第十一章「賢者」44


 ―――んっ……ちょっと…寝ちゃったか………
 重力魔法からの脱出に連続してはなった魔力剣で一時的に全魔力を使い果たしてしまったあたしは、それまでのダメージと疲労の蓄積から失神していた。
 気を失っていた時間はそんなに長くない……と思う。骨の折れた激痛に加えて、寝そべっているのは硬い地面。とてもではないけれど長時間熟睡できるような体調と状況ではない。
 ―――いや……こんだけパキパキ骨が折れてたら、逆に痛さで気を失うと思うけどな……
 そうならなかったのは、まだ戦闘による気の昂ぶりが痛みを訴える身体のそこかしこに残っていたからだろう。脳内麻薬が分泌されて痛みは幾分和らいでいるのか、あたしは倒れ伏した身を小さく震えさせると、重いまぶたをゆっくりと押し上げた。
 ―――記憶は……うん、戻ってる……
 自動人形によるあまり上手とは言えない忘奪の竪琴の演奏により、あたしの記憶や知識は根こそぎ奪い取られていた。最後の瞬間、自分の名前さえろくに思い出せない状況でありながら、自分の成すべき事を忘れずに行動できたのは行幸と言っていいだろう。
 正体も目的もわからない少年の放った重力魔法は、とっさにあたしがモンスターを呼び戻したことで、全加重が全てあたしの上に降り注いだ。……では逆ならどうなるか? あたしの契約しているモンスター十二体全てを召喚すれば、一時的にでも重力による加重は十三分の一になるのではないか?
 その目論見は当たっていた。一時的に重力魔法が弱まった瞬間を見計らって全モンスターの召喚を一度に行い、その隙に少年を切り伏せてようとしたのだけれど、
 ………あのとき叫んだの、綾乃ちゃんだったんだ。
 あの時、あたしの頭の中にあったのはただただ少年に対する怒りだけだった。頭の中が爆発するような激情は忘奪の竪琴の演奏に記憶よりも先に奪われていたため、少しでも記憶を守るために殺意という言葉すら生温い感情をひたすら沸き上がらせていた。その中で女の子の……綾乃ちゃんの声があたしの耳に届き、とっさに魔力剣を放つ方向を変更した。
 目的を忘れていなかったことも奇跡に近いけれど、顔も名前も忘れていた綾乃ちゃんの指示に反射的に従えたのは、やはり長い間連れ添ったパートナーだからだろうか?
 ―――それにしても……うああああああ、やな事まで思い出しちゃったな……
 魔力剣で忘奪の竪琴を破壊したことで戻ってきた記憶は、重力に潰されながら吸い出された分だけではなく、弘二と一緒にいた……そう、自分で気づいていた記憶の空白部分も含まれていた。―――が、その部分に関しては思い出さないほうが幸せだったかもしれない。
 弘二が脱衣所からあたしの服を奪い去ってからの事を忘れていたため、その原因を探るために竪琴の音色をたどってたどり着いた岩場の奥……改めて言葉にしたくもない。そこであたしは竪琴の音色に誘われるように弘二と肌を重ね、その直後にマーマン三体にまでレイプされたのだ。
 ―――弘二だけならまだしも、マーマンとまで……こういう忌まわしい記憶だけは戻って欲しくなかったな……
 人間、忘れてしまいたい記憶の一つや二つはあるものだ。特に、男から女の身体になったあたしの場合は、それがはるかに他人より多い。特にエッチ関係。大して腕力があるわけでも頭がいいわけでもないあたしが安全にお金を稼ぐには他に手段が無いと言っても、召喚で四六時中男性の相手をさせられた事などもまとめて封印したい記憶である。
 ―――はぁ……弘二もこのことを思い出してるんだろうな……
 今頃はきっと弘二も、それに大介も、あたしが身体を許してしまった記憶を思い出しているだろう。あの二人とどうやって顔をあわせればいいのかと思うときが重くなるけれど、
 ―――いざとなったら、あたしが忘れさせるしかないか……
 とりあえずシワンスクナに頭を五十発も殴らせれば、生まれたときから現在に至るまでの記憶が全て消え去ってくれるだろう。後はどの程度加減をするか……それがまた難しい。出来れば記憶と一緒に命まで奪いたくはないし、あの二人もあれはあれでいい奴ではあるのだし。
 ―――そう言えば、あたしがぶった切っちゃった男の子……どうなっただろう。
 弘二と大介をどう半殺しにするかを考えていたら、気を失う寸前に放った魔力剣の前に飛び出し、身体を両断されてしまった男のことを思い出す。
 あれは不可抗力だろう……完全に男の子からは外れた斬撃に前にわざわざ飛び出してきたのだ。そもそも、左側の骨はどれだけパキパキと折られたことか。はっきり言って正当防衛である。
「とは言え……思い出しちゃったしな……」
 唇から声がこぼれると、まどろんでいた意識は休息に目覚めていく。
 ………で、このピリピリした雰囲気はなんなの?
 目を開けて最初に伝わってきたのは、あたしを守るように取り囲んでいる契約モンスターたちの緊張だった。
 何かが起こっている……直感的にそう感じていると、あちこちの骨が折れていて立つこともままならないあたしの身体を、オークが慎重に抱き起こしてくれる。
 ―――綾乃ちゃん……それに留美先生?
 喋るだけで身体中から軋みが上がる。もし痛みで声を上げようものなら、麻痺している神経が一気に目覚め、激痛にのた打ち回って再び気を失うかもしれない。
「――――……」
 だからゆっくりと息を吸い、深呼吸を繰り返して徐々に身体を痛みに慣らしながら目の前を見る。
 モンスターたちの隙間から覗くのは、呆然と立ち尽くした綾乃ちゃんと、さらに先にいる誰かをじっと見詰める留美先生、二人の後姿だ。一度気を失ってテンションの糸が切れたせいか、視界がぼやけてグラグラと霞んでいるけれど、そこにいるのが綾乃ちゃんと留美先生であることは間違いない。
 ―――ったく、留美先生も助けに来てくれるなら、もっと早く来てくれればよかったのに……
 心の中で愚痴を呟きはするものの、それと同時に安堵の感情も込みあがってくる。
 留美先生がいれば、どんな相手でも負けることは無い……実際に強引に戦わされて死にそうな目にあったからこその確信だ。二人の前にいるのが誰なのかは知らないけれど、指先一つで吹っ飛ばされるのが落ちだろう。
 ところが、
「貴様……その顔はどういうことか説明してもらおうか」
 留美先生の声は硬い。モンスターたち同様に緊張しているのかとも思うけれど、耳に届いた声には何かを探るような色もあった。
 対して、
「生まれついてのボクの顔に何の説明の必要があるの? 君達には関係ないんじゃないのかな」
 そう言ってからかうようにクスクスと笑うのは、あたしが魔力剣で切り裂いてしまったはずの少年の声だった。
「必要ないはずがない。性別は違っても同じ顔をした人間が偶然出会う事があったとしても、それがこのような洞窟の奥深くで、わざわざ狙い撃ちしていたとなると、それはもう偶然とは呼べはしない」
「偶然だよ。ボクがいるところに彼女のほうが“偶然”やってきたんだ。僕は彼女を呼び寄せる行為は何一つやってないよ。それこそ神様に誓ってね」
「では、ここで何かを企てていたことは認めるのだな? 用もないのに日の光も差し込まないこんな場所にいる事はないからな」
「それは人好き好きなんじゃない? ボク、明るいところが大嫌いなんだ。あ〜あ、せっかく真っ暗で居心地が良かったのに、壁に大きな穴が開いちゃった。どうしてくれるの?」
 硬質な留美先生の声とは対照的に明るささえ感じさせる少年の声は、そこでまたクスクスと笑う。
 ―――な〜んかムカつくな。
 あの喋り方と笑い方は、明らかにこちらをバカにしている。重力魔法を巧みに操るのだから、魔道師としては一流なのは間違いないだろうけれど、人格は三流以下だ。子供の無邪気さとは呼べないバカの仕方は早々に矯正しとかないと、将来きっとろくでもない大人になるだろう。
「ま、壁の穴は別にいいや。ボク、ここからもう出て行くし」
「させると思うか? 私は少年だからと甘くは見ないし、捕らえてからの拷問も容赦はしない。喋るなら今のうちだ」
「ふふふ……無理だよそんなの。ボクが一声紡げば、後ろにいる“誰か”にピンポイントで高重力が襲い掛かるんギャアアアアッ!!!」
 あ、やっちゃった……少年が逃げそうだったので、ついプラズマタートルに電撃を打たせていた。でもまあ良いや。あの子への愛のムチを兼ねた躾だと思えば。
 とは言え、自分の圧倒的有利を鼻にかけて喋っている最中に不意打ち気味に叩き込んだ一撃だ。さすがに悪いことしたな〜…と思っていたけれど、とっさに障壁を張ったのか、プスプス焦げてはいるもののガバッと立ち上がってあたしを指差してきた。
「たくや、何するんじゃ! せっかくワシが格好よくこの場から脱出しようとしったのに台無しになってしもうたじゃないか!!!」
「………なんか、急に喋り方がオッサンくさくなったわよ? てか、ジーサンくさい?」
「え? あ、や、これはその……え〜…こほん、何をするんだ! せっかくボクが格好よくこの場を脱出しようとしていダグバァ!!!」
「二度も同じ内容を喋りなおさないでよ、鬱陶しい」
 こちらも容赦なく二度目の電撃だけれど、ま、それはそれ。今度も不意打ち気味の一撃だったけれど、きっと大丈夫だろう。
「よっこらしょっ…と」
 このまま座っていては、あたしの方が格好がつかない。オークの首に右腕を巻きつけ、肩を貸してもらいながらフラフラと立ち上がると、綾乃ちゃんがどう反応していいのか判らないと言った表情のまま顔を固めてあたしの方を振り返った。
「せ…先輩っ!!!」
「あ〜……ごめん、やっと再会できたのが嬉しいのはわかるけど、今は飛び掛らないで。あちこち骨折れてるんで、飛びつかれたら間違いなく死んじゃうから」
「そうじゃなくて! あ、あの、あの子、あの子いったい何なんですか!!?」
「何って……何?」
 綾乃ちゃんは頭良いけど、とっさの状況判断とかは苦手で、よく思考が空回りしてしまう。今がまさにそんな状況で、身振り手振りは上下に手をぶんぶん振り回しているだけだし、何か説明しようとしているのだけは判るけれど、
「だからあの子ですあの子、見れば判るじゃないですか! ほらよく見てくださいって、あれ、ど、どこに行っちゃったんですか!?」
 とまあ、こんな調子だ。五男のあたしなら綾乃ちゃんの肩や頭に手を置き、とりあえず落ち着かせることも出来ただろうけれど、血まみれの左手ではそんな事さえも出来ない。
 ただ……どうせなら、ずっとうつ伏せのままのほうが良かったかもしれない。あたしの魔力剣で吹き飛ばされる光は正面からあたしの姿を照らしてくれている。寺田から逃れるための代償になった左手を初め、重力魔法で何度も岩盤にぶつけられた身体は打ち身や裂傷など数え切れない。それにただでさえ貧血なのに、また頭から出血しているらしく、左のこめかみあたりから生暖かい液体が滴り落ちている。
 ―――こんな姿を綾乃ちゃんに見せたら……あ、これは来るな。
「ふ…ふえええぇ………」
 見る見るうちに綾乃ちゃんの瞳に涙が湧き出してくる。この分だと、綾乃ちゃんを探すためにここまで来たことも察したかもしれない。
 怪我をしたのは綾乃ちゃんのせいではないのだけれど、ダメージだらけの今のあたしが一番辛いのは、血を失いすぎて頭がはっきりしないことだ。「え〜と…」と頭を捻ってみるものの上手い言い訳を思いつくことが出来ず、綾乃ちゃんが泣こうとしているのを見ていることしか出来ないのが何よりも辛い。
 ただ、
「キッッッサマアアアアアアアッ! 久しぶりに会(お)うたワシに一度ならず二度までも電撃叩き込むとは、相変わらずいい根性しとるじゃないデブハァ!!!」
 どうもジジイ言葉のほうが地らしい少年が黒くて四角いものを抱えている方とは逆の手で綾乃ちゃんを突き飛ばしてあたしに詰め寄ってきた……ので、オークにカウンターでぶん殴らせた。
「あんた……綾乃ちゃん突き飛ばして、怪我でもさせたらどうなるか分かってんでしょうねぇ……」
 オークの右腕で左頬を殴られて地面に倒れ伏した少年は、しばし顔を抑えて悶絶するけれど、やがて余裕を見せようと鼻を鳴らして挑戦的な目であたしを睨む。
「ふ、ふん、だからなんじゃというんじゃい! 知っとるんぞ、お前には人を殺す度胸な―――」
 あたしに「度胸なんてない」と言いたかったのだろうけど、残念なことに、その言葉は途中で終わる。
『憤ッ!』
 シワンスクナが四本の手で握る大金棒を少年の背後で全力で振り回し、先端に後ろ髪を掠(かす)る位置を通過させる。振り抜いた際の風は強風になってあたしの身体に叩きつけられるけれど、少年のほうはもっとマジかでそれを感じたはずだ。髪の毛のこげる煙が新たに増えたものの、少年は遅れて襲い掛かってきた死の恐怖で完全に固まっていた。
「確か五十発ぐらい殴れば人間の記憶なんて消し飛ぶよね……あの金棒で」
「そ、その前に、ワシ、死んでしまうがな―――!!!」
「ああ、んじゃ死なないようにちょっぴりオマケしてあげる。スクナ、五十九発ね」
「一発減ったように見せかけて十の位が増えとるじゃないか―――!!!」
 細かいな……それはともかく、あたしが手を下さなくてもモンスターたちの怒りは頂点を突き抜けている。どうも主のあたしをボロボロにされたのがよほど頭に来ているらしく、普段はやかましいゴブリンアーマーズでさえ、無言で武器を強く握り締め、あたしに「よし」と命じられるのを今か今かと待ち望んでいる。
「あの……先輩、ちょっとだけ待ってもらっていいですか?」
 幸いにして、綾乃ちゃんが突き飛ばされた方向にはゴブハンマーとゴブアサシンがいて受け止めてくれていた。元から少年を殺すようなことはしないけれど、ひどい目に遭わされた綾乃ちゃんがかばうとは思わなかったのだけれど、
「先輩。あの子の顔をよ〜く見て思い出してください」
「かお?」
 さらに、綾乃ちゃんのお願いがさっぱり意味が判らないものだったので首を捻ってしまう。
「顔ねぇ……」
 留美先生も顔が何とかといっていたのを思い出しながら、腰が抜けているのか立ち上がろうとしない男の子の顔をオークに支えられながらジッと見つめる。
「ふ〜む……」
 こうやって見ると、それほど悪くない顔立ちだ。無邪気に明るく笑えばさぞ可愛いだろうが、性格の悪さが目元や口の端に現れているので、今はそれほど可愛いとは思えない……のだが、
「ん……?」
 あたしは身を乗り出して少年を見つめた。
「んん〜……?」
 まさか……いや、そんなことあるはずが……疑問が何度も頭をよぎり、それを晴らすためにさらによく少年の顔を見て、あたしはある事に気づく。


「ごめん。全然知らない」


 そう言った途端、なぜか綾乃ちゃんも少年も、モンスターたちも留美先生でさえもカクンと拍子抜けし、こけそうになってしまっていた。……いったいなぜ?


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