第十一章「賢者」47
『―――雷眼!!!』
「―――魔力剣!」
剣を左肩から右下へと、捻りを解きながら剣を振り抜く動きは左側の肋骨を含め、今までで最大の激痛を生む―――が、悲鳴は上げない。砕けた骨が遂に内臓に突き刺さったのか、ノドの奥から生暖かい血液がこみ上げてくるけれど、それを噛み締め、魔力剣が放たれた感触を手の平で受け止める。
全身から魔力を搾り出したものの、到底万全の威力ではない―――がスレイプニルを弾き飛ばすにはこれで十分だ。
「―――――――――!!!」
声は出ない。出すことが出来ない。でもポチはすでにあたし目掛けて走り出している―――けれど、その前に頭上から電光の雨が降り注いだ。
―――これが……ドラゴンの……!?
以前、電撃の魔法の使い手であるジャスミンさんの最大級電撃魔法トール・ストライクを目にしたことがあるけれど、“雷眼”と自らドラゴンが読んだ単眼から放たれる電撃は、さらに上を行く。
「たくや、伏せていろ!!!」
そう叫ぶ留美先生が展開する障壁に覆われた場所以外には轟雷が次々と叩きつけられ、スレイプニルやスペリオンが走り回っても余裕のあった大空洞内部が破砕音とまばゆい電光に埋め尽くされていく。
「破片が入るからしゃがんでいろ、伏せていろ、死にたいのかお前は!?」
「でもポチが…!」
「何とかしてやるから自分の身を守れと言っている。私が怪我を負わせてしまった相手だ、不利にさせてしまった分ぐらいは救ってやる!」
留美先生が腕を伸ばすけれど、雷が降り始めてからもうすぐ五秒。こんなにも激しい電撃の中では、どんなモンスターでも一瞬で黒焦げになる……そう思って絶望しかけていた時、
『わうっ!』
小柄な獣人モードのポチが、結界の下に開いた隙間から中へと、あたしの元へと頭から滑り込んできた。
「ポチ! 良かった、無事だったんだ!!!」
『わふぅ〜ん……』
「良かった、本当に……って、ありゃ?」
倒れたままのポチを抱き起こしてあげようとして、あたしの身体もそのまま前のめりに倒れる。―――先ほどの魔力剣、あれにスズメの涙ほども残っていなかった魔力も体力も注ぎ込んだ結果だ。
「ちょうどいい、そのまま寝ていろ、あと数秒で海龍王の怒り任せの電撃も底をつく!!!」
さすがの留美先生も、この電撃を受け止め続けるのには至難の業だ。それなのに障壁を持ち上げてポチが飛び込んでこれる隙間を空けておいてくれたのだから、これ以上逆らったりすれば罰が当たるというものだろう。
『うォオオオオオオオオオオッ! 私の、私の聖域を土足で踏みにじりおってぇええええええええッ!!!』
―――ひゃあ〜……な、なんつー破壊力………ドラゴンに遭ったら絶対逃げよ……
一秒が一分とも一時間とも感じられるような死を呼ぶ電撃の降り注ぐ時間がようやく終わりを迎える。
大空洞の中は、もう何一つとして原形をとどめていない。地面も壁も、何度となく電撃で打ち据えられ、どこもかしこも焼け焦げ、粉々に砕け散っていた。その電撃の嵐の中にいたスペリオンも、ミノタウロスも、スレイプニルも、もう大空洞のどこにもその姿は残っていなかった。
「まったく……海龍王の電撃に耐えるだけの障壁を維持しながら耐電撃を遠くの相手にかけるのは、結構面倒だったんだからな。感謝しろよ、たくや。―――もっとも、私がいらぬちょっかいを出したせいでもあるのだがな」
―――いえいえ、ポチを助けていただいたご恩は忘れませんとも。
留美先生の魔法に守られながらだったから、ポチも黒焦げにならずにあたしたちの元にまで走ってこれたわけだ。
魔法で電撃に耐性をつけさせたポチが近づいたところで障壁を持ち上げ、中に迎え入れる。そのつもりで少し天蓋型障壁を浮かせていたのだろうけれど、獣人に変身できるとまでは知らず、その隙間だけでポチが助かるのは十分だった……と言うのが、留美先生の考えていたことだろう。
―――「伏せろ」と言っていたのも、障壁を上昇させたときに被害が出ないように……とまあ、そんなところか。事情の説明の時間がなかったと言ってもさ……終わってみれば余計な心配だったよね。
で、何もかもが終わったところで、留美先生の足元にはあたしと綾乃ちゃんとポチ、三つの身体が転がっている。生き残れたのは嬉しいけれど、吐血しちゃうぐらいにあたしは瀕死だ。出来れば今すぐにでもお医者さんに連れてって欲しいところだけれど、
「フハハハハハハァ! ちょ、ちょっとビックリしたけど、海龍王って言ったってたいしたことはなかったかもォ!!!」
―――涙声で虚勢張ってるあそこのバカさえいなければ、今すぐお医者さんに連れて行って欲しかったんだけどォ……!
あの雷の中、あたしたちと同じようにエロ本もまたゴキブリ並みのしぶとさを発揮し、生き残っていた。どこまでもしつこいヤツだ……そう思ってみても、あたしはもう声さえ出せないほどの重傷人だ。治癒力は人並み以上だから死にはしないと思うけれど、今もし攻撃を受ければどうしようもない。
けれど、
「ヤツのトドメは私に任せておけ」
肌が泡立つ代わりにフワリと身体が浮き上がり、あたしを含めた三人の身体がひとりでに壁際にまで移動して座らされる。
「う…う〜ん……」
―――綾乃ちゃんには目立った怪我はなし……か。あんな雷の中にいたのに、ずっと寝ていられるのは、結構スゴいことなのかもしれないけれど……
『くぅ〜ん……』
―――でもってポチは体中が火傷だらけ。……しょうがないな。こんなに酷い怪我、出来るだけ早く直ってもらいたいしね。
あたしの太股に頭を乗せて苦しげにうなっているポチに、あたしは顔を近づけて口元から溢れる血を滴らせる。力の入らない身体はそれだけでもまた倒れてしまいそうだけれど、あたしの血液中に残った魔力を取り込めば、水蜘蛛が蜜蜘蛛として無事に生き残れたように、ポチも死んでしまうことだけはないはずだ。
―――より凶悪な姿になって可愛くなくなっちゃうとイヤだけどね……
何とか口元に血を滴らせて飲み込ませると、あたしは壁に身を預けながらポチを魔封玉へ。普段なら何も感じない程度の魔力しか消費しないのに、今はそれだけで全身に鈍い痛みが駆け巡る。
「たくや……これから私が格好よく敵の親玉を倒そうとしているのに、見てくれないのは少しひどいんじゃないか」
―――あ、大丈夫、これからちゃんと見させていただきますから♪
まあ、声が出ないから血にまみれた口元に一生懸命愛想笑いを浮かべるしかないんだけれど、それでも留美先生は不機嫌なようだ。今にも頬を膨らませてすねそうな顔でジッとあたしを見つめると、なぜか指差されてしまい、
「いいだろう。ここで私の偉大さを知らしめてやろうではないか。いまだかつて誰も成し遂げ得なかった、出来たてほやほやの超絶新魔法で倒すとここに宣言してやろう!」
―――い、いや、“超絶”? 今さっき想像を絶するほどの雷を見た後なんで、出来れば穏便に済ませて欲しいんですけど……
「ふっふっふ……私のあまりの実力を目の当たりにしたお前は額を地面に擦り付けてこう言うはずだ。「留美先生、ぜひとも弟子にしてください」と。つい十分前に思いついた魔法だが、それでさえ人類魔法史に残る偉業。驚くがいい、平伏すがいい!―――だが私は弟子を取らない主義だ、諦めろ!」
―――うわ、言葉のキャッチボールが全然成立していません。てか喋ってないんだから当然だけど……留美先生、お願い、平穏無事に終わらせて〜〜〜!!!
読心の魔法だって使えるはずの留美先生なのに、なぜか妙にテンションが上がってしまっていて、結局あたしの心の声は届かなかった。
そうしてフラフラと宙に浮いているエロ本と、それを抱えた少年を見上げると、静かに、ゆっくりと細く息を吐き出して精神を研ぎ澄まし始める。
「………なるほど。確かに言うとおり、貴様とたくやの関係などどうでもいいことだったな」
言って、狙いを定めるように両手を前に突き出す。
「だから、貴様など、もうどうでもいい。私の興味の対象は今、たくやだけだからな!」
―――えうっ!?
なんだか告白されたみたいな感じがしたんですけれど……身体はどこもかしこも動かないのに、心臓だけは急にドキドキしてきて、あちこちの怪我から血液が噴き出し始めたのは気のせいでしょうか?
『そこの人間、よく見ていることです』
不意にそう声をかけられる。それが普通に聞ける音量だったので海龍王の声だと気づくのに数秒を要してしまう。
『彼女は百年ほど前、怒り荒れ狂っていた私を打ち倒し、心を静めるまで封印してくれたただ一人の人間。その実力の一端を垣間見る機会など、早々あるものではありませんよ』
先ほどの雷で“聖域”と読んだこの場所を踏み荒らされた怒りをすべて吐き出したのか、雷撃を発する一つ目を閉じた海龍王の声は静かで穏やかだった。―――が、その言葉には、胸のドキドキなどあっさり吹き飛ばすだけの衝撃的な事実が含まれていた。
―――この海龍王とか言うスゴい名前で呼ばれているドラゴンを打ち倒した? 封印した!? てか百年前ってどーいうこと!!?
留美先生は、誰にだって百歳のおばあさんに見えるはずがない。実際には、百年前に海龍王を倒すだけの実力を持ち合わせていたのだから、年齢はさらに加算されてしまう。
―――あたしとの戦いの時には、まだ余裕を感じさせてたけど……
実力を確かめようとしていた海底での戦いでは明らかに手加減されていた。最初から本気でこられていれば、瞬く間に消し炭にされていたとは思っていたけれど……それほどの実力を隠していた留美先生は、多少離れた位置にいるあたしの肌をざわめかせるほどの魔力を放ちながら息を吸い、
「大地の門!」
呪文を唱えた……無詠唱でも高威力魔法を連続して放てる留美先生が呪文を唱えたのは、あたしの魔力ハンマーを跳ね返すほどの障壁を張った、その時だけだ。
―――じゃあ、“超絶”てのはまず確実ってわけか……
だが、呪文の詠唱はこれで終わりではない。
「轟風の門!」
大空洞の左手奥から留美先生の声が聞こえてきた。
「水嵐の門!」
大空洞の右手奥から留美先生の声が聞こえてきた。
「獄炎の門!」
大空洞の正面奥……目の前に見える留美先生のさらに向こうから留美先生の声が聞こえてきた。
―――ま、ま、ま、また留美先生が増えた!?
声が聞こえてきた場所、その全てに留美先生の姿がある。エロ本を囲むように前後左右にそれぞれ位置し、誰もがみな両手を突き出し、尋常ではない魔力を迸らせている。
『幻影ではない、過去からの時間逆行でもない……連続時間移動による分身か!? いや、それとも違う、同一時間軸に全て留美本人でありながら多重に存在する!? そんなこと神ですら不可能だ!』
海龍王の説明を聞いて解るのは、目の前にいる留美先生が、あたしとエッチした時のように過去から遡って戻ってきたわけではないということだけだ。
そしてあたしと海龍王が困惑しているのだから、四人の留美先生に取り囲まれたエロ本の方がはるかに困惑してしまっている。
「な、なにがどうなっておるんじゃ!? 分身しながら、なおかつ呪文詠唱じゃと!?」
「「「「東西南北に四神の門を備えしこの地にて、我は願う、我は求む、我は命ず、開け門よ、内に秘めし力を解き放て」」」」
四箇所から唱えられる詠唱の言葉は半音ずれることなく紡がれる……そしてその呪文のよって構築されるのは、最初の一音節以外は全て同じ魔導式。それが四方からエロ本のいる空間を取り囲み、絡み合い、つながりあっていく。
『己が魔法にて更なる魔導式を作り、更なる高位の魔法を行使するつもりか!? この百年でそれほどの成長を遂げたというのか、馬鹿な!?』
解りそうで解らない。ただ、魔導式を捕らえることの出来る目で見えるものは空間を埋め尽くす魔導式……それと同様の物をフジエーダで見た覚えがある。
―――立体魔法陣!?
フジエーダで魔王召喚に用いられたのは、広場一面に描きこまれた巨大な魔方陣によって構築された、立体魔方陣。つまり簡単に言えば二段構えの魔方陣と言っていい。
それを留美先生は、四人に分身することで詠唱式魔術で行っている。より複雑で、より巨大な魔導式を作る魔法……多重存在、詠唱式二段魔導式、つまり佐野の立体魔方陣を超えた三段構えの魔法と言うことになる。
「ふざけるな。そんな魔法、ワシがおとなしく食らうと思っているのか!?」
確かに。いつもの無詠唱と比べて圧倒的に時間が掛かりすぎており、その隙にエロ本は重力を操って飛翔し、あたしから一番遠い場所にいる留美先生に向けて重力攻撃を仕掛ける……が、遅い。その前に留美先生の魔導式が完成している。
―――くっ……は、肌が……身体が……!
留美先生の魔導式に一斉に魔力が流し込まれていく。銀色に輝く魔力と蒼く迸る魔力。二つの色が絡み合うように魔導式に東西南北……そして頭上も加えた五方向から。
『地水風火、四神の力、この地に満ちて天へと上る』
―――留美先生は四人じゃない……五人いる!
『「「「「天空の門よ、時空の門よ―――砕けよ、我が腕(かいな)に抱かれて」」」」』
―――五重詠唱による立体大型魔導式!?
『「「「「カタストロフ・ブレイク(時空間崩壊)!!!」」」」』
―――う……やッ…ダメ、この魔法…はァ……!!!
涼やかに呪文を紡ぎ、留美先生が呪文を完成させた直後、ガラスの砕けるような澄んだ音が連続して大空洞内部に響き渡る。
「な、なんじゃこれは!? こんな、こんな魔法が存在するというのか!?」
澄んだ音は徐々に数を増し、重なり合い、やがては瀑布のように周囲を轟音となって埋め尽くした。
そしてあたしの目がおかしくなっていないのであれば……エロ本のいる空間に音とともに線が入り、それは亀裂となって何も存在しない空間が“ヒビ割れて”いく。
「障壁が効かん!? 重力でも!? なんじゃ、何がどうなっておるんじゃ!?」
轟音の中で割れた空間はさらに細かく砕ける。その中で、割れた空間に巻き込まれてエロ本を抱えた少年の右足が欠落し、肩の肉が削げ落ち、遂には腰が断たれ、上半身が斜めに分断し、それぞれの部位がさらに細かく空間ごと分かたれていく。
それは防御も身体も問答無用で切り裂いていく無数の斬撃だ。結界によって外部と分け隔てられた内部を、いかなる刃物よりも鋭利に切り裂かれ、
『ガッ…ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!』
唯一無事な口が叫び声をあげながら重力魔法を乱射するけれど、効果は一切ない。
空間の破砕から空間の粉砕へと移り変わり、放たれた魔法ですらも切り裂いて無効化してしまう。やがて粉々に砕けたガラスのようにんあった空間は巨大な渦となって、一箇所に収束していく。
『このような場所で空間破砕だと!? 留美の大馬鹿者めが、私の寝所をどこまで滅茶苦茶にすれば気が済むのだ!?』
少なくとも、この場所を破壊したのは半分以上が海龍王なのだけれど、そのことを突っ込んでいる余裕はない。
―――身体が……身体の震えが収まらない………!
もう肌の泡立ちというレベルではない。留美先生が魔法を発動させ、魔法の余波が烈風となって周囲に吹き荒れると、これまでに感じたことのない震えが体中に駆け巡っていく。
「あっ……んぁああああああああああああああああああああァ!!!」
皮膚がめくられ、肉がはがれ、骨が削れていく……いや、それでもまだ生易しい。めくれた皮膚は炎であぶられ、はがれた肉は細胞の大きさにまで細かく分かれて一つ一つ磨り潰されていく。骨は骨髄を引き抜かれた後で乱暴に踏み砕かれ、欠片の全てが広範囲にわたって引き離され、再生する余地など与えられないほどにあたしの身体はバラバラにされていく。
「ガアッ、アあッ、ィああ、あガあぁ!!!」
動かぬはずの身体がビクンと跳ね上がり、右腕と、動かぬはずの左腕でかきむしる様に自分を抱きしめる。
―――あたしはここにいる。けどなにかが失われていく……いや、“引き剥がされて”いく。
開ききった口から滴る涎がとめられず、折れた骨が軋む激痛でさえもあたしの叫びを止められない。
生きながらにして身体がバラバラになる恐怖、痛み、その全てが厳格で実際には何も起こっていないと理解していても、それらは現実になってあたしの精神すらも打ち砕いていく。
―――魔法は……留美先生の魔法はまだ終わらないの!!?
ボロボロと涙の溢れる目に、まだエロ本ごと砕けた空間を飲み込んでいく黒い渦が映る。そして、その黒い渦を前にして膝をつき、あたしと同じように身体を抱きしめている留美先生の後姿も映る。
「これは……!?」
大空洞内部にいる余人の留美先生は、いずれも崩れ落ちていた。同じ姿、同じ体制で身体を抱きしめ、苦渋に満ちた表情を浮かべている。そして、
―――魔法が……暴走する!?
もしも留美先生があたしと同じ震えに襲われているのであれば、とてもではないけれど空間を砕いて飲み込むような大魔法の制御などしていられるはずがない。現に、真円を描いていた黒い渦は徐々に歪み、たわみ、大きなうねりを見せ始めている。
「か…海龍王、すまん、みんなを――――――!」
留美先生のの言葉を聞いたのを最後に、あたしの目の前で眩いばかりに閃光が迸り、意識はその光に全て飲み込まれる。
そして次の瞬間には轟音が鳴り響き、あたしは――――――
『ここ…は………』
閃光が収まり、身体の震えが収まり、恐る恐る開いたあたしの瞳に映ったのは、深い雪に包まれた森の中の村……その入り口だった。
灰色の分厚い雲に覆われた空からは、大粒の雪がフワリフワリと舞い降りている。それに手を伸ばしてそっと受け止めよとすると、小さな氷の粒は手の平を通り抜け、地面に積もった雪の上にさらに折り重なっていく。
『あたしは……どうしてここに……』
先ほどまであたしがいたのは、南部域の名もない漁村。そこにあった洞窟の一番奥の大空洞だったはずだ。
そこにはエロ本がいて、あたしは大怪我をさせられて、綾乃ちゃんに助けられて、海龍王と言う名のドラゴンが現れて、そして留美先生が―――
『はは……夢だって言うんじゃないでしょうね……』
どっちが夢なんだろう?
怪我をして、死にそうな目に遭いながらも男に戻る方法を探す旅をしているあたしの方が夢?
それとも、裸で雪の上に立っているのに、寒くもないし、足も冷たくもない。雪にも触れない今のあたしの方が夢?
『故郷が目の前にあるのに……これは全部夢だって言うの?』
あたしはアイハラン村の入り口に立っていた。
冬の村は北部域から山に沿って流れ込んでくる風が雪を運んでくるので、毎年銀世界になる。
いつものとおりだ。いつものとおりのアイハラン村の冬の光景だ。
『………………』
あたしがここにいた時にはなかったふくよかな胸……その上に両手を重ねると、さまざまな感情が次から次へと沸き起こってくる。
久しぶりに目にする故郷への懐かしさがあり、何も変わっていないことへの安堵もある。
同時に、今のこの世界が現実ではないことを知ってしまった悲しさもあり、ずいぶんと変わってしまった自分への困惑もある。
喜びがあり、怒りがあり、切なさがあり、辛さがある……いつかは戻ってくることを夢に見ていた故郷の幻を前に、あたしは瞳を伏せて唇を噛み締めると、意を決して振り返る。
『これはなんなんですか……留美先生』
視線の先には、あたしと同じように全裸になっている留美先生がいた。女性らしくメリハリのついた裸体を惜しげもなく晒しながらも、薄く透き通った身体はそこにいる現実感を感じさせない。それは幽霊や幻のようであり……その点に関してはあたしも同じなのだろう。
『何故あたしは……あたしたちは、アイハラン村にいるんですか!?』
胸の奥でさまざまな感情が渦巻いていて、そのやり場を求めてあたしは大声で叫んでいた。けれど口の前を通る雪は、その声を浴びても飛ぶこともなく、ただひらひらとゆっくり舞い落ちていく。
留美先生は、そんなあたしに何も答えてはくれない。裸を見られているのに恥ずかしがる様子も見せず、静かに目を村の中に向けているだけだった。
『わかんないですよ……説明してくれなかったら何も……あたしは……あたしはこんな形でなんて……』
本当は胸に喜びの感情はある。だけど何か別の勘定がそれを必死に押し殺そうとしていた。
村にはまだ帰れない。村にはまだ戻れない。……あたしの心は頑なにそう思い込もうとしている。何かわからない“感情”が、夢にまで見た故郷にあたしが入ることを許してくれないのだ。
だから、
「そこにいるのは……誰?」
留美先生は待っていてくれたのかもしれない。
あたしが村に入れるように、その人がやってきてくれるのをずっと―――
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