第十一章「賢者」48


『ううう……見られた……裸を見られちゃった……』
 見慣れた部屋……物心ついた時から自分の部屋同然に足を踏み入れていた部屋の隅っこで膝を抱え、指先で床にイジイジと“の”の字を書く。
 はっきり言ってハートはブレイク寸前だ。涙だってちょちょぎれている。身体も透けて幽霊みたいになっているのに何で涙が出るのかは判らないけど、そんなことと見られたくなかった相手に今の自分を見られたショックとはまったく関係がない。
 ―――なんでこんなことになったのかさっぱりわかんないのに、留美先生ときたら……
 恨みがましく留美先生へ視線を投じると、あたしと同じで一糸まとわずに身体まで透けてる状況なのに、まるで気にした様子も見せずに椅子に座って優雅に膝まで組んでいる。胸やお尻を隠そうともしていない。そこまであからさまだと色気も何もないのだけれど、
 ………いや、胸やお尻の非の打ち所のラインとか……いやいや、ベッドの上で散々見せ付けられたし、揉んだり吸ったりしたんだし……いやいやいや、思い出したら何か変な気分になってきちゃいそうで……
 もしちゃんとした身体であれば、よこしまな気持ちを柱に頭を打ち付けてでも振り払っていたはずだ。ところが今の透けてる身体でそんなことをすれば、壁や柱まですり抜けて全裸のままで家の外にまで転がり出てしまう。
 だからと言って、留美先生の胸やお尻に目を向けていいわけではない。腕を組み、自分の女性らしさをアピールするように乳房を押し上げたり、足を組みかえる際に内股の奥がほんの少し覗けてしまうからと言って、それをチラチラ見ようとガン見しようと覗きは覗き。いけないことなのでありまする。
『そんなところでブツブツ言いながら私の裸を盗み見ている時点で十分犯罪臭いぞ、このスケベ』
『うわぁ、なんかやっぱりばれてるし!』
『見たくなる気持ちはわからんでもない。ふふふ……たまに自分の美貌が怖いとも。その気になれば、私の美しさで国の一つや二つ傾けることなど造作もない……!』
 ―――なんでそこまで自信満々なんでしょうかねェ、この人は……
 それはさておき……イジイジウジウジしていた気持ちも、喋って慌てた分だけ和らいでいる。心の中を見透かした一言も、突っ込みをいれたくなる様な自慢も、実はあたしを慰めようとしてくれた言葉なのかもしれない。
『ところで……説明してくれるんでしょうね、いろいろと』
『何を?』
『うわ、今、思いっきりすっとぼけたぁ! どう考えたって留美先生が事の張本人のくせして!』
『別にとぼけてはいないさ。説明する気がないだけだ』
『被害者には説明を要求する権利があります!!!』
 あたしの声が徐々に荒くなるのに対し、留美先生はそ知らぬ顔を決め込んでいる。この分では幾ら問い詰めても、何一つ答えてはくれないだろう。
 ―――はぁ……考えすぎで頭の中がグチャグチャになってきた。頭痛がする……
 手の平で額を押さえれば、椅子や壁をすり抜けてしまう手の平には、おぼろげながら自分の身体に触れる感触がある。留美先生の身体に触れればどうなるかは判らないけど、自分の身体に自分の手を通過させることは出来ないみたいだ。
 ―――こんな幽霊みたいになっちゃって……それにどうやってアイハラン村にまで来れたんだろう……
 あの場には綾乃ちゃんもいたのに、どうして魔法が使えないあたしと呪文なしでも魔法を使える留美先生の二人だけが、霊体のような存在になってしまっているのか?
 南部域の名もない漁村にいたはずのあたしと留美先生が、何故西部域の森の奥深くにあるアイハラン村にいるのか?
 それから、聴きたいことはもう一つある……こめかみを指先で押しも身ながら、留美先生へ訊ねなければならない事柄を一つ一つまとめていると、不意に、見慣れているはずの室内に違和感があることに気づく。
 壁際には赤々とした炎を抱いた暖炉があり、調度品の位置も変わったわけではない。雪が降り積もる屋外から伝わってくる寒さを和らげるためか、テーブルクロスやカーテンの色が温もりを感じる暖色系に変えてあるのは例年のことだ。ただ、
 ―――なんでこんなに広く感じるんだろう……
 幽霊同然になってあたしの身体が縮んだわけではない。部屋の大きさが変わったわけでもない。それなのに久しぶりに目にする室内を改めて見回すと、暖かいはずの室内から背筋が寒くなるような空虚な感じが伝わってきてしまい、あたしは思わず裸で半透明な身体をブルッと小さく震わせてしまう。
『どうした、おしっこか? 霊体なのに尿意を催すとは器用なヤツだな』
『ち、違いますよ! てか言いましたね、今“霊体”って言いましたね!? てー事は、あたしたち死んじゃったんですか!!?』
『うるさい。他所様の家なんだからもう少し静かに出来ないのか?』
『ここはあたしん家も同然です! それよりも、さっきのことをきちんと説明してください。してくれなきゃ、もっとわめいちゃいますからね!?』
『雪の静けさの風情も楽しめんのか……説明はしてやってもいいが、また後でな。戻ってきたぞ』
 そう言って留美先生が扉へ目をやると、そのすぐ後にコンコンと扉がノックされ、この家の住人が部屋の中へと入ってくる。
「お待たせいたしました、メイガス」
 手にはティーカップと注ぎ口から白い湯気を立ち上らせているティーポットを乗せたお盆を持ち、その“女性”はテーブルへと歩み寄る。そしてティーカップにお茶を注ぐと、飲めるはずもない留美先生の前へと差し出した。
 ―――でも留美先生の事を「メイガス」って読んでたけど……
 魔法使いの留美先生を指して“魔術師”を意味する言葉で呼んだ……と言うのも考えにくい。長年この村で暮らしてきたけれど、村人の99%以上――100%でないのはあたしが含まれているから――が魔法使いのアイハラン村で、他人や他のところからきた人を「メイガス」と呼んだところは一度も目にした事がない。
 まあ、偉大な功績を納めた魔法使いや賢者を、敬称として字(あざな)を用いて呼ぶことはある。けれど魔法使いだらけのこの村で留美先生を「魔術師」と呼ぶ不自然さに、どうにもむず痒い感覚を覚えてしまう。
 ―――留美先生ほどの魔法使いなら、アイハラン村にきた事があってもおかしくはないけれど……
 問題は、その相手のほう。お茶を運び、留美先生を「メイガス」と呼び、その前に異変を感じてあたしたちを村の入り口まで迎えに来てくれたのは、
「たくや君」
『は、はいィィィ!!!』
 決してその声は怒ってはいない。表情だって微笑んでいる……のだが、名前を呼ばれたあたしは背筋を伸ばして直立し、すぐさま胸も股間もあらわにしてしまった恥ずかしさにアタフタしながら両腕で大事な場所を覆い隠した。
「はぁ……やっぱりたくや君でいいのよね。やっと戻ってきたかと思ったら、何でまた女の子になんかになって……」
『お、おばさん、これは違うんです!』
 俯き、沈んだ声で落胆されれば、誰だって慌てふためく。しかもだ、相手があたしにとっては“育ての親”も同然である女性……幼馴染の明日香の母親であれば、その動揺はなおさらだ。
 ―――ふえぇ〜ん、だからこんな身体になってることは知られたくなかったのに〜〜〜!!!
 物心ついた時からまったく家にいなかった両親に代わって、あたしを“息子”のように可愛がり、育ててくれたのは紛れもなくおばさんだ。そんな人に、何の因果か女の肉体になってしまい、あまつさえ全裸をさらけ出していなければならない恥ずかしさがどれほどのものか。
 出来れば誤解は解いておきたい。
 ―――裸なのは趣味じゃありません。
 ―――女になっちゃってるのは自ら望んだわけじゃありません。
 ―――いきなりいなくなったのだって、どっかのバカエロ本が悪いんです。
 それに久しぶりに会ったおばさんには、言い訳だけじゃなくて話したいことが山ほどある。今も男に戻ろうとして旅をしていることや、その中で楽しかったことに嬉しかったこと、辛かったことに悲しかったことがたくさんあったんだと。
 だけど、声が出てくれない。
 喋りたいことがたくさんあって、伝えたいことが山ほどあって、一気にあふれ出そうとする想いは細いノドの根元で引っかかって、何一つとして声にできない。あたしに出来るのは、そんな役立たずの唇を強く噛み締め、今すぐこの場から消え去りたいと願いながら胸を隠す腕に力を込めることだけだ。
 ところが、
「きをつけェ!」
『はいィィィ!!!』
 その鋭い号令一つであたしは再び背筋を伸ばしてしまう。しかも今度は鋭い言葉に全身を射抜かれてしまい、指一本動かせなくなってしまう。女になろうとも変わらない、悲しい反射神経というヤツだ。
「………ふむ」
 直立不動のままメデューサにでも睨まれたかのように動けなくなったあたしの身体に、おばさんの視線が注がれる。それはイヤらしいものではなく、むしろ注意深く観察するものではあるのだけれど、透けた身体を突き抜けるかのような眼差しに身がすくむような緊張が走り、それと同時に全てをさらけ出さなければいけない恥ずかしさまで高ぶってきてしまう。
「………ふむふむ」
 眉をしかめ、アゴに指をかけたおばさんは、あたしの右手から背後に回り、しゃがみ込んでお尻の丸みをジッと見つめながら意味ありげに頷く。そして今度は左に回ってあたしの身体で一番人目につきやすい特徴である乳房を横からじっくり観察すると、再び背後に回られる。
 ―――あ〜〜〜ん、これってどんな拷問ですか――――――!?
 寒さも何も感じない身体のはずなのに、吐息が肌に掛かりそうな距離にまで顔を近づけられると奇妙なくすぐったさが羞恥心とともに湧き上がってくる。そんなあたしを面白そうにニヤニヤ見つめる留美先生に向けて怒鳴り散らしたいのをグッと堪えていると、
「………ふむ」
 やっと観察し終えたのか、おばさんは大きく頷いて腰を伸ばすと、恥ずかしさと留美先生への怒りでわなわなと震えるあたしの前へと周る。
『あ………』
 伸びてきたおばさんの手があたしの頬に触れる……いや、触れようとする。
 だけど今のあたしの身体は霧のようなもの。目では見えるけれど手で触れることなんてできない。でも……おばさんは触れないあたしの頬の輪郭に沿って手のひらを滑らせ、優しい顔で覗き込んでくる。
「おかえりなさい……まだ言ってなかったわね」
『おば…さん……』
「どこからどう見ても女の子になっちゃってるけど……でも無事でよかったわ」
 寒さを感じない。そして暖炉の火に手を入れたって、きっと熱さだって感じないはず……それなのに頬からおばさんの手の温もりが伝わってくると、思わずポロリと涙を溢れさせていた。
『あ……や、やだ、あたし………』
 零れ落ちた涙は、あたしの肌から離れると、まるで空気に溶けるように見えなくなる。だけどおばさんに泣き顔を見られたくなくて、俯いて手の甲で涙をぬぐうと、その頭におばさんの手が乗せられた。
「相変わらずの泣き虫ね、たくや君は。……でも大変だったでしょうね。辛かったでしょうね。身体には気をつけてる? 病気や怪我はしてない?」
 それはありふれた、あたしの身を案じてくれる言葉だ。それなのにその一言一言を聞くたびに胸からこみ上げた涙がぽろぽろと溢れ、こぼれてしまう。
『だいじょう…ぶ…だよ……あたし…これでも冒険者やって…がんばってる…から……だから……』
「ええ、だからもうおばさんは心配してあげない。たくや君が帰ってくる日が必ず来るって、心配しないで待ってるから」
『んっ………』
 おばさんの胸に飛び込んでしまいたかった。小さな頃のような、この涙が収まるまでおばさんにしがみついて頭をなで続けていて欲しかった。
 ―――だけどあたしは、もう子供じゃないんだから。
 「心配しない」と言ってくれたのなら、泣いている顔は見せられない両手でゴシゴシと目元を拭うと、あたしは大きく息を吸って精一杯微笑みながら顔を上げる。
『おばさん……ただいま』
 その一言を告げ、おばさんが笑い返してくれる……ただそれだけで、今までずっと胸につかえていた何かが音も立てずに消えていく感じがした―――



『明日香は村にいないんですか?』
 一時の夢でもいい。アイハラン村に帰ってこれたのだから、おそらく心配してくれているであろう明日香にも会いたかったのだけれど、残念なことに不在らしかった。
「そうなのよ。ちょっとお使いを頼んで、街にまで行ってもらってるのよ。あの子もたくや君に会いたかったと思うんだけど、タイミングが悪かったわね」
『仕方ないですよ。あたしだっていきなりこんな身体でアイハラン村の前にいたんですから……でもそのあたりのところ、本当はどうなってるんですか?』
 短い時間ではあるものの、ついおばさんと話し込んでいたあたしは、なんで幽霊みたいな身体になってアイハラン村に来ていたのかを知らずにいることを思い出し、湯気の立つ紅茶の前に座ってこちらの様子を見つめていた留美先生へと話を振る。
『端的に言えば、今の私たちは魂だけの状態だ。そこに周囲の魔力が集まり、こうして仮初の姿形を取っている。今は数少なくなったが、自意識を持つ魔力の塊である精霊と同じようなものだ』
『へ〜、そうなんですか………って、魂だけェ!? それってやっぱり死んでアウチィ!!!』
 身を乗り出したあたしの額に、留美先生のデコピンがカウンターで叩き込まれる。
『騒ぐなと言っておいたはずだ。少しは落ち着け』
『だ…だってェ……』
 やっぱり同じ身体では触れ合えるらしい。ヒリヒリと痛む額を押さえて涙目になっているあたしを叱るような目で睨みつけた留美先生は、なぜか頬を掻いて明後日の方向に視線をそらすと、
『まあ、肉体から魂が抜け出たのは新魔法の失敗が原因なんだがな』
『………やっぱり留美先生のせいですか―――――――――!!!』
『すまん、本当にすまん。久しぶりに全開にしたら加減を間違えて、二人そろって魂が抜けていた。後はレイライン(地下を走る魔力の流れ)に乗って一気にここまで運ばれてきたというわけだ』
『謝って済む問題じゃないですよ! 二人そろって死んじゃって、あたしたちこれからどうするんですか!?』
『どうもしない。……そうだな、後三十分もすれば戻れるさ』
『へ………?』
 間の抜けた声を上げたと思う。
 自分も死んでいるというのに、騒いでいるのはあたし一人。留美先生は霊体の手でティーカップの取っ手をつまみ、普通にお茶を飲んでいる。その余裕はどこから来るのか、いやいやその前に幽霊同然の身体でどうやったらお茶が飲めるのか……頭の中が混乱するほどに余計なことを考えてしまい、さらに混乱を加速させていると、おばさんが触れないあたしの肩に手を置いた。
「たくや君、今のうちに村の中を見て回れば? 本当にあと三十分しか時間がないなら、今のうちに見ておかなきゃいけない場所もあるんじゃない? 自分の家とか、神殿とか」
『え〜……』
 できれば、残りの時間はおばさんとの会話で費やしてしまいたい。喋ったと言っても五分ほどだし、まだ今のあたしのことは何一つ伝えられていないのだし。
 ―――いや、甘えたいとかそういうんじゃないんだけど、やっぱり久しぶりだし……
 それに外へ出るということは、生まれ故郷を全裸で歩けということだ。おばさんはあたしたちの気配を察して霊体が見えるようになる視覚補助系の魔法を使っているらしいので別にして、普通にしていればあたしの姿は周囲から見えないはずなんだけど、仮にあたしの気配を察して見えるようになってしまう魔法を使われたら一巻の終わりだ。
『あの〜…別に外はどうでもいいから、もう少しここにいちゃダメですか?』
「たくや君、ごめんなさいね。私もメイガス……いえ、留美様には少しお話があるから」
『ええ!? お、おばさんまであたしにストリーキングしてこいと!?』
「みんなには見えないから大丈夫よ。まあ……自慢したくなる気持ちもわかるけど」
 ちょっと困った顔で笑っているおばさんの視線が下へ向く。何を“自慢”するのか、答えはその先にあるものだ。
『し、しません絶対に! なんで裸自慢しなきゃいけないんですか!?』
「う〜ん……でも、明日香は負けてると思うのよね、確実に」
『勝つとか負けるとか何の話ですか!?』
「決まってるじゃない。スタイルよ、スタイル。あの子ったら正確キツいけど美人でしょ。でも今のたくや君が村に帰ってきたりしたら……どうしましょう、実の娘がたくや君に負けちゃったら、きっと面白いことになるわ!」
 ―――そこで満面に嬉しそうな笑みを浮かべてグッと拳を握るおばさんが、少しだけわからなくなりました。
『と、とにかくあたしはイヤだからね。もし誰かに見られたりしたら、二度とこの村に帰ってこれなくなっちゃうもん!』
 どうせ三十分なら、ボ〜ッとしていれば瞬く間に経過する時間だ。漁村では息もつけない展開が続いて精神的に参っていたんだし、魂がきちんと身体に戻れるというのなら、それまでの時間を骨休みに使ったっていいはずだ。
 それなのに留美先生は、
『実はな……たくやは今、綾乃と言う可愛い娘と二人っきりで旅をしていてな』
『ぶっ!』
 おばさんに余計な誤解を与えそうな話をいきなり切り出した。
「る、留美様、それはもしかして……?」
『ふふふ……身体は女でも中身は獣だ。これがまた小柄で初々しい娘でな。たくやは二人きりなのを良い事に、野宿の際には彼女を地面へ押し倒し……!』
 ―――ち、違う、誤解だ、あたしはそんなことしてない!……………あんまり。
 それにしても、なんと言う攻撃……いや口撃だ。内容は勝手な妄想によるものだけれど、とても母親同然の人の前で話し出す内容とは思えない。
 ―――それにおばさんも……
「留美様……たくや君はやめてやめてと泣きじゃくる彼女の脚を開いて、それから一体何を!?
 ―――なんでそんなに乗り乗りで話を聴いちゃってるんですかぁぁぁ!!!
 思い返せば、この人はこういう人だった。そもそも閉鎖的なアイハラン村での娯楽といえば、他人のゴシップが主。絶対食らいついてくると思ってました!
「たくや君……私は心配していないわよ」
 やさしげな笑みを浮かべたおばさんは、そっとあたしの肩に手を置いて、
「どんなに立派なすけこましになって、おばさんは最後までたくや君の味方だからね?」
『うわぁ〜〜〜ん、すでに誤解してるじゃないかぁ! こんな家、出てってやるゥ―――――――――!!!』
 その昔、道具屋なんて退屈だと言って村を飛び出した義姉さんの気持ちも、今ならちょっぴり解る……そんな誤解を抱いたまま、心に深い傷を負ったあたしは、真っ白い雪が降り積もった村の中へと考えなしに飛び出してしまっていた……





『追い出すためとは言え……マジ泣きしていたぞ、あいつ』
「いいんですよ。だって、たくや君の泣いてる顔はたまらなく可愛いんですもの……♪」
 泣きながら走り去って行くたくやをカーテンの隙間から見つめていた留美だが、走り去る際に見せた泣き顔を反芻してうっとりしている明日香の母とは違い、その表情を暗く曇らせていた。
 その理由は悪乗りしたことでたくやを傷つけてしまった罪悪感……もあるが、
『二十年か……時が経つのは早いものだと思い知らされるよ』
 窓ガラス越しの光景の中には、たくやの姿はもうない。けれど留美の視線は懐かしむかのように白い雪に覆われた村の様子を見つめ続けていた。
『すっかり忘れていたよ。この腕に抱き、名前まで付けてやった子供のことを……まさか女になっているとは思わなかったけれどな』
「それは……判らなくても仕方なかったのではありませんか?」
『だが、あの子の残留魔力には興味を引かれるのと同時に、奇妙な懐かしさを感じていた。この世に二人といるはずはないのにな、私を引きつけるほどに相性の良い魔力の持ち主なんて』
 まるで自分を罰するような言葉を紡ぐ留美の背中を見ながら、明日香の母は空になっていた留美のカップに新たな茶を注ぎ入れる。
『名前を聞いてもすぐには思い出せなかったのだから、名付け親と言えば聞こえはいいが、あの時は軽い気持ちでしかなかったのだろうな……』
「留美様……いえ、“メイガス”」
 わざと字で呼び、感傷から留美を引き戻すと、明日香の母はソーサーに乗せたティーカップを差し出す。カップの淵から立ち上る湯気と香りに肩をすくめた留美はソーサーを受け取ると、入れたてのティーに口を付ける。
『ずいぶんと茶を入れるのが上手くなったものだな、“お姫様”』
「あれから二十年ですもの。私だってその間に娘を一人育てています。今では“姫”ではなく、立派な“母”であり“村長”ですよ。」
『そうだな……それほどに長い時間だったのに、私だけは変わっていなかったのか……』
 いや、変わっていないはずがない……留美はカップを乗せたソーサーを右手に持つと、左手でたくやに切り落とされた右腕の付け根をなぞる。
『私も変わった……いや、変えられたんだろうな』
 留美はたくやに海底で戦いを挑んだ。
 実力を確かめたかっただけならば、戻ってきてから事情を説明して勝負を挑めばよかった。なにも、マーマンの襲撃を退けてすぐに“時間逆行”までしてたくやを探し、マーマンたちのボスのダゴンとの戦闘の直後に続けて戦いを挑む必要などなかったはずだ。
 それは、
『私が変わることを望んでいた……二十年前のあの時から、そうなることを待ち続けていたんだろうな』
「たくや君は、貴方の望みをかなえて差し上げられましたか?」
『ふふふ……見事なものだったぞ。何しろ私の右腕を根元から切り落としたのだ』
「な……っ!?」
 留美の腕を切り落とす……それは龍の角を切り落とすことよりも困難、いや実現不可能とさえ言ってもいい。
「冗談はおやめください。ジ・メイガス……魔術師の中の魔術師にして、“五条”の名を持つ貴女を……不死の魔術師を、“ギルドマスター”に傷を負わせたなどと……!!!」
 明日香の母の言葉には、たくやの知らない留美の“事実”がある。
 “ジ・メイガス”の字。
 “不死”。
 “五条”の名。そして“ギルドマスター”。
 言葉にするのは容易でも、そのどれか一つでも常人が手に入れるには、死に物狂いの努力と研鑽を積み重ねても一度の人生では短すぎる。
 しかし、
『幾ら“そんな”言葉を積み重ねても、斬られて敗北した事実には変わりがない。それに―――』
 肩を撫でていた左手の指先を不意に下腹部へと滑らせると、留美は少し恥ずかしそうに、けれど隠し切れなくなった喜びを表情に覗かせた。
 下腹部の奥……たくやの精を何度も注ぎ込まれた胎内からは、開発したものの使う機会など永遠に来ないと思っていた術式によって、留美の“時”属性とは異なる属性の魔力が湧き出している。その事実の意味するところを噛み締めるように下腹部をゆっくり撫で回した留美は、言おうか言うまいか迷いつつも、遂に我慢しきれずに口を開いてしまう。
『それに……私はもう、たくやの“女”にされてしまったからな』
 ―――絶句。
 驚きのあまり、明日香の母は完全に言葉を失っていた。
 留美の懐妊と、その相手がたくやである事。二重の驚きに対して口は開くものの、何をまず最初に言うべきかが解らない。
『私の変わり様は驚いてもらえたか?』
 アイハラン村の村長の狼狽振りに、留美は悪戯っぽく片目を閉じる。そして自分で言った言葉に頬が熱くなるのを感じると、クスクスと小さく笑いながらテーブルに歩み寄り、手にしていたティーカップを上に置いた。
「る、留美様、先ほどのお言葉は、真実なのですか……!?」
『さてな……おっと、のんびりしている時間も、もうないな。では私も行くとしよう。たくやの魂を引き寄せ、新たな力にならんとしている“剣”の回収をしに』
 留美の足は明日香の母のところへは戻らず、そのまま扉へと向かう。


『“フィメリオン”……人の運命を弄ぶあの剣は今、どこにある?』


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