第一話その4
―――逃走開始から二時間四十三分経過……
ガザザザザッ……ヒョコッ………きょろきょろきょろ……
「………いないわね。はぁ…やっと帰って来れたか……」
茂みから鼻から上だけを出し、暗闇に慣れた目で近くに誰もいない事を確認したあたしは小さな草や枝を服に
引っ掛けながら森の中から体を引っ張り出した。
はぁ…疲れた。一体何時間歩いたのかなぁ……履いてたスリッパもボロボロになっちゃった……はぁぁ……
体の疲れに比例するように長い溜息を吐き出したあたしは、ようやく足元に草や木の根っこの無い平らな地面
を踏みしめる事ができた喜びに、脅えて縮んでいた背中の関節を伸ばす事で答える。
森に入ってあの二人から逃げる事はできたけれど、そのまま見つからないように離れの方に行こうとしたのが
失敗だった。葉が生い茂り、月の光を遮られた夜の森はまさに暗闇。一分とたたずに方角を見失い、旅館の明か
りも見失い、あたしは…あたしは……
やめとこ……また考えそうになっちゃう、自分の三面記事――
「美人メイド、山で遭難!? 影に蠢く新薬の秘密!!――元教師と未成年との三角関係のこじれから論争にな
り、逃走した山中で謎の死を遂げた性別不明、旅館従業員の相原たくやは――」
………あたしは男なのにぃぃぃ〜〜〜!! なんで性別不明なのよぉぉぉ〜〜〜!!
孤独と恐怖を紛らわせるために自分で考えた記事の文面に恒例のツッコミを入れると、ようやく呼吸も落ち着
きを取り戻し、改めて周囲に目を向ける。
視線の先、都会ではとても見れないような星々と月の輝きで青ささえ感じさせる夜空の下側を四角く切り取り、
その内側に星のきらめきとは違う、まるでベルトのような一定の幅の白い光を放つのは……
……もしかして、旅館に戻ってきちゃった!? た…助かったぁぁぁ……
実を言えば、もう歩きたくなんかないと言う感じに脹脛が痙攣を繰り返していた。ただでさえ旅館の仕事は動
き回るのが多い立ち仕事なのに、山の中を長い時間迷ってたのに……はぁぁ……できるならさっさと座りこみた
い…というより、寝たい……はぁぁ……
どうやらあたしが今いる場所は旅館の中庭の端っこのようだった。真ん中に池もあるし、迷い迷いって別の旅
館に来ていなければ……
と、とりあえず行ってみようかな。違ってても、旅館からそんなに離れているはずもないし、歩いて帰れる距
離よ、きっと……そうじゃなかったらどうしよう……
その心配は杞憂に終わる。この旅館で働き始めて五日目、中庭から旅館を見る機会だって何回かあったので、
すぐに間違いなく山野旅館なのだと気づく。
そして、庭の中央に横たわる池に掛けられた橋の上に、誰かがいる事も――
もしかして松永先生!? 遙君!? まさか、こんな時間まで探してるなんて……
咄嗟にそばにあった石灯籠の影に隠れる。けど、油断して近づきすぎていた事もあり、地面を蹴った音に向こ
うもあたしの存在に気づいてしまう。
「! だ、だれ!?」
………んっ? この声は……先生じゃない。もしかして……
見ると、旅館の窓から漏れる明かりでシルエットになっているけれど、細身の女性、そして腰に届きそうな長
い髪をしているのが分かる。松永先生のようにウェーブはかかってなく、ストレートのロング……そして、あた
しは影が誰であるかの結論にたどり着く。
「あのぉ〜…遼子さんですか?」
「た、たくやさん!? なんでそんなところに……」
ああ、よかった。あっちも声でわかってくれた……なんだか今のあたしの行動と姿勢って、ストーカーと大差
がないような……
物陰に隠れて覗き見、なんて言う端から見れば警察に通報されそうな格好を遼子さんに見咎められる前に解い
たあたしは、それでも周囲に他に人がいないのを確認しながら自分も橋の上に移動した。
「まぁちょっと…色々ありまして…ははは……」
「もしかして……啓子さんたちから逃げてるんですか?」
ぎくっ
「さっき、廊下ですれ違った時に「相原君を知らない?」と聞かれたから……」
ぎくぎくっ
「あの…あんまりそういう…その…だれにでもその…そう言う事をするのはどうかと……」
ぎくぎくぎくっ
「ち、違います。あれは…その……………そ、それよりも遼子さんは何でここに?」
あ、あたしは悪くないんです、松永先生と遙君の方が勝手にあたしに迫ってきて、イヤなんですけど無理矢理
されちゃってるんですぅぅぅ〜〜〜!!
と、言いたいところだけど話すと長くなりそうだし、あたしが説明しても余計に話しがこじれるだけだし…ハ
ァ……
遼子さんの誤解を解くにはじっくりと話し合わないと……その思いはまた今度にして、とりあえず話題を別の
方向に。けれど、遼子さんはあたし以上に話しを間を取り、端の手すりに後ろ手をついて、こちらを見ていた目
を空へと向け、
「………なんだか…眠れなくて……」
つぶやく。
遼子さん……なんだろ、この表情……微笑んではいるんだけど……
夜闇の中、それだけ口にした遼子さんの肌はほんのり輝いているように映え、顔の輪郭や表情は側にいるあた
しのは十分読み取る事ができる。
けれど口元の微笑に対し、瞳は見上げている空を見ているわけでもなく、とても儚く…悲しい色に思えてしま
う……
「――そういえばたくやさん、物凄く服が汚れてますよ。葉っぱとかいっぱいつけて…ふふふ……」
「えっ? あっ、これは……」
「動かないで。私が払ってあげますから」
ジッと遼子さんを見つめていた視線に気づいた…というわけでもなく、チラッと見たあたしの姿が森の中の行
進であまりにもボロボロだったのを見て取った遼子さんがスッとこちらに近づくと、肩や頭、ブラウスにスカー
トと全身にくまなく引っ付いていた枝葉を取って行ってくれる。
んっ?……この香り…なんだろ……ものすごく甘い……
少し自分の服の袖を気にしながら、細い手があたしの体の上を動いていく。それにあわせ、まるですぐ近くに
いる遼子さんから漂うかのように、あたしの鼻をどこかで嗅いだ記憶のある香りがくすぐりだす。
香水かな? でもなんだか違うような……頭の奥まで染みこんでくる………そうだ、松永先生の……
わずかに違いはあるけれど、風にかき消されそうなこの匂いは松永先生に抱きつかれた時に嗅いだのと良く似
ている。少し吸いこんだだけでも、まるで蕩けそうな……
「……はい、暗いからよく見えないけど、これでいいと思うわ。でも、こんな時間に仕事着を綺麗にするのも、
あまり意味はないかもね」
「そうですね。できればこの後温泉にでも入って、その時に脱衣籠ですもんね。そういえば明日のメイド服…あ
るかなぁ……ははは……」
別にこの言葉に他意はない。あたしの服の消費スピードが色々な理由からはや過ぎるせいだ。けど最後に頭の
上のカチューシャの位置を整えてくれて、――
「………ごめんね」
つぶやき。
それこそ香りよりももっと、呼吸の音と代わりない大きさの声。あたしの耳に届いたのは、その時偶然にも風
が吹いてなかったおかげだろう。
「……遼子…さん?」
甘い香りにうっとりしていた事への気恥ずかしさで、さらに誤魔化しを積み重ねる笑いをしていたあたしは、
ゆっくりとあたしの方に倒れてくる遼子さんに気づいて慌てて抱き締める。
「………ごめんね」
また。今度は耳の側だったからはっきりと聞こえてきた。
小さい、細い、あたしの腕の中にいる人が、少し抱き締めただけで砕けてしまいそうなほど華奢に思えた。
遼子さん…どうしたんだろ? 急にこんな……まさか、松永先生たちみたいに、あたしに襲いかかってくるっ
て事はないだろうけど……
胸の鼓動だけが、周囲の音。呼吸さえ抑えこみ、全身の力を抜いて持たれてくる遼子さんを必死に支える。
そう、何故か必死だった。壊れそうで……優しく抱きしめるために、いつの間にかあたしは必死になっている。
「…………ねぇ……私の話…少し聞いてくれない?」
一分近く、抱擁を続けるあたしたちを包んでいた静寂が、不意の一言で消えていく。
「話…ですか?」
「そう……胸がもやもやして…このままじゃ眠れないの」
あたしと遼子さんの身長差はそんなにない。だから肩に感じる重みが不意に軽く感じた次の瞬間には、長い髪
の先端に鼻先をくすぐられ、一歩、二歩、三歩下がって、もう一度手すりに寄りかかった遼子さんを真っ直ぐ見
つめる事になる。
「……………私ね…ここに来てから、一人で夜を過ごすのって初めてなの」
顎が上がり、肩から黒髪を流すように後ろへとなびかせながらまた上を見る。
「初めての晩は今でも覚えてるわ。夕食が終わってから一晩中、あいつらに犯されて……不思議よね。それから
毎日、同じように抱かれていたのに、最初の時だけを覚えているなんて……」
もしかして……これって……
考えるまでもない。昨日の晩、今ぐらいの時間から、あたしも遼子さんと同じ事をされたんだから……
夏目たちの凌辱。
あたしの手がブラウスの胸元をギュッと握る。そこは遼子さんの胸が触れていた場所で、ほんのりと温もりが
残っている。
けれどそれも遼子さんが言葉を紡ぐに連れて、指の隙間から零れ落ちる陽に薄くかすれていく……
胸が苦しい……それでもあたしは顔を下ろさない、背けない、逸らさない。こちらを見ていない遼子さんをし
っかりと見つめ、口を挟まずに、その声を聞く……
「今日、刑事さんに聞かれたわ。「夏目たちとの関係は?」って。だから素直に行ったわ。「私はあの人たちの玩
具。単なる性欲処理の道具」だって。そうしたら誰もが驚くのよ。ふふふ……」
「……………」
「だけど中には好色なのがいたわ。私の言葉を聞いて最初は驚いたけど、すぐに目つきが変わるの。聞いてくる
事はグルだったんじゃないかとか、逃げようと思えば逃げられたんじゃないかとか、私を悪者扱いする物ばかり。
そしてイヤらしい目つきで私の体を舐めるように見つめてくるの。あの時…どんな事をされたか聞かれたら、そ
れこそ全てを話していたかもしれない……」
遼子さんの声は……なんだか嬉しそうだった。その時の刑事の反応を思いだし、上を向いたまま、まるで少女
のようにコロコロと笑う。でも――
「………そうよね…私、ずっと彼らと一緒だったもんね……私もね、普通のOLだったのよ。仕事をして、友達
とかっこいい彼の事を話しながらお昼ご飯を食べて、家に帰って…そして……それが………」
そこで、声の様子が少し変わる。
泣いてる……
語尾が不規則に揺れ、言葉を切った遼子さんが突然下を向く。
けれど、言葉は泣いていた。涙は見えないけれど、言葉を濡らしている涙は、あたしには見えている……
「変よね…あんなイヤなこと…やっと開放されたのに……一人で部屋にいると思い出すの! あいつ等の…犯さ
れた時の感触を!! なんでよ…なんで体が疼くのよ……私は……私はあんな事したくなかったのに!!」
「遼子さん……」
「イヤだったの……抱かれたくなんか…無かったの………だけど…もう戻れない……何でよ!! 私は…私は悪
い事なんか、なにもしてないのに……どうして…私だけが……」
力なく頭が左右に揺れ、解けるように舞う黒髪が、空と、池の水に反射した月の光とで夜闇に調和するように
優雅に輝く。
けれど遼子さんの胸の痛みは…こらえていた物が一気に噴き出したせいでさらに大きくなり、お尻からゆっく
りと橋の上に座り込んでしまう……
顔は髪に隠れて全然見えない。けれど両手に覆われ、低い嗚咽が漏れ聞こえ始める。
この人は……どれだけのひどい事をされてきたんだろう……
あたしも捕まった夏目たちには酷い目にあっている。
布団部屋の暗闇の中、無理やり犯され、
昨日は五人がかりで一晩中輪姦され、
ショックを受けた。疲れた。心に傷も負った。
けれど、泣き崩れる遼子さんを前にして、あたしが追った恥辱はほんの些細な物にしか思えなくなっている。
あたしは一晩だった。けど遼子さんは? 旅館に来た時からじゃない、その前からもきっと……
なにが…何がしてあげられるだろう……あたしはこの人に、なにかしてあげられないのか……
必死に考える。けれど、都合のいい答えが思いつくはずも無い。けれど、何かをしてあげなくちゃいけない。
その想いは行動へとつながり、あたしは遼子さんの傍らにひざまずいて、細かく振るえる肩にそっと手を乗せ
た。
「触らないでぇ!!」
「えっ?」
けれど、あたしの手の平が触れた途端、遼子さんは体をさらに硬くし、あたしの事を拒否する言葉を紡ぐ。
「お願い…触らない…触らないで……私…なんかに……優しく…う…ううっ……」
「遼子…さん?」
後は泣くだけだった。あたしが手を置いてもそれ以上体を固くすることも出来ずに、ただじっと、拒絶するだ
け……
「………じゃあ…なんで…あたしに話したりしたんですか……あたしに触れられるのがイヤなんだったら…部屋
で泣いていればよかったんです……」
あたし…何を言っているんだろう……わからない…あたしにも分からない……
「本当は慰めて欲しかったんじゃないんですか? 誰かと話して、癒して、優しくして欲しかったんでしょ?
いいじゃないですか。遼子さんは酷い目にあったんです。誰だって優しくしますよ」
「………そんなの…そんなことない……私は…汚れちゃったから……もう…誰に好かれる事も……」
「あたしは好きです。遼子さんの事」
ピクンッ
少しだけ反応があった。ほんの少しだけ、体が震えた……
「大丈夫ですよ。誰も遼子さんの事を嫌ったりしません。だって遼子さん、スゴく綺麗じゃないですか。仕事だ
ってできるんでしょ? 男の人を好きになりたいんでしょ? 大丈夫、遼子さんだったらあんなやつらより、ず
っとずっと素敵な人が見つかりますって」
「やめて……そんなの…ただの慰めじゃない……私は……」
「あたし、男です。男のあたしが遼子さんは素敵だって言ってるんです。これでも信じてくれませんか?」
ピクンッ
もう一度反応があった。前よりもしっかりと、あたしの言葉を聞いてくれている。
でもこのままじゃ遼子さんはいつまでたっても顔を上げてくれないだろう……だったら――
「そんな…たくやさんは…女じゃないですか……そんな慰め、やめてください……」
「慰めじゃ、ない…あたしは……」
突然、あたしは顔を抑える遼子さんの両手を掴み、力任せに左右に広げて泣き顔から引き剥がす。
どうも男の言葉が喉に引っかかり、上手く口から出てこない。本当は俺とか言いたいんだけど…今のあたしじ
ゃ様にならない。
一瞬だけ思考を内側に向け、再び遼子さんの顔を見つめる。
泣き濡れた顔に驚愕の表情が浮かぶ。遼子さんも、まさかあたしがこんな力技を仕掛けるとは思っていなかっ
たみたい。
「あたしは遼子さんが好き…だ」
「……えっ?」
その言葉が、さらに困惑と驚きを叩きつける。
そしてその隙に――あたしは自分の唇を、膝を抱えて泣いている遼子さんの唇に押し付けた――
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