第十章「水賊」18
“その人影”は木の影から突然姿を現した。
そちらに目を向けていなければ、表れる瞬間には気付かなかったと思うほどに静かに、そして速やかに、誰なのかと判断する暇も与えてくれない速度で、あたしの眼前へと迫ってくる。
全身を覆うマントの合わせ目から頭上へと振り上げられた右手には細身の剣。実用には向きそうにない剣ではあるが、上に構えられたものは振り下ろされるのが道理……その下にいるのは、あたしと舞子ちゃんの二人なのだ。
「ふえ………?」
着替えに手を伸ばしていた舞子ちゃんが突然に襲撃者を見上げるのと、剣が振り下ろされるタイミング、そしてあたしが着替えを放り投げて舞子ちゃんを抱きかかえて飛んだのは、ほぼ同時―――それでも間髪入れずに動いた分だけ、辛うじてあたしの動作の方が早かった。
剣を躱し、あたしと舞子ちゃんはもつれ合うように二人して地面に倒れこむ。……ここで動きを止めれば、相手に二撃目を加える時間を与えるだけ。回復しきっていない疲労よりも直感が体を動かし、あたしは地面を手でついて身体を横へ回す。その勢いを利用して足を振り回し、剣を持つ謎の人物の右手を蹴ろうとする。
うつ伏せから仰向けへ、身をよじるように回転した勢いを利用して右足を振り上げ、謎の襲撃者が剣を持つ右手を狙い、踵を飛ばす。
「ふん……いい反応ね」
狙いもろくに定めずに脚を振り回した場所に相手がそうそういるはずもなく、あたしの足は何もない空間をただ通り過ぎるていく。
けれど、手を狙われた相手の攻撃動作もわずかに遅れる。その間に仰向けになったあたしは、今度は相手をきちんと見据え、振り抜いて地面に触れた足を足を動かしていないマント姿の相手の足元へ、それと同時に、回転の軸になっていた側の足も体の勢いを殺さないように続けざまに振り上げ、剣を持つ手に再び蹴りを放つ。
―――足癖の悪さを、ベッドで鍛えたとは絶対に言えません!
上と下、右と左、胸を上に向けた身体をまたうつ伏せにするように体をひねりながら放つ同時の蹴りは、それでも相手の冷静な判断を怯ませられない。軽いバックステップ一つでこちらの精一杯の攻撃は簡単に避けられてしまい、すぐさま前へと跳躍し、明らかにあたしを狙って細剣の先端を突きこんでくる。
息をつく暇もないとは、まさにこの事……間髪入れずに迫る切っ先を背中越しに感じながら、二度目の蹴りで弧を描いた蹴り足を膝から地面につける。
体に引き寄せた足は、既に力を溜め込んでいた。魔力を噴出しての加速は疲労のため使えないけれど、身体を跳ね上げるだけの力は十分にある。
「―――!?」
横への回転から縦の回転へ―――膝を伸ばして地面を蹴り、倒立するように縦回転すると、その途中で腰にひねりを加え、身体を横へと傾ける。そして着地と同時にさらに身体へひねりを加え、距離を取ろうと大木の根元から跳躍する。
「このッ……!」
長いマントで体を隠した襲撃者はバックステップするあたしへあっさりと追いつき、距離と言う名の空間を埋める。それは同時に、相手が手にした細身の長剣を振るう空間を無くす行動でもあるのだが、構わず鼻先が触れそうな距離にまで肉薄してくる
「あら? あなた、可愛い顔をしてるわね」
「に…にゃろォ!」
とっさに腰の鞘からショートソードを抜いて、横薙ぎに振り払う。けれど、あれほど接近していたというのに、相手は一瞬にしてあたしの視界から消え、振り抜いたショートソードはむなしく空気のみを右から左に切り裂いた。
「―――上ッ!」
右手で振り抜いた剣を左手で追い、両手を添えて持ち手をグリップ。バランスを崩して後ろへ倒れ行こうとする身体を踏みとどまらせずに、むしろ自分から跳び、状態を大きくそらせながら半ば闇雲に真上へ剣を振り上げた。
―――快音。
相手を捉えはしたものの、あたしの剣は相手の細身の剣に阻まれる……だが刃同士が触れ合う感触は、硬く、そして想像以上に軽かった。それはあたしの頭上を飛び越した相手の体重が軽く、剣を振るう腕力が弱い事を意味していた。
そして、あたしの顔を覗きこんで囁いた声……
―――まさか女の人!?
貧弱なあたしの剣が完全にはじかれなかった事も、謎の敵の正体が体重の軽い女性である事を示していた。
………で、何で女の人がいきなりあたしに襲い掛かってくるわけ?
なにも女性だからいい人だと言うわけではないけれど、さっきまでずっと男性ばかりの水賊に追い立てられていたので、どうも妙な気分だった。
そして当然の子だが、あれこれ考えている間、重力が止まっているわけではない。相手の正体を見極めようと目で追いかけたのが駄目押しとなり、姿勢が崩れて地面に身体を引き寄せられたあたしは、水をたっぷり含んだ草が生い茂る地面にビシャッと音を立てて尻餅をついてしまう。
「はうっ―――! ぱ、パンツにまで水が……」
これはあたしもパンツを着替えなくちゃ……昨晩からの豊富すぎる雨量をお尻に谷間でしみこんでくる冷たさで実感していると、
「何をしているの。そんなことでは私とダンスを踊れなくてよ?」
完全に余裕なのだろう、背後へ着地した女性は倒れたあたしへ襲い掛かってくるようなことはしなかった。少し離れ、あたしが立ち上がるのを見つつ、
「でも私の動きについてこれているだけでもたいしたものだわ。仕事で無ければ存分に可愛がってあげたいところよ」
「そりゃどーも……」
「あら? 私が褒めてあげているのだから、もう少し嬉しそうな顔をしてみたら?」
「……今、パンツの中がビシャビシャになってるから喜ぶ気分じゃないの」
「それは残念」とマントの下から出した左手の指を唇に当て、クスクスと笑う。
―――こっちは笑い事じゃないわよ。水賊の仲間にこんな凄腕の剣士がいるなんて……
わずかな手合わせではあるけれど、剣の腕ではあちらの方が何枚も上手なのはすぐに分かった。
相手がその気なら、尻餅を突いた時点で勝負は終わっていた。あたしが今、こうして相手と向かい合っていられるのは、単にあちらの気まぐれでしかない。
―――さて、どうしようか……
マント姿の剣士があたしと同じ女性であるとわかっても、とても勝てる気はしない。
とりあえず今は、油断無く剣を正面に構えて様子を見る事しかできない。
ここは切り札である魔封玉を使いたいところではあるけれど、水賊のアジト内で大暴れさせた直後でモンスターたちも疲れており、できるなら呼び出したくはない。
…………それでも呼ぶとしたら、剣士相手には絶対的に有利なスライムのジェルかな?
剣ではスライムを切る事が出来ず、逆に金属を腐食させる。魔法を使わない剣士には、どう足掻いても勝てない相手なのだ。
それでも今まで対峙してきた相手の中では、美由紀さんに次ぐ速度と身の軽さを襲撃者は有している。下手にモンスターを呼び出せば、簡単に隙をつかれ、モンスターたちを危険に晒す事になりかねない。
―――と、
「ふぅん……まだ何か奥の手を隠しているみたいね。しかも私に勝つつもりでいるなんて」
「なっ!?」
襲撃者の目がフードの下で細く、鋭い眼光を放つ。
「全部顔に出ているわよ。この状況下で私と向かいあっていて、何かを必死に考えている。逃げる事も念頭に置いているのに表情に焦りの色が少ない……何を考えているのかしら? 黙っていても私の油断は誘えなくてよ」
―――うわ、完全に読まれてる! そ、そんなにあたしの顔に表情が出まくってますか!?
戦闘中で無ければ鏡を取り出して顔を確認したいところだ―――もっとも確認しなくても、心中を言い当てられて慌てふためいているのが自分でもよく分かている。確かに言われたとおり、余計な感情や思考まで顔に出ていたことは認めざるを得ないようだ。
「だ…だからって何よ! 言っとくけど、あたしの必殺技を食らったら、どんな相手だって一撃なんだからね、一撃! 降参するのは今のうちなんだから!」
まるで子供が相手を怯ませようとしている言葉みたいだ。自分のボキャブラリーの無さには恥ずかしささえ感じてしまう。
「あら、それは恐い―――じゃあ、こちらも奥の手を出さなくてはね」
「いっ……奥の手ですか!?」
言うなり、剣士の女性は実用に耐えられるのか疑わしい細身の剣を地面に突きたて、頭を覆うフードに手をかける。
それがどんな奥の手なのかと、あたしも緊張の色を隠せず、剣を握る手にも力がこもる。
相手の動きは一見するだけでも女性らしく優雅で、洗練された手の動きなのが分かる……けれど、それ以上にあたしが目を奪われたのは、 女王様を連想させる鋭い印象の美貌よりも何よりも、襟元に手を差し入れて掻き出した長く美しい金色の輝きだった。
「な……金色の、髪………!?」
―――じょ、冗談じゃない。まさか魔法剣士だったなんて……!
絶対の自信を浮かべている意志の強そうな美貌からは、あたしの切り札を恐れる様子は微塵も見えない―――それも当然だろう。魔法剣士の戦闘力からすれば、たいがいの「切り札」や「奥の手」なんて普通の攻撃となんら変わらないものなのだから。
クラウド大陸に置いて、金色の髪と言うのは才能ある魔法使いと意味を持っている。曰く、金色の髪を持つ者は、古代魔法文明を気付いた先祖の血を色濃く顕している。故に、生まれながらにして魔力は強く、魔法に関しては天分の才を持つ……これは魔法使いの間では常識と言ってもいい。唯一と言っていい目に見える魔法の才能、それが金色の髪なのだ。
相手も自分の紙が意味するところを承知しているはずだ。ならば「魔法が使える」とこちらに思い込ませるブラフと考える事もできなくはないけれど……あの自信に満ちた表情。間違いなく魔法は使えるのだろう。
―――じゃあジェルを呼び出すのも危険ってことか……
スライムは物理攻撃に強い反面、魔法攻撃にはとても弱い。実際に一度、炎の魔法にジェルは焼かれた事もあるのだ。振動系など相性のよい魔法もあるけれど、炎・電撃・凍結と言う辺りの魔法を使われれば、ジェルに勝ち目はない。
「きれい……」
休んでいた大木の根元から一歩も動かずにあたしたちの事を見つめていた舞子ちゃんの口から、うっとりとしたため息が漏れるのが聞こえてくる。
あたしも、もし目の前の女の人と普通に出会っていれば、その髪の美しさに心奪われていたかもしれない……が、命のかかったこの状況ではとてもそれどころではない。さっきから頭の中を埋め尽くしているのは、危険を知らせる警鐘の音だけだ。
「どうしたのかしら? 何かして見せてくれるのではなかったの?」
余裕たっぷりに言われても、行動を起こすのに二の足を踏んでしまう。ただでさえ選択肢は限られているのに、下手に動けば即命取りになりかねない。なにか打開策を考えようにも、頭の中で鳴り響く警鐘の音があまりにもうるさ過ぎて―――
「――――――?」
ふと、今の状況に違和感を感じる。
剣と魔法を同時に操る魔法剣士なら、すぐにでもあたしに攻撃を仕掛けてもいいはずだ………それなのに、あたしはまだ生きていて、こうして向かい合っている。
長引かせる事に意味があるのかと考える……結論はノー。時間が経てば建つほど、あたしが何かを思いつくのかもしれない。舞子ちゃんが何か行動を起こすかもしれない。
予想を超える出来事が起こる可能性を、むざむざ与えるのは―――余裕なのか、別に理由があるのか、この二択しか思いつけない。
でも余裕があるのなら、最初の時点でいきなり襲い掛かっては来ないはずだ。あたしとの力量の違いを知って安心した……わけでもない。最初からしゃべり方も態度も表情も変わっていない。むしろ、安心したなら仕留めに来るとあたしは思う。
―――じゃあなんなのよ、この違和感は。このまま無駄に時間が過ぎて行くだけだ。それなのに動かない事に何の意味が………
「あ………しまった!」
驚きの表情が出るのを隠そうともせず、あたしは右を向く―――その先、森の奥で大量の魔力が放出されている事に今更ながら気が付いたからだ。
―――やられた。フェイクだ!
金色の髪を見せて動揺を誘って時間稼ぎ……その事に気付いた時には既に、木々の向こうから魔法を発動させるラストワードが聞こえてくる。
『ウォーターバインド!』
姿は見えないけれど、魔法を発動させたのは女性の声―――しかし、一瞬で気付いた事は一瞬で思考から追い出される。
視界の先、暗い森の奥から木々をすり抜けて巨大な水蛇が迫ってくる。動きは速く、瞬く間にその巨体をあたしの眼前にさらし、こちらを丸呑みにしようと鎌首をもたげて顎を上下に割り開く。
―――迎撃する手段は……これだけか!
多少回復はしたけれど依然として残りわずかな魔力を剣に注ぐ。
迷っている暇はない。頭上から迫ってくる水蛇のアギトをギリギリまでひきつけると、あたしは地面を蹴り、下から上へ、両手で握った剣を振り上げる。
「にゃりょめぇ!」
直撃―――何か口から恥ずかしい言葉が飛び出た気もするけれど、気にしない。
刀身の短いショートソードと水蛇の顎がぶつかり合い、その形を維持させていた魔法を難なく切り裂く。圧縮魔力を乗せた刃が柔らかい魔法内部を切り裂く感触を手の平に感じながら………あたしは魔法の制御から離れた大量の水を真正面から叩きつけられた。
「〜〜〜〜……――――――!!!」
剣を振り上げた姿勢のままで正面から鉄砲水のような水の奔流を受け止めれば、どんなに屈強な男の人でも立っていられるはずもない。あたしは立ったまま溺れながら、膨大な水量が生む圧力に抗えず、押し流されて地面へ全身を押し付けられる。
口と鼻から水が流れ込み、呼吸を奪われる。反射的に口を開けば、押し付けられる水圧で口が閉じられなくなり、吐き出すこともできない水が次々に胸の奥へと流れ込んでくる。
苦しい―――宙に浮いている水は十秒とかからずに全てがあたしの上へと降り注いできた。
激しい雨でぬかるんでいた地面は水圧を堪えきれずに薄いすり鉢上にへこう。それだけの水圧を全身へ受けたあたしはすぐには立ち上がることができず、ずぶ濡れの体を折り曲げ、呼吸をさえぎる大量の水を咳き込むように吐き出した。
「ゲホッ、ゲホッ、ウッ……おえぇ……」
「うわぁ、あのタイミングで切り返されるとは思ってなかった。すごいですね〜……ちょっぴりショックかも」
ショック(衝撃)を受けたのはあたしです……と思いはしても、水圧と酸欠のダメージは想像以上にひどく、まだ呼吸すらままならない。
それでも何とか顔を上げると、あたしと舞子ちゃんの間をさえぎるように、少し大きめの黒ぶちメガネが印象的な女性があたしを見下ろして立っていた。
―――この人が、さっきの魔法を……?
ショートカットの栗色の髪がフードの下から覗き、幼く見える可愛らしい顔に浮かんでいるのは興味を隠しきれずにわずかな感動をにじませた微笑だ。おおよそ的とは思えない警戒心を感じさせない表情に、あたしも気を抜かれかけるけれど、わずかに視線を下げれば元気な時なら目を見開きたくなりそうなものが両目に映る。
―――あれは……結構スゴいかも。
体は小柄で顔つきも幼いのに、そこだけは張り裂けんばかりに大人の女性である事を誇示していた。大きく盛り上がった胸元はとても手の平に収まるようなボリュームではなく、首をひねったりするわずかな動作にあわせて震える様は、“たわわ”と言う言葉に当てはめるのが最適と思えるほどの柔らかさを感じさせてくれる。その柔らかさに頬擦りして顔をうずめてみたいと思う、あたしの心の中に男が残っているからでも、いやらしい気持ちがあるからでもなく、ただただ「柔らかさを心行くまで体験したい」と言う素直な願望によるものだからだ。
………だからと言って、油断をしていい相手ではない。
女性が手にしているのは典型的な魔法の杖だ。先端には魔力増幅用の宝石がはめ込まれており、先ほどの水流魔法を放ったのがこの人であると、すぐに直感させる。
つまりは敵なのだ……けれどあたしの視線に気づいた相手は微笑みを崩さず、どこかあたしを気遣う様子を覗かせる。
「とっさの動きはよかったけど、魔法の見極めがまだまだですね。あの魔法、見た目は恐いけど、ただの捕縛様の魔法だったから、無理に防がない方がダメージを受けなかったんですよ―――と言っても、捕まったら終わりですけどね」
………つまり、あたしがマーメイドの力で水賊のボスを捉えてたのと同じような運命になるって事か。
まるで魔法を教える女教師のように、丸みのある声で喋りながらこちらへと歩み寄ってくる。
話の内容からすれば、あの魔法を斬っていなかったら、あたしはマーメイドの力でそうしていたように、水に囚われて身動き一つ取れなくなっていたようだ。
―――なら、こうなったのは間違えた結果じゃない。
まだ最善の行動を行ってる事を確信しながら、深くゆっくりと呼吸を繰り返して体中に酸素を行き渡らせる。
―――溺れても気を失っていない。まだ……少しでも動く事ができる。
魔力を一気に失い、過度の圧力に無意識に抗おうとしていた手足は、このまま地面へ沈んでしまいそうなほど重い。
それゆえに、あたしに抵抗する力が残されていないと思った魔法使いの女性は、手を伸ばせば届きそうな距離にまで無警戒に近づいてくる。
「命まで取ろうとは思ってません。お姉様もあなたに興味を持っているみたいだから―――」
屈み込んだ女性の手が、横を向いて体を折り曲げて咳き込んでいるあたしの肩へと触れる……チャンスはここしかない。
おそらく再び拘束用の魔法であたしの動きを封じるつもりなのだろうけれど、この距離ならば、呪文詠唱よりもあたしの動きの方が速い………あとは、
「ごめんなさい!」
―――魔法使いとしてのレベルが高くても、口を塞いでしまえばいくらでも対処法はある。
とは言え、優しそうな人に荒っぽいをすることへの後ろめたさからか、思わず口から謝罪の言葉が出てしまう………それで相手も驚いたから、不意を付いたのと同様の意味になった。
必死にゆっくりと体の隅々へ行き渡らせた空気を一気に爆発させる。この後、建つことすらままならないほど力を使い果たすのも覚悟の上で、身体を勢いよく跳ね上げ、鼻先が触れそうな距離にいた相手の肩を突き、押し倒す。
「きゃっ!」
驚きの悲鳴を上げる女性へは心の中で「あたしはひどいヤツです悪いヤツです後で何度でも謝りますから」と何度も頭を下げる。それでも必死に非常になって女性を押し倒すと、右手で口を塞ぎ、左手で魔法使いの杖を遠くへ弾き飛ばす。
後は足を押さえ、万が一のバックアップの為に装備している大振りナイフを鞘から抜いて首筋に押し当てれば、この人を人質にできる。
やってることは美人を押し倒して乱暴を働くと言う極悪非道の罵りを受けそうなことだけれど、これもあたしと舞子ちゃんが水賊の手から逃れて街へ戻るためにはやむをえない事……と、そこまで考えてながらも、暴れる女性を無理やり押さえつけるだけの体力があたしに残っていなかったのが大誤算だった。
口を押さえつけた手の下でうめかれながら手足を振り回されていては、下手にナイフを抜くと怪我をさせてしまう。き図つける行動はとりたくなかったあたしは、無我夢中になって女性を体の下に押さえ込もうと左手と両足を動かしていて………事件はその時、柔らかい感触と共に起こってしまった。
「んッ――――――!」
「あ――――――!?」
あたしの左手が女性の“ある場所”へ触れると、抵抗する力が一瞬弱くなる………いまさら説明なんて必要ない。あたしが触れた……と言うより握り締めたのは、魔法使いの女性のたっぷり量感のある乳房だった。しかも上から体重を掛けているものだから、指は深々と柔肉に食い込み、手の平で押しつぶしてしまっていたりする。
「あの……その、これは………」
事故なんです……と言い訳してみても、黒ぶちのメガネのレンズの向こう側でじわじわにじみ始めた大粒の涙さんには分かってもらえないと思う。それ以前に、しどろもどろの説明では、余計に誤解を招いてしまうだけだ。
ここは手を離し、抵抗が弱まった隙を突いてしっかり押さえ込む……のがいいはずなのに、硬直してしまったあたしの手はワンピース風のミニスカローブに包まれた膨らみから離れることができず、それどころか無意識に指が動き、指の間からあふれ出そうなやわらかさを堪能するかのように捏ね回してしまう。
「はぅん……っ!」
「うわぁ、ごめんなさぁい!!!」
女性がブルブルと体を震わせるのを重ねた体全部で感じてしまった瞬間、あたしは反射的に謝りながら体を離し、バネ仕掛けのように立ち上がって後ろへ飛び退っていた。
―――って、せっかく組み伏せた相手から体を離して、どうするのよあたしは!? しかも距離まで開けちゃって! せ…せっかくの人質プランがぁ〜〜〜!
魔法使いは基本的に力が弱い。だけど高位になればなるほど、短く素早い詠唱で魔法を発動させる事もできる。
―――もう一度押し倒すなら、相手が起き上がってない今しかない!
でも、耳元で喘ぎ声にも聞こえる艶かましい悲鳴を吐きかけられてしまい、あたしの身体はいたるところがカチコチに硬直してしまっている。こんな状態で上から覆いかぶさるところを想像すると、間抜けも間抜け、骨の髄までの大間抜けな自分の姿しか想像できなくなってしまっていた。
だがしかし、今を逃せばもう二度とあの柔らかい感触を堪能……ではなく、人質を取れる機会なんて訪れないことも頭では分かっていた。
押し倒すべきか、せざるべきか……
今は体裁に構っている場合じゃない。高位の魔法使いと魔法剣士の組み合わせから生きて逃れるためには、卑怯でも間抜けでもやらなきゃいけないこともあるのだ―――と、短い時間で深い深い葛藤の末に結論を出すと、あたしは大きく息を吸い込みながら足を踏み出し、
「お姉様のエッチィ〜〜〜!」
……との舞子ちゃんからのお叱りの言葉に、その場でずっこけてしまう。
「ひどいですゥ〜〜〜! 舞子と言うものがありながら、目の前で他の女性を押し倒すなんてあんまりですぅ〜〜〜! 不埒ですぅ〜〜〜!! 不倫ですゥ〜〜〜!!! もう実家に帰ってやるですぅ〜〜〜!!!」
「やっ……舞子ちゃん違うって、これは不可抗力! 神様に誓って不埒な気持ちで押し倒したんじゃないから!」
「やっぱり大きなおっぱいがいいんですかぁ? 舞子のおっぱいじゃちっちゃくて満足していただけないんですかぁ〜? 二人っきりになったらすぐに抱きしめてくれてぇ、あんなにいっぱいこね回して愛してくれたくれたのにぃぃぃ〜〜〜!!!」
「だ、抱きしめたってなに!? 牢屋での事!? それにこねくりだなんて……あたし、そんなこと絶対にしてないよ!?」
「え〜〜〜ん、お姉さまに捨てられちゃったですぅ〜! 裏切られたですゥ〜! 心まで弄ばれちゃったデスぅ〜! 舞子とのことは所詮遊びだったんだぁ〜〜〜!!!」
「うわぁああああああっ! ストップストップ、舞子ちゃんストップ! 人がいるところで人聞きの悪い事を大声で叫ばないでェ!」
「お姉様なんかおっぱいと結婚しちゃえばいいんだぁ〜! え〜ん、舞子が将来バインバインのボインボインになってもお姉様なんて知らないんだから、うわぁ〜〜〜ん、お姉様のおっぱい馬鹿ァ〜〜〜!!!」
―――……ううう……泣きたいのはあたしの方だよぉ……舞子ちゃん、全然あたしの話を聞いてくれないし……とは言え、はずみで触れた胸の柔らかさは、舞子ちゃんや綾乃ちゃんでは決して味わえなくて、大きさでは負けていない美由紀さんの張りのある膨らみとはまた違って………て、あたしは何を考えていますか、こんな時に!?
これでは舞子ちゃんの言葉を否定しきれない……そんな時だ。仰向けに倒れたまま起き上がってこようとしない魔法使いの女性が、小さく口を開いたのは。
「あの……」
「は、はいィイイイッ!?」
………コホン、落ち着けあたし。
離れた位置で泣き喚く舞子ちゃんの声が鋭く胸にグサグさ突き刺さるショックに耐えながら、深呼吸をキッチリ三回繰り返す。
パニックに陥りかけた頭も降り注ぐ雨の冷たさで幾分冷え、一度首を上に向け、灰色の空から降ってくる雨粒を顔で受け止め、十分に落ち着いたのを確認してから、意を決して魔法使いの女性へ視線を動かした。
「え〜と……はい、先ほどは失礼な事をしちゃって申し訳ありません。触っちゃったことも謝罪します―――で、なんでしょうか?」
こちらに不埒な思いがなかった事をアピールするため、さわやかな笑顔でもう一度返事をやり直す。
そんなあたしを見て、魔法使いのお姉さんは濡れた地面に仰向けに横たわったまま、少し顔を赤らめ、レンズ越しに潤んだ瞳であたしを見つめ、
「私……こんなに激しくアタックされたのは初めてなんで、どうお返事していいか分からないんですけど………やさしく、してくださいね……」
「………………………………………………は?」
―――思考が停止する。
あたしの声は女性の言葉を理解できないから口からこぼれたのではなく、あまりに突然すぎる言葉に理解する事をやめてしまい……「こちらの女性は、何をおっしゃっておられますか?」と間抜けな表情で首をひねってしまったから、思わずこぼれたのだ。
「い、いいんですよ、別に……激しくされるのは嫌いって訳じゃなくて、むしろ……やだ、変な事を言わせないでください……」
「……もしもし、お姉さん?」
「わ、私は“お姉様”と言う柄じゃないですよォ……でもですね、こういうことはちゃんと手順を踏まえるべきだと思うんです。二人で初めての時は、やっぱりベッドの上できちんと確かめ合った方が愛も深まりますし……何事も最初は肝心だし、初めての時ってほら、パニックになっちゃうこともありますし……ダメですよ、初めてだからって欲望に身を任せすぎちゃ。でも、私はそう言うのが嫌いじゃないので……ああぁ、困ります、そんな、女同士で……♪」
「そうじゃなくてですね……あたし、愛の告白の為に押し倒したわけじゃありませんよ?」
「ええっ!?」
………何を驚く事があるのでしょう?
極々普通に考えて、どこの世界で戦闘中に押し倒す行為のどこをどう解釈したら愛の猛烈アタックに変換されるのか。
だと言うのに、そう言う一般常識をまったく踏まえずに、
「じゃあ……私の身体が目当てで唐突に沸きあがった劣情を満たすために突発的に私を押し倒したんですか!?」
―――明後日の方向を向いていたこの人の思考は、さらに明々後日の方向目掛けて突っ走っていった。
「だから何でそうなるのよ!?」
「そ、そう言う性犯罪的な性癖を持ってる人には見えなかったので……人生観、ちょっぴり改めます」
「改めるな、イヤ、もうちょっと人を見る目を養った方がいい、正しい方にまともな方に!」
「そうですよね、人を疑ってはいけませんよね、じゃあ……やっぱり私に猛烈アタックなんですね?」
「そっちに戻るな! あたしはそんなつもりじゃなかったって何度も言ってるじゃない!」
「じゃあレイプ? 強姦? 野外陵辱行為なんですね? 雨が降る暗い森で同性の人に押し倒されて……ど、どうしよう、ひどい事されちゃうはずなのに、ちょっぴりドキドキしちゃうかも……」
「望んでる? もしかしてそうなる事を望んでるの!? イヤならきちんと立ち上がって態度で示してあたしから離れてって。追いかけたりしないから!」
口を開くほどに泥沼に落ちていく状況にパニックになって訳がわからなくなって、とりあえず無我夢中でそう叫ぶ。
このまま身に覚えのない変な事を口走られ続けては、舞子ちゃんの嫉妬の視線から受けるストレスで倒れてしまう。ただでさえ回復したての魔力をすぐさま大量に放出してしまい、水圧ダメージも残っててフラフラしてるというのに、このまま精神的にも追い詰められたら、逃げるどころではなくなってしまいそうだ。
―――だからこそ、あたしは断固として周囲に対して誤解を解かなければいけない。
人質云々はこの際もういい。今はただただあたしの身の潔白を証明し、性犯罪者と言うレッテルを貼られて一生を過ごす事だけは避けなければいけない。
なのに………全然起き上がろうとしてくれない魔法使いの女性はあたしの言葉を口の中で何度も反芻し、突然ハッと驚いて口元を両手で覆う。それからおもむろに顔を赤らめ、恥じらいの視線を宙に漂わせると、顔を横へ逸らし、
「………唇を奪うんですね」
「は?……い、いや、何もしないと言ってますけど……」
「嘘です。私が立ち上がったら、私の背中に腕を回して唇を……そんな、見つめちゃダメです、恥ずかしいから目を閉じて……やん、そんな情熱的なキス、私、身も心も蕩けて……あ…ああぁ……て…テクニシャン………」
「なにが一体どんな妄想でテクニシャンだァアアアアアアッ!!!」
「じゃあ……女殺し」
「グハッ!!!」
「今まで何人の人とキスしてきたんですか? その……ものすごく上手でしたよ? 思わず濡れちゃいました」
「な、そ、い、言えるわけ……って、濡れた、て、え、でも、だって……」
―――言えない。唇を奪われた数……娼館で何度も……ううう、考えただけで涙が止まらなくなる……
「言えないほどキスしてきただなんて………あ、わかりました。さっきから何度も否定ばかりをするの」
ああ、やっと分かってもらえた……少しだけ安堵しようとした、まさに瞬間、
「恥ずかしい事を私に言わせて悦ぶ性癖なんですね?」
―――新たな疑惑を真正面から叩きつけられた。
「断じて違うッ!!! あ、あたしは、そんなこと、そんなことぉ〜〜〜〜〜〜!!!」
「私が恥ずかしい事を口走っちゃうたびに、心の底では喜んでません? 誓って言えます?」
「も、もちろん……喜んでなんか………」
………実は内心ドキドキしてたりしてます。だって、やっぱり、あたしの心の底って言ったら“男の子”なわけですし……うわぁ〜〜〜ん、これじゃこの人の言うとおり、あたしは変質者なのか――――――!?
「そんな言葉、信じられません……あっ、油断ですね、私を油断させる為に……言葉を信じて逃げようとする私を背後から押し倒し、スカートの中に手を差し入れて……非道い、そんな鬼畜な! いや、だめ、激し過ぎますそんな事! ば………バカァ! イヤァ! ひ…ひどい事しないでぇ〜〜〜!!!」
「一体頭の中でどんな妄想湧き上がらせてるのよ!?」
「ちょっと変態の入った体位でされるぐらいなら、いっそこのまま私を犯してェ!!!」
「犯しません!……お願いですからあたしの話を聞いて……」
「そんな……私が何度もやめてっていったのに……全然聞いてくれなかったくせに……くすん、そんな人だと気付かなかった私がバカなんですね……」
「………いや、もういい。もういいです。あたしが悪いんです。勝手に好きなだけ妄想してください……」
負けた……短くも長い問答の末に迎えた敗北感に、気力も体力も何もかもが尽き果てていく。
―――もはや何を言っても誤解が加速度的に増していくだけだ。
額を手で押さえ、その場でフラッとよろめくと……首筋を撫でる冷たい空気の感触に、不安定な姿勢のままで全身を硬直させてしまう。
顔の向きを変えないまま必死に目を横へ向けると、あたしの右肩には細身の刃が乗せられている……それは、あの金色の髪の女性剣士があたしの背後を取ったと言う、何よりの証だった……
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