道の細かいところの工事は終わってはいない。そこかしこで働いている工夫の中から馴染みのおじさんが突然姿を現したあたしたちの方へと近づいてくる。
「おや、あんたは昨日の別嬪(べっぴん)さんかい。無事にたくやちゃんにあえたようじゃな」
どうも留美先生とも顔見知りらしい。留美先生も昨日この街道を通って漁村に来たのだから、その時にここでなにかあったのだろうか、お互いに会釈している。
「早速で申し訳ありませんが、お力をお貸し願えませんか? これからこの道を漁村から逃走中の重犯罪人が通過します。足止めは我々がしますので、その後の捕獲の協力を頼みたいのです」
「犯罪人? わかった、そう言う事なら喜んで協力させてもらいますよ。おい、みんな工事の手を止めて集まってくれ!」
街道工事はあたしが一週間で大部分を済ませてしまったけれど、おかげで進行が早すぎて、細かい仕上げの工事の終わっていない範囲が結構広い。そんなに大勢働いているわけではないけれど、全員を急に集めようとすると、伝令を走らせても五分以上は掛かるだろう。
「留美先生……本当にこの道を馬車は通るんですか?」
「それは間違いない。なぜマーメイドの拉致にあわせて工事を行わせたと思っている? 少しでも街道を平らに均して馬車での逃走を容易にする逃げ道のため、そしてマーマンが追いかけて襲ってきたとしても工夫を盾に出来るからだ」
そもそも、漁村につながる街道は岩がゴロゴロ突き出していて、容易に通行できるとは言いがたいような道だった。大型の馬車は絶対に無理。通行できるのは、よくて小型の馬車ぐらいだろうけれど、どれだけゆっくり走っても激しい上下振動を車内で味わえることだろう。
「マーメイドを部族ごと捕らえたんだ。十人どころの話じゃないだろう。その文、馬車の台数も増えて村を出るのも難しくなるが、マーメイドを捕らえた副作用でマーマンが村を襲いに来るのは時間の問題だった。その混乱に乗じて村を出るための計画として、冒険者を雇い、街道工事を始めさせたのだろう」
―――つまり、弘二と大介は村でマーマンを足止めにするために雇われたと言うことか。
もし留美先生が戦闘に加わっていなければ、今でもまだ血みどろの戦いが繰り広げられているか、もしくは生殖に飢えたマーマンに村の女性たちが嬲り者にされていただろう。それなのに、マーメイドを捕らえてそういう事態を引き起こした張本人である村長は、村人が悲惨な目に遭うことすら計画に組み込んで逃走しようとしていたのだ。
話を聞くほどに、あたしの胸にも怒りがムカムカと湧き起こり、一発ぐらいぶん殴ってやらないと気がすまなくなってきた……のだけれど、さすがにボロボロの身体では何もお手伝いできない。そもそも留美先生がいれば、どんな化け物が襲ってこようが問答無用で吹っ飛ばせるはずだし。
それなのに、
「そうそう、言い忘れていたが、先ほどの空間転移で私は魔力切れだからな」
「なっ!?」
「カタストロフ・ブレイクでかなり大量に魔力を使ってしまってな。威力は絶大なのだがやはり未完成、少し調整する必要がある。暴走の危険性もあるし安全性も考慮した上で再構築しなければ……と言うわけで、足止めは任せたぞ、たくや」
「うそぉおおおおおっ!?」
もう骨折が痛いとか言っていられない。見れば街道の向こうに砂煙が上がっていて、少しずつ村長たちを乗せているであろう馬車の集団が留美先生の予測通りこの場所に近づきつつあった。
けれど一方、馬車の足止めをいきなり振られたあたしは丸腰だ。ショートソードも魔法暴走のドサクサでどこかにやってしまったし、いつもジャケットの裏に仕込んである大降りのナイフも今は宿屋に置いてある背負い袋の中だ。
―――人が多いからモンスターを呼べば下手すると混乱起きちゃうし……こうなったら魔力壁やっちゃう? 右腕はまだ無事だけど……
まだ練習不足だし、発動にはそれこそ大量の魔力が必要だ。仮に発動したとしても、魔力を振り絞って一秒持つかどうか怪しいところだし、馬車数台を足止めの役には立たないだろう。
「ほれ、たくやちゃん。悪いやつはこれで吹っ飛ばしてやれ」
武器も何もないのにどうやって馬車を止めるか頭を悩ませていたあたしの目の前に、工夫のおじさんが工事用のハンマーを差し出してくれる。
………もう悩んでる時間もないし、これに賭けるしかないか……!
馬車はもう、その形が見て取れるほどにまで接近してきている。街道の真ん中に座り込んでいるあたしのところまで、あと一分と掛からずに辿り着くだろう。
ハンマーを受け取ったあたしに残された時間は後わずか。立てず、左腕も動かず、辛うじて無事な右手でハンマーを肩に担ぐと、留美先生の治療魔法で体内に注ぎ込まれた僅かな魔力を懸命にかき集める。
「く……」
―――キツい。悲鳴を上げたいぐらいキツい。けどここまで来て、目の前を通って逃げられるのも頭にくる。そうだ、怒りの感情で魔力を膨張させればいい。あの漁村に行ってから嫌なことばかりだ。弘二にも大介にもマーマンにも犯されて、それもこれも村長が悪事を働いたせいじゃない。ああそうだ、この恨みを全部ぶつけてやろう。よし、上手い具合に馬車が近づいてきた。三十、二十九、二十八……ああああ、ハンマーが重い。柄が肩に食い込むし。力仕事ってあたし向きじゃないのに。二十三、二十二、ああもう、二十。そのあたりなら魔力ハンマーの射程内。よしそこ動くな。今、みんなまとめて……!
十分とは言えないものの、感情の昂ぶりに呼応した魔力は辛うじて放つに足る量だ。後はハンマーを振り回せば衝撃波が馬車を襲う……はずなんだけれど、折れてはいないものの骨に無数のヒビが入った右腕一本には、工事用のハンマーはあまりに重過ぎた。
「あ、あれ?」
持ち上げようとしているのに、ハンマーは肩から浮き上がらない。それどころか、あたしの身体はハンマーの重さに引かれて後ろへ傾いた。しかも放つタイミングが遅れた聖で馬車は一気にあたしの目の前へと迫ってくる。
「き…きゃああああああああああっ! ちょ、ちょっと待ってェ〜〜〜!!!」
見れば留美先生は街道脇に避難済み。道の真ん中に一人取り残されたあたしは、村長の予想を超えて早く工期の終わっていた街道を全力で走ってくる馬車馬から青い大空へと視線を九十度回転させながら後ろに倒れこむ。
―――その瞬間、地面が轟音を響かせて跳ね上がった。
『ブヒィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!!!』
音の正体は魔力をためたハンマーの先端が、倒れこんだ勢いで地面に触れ、それと同時にあたしの制御から解き放たれた魔力が一気に放たれたことによるもの。威力は皆無。拡散して派手に音を立てて地面を揺らしはしたものの、むしろ馬を相手にするには衝撃波として放つよりも高い効果を生み出していた。
そもそも馬は敏感で臆病な性格だ。走っている地面から大きな音がいきなり鳴り響けば、驚いて、文字通りその足を止めてくれる。
「おい、こら、落ち着けって!」
御者が手綱を絞って馬を抑えようとしても、すでに遅い。偶然とは言え、全部で六台の小型馬車の足止めに成功すると、ハンマーやつるはしを手にした屈強な工夫たちが御者台に座っていた村長やその仲間たちを次々と引き摺り下ろしていく。
「ひィィィィィ! な、何をするんじゃ、ワシは村長じゃ、ワシに手を出したら工事代金は払わんぞ〜〜!!!」
「金は冒険者ギルドに支払わせる。事前調査不足でいい迷惑を被ったからな。むしろ、そいつらをモンスター乱獲の罪で突き出してもらえる報奨金の方が多いかも知れんぞ」
「よーし野郎ども、村長さんからの臨時ボーナスをありがたくいただいておくぞ―――!!!」
やれやれ、最後までヒヤヒヤさせられっぱなしだったな……ともあれ、今度こそ本当に一件落着だ。黒幕と思しき魔王のエロ本は退治され、マーメイドを連れ去ろうとしていた村長も捕まえられた。短くも長かった二日間の騒動に幕が下りると、あたしはボロ雑巾にようになった身体を街道に投げ出し、空を見上げながら長く長く息を吐き出した。
そんなあたしの傍に留美先生がやってくると、思わず疑り深く目を向けてしまう。
「ふふふ、ずいぶんと締まらない終わり方じゃなかったか?」
「別にいいですよ、格好なんて。あ〜も〜……これ以上無茶なことをさせないでくださいよ……」
「わかっている。たくやはよくやってくれたよ。だからちゃんとご褒美も考えてあるさ」
留美先生のことだから、その“ご褒美”とやらが何か厄介な騒動の種にならないとも限らない。もういい、今はそんなことより、このまま眠ってしまいたい。
「たくや、今日からお前の魔力属性は“空”だ」
「……………え?」
いきなりの魔力属性の話についていけずに驚いていると、留美先生は傍らに跪いてあたしの身体に手を触れ、大空洞跡地でそうしてくれたように癒しの魔法で手当てしてくれる。
―――魔力を使い切ってたって言うのは嘘だったんだ。はぁ……またやられた。でも、今は文句を言うのはやめておこうかな。
“空”……いい響きだ。今までずっと魔法に関して無能呼ばわりされてきたあたしにとっては、留美先生がくれたその一文字が何よりの勲章のように思えてならない。肩書きでもなんでもいい。なにしろ、いま見上げている大空と同じ名前なのだから。
「留美先生……ありがとうございます」
「怒っていたんじゃなかったのか?」
そうして、二人してクスクスと笑いをこぼす。体中で癒しの魔法による疼きが沸き起こっているけれど、気分はどこまでも晴れやかだった………のだけれど、
「おお〜い、たくやちゃん、別嬪さん、ちょっと来てくれ。俺たちじゃどうしようもねえ!」
おじさんに呼ばれ、心地良い時間は不意に終わりを告げた。何が起こったのだろうか……あたしは留美先生に肩を貸してもらって立ち上がると、工夫たちの集まっている方へと近づいていく。
「これ…は……」
考えてみれば、マーメイドの下半身は魚。人間のように地面を歩けるはずがない。
ところが村長たちは何十体ものマーメイドを連れて洞窟の中を進み、馬車に乗り込ませている。
この場で捕らえられたのは、村長と馬車一台につきの御者の男一人で計七人。それだけの人数で全てのマーメイドを抱えて運ぶのはかなりの重労働だ。
ではどうすればいいか……答えは強引にしてシンプル。マーメイドに歩いてもらえれば、何も問題はない。
「ア……ウァ……イ…ヤァ……」
狭い馬車の中に押し込められていたマーメイドは外に出ると、遠目にはローブに見えなくもない粗末なボロ布で取り囲むあたしたちの視線から白くて張りのある肌を必死に隠す。
言葉が上手く喋れないのか、拒絶の言葉一つでさえ呻くようにノドから搾り出している。男に……いや、自分たちを捕らえて海から引き離した人間に対して強い警戒感を抱いているらしく、下手に近づけば自殺でもしそうなほどに抵抗と怯えの感情を美しい顔立ちににじませていた。
でもあたしは、マーメイドたちの美しさに声も出せない工夫たちとは別の理由で声が出せず、視線を逸らすことも出来ずにいた。なぜなら、
このマーメイドたちは、人間と変わらない二本の足で地面に立っていたからだ―――
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