ルート4−3


「―――はい、これで明日香の11勝。さすがに百人一首で明日香に勝つのは無理でしょう」
「ま…まだ……せめて…一矢………一矢だけでもぉ………」
 あ〜……こりゃダメだ。涼乃ちゃん、完全に死に体だわ。
 羽根突きでは弾丸のような速度で無患子を互角に打ち合った明日香と涼乃ちゃんだけど、その勝負は羽子板と無患子の破損で敢無くドロー。
 そのまま二人はお正月らしく決着をつけようと意気込みはしたものの、独楽回しや凧揚げは道具が要るので外での遊戯から道具の揃っている室内へと移動した。
 双六―――気が立っている明日香達にはのんびりしすぎたせいか、ちゃぶ台返しの憂き目に。
 福笑い―――体育系の野生の感か、涼乃ちゃんがわずかに顔「らしき」ものを完成させる。
 そして百人一首……これは120%涼乃ちゃんに勝ち目は無い。明日香は全ての歌を覚えているし、畳の上に置かれた札の配置も一目見ただけで暗記してしまえる記憶力の持ち主だ。その上、いつもあたしを引っ叩く手の早さが加わっては、いかに涼乃ちゃんの反射神経が速くても到底太刀打ちできっこないのだ。
 事実、11勝のうち、パーフェクトは実に六回。最初から六回目まで連続して、だ。その後は余裕を見せ付ける為に上の句を綾乃ちゃんが読み終わるまで待ってあげるエゲツなさ。それで意地になった涼乃ちゃんだが、それで明日香に頭脳系の勝負で勝てるほど世の中は甘くなかった……
「明日香、そろそろやめてあげた方がいいんじゃ……」
「そうね。弱い犬をこれ以上相手にしてもつまらないしね。………フンッ」
 度重なる敗戦のショックで畳みに突っ伏している涼乃ちゃんを明日香は鼻を鳴らして嘲り笑う。
「次は何で勝負する? スポーツでもゲームでも、得意な種目で挑んできて構わないわよ?」
「おにょ…れ……だったら…バレーで…勝負ぅ………」
 いや、それ無理。あたしと綾乃ちゃんを入れても四人しかいないんだから、一チーム六人必要なバレーでどうやって勝負をつけろと。
「いいわ。受けてたとうじゃない」
 明日香も受けるな、この勝負―――ッッッ!!!
 百人一首勝負で完全に涼乃ちゃんの上に立った明日香に心の中で突っ込みを入れると、なんかもう色々と疲れが滲み出してきた。双六では盤があたしの方へとひっくり返され、福笑いでは涼乃ちゃんに僅差で負けた明日香が指示を出していたあたしへさっきのこもった視線を向けるし、百人一首では飛ばされた札が回転しながらあたしへ襲い掛かってくるのだから油断する暇などありはしなかった。なんでめでたいお正月から、遊びの最中に色々と命の心配をしなければならなかったのか……もういい。考えるのはやめた。考えれば考えただけあたし自身が不幸になりそうだし。
「ああもう……突っ込む気力も失せてきた。だけどその勝負は……また明日でいいよね」
「待つ必要なんて無いわよ。あっちがバレーで戦りたいって言ってるんだから猶予なんて必要ないわ」
「明日香、変なスイッチが入って闘争心むき出しなのはよく分かったから……とりあえず時計と窓の外を見ようね」
 あたしの言葉を聞いて首をひねった明日香は、そのまま綾乃ちゃん家の大きな和室から窓の外へと顔を向ける。本来ならそこにはテレビに出ていそうな日本庭園が広がっているのだけれど、夜の帳が下りた今の時刻では、室内の灯かりに照らされたわずかな範囲しか目にすることは出来なかった。
「ウソ……もうこんな時間なの!?」
「勝負に熱中するなとは言わないけど、少しは冷静さを残しといてよ」
「ははは……ごめん。こんなに長引くとは思ってなかったから」
 頭を掻く明日香に、あたしはため息一つ。こっちは命の危険に晒されながら窮屈な着物姿でいなければならなかったと言うのに、のん気なものだ。おしっこだってずっと我慢してるのに……!
「さ、勝負は後日。もうずっと綾乃ちゃんたちに迷惑かけてるんだからさっさと帰るわよ、ほら」
 それほど危機的状況では無いけれど、それでもまあ、尿意を堪え続けているのは精神衛生上あまりよく無い。打ちひしがれて立ち直れないでいる涼乃ちゃんに優しい言葉の一つでも掛けてあげたいけれど、そしたらそしたで再び大戦が勃発しかねないので、早急に明日香を連れて帰らなければならない。
 ―――ま、正月から楽しかったのは認めるけどね。
 だけど外も真っ暗だし、どのみち帰るのなら早い方がいいだろう。明日香の腕を取り立ち上がると、涼乃ちゃんの肩を叩いて慰めていた綾乃ちゃんに別れを告げる言葉を向ける。
「それじゃ綾乃ちゃん。これ以上は本当に迷惑かけるだけだから、そろそろお暇させてもらうわ。涼乃ちゃんには後で謝っといて」
「え……今からお帰りになられるんですか?」
「色々と事情もあるしね。明日香と涼乃ちゃんの事もあるけど、ほら、和服って全然着慣れて無いから」
 こちらが自分の胸を指差すと、名残惜しそうな顔をしている綾乃ちゃんと、足が痺れてなかなか立ち上がれ無い明日香の目が、見事に帯に乗っかっているあたしの胸へと向けられる。
 ―――巨乳に着物はあんまり似合わないのね……
 胸の膨らみのせいで着崩れた着物の胸元は見るからにだらしない。男のくせに凹凸がしっかり付きすぎている体が悪いと言えば悪いんだけど、他にもノーブラ出し下半身は紐パンだし。
 いい加減、こんな着物よりも普通の服を着たいと言うのが本音だったりする。―――女の子のおしゃれも大変だって事をシワだらけで着崩れた着物をまといながら痛感させられているけれど。
「でも……涼乃ちゃん、今日はいつもより楽しそうでしたし、もう少しなら……」
 お正月からあたしに会えて普段よりもほんの少しだけはしゃいでいただけに、綾乃ちゃんの残念そうな表情は普段以上にあたしの胸を締め付ける。―――が、それでも帰らなければと、帰らなければいろんな意味でヤバくなりそうだと考えていると、
「よければ今日はお泊りになられては?」
 お邪魔している間に幾度か聞いた、綾乃ちゃんのお母さんの声が別の提案を口にした。
「そのような着物姿でお帰りになられるよりも、もし都合がよろしければ今夜はゆっくりとなされてはいかがです? 着付けでしたら私もお手伝いいたしますし」
「それは……でも、これ以上ご迷惑をおかけするのは」
 明日の予定といっても、どうせコタツでゴロゴロしながらテレビを見るだけなんだし、用事は無いとも言える。チラッと明日香へ視線で問いかけると、「私も特に用事は…」とのジェスチャーが返ってくる。ついでに「もうしばらく立てそうに無い」とのジェスチャーも付いてきた。
「いいんですよ。男たちは新年早々大盛り上がりですし、女は女同士で楽しみましょう。御節もお神酒もたんと用意してありますから」
「そうですよ先輩。普段の世話になってるんですから、是非今日は泊まっていってください♪」
 う…む………どうしよう、かな?
 立派過ぎる和風豪邸に住む綾乃ちゃん家の御節……さっきご馳走になったお雑煮もスゴく美味しかったし、さぞや美味しいんだろうな……
 それに明日香は……まだ立てそうに無い。これじゃ誘いを断って早々に帰るのも無理そうだ。
「じゃあ……お言葉に甘えさせていただきます。明日香もそれでいいよね?」
 もちろん明日香にも異論は無いはず。その確信があったからOKしたのに、その明日香の表情は少し曇り気味だった。
「うん……でも私も一緒でいいのかな。高田さんとはゼミも違うし、一人で帰ってもいいんだけど……」
「いいんです。片桐先輩もお泊まり下さい。うちは来客が多いから、こう言う事は珍しくありませんし。―――それに片桐先輩とはお話をしてみたかったんです」
 綾乃ちゃんが明日香に話、ねぇ………まさかあたしと別れて欲しい、なんてのじゃないでしょうね……
 心にやましい気持ちがあるだけに、この二人が改めて話をすると聞くとビクビクしてしまう。まあ……二人っきりならともかく、あたしや涼乃ちゃんとかもいる家の中で話す筈も無いか……
「では、夕食の準備が済むまでに入浴をお済ませください。もう既にお湯は張り終えていますので。それと」
 気配りの鏡の様な綾乃ちゃんのお母さんの顔があたしへと向けられる。
「えっと……なんでしょうか?」
「いえ、あまり着物に慣れていないご様子ですし……脱ぐのをお手伝いいたしましょうか?」
 ああ、それもそうか。いつもの服と同じように脱いだら洗濯籠へ丸めてポンとは行かないか。
「じゃあ相原先輩。私と片桐先輩はお先にお風呂をいただいてしまいますね」
「え、わ、私も!?」
 ………それもいいかな? まだ頭から畳に突っ伏してる涼乃ちゃんも復活する様子は無いし、女同士の裸同士で親交を深めるのってアリだよね。―――けどそれは、あたしには入れない二人っきりの浴室で会話させてしまう危険性も孕んでて……む、これは判断が難しいぞ?
「それでは相原さん、こちらへ。綾乃、片桐さんを浴室へご案内して」
「はい、お母さん」
 明日香と綾乃ちゃんの入浴を止めるか否か悩んでいるあたしの肘を綾乃ちゃんのお母さんに引かれてしまう。………どうやら考えすぎててタイムオーバーになってしまったようだ。とは言えそれほど大事にはならないだろう、と言う確信が心のどこかにあるので、さほど心配はしていない。―――が、その前にどうしても聞いておかなければならない事がある。
「待って!」
 その言葉に明日香が、綾乃ちゃんが、綾乃ちゃんのお母さんが、そして気を失っているのかと思っていた涼乃ちゃんまであたしに注目する。―――しまった、もうちょっと落ち着いて呼び止めればよかった。
 けれどこうも見られていては、愛想笑いで誤魔化すわけにはいかず、言葉を続けないわけにもいかない。仕方なく、あたしは恥を覚悟の上で、
「……………その前に、トイレの仕方を教えて欲しいんですけど」
 差し当たって、今一番急いで解決しなければならない問題を口にして、みんなの目から隠すように着物の長い袖でキュッと力の入っている場所を覆い隠した。




「ッ……」
 体を流し、三人は入れそうな檜の風呂に身を沈めると、昼間の羽根突きの際に無患子が当たった場所に痛みが走る。
 ―――何をあんなに向きになってたんだろう、私……
 いくら突っかかってこられたといっても、相手は年下。もうちょっと余裕を持って相対していれば、こうして怪我を負うこともなかったはずだし、暗くなる前にたくやと一緒に帰れたはずだった。
 ―――あの子……どうして私にあんなに食い下がってきたんだろう……
 確かに明日香もむきになっていたが、それは涼乃も同じだ。
 最初はたくやと綾乃が一緒に写っている写真を見せられて、まるで自分が感じたことを代弁するように喋る涼乃。それは神経を逆なでし、たくやがはっきりと否定しない事が怒りに拍車をかけた。
 ―――そういえば最近、たくやとデートなんかして無いな……
 男でも女でも、たくやはたくやだ。……と思っている。
 だから性別が変わったからって嫌いになったりしない。口で散々な事を言ったって、それでも嫌いになれるはずが無い。それでも海外留学が近づくにつれ、その準備に奔走する日々の中で、たくやと過ごせる時間を十分に取れるわけではない。ほんの少し、神様の気まぐれのように数日の間だけ男に戻れたとしても、自分がその数日に付き合えなかった事が、綾乃と遊園地に行った時のあの写真にはっきりと写っている。
 ―――離れ離れになったら……ああいう写真も増えるのかな……
 手の平でお湯を掬い上げる。……もちろんお湯は手の中から零れ落ちてしまう。明日香の手がすくえるお湯の量は微々たる物で、それをずっと持ち続けていることもできない。
 明日香は夢を追いかけた。たくやとずっと過ごす事よりも、獣医になるために留学の道を選んだ。すくい取れるお湯に限りがあるように、夢をすくい取った手の中から零れ落ちたのは、紛れもなくたくやとの幸せな時間だった。
 ―――あの写真に写ってるの……私だったのかもしれないのに……
 たくやに我侭を言っているのは、よく分かっている。だけど、見せられた写真の中でたくやが笑顔を浮かべているのを見ただけで、どうしようもなくイラついてしまう……それが自分の選択した結果であっても、心では納得できないでいた。
「………片桐先輩、失礼します」
 浴室の扉が開く。
 もしかしたらたくやが…と顔を上げるけれど、そこにいるのがタオルで体の正面を覆い隠した綾乃だと知ると、淡い希望は軽い失望と激しい自己嫌悪へと変わる。
「相原先輩は着物を脱ぐのに少し手間取られそうだったので、私だけ先に……」
「………ここは高田さん家のお風呂なんだし、勝手にすれば」
 顔を背けてそう答えると、綾乃もそれ以上何も言わず、黙って桶を手に取った。
 広い浴室には綾乃が体を洗い流すお湯の音だけが響く。その間、浴槽の隅によって壁を見つめていた明日香だが、横へ綾乃が座ると、急に息苦しさが増したように感じられた。
「今日はありがとうございました、涼乃ちゃんに付き合っていただいて」
 礼を言われる事じゃなかった。あれは殴りあわない喧嘩と同じだ。
「私だと涼乃ちゃんに付き合ってあげられなかったんです。走ったり飛んだりは子供の頃から涼乃ちゃんの方がスゴくて」
 ―――私の方だったな。たくやとだったら……
 子供の頃の記憶をたどると、何も考えずに遊んでいられたたくやとの思い出に頬が少しだけ緩んでしまう。
 ―――勉強ででも私の方が上なのが、高田さんとの違いかな。
「だから今日は、涼乃ちゃんも本当にスゴく楽しかったんだと思います。だから、ありがとうございます」
 綾乃とはたくやを通してでしか面識がなく、口内で顔をあわせても特に親しく会話をしたことも無い。しかも自分から見ても、今日は遊んだと言うよりいがみ合っていた。………それで素直に礼を言われ、どう答えていいか困惑してしまう
「別に……だって私は……」
「―――相原先輩の好きな人が片桐先輩で本当に良かったって思ってます」
「ッ………!」
 不意打ちの一言。予想もしていなかった……むしろ予想とは反対の言葉を突然聞かされ、明日香は浴槽の中で体を強張らせた。
「知ってますか? 今日、相原先輩は私と片桐先輩が一緒にいるとき、ずっと片桐先輩の傍に座ってたんですよ。私には涼乃ちゃんがいてくれたけど……少し残念でした」
「……………」
「だから分かっちゃったんです。……相原先輩、本当に好きなんだなって……私と片桐先輩となら、きっと一生懸命迷って、最後には先輩の方を選ぶんだろうなって……」
 ―――何も言葉を返せない。
 声が震えているように感じられるのは浴室だからだろうか?
 お湯が揺れているように感じられるのは気のせいだろうか?
 綾乃の声は隣に座る明日香に向けられていない。震えてもいない。………震えているのは、聞いている明日香の方だ。鐘が響くように耳の奥で音が木霊し、水面の下で余分な贅肉の付いていない体が緊縮してしまっている。
 ―――そんなの…わかってるもん。言われなくたって……たくやが私を選んでくれる事ぐらい……
 だけどたくやが綾乃の方が好きなんじゃないかと疑ってしまった。
 そんなたくやの気持ちを知りながら留学へ行っている間もずっと束縛しようとしている。
 今朝までは当然だと思っていたたくやの気持ちが、今は大きく揺らいでしまっている。悪いのはたくやではなく自分だと気付いているだけに、不安と罪悪感とで心が押しつぶされてしまいそうになる。
「………先輩、お背中をお流しします」
 そう言いながら綾乃が立ち上がると、小さな水の跳ねる音を響かせながら水面が大きく揺れる。けれど促された明日香は立ち上がるどころかますます深くお湯に体を沈めると、
「いい」
 と素っ気なく答えた。
「ぜひ洗わせてください。これは私なりの感謝と……ささやかな反撃です」
 意味が分からない。感謝されるような事は本当に一切していないし、反撃される謂れも無い。ただ、
 ………どうして笑顔で私と話せるんだろう。
 明日香よりも体のメリハリが無いけれど、陶器のような綺麗な肌をほんのりと染めている綾乃が浮かべている表情は微笑。もし明日香が恋敵と話すとしたら、きっともっとひどい顔をしているだろう。
「―――わかった。もうどうにでもして」
 どうせここは綾乃の家。抗ったり考えたりするのもバカらしくなってきた。
 これから先も変わらないと自身を持てるのは、たくやを好きでいるという気持ちだけ。たくやの気持ちは……明日香には信じていることしか出来はしない。
 分かりきっている答えを改めて再確認しながら大きく息を吐き出すと、裸体にお湯をまとわせながら湯船の中で立ち上がる。
 気持ちがやわらかさを取り戻し、十分すぎるほど温められていた体が一斉に緩み、ほぐれる。そして自分の体を見下ろし、次いで綾乃へと視線を向け、
「反撃するのは構わないけど、私が負けず嫌いなのは知ってるでしょ?」
 たくやや涼乃には負けても、それでも明日香は十分に「いい女」だった。同性の綾乃の前で体を隠さず、長い髪を掻き揚げると浴槽から洗い場へと移り、大きさも程よく形も申し分の無い膨らみを突き出すように腰に手を当てて綾乃へ振り返る。
「私に勝てる?」
「………せ…精一杯頑張ってみます……」
 タオルで可能な限り胸を隠す綾乃の答えを聞いて、明日香の顔がほころんだ。
 ―――私ももう少し、大人にならなきゃね。
 そうすればきっと何もかもに答えが出る。だからこれを新年に向けての抱負しようと考え、湯煙に覆われた天井を見上げてすぐに考えを打ち消した。
「勝負に勝つには若さも必要よね」


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