第七章「不幸」06
ロビーには異様とも言える雰囲気が漂っていた。
通常であるならば、一時の夢を求めてやってきた男が娼婦の女性と語らい、そこには輝かしさとその裏に隠れた淫靡さ、そしてある種の緊張とがあるはずの場は、中央に立つ一人の男を恐れるかのように姿を隠している。
キザで、すぐに愛と口にするお金持ちの佐野先生だ。
噂話は娼館の中だけでなく、外の世界にまで広まっている事だろう。そして知らなかった人も周囲で囁かれる声や自分のパートナーから、遠巻きに見詰められている男がどのような騒動を引き起こしたかを知る事になる。
しかし本人はそれを気にする様子はまったくない。無視しているのか気にしていないのかは分からないけど、何処かそわそわしながら花束を手にし、あたしが現れるのを今か今かと待ち続けていた。
「やあ、ルーミットさん、会いたかったですよ」
やっぱり……出来れば何処かに逃げ出したい気分だったけれど、あたしが出て行かない限り、あの人は動きそうにない。いつまでもロビーのど真ん中で営業妨害されているのは娼館にしても甚だ迷惑だからと背中を押されてロビーへ姿を現してしまうと、顔にこれ以上ないと言うほどに笑みを浮かべて両手を広げた佐野先生が早足であたしの方へ近づいてきた。
「先日は失礼しました。あなたを愛するがゆえにいささか先走り、あなたの事を傷つけようとしてしまいまして……許されるとは思っていませんが、これは僕のお詫びの気持ちです」
差し出された花束の中に、花びらのなくなっているのがかなりある。ロビーの床に花びらが大量に落ちているのを見ると……やっぱり花占いかな……
「ど、どうも……」
それでも、ここにいる以上は娼婦である事、と念を押されて姿を見せたんだからと愛想笑いを必死の思いで浮かべて花束を受け取る。―――と、
「ああ、わかってくれたんですね、僕の愛が。溢れんばかりのこの情熱が! さあ、今日はあの夜のやり直しです。今一度、僕の愛を受け止めてもらえますか、ルーミットさん!」
「ひあっ!」
佐野先生は花束を放り捨てると受け取りかけていたあたしの手を取り、胸の前で強く握り締める。
もし物語や舞台でこんなシーンがあれば物語りもクライマックス、二人の愛を延々と語る名シーンなんだろうけれど、男相手に言い寄られても嬉しくともなんともない。それどころか、ちょっと首を伸ばすだけで唇を奪われそうな距離にまで顔を寄せられて愛を囁かれると、背筋におぞましい寒気と震えと冷や汗が大挙して押し寄せてくる。
我慢忍耐辛抱、我慢忍耐辛抱……今のあたしはお金が溜まる間だけとは言え、娼婦をやってるんだ。もしここで引っ叩いたら……一瞬その衝動に駆られて手が動いてしまうけど、白くなるほど強く握り締められた手は佐野先生の手の中から動かなかった。
「ええっと……一応あたし娼婦なんで、特定のお客様とそういう関係には……」
「では娼婦などやめて僕の下に来ませんか? 一生あなたに不自由を…いえ、必ず幸せにして見せましょう!」
「え、遠慮します。えっと…ほら、あたしよりいい女性がきっと見つかりま――」
「自慢ではありませんが、僕はお金には不自由しない。そしてこの隠しきれない美貌と才能がある。いずれはこの世の王として君臨してもおかしくはないこの僕の全てを、あなたに捧げ、今ここに誓いましょう。幸せにしてみせると!」
「結構です。あたしは結婚願望ありませんから」
男相手に…と心で付け加えるけれ。だがしかし、と言うかやっぱり、佐野先生は人の話を聞かずに徐々に暴走モードのスイッチが入り始めていた。
「あなたが月なら僕は太陽。あなたが花なら僕は風。あなたが犬なら僕は鎖になって、あなたをいつまでも引き止める。ああ…このような気持ちは初めてです。あなただけですよ…ルーミット……そう、これは運命なのです。めぐり合うしてめぐり合った僕たちは永遠に結ばれ、そして、永遠に一つになるのです」
―――ゾワッ
「ひっ……!」
首筋に指が這う。
「さぁ……あなたの答えを聞かせてください。今すぐ。迷う事などありません、勢いよく、僕の胸へ飛び込んでください!」
はっきり言わせて貰うと……まだヘビを首に巻きつけた方が何千倍もましだと思うほどのおぞましさに全身が硬直してしまい、あたしは手を振り払って後ろへと引いてしまう。
「ぜ、全力でお断りします。あたし、お付き合いする気は一切ありませんから!!」
「ほう……僕の気持ちを受け取ってもらえないんですか?」
「受け取る受け取らない以前にあたしはオト――ふがふがふがっ!!!」
「まぁまぁ、それ以上言ったらダメだって」
「あたしは男だあぁぁぁぁぁ!!!」と叫ぼうとした口を背後から伸びてきたミッちゃんの手に押さえ込まれる。
「すみません、お客様。当店では娼婦に対して個人的なお話をするのはご法度となっておりまして」
「それも規則だと言うのかい? 娼館と言うのも野暮な決まりばかりがあるものだね。僕と彼女の愛の語らいさえ許さないなんて」
「もうしわけございませ〜ん。当店はあくまで一時のサービスを提供する施設でありまして。お客様との恋愛は店外にて、と言うことになっております。店内ではどうしても金銭に縛られたご関係となってしまいますので」
「はっはっは、そのような心配は僕たちにはむえんんおものだ。なにしろ、僕とルーミットは運命と言う赤い糸で結ばれた間柄なのだから」
ふざけるな〜〜〜!! て言うか、初対面でアレだけひどい事して二度目でしれっとそういうことを言う神経が考えられない。ええい、ミッちゃん手を離して。思いっきり蹴り飛ばさないと気がすまない!
口を塞ぐ手を離そうともがくけれど、意外に強いミッちゃんの力を振り払う事は出来ない。――けれど、覆うと言うより肌に食い込んでくる指先に、笑顔で佐野と会話をするミッちゃんの怒りが伝わってくる。
「それでは改めてルーミットを買わせていただこうか。今日より三日三晩、彼女を僕の好きなようにさせてもらうよ」
「ですから、そのようなご要求にお答えする事は出来ません。ルーミットが当店の娼婦である以上、無理な仕事で体調を崩されては―――」
「君が言いたい事は分かっている。金を払いすればいいんだろう?」
と、佐野先生は懐から皮袋を取り出すとあたしの足元へと放り投げた。
小さく、硬いものがぶつかり合う音が無数に響く。それだけで中身は容易に知れる。―――金貨。それも前回よりもさらに多く、袋の膨らみ方から見て二百枚を越えていそうだ。
「さあ、拾いたまえ」
―――――むかっ。なによ、その態度は。
まるで乞食にお金を恵むような態度に、あたしと背後のミッちゃんの怒りのボルテージはぐんぐん上昇していく。
かなりムカッと来た。あたしたちが床にひざまずき、物欲しそうにお金を拾い集めると思っているのだろうか、佐野の眼差しは明らかにあたしたちを見下している。
(ミッちゃん…あたし、そろそろ限界なんだけど……)
(奇遇ね。私もあの野郎の顔面に右ストレートを叩き込まなくちゃ寝つきが悪くなりそうだわ……)
一触即発。いや、あたしとミッちゃんの方だけ爆発寸前状態だ。
―――だが、ロビーの中央で盛り上がっていたあたしたちの毒気を抜くように、ひとりの女の子の声が聞こえてくる。
「あの……」
「あ、綾乃ちゃん……」
出てくるとは思っていなかった。それはミッちゃんも同じだったらしく、口の戒めを解かれたあたしは一緒に背後を振り向いてしまう。
「……………………」
綾乃ちゃんは困っていた。声を掛けたのはいいけれど、なんと言えばいいのか分かっていない。背後にかばうように「奥から出てくるな」と言っておいたからだ。あたしの様子を敏感に察して心配して出てきても、約束を破って姿を見せた事が彼女の口をつぐませてしまっている。
やばい……今の状況で綾乃ちゃんが現れると話がこじれる。そう判断して戻るように言おうとするあたしより先に、
「おや、これはこれは。あの時の美しいお嬢さんではありませんか。このようなところで何をしているんですか?」
そう、佐野が口を開いた。
やはり予想通り。綾乃ちゃんがお金を払う相手はこの佐野のようだ。できれば……違う人であったらよかったのに……
「あっ……その……」
周囲に漂っていた雰囲気が変化を見せる。
今まではあたしを口説こうとしていた佐野と、娼館のルールを盾にしていたミッちゃん――間にあたしを挟んで――の立ち位置が、佐野対綾乃ちゃんと言う空気に代わってしまう。
そしてその空気に一番飲まれてしまったのは……誰でもない、綾乃ちゃん本人だった。
「僕は君が馬車の修理費を返すために一生懸命金策に走り回っていると思っていたのですがね。まさか、娼館で働こうと考えていたんですか?」
「は、はい……私ならたくさんお金を稼げると教えてもらって……」
どこのどいつだ。綾乃ちゃんにそんな事を吹き込んだのは。―――まぁ、否定はしないけど。
けど、そう話す綾乃ちゃんはますます萎縮してしまっている。その原因は佐野の視線だ。あたしの体を見つめるときと同じく、ヘビのように粘着質な視線で小さく震える綾乃ちゃんの体を上下にゆっくりとねめ回し、チロリと、舌を出して唇を舐める様はまさに爬虫類系だ。
「でも、あの、期日までには少しでもお支払いできるように頑張りますので……」
さっき娼婦の仕事がどういうものか聞いて知っているだろうに、綾乃ちゃんは鳥肌が立ちそうな雰囲気を漂わせている佐野先生へ必死の思いで口を開く。―――だけど自分の事しか考えていない佐野には、そんなことは関係ない。
「少し? それは困るなぁ。僕は仕事で大陸中を旅しているんだよ。それこそ国の一大事業。君が支払いを滞らせればその分僕はこの街に滞在しなければならないし、それほど大事な仕事が遅れてしまうんだよ」
前髪を掻き揚げ、自分に酔いきった表情を浮かべた佐野が、アゴをツイッと上げて角度をつけた視線で綾乃ちゃんを見下ろしている。
「それにもう三日経っている。その分の損失を加えると…君には一万五千ゴールドは払ってもらわないと」
一万五千……綾乃ちゃんから聞いている額より、金貨にして五十枚も多い。利息にしたって、三日も五千、しかも五割り増しなんて法外もいいところだ。
「えっ……? そ、そんな、だってあの時は……」
「あの時支払えば一万で済んだんだ。僕の馬車は特注品だし、一万ゴールドはずいぶんと安くしてあげたんだよ? 車軸にゆがみは出ているし、障壁にぶつかって怪我した馬も由緒正しき名馬だし。本来なら十万ゴールドを請求しても少ないぐらいだよ。
それに日々の僕の活動を阻害した分だけの損害賠償を上積みするのは当然の権利だろう。そもそも君が魔法を使ったりしなければ僕の御者は馬を巧みに操り、誰も怪我をせず被害も出さなかったものを、無知な君が考えなしの行動をとるから被害が大きくなった」
「でも…あの時は……」
あまりと言えばあまりの言いようだ。御者が巧みに…とか言っているけれど、それなら最初から屋外喫茶に馬車が突っ込む事もなかったはずだし、とっさに他の人を守ろうとした綾乃ちゃんが攻められるなんてお門違いもいいところ。大事故にならなかったんだから感謝されるべきだと思う。
それなのに綾乃ちゃんは、全ての罪が自分にあるかのような顔をして俯き、さらに増えた借金の額を聞いて今にも崩れてしまいそうだと思うほど困惑し、震えを抑えることが出来ないでいる。
そんな綾乃ちゃんに、佐野は指を立てて追い討ちをかける。……しかも二本。
「君が言う期日には、そうだね…金貨二百」
「――――――!」
無茶苦茶だ。一週間で一万ゴールドも払う額が増えるなんて暴利もいいところだ。そもそも大事な仕事云々言ってる本人が娼館に来てるって言う時点で誰が納得できるって言うんだ。
―――だと言うのに、綾乃ちゃんは何も言わないでいる。反論して……そう心で念じても、さらに増えた金貨二百枚と言う額に顔を青ざめさせてただただ震えるだけだった。
こんなの……もう、見ていられない。
「あっ………わ、私……………なんでもして、きっと、きっとお支払いしますから……」
「君が、こんなところで働いてかい? 僕としてはルーミットほどではないとは言え、美しいレディーだ。こんなところで体を汚す行為を紳士たる僕が見過ごす事なんて出来ないなぁ」
不意に、佐野先生の口調に優しさが含まれる。―――はっきり言って、下心がよく見える気分の悪い優しい声だ。
「そのような事をしなくても、僕が最初にした提案を受け入れてくれればいいんですよ。ここで働くよりも君にとって有益であると、僕は確信しているよ」
「でも……あのお申し出は私には……」
「何を迷い、拒む事があるんだ。僕のメイドになれるのはとても光栄な事なんだよ?」
め……めいどぉぉぉおおぉぉぉぉ!? 綾乃ちゃんをメイドにって……魂胆丸見えじゃないの、このスケベ男!
いくらなんでもこんな道理に合わない額を請求する事への合点がいった。あたしを自分のものにしようとしているのと同じように、綾乃ちゃんも自分のモノにしようとしているのだ。
一目見ただけで気弱と分かる美少女だ。難癖つけて追い詰めて、自分の所にしか逃げ道がないように思わせて綾乃ちゃんの方から進んでやって来させる……タチが悪い。それじゃあ幼馴染に言い含められて誕生日プレゼントを用意させられるのと同じ事だ。
だけど、それが分かったからといって誰も彼女を助けようとはしなかった。
ロビーにいる客の中には佐野を組み伏せられそうな屈強な男性だっている。なのに誰もが騒動の渦中に踏み込もうとはせず、この騒ぎの成り行きだけを離れて見つめているだけだ。―――たった一人を除いて。
「いい加減にしなさいよね!」
ああ……言っちゃった。―――そんな感じで額を押さえているのはミッちゃんだ。あたしは完全に頭に血が上って、佐野の視線から綾乃ちゃんを守るように体を割り込ませていた。
「さっきから聞いてれば言いたい放題支離滅裂! 綾乃ちゃんが言い返さないからって、ちょっと調子に乗りすぎなんじゃないの!?」
「おやおや。ルーミット、もしかして僕が他の子と話しているから焼きもちを――」
パンッと、肩に伸びてきた佐野の腕を払いのける。
いくら温厚で気弱なあたしだって、キッチリ起こる事があるのだ。――その事を極上の笑みと共に驚きの表情を浮かべる眼前の男へと突きつける。
「………これはまいったな。美しい花にはトゲがあると言うけれど、君のトゲは飛びっきりのようだね」
「あら? あたしなんてまだまだ。それはお客様が気づいてらっしゃらないんじゃないでしょうか。女性に自分の理想ばかりを押し付けて、ちゃんと見ていらっしゃるとは思えませんから」
「はっはっは、そんなことが」
「あっはっは、いい加減に気づいてくれてもいいんじゃない?、自分が全然もてない男だって」
言葉を交わすたびに知的を装っていた佐野の表情が崩れていく。言葉が尽きると額の汗を拭ってメガネの位置を直し、自分の服をパンパンと叩いている。……どうも乱れた髪の毛を直したいらしいが櫛が見つからないようだ。
「だ、だが君は、金さえ出せば僕を――」
「まだ分かんないの? お金で女の子を自由に出来るなんて思わないでよね!」
今度は自分の胸を平手で叩く。―――あたしの力にしては強すぎだ。かなり痛かったけれど、かえって気合が入る。
「あたしたち娼婦は、体は売っても心は売らないの。たとえ金貨で一万枚貰ってあたしがあなたに抱かれたって、翌日には普通の関係に戻るのよ。ううん、関係なんて何もない、何も残らないのよ」
ふう、と息をつき、
「だけど、だからこそ、一夜を共にする時だけはずっと一緒にいてあげる…それが娼婦だってあたしは思ってる。そりゃ当然エッチもする。だけど男と女ってそれだけじゃないでしょ? 色んな悩みを打ち明けたり、楽しく話をしたり……誰かに隣にいて欲しい、そんな時に一晩だけだけど一緒にいて上げられるのが娼婦だって、あたしはそう思ってるの」
かなり……口からでまかせ、勢いだけで喋ってます、あたし。
言うには言ったけれど、そんなことがあるはずがない……ここにくる男の人でエッチ目的じゃない人なんて一人もいない。この数日で男の欲望をイヤと言うほど知ってしまったあたしに、こんな事を言えるはずもないわけなのだが……佐野先生にはかなり強烈に効いた様だ。
「ふ、ふざけるな。娼婦は体を売るんだろうが。なら僕のように資金を持っていて、美しくて、優れた人間に買われる事を喜ぶべきだ! ―――い、いや、買うんじゃない。そうだろう、僕の元へは君の方から来てくれるんだ、なあ、そうだろう?」
あたしの言葉へ反論しようと思えばいくらでも反論できたはずだ。本人が有名な大学を主席で出たとか言っているのだし、あたしのように娼婦に成り立てて、まだ仕事もよく分かっていない小娘の言葉をそれほど信じるとはとても思えない。
だけど自身をあたしに否定されて起こっているのか狂っているのか分からなくなっている佐野はあたしの体を乱暴へ押しのけると、綾乃ちゃんへと詰め寄り、その両肩を乱暴に握り締めた。
「いたっ――!」
「さぁ、僕の元へ来るんだ。僕の元へこなければいけないんだよ君は。だってそうだろう、金貨二百枚だ。払えない、そうだろう、払えるはずがないんだ。なら君の財産は、体は、全てが僕のものとなるはず、そうだろう、何処か違うのかい? 違うなら言ってみてくれ、僕はね、僕は頭がいいんだ、分からない事なんてない、この世の全ての知識が僕の味方になるはずなんだよ!」
「やめ……やめてください!」
「うるさい! バカにするな、僕をバカにするなぁ! 僕は君の主人になるんだ。君は僕の奴隷になるんだ。それがイヤなら金を払うんだ。それができないなら奴隷になるんだ。さあ、さあ、さあっ!!!」
「それならあたしが払ってあげる。文句はないでしょ?」
―――と、今度こそ佐野の動きか完全に止まる。固まり、ギギギッと声のした方……あたしの顔を見つめてくる間に、あたしは食い込む佐野の指を綾乃ちゃんから引き剥がして、再び受付代の前で彼女を背中へとかばった。
「金貨二百枚……違った。今日ならまだ百五十枚よね。それを払えば綾乃ちゃんには金輪際手を出さないわよね」
そんな馬鹿な、と佐野が顔を押さえて高らかに笑う。
確かに、あたしがそんな大金を持っているはずがない。手持ちのお金は金貨三十枚…これでもかなりの大金だけど、綾乃ちゃんの借金の額にはまだまだ及びはしない。
だけど借金の当てが無い訳じゃない。その「当て」をさっきから捜してるんだけど……あれ、どこ行った? さっきまでそこにいたのに……
「おっまたせ〜〜。いや〜、これだけの大金ともなると重い事。誰かに手伝わせればよかったな〜〜っと」
うん、ナイスタイミングだ。受付の奥から現れたミッちゃんは重そうに大きな皮袋を抱えて姿を見せると、先ほど佐野が放り投げた皮袋の傍に手にした袋をガチャリと音を鳴らして置いた。
「はい、ルーミットがいるだろうと思って持ってきたよ、金貨百五十枚」
「えっ……ちょ、ちょっと待って。それって……」
ちょいちょいと手招きをし、ミッちゃんと顔を寄せ合うと周囲の誰にも聞かれないよう小声で話す。
(それ…あたしのお金って訳じゃないよね。いくらなんでも二日三日でその額は……)
(当然借金に決まってるでしょ。でもまぁ、半分以上はたくや君のお金だし、一週間も頑張ればすぐに返せるわよ)
(一週間……ま、仕方が無いよね……ううう…懐がしくしく泣いてるよぉ……)
(それはそれとして、一言忠告しとくけどね……)
(ん、なに?)
(このスケベ)
あうっ……いや、そのまぁなんでしょう、綾乃ちゃんが可愛くなければ放っていたかもしれないから、そのお言葉は否定できないんですけども……と、心の中で自分の節操の無さを見つめながら咳払いを一つ。
そして自信満々に佐野先生へと顔を向け、
「さあ、これで文句はないでしょう!」
と勝利を確信して言ったのに、
「ダメです! いけません、そんなの!」
なぜか、助かるはずの綾乃ちゃんが否定してくれました……どーしてよ!?
「そんな大金、ルーミットさんから頂くわけにはいきません。あの、ご親切を無にするようで申し訳ないんですけど……だけどやっぱりいけません」
「は…ははははは! そうか、そうなんだね。君はもう既に、僕の元へ来る決意を固めていたわけだ。しかし君も意地悪な。どこぞの売女と違って実に物分りがいい、うん。まさに僕の理想の女性だよ!」
「いえ……お金はお支払いします。いつになるか分かりませんけど……自分でちゃんと働いて、きちんとお返ししたいと思います」
復活しかけた佐野へも、トドメを刺すように小さな声でしっかりと反論。―――だけど、それだけじゃなまだ甘い。
三日で五千ゴールド。一日に直しても千ゴールド以上だ。いくら娼婦が実入り「だけ」は良いと言ったって、すぐに稼ごうと思ったら……あたしが体験したような地下劇場での「集団陵辱」を体験しなくちゃいけないだろう。―――あたしが視線を向けると、明後日の方向を向いてはははとミッちゃんが笑っている事からも、まず間違いない。
「………まったく。これだけは言いたくなかったんだけどな……」
これを口にした途端、またミッちゃんにスケベ扱いされそうだし、色々と困った事になる。
けれど、綾乃ちゃんがあたしのお金を理由もなく受け取ってくれないと……一番最初に思いついて、すぐに取りやめた方法しかなくなるわけで……
「何を言うかと思えば。君に払うだけの財力は無いのだろう? なら僕の言うがままに――」
「ちょっとどいて」
蹴り。
なんかもー、ここまで話をこじらせてくれた佐野先生へ、お客だからとかそういう感情はまったく無く、ぞんざいに横の方へ届いていただくと、あたしは綾乃ちゃんに正面から向き合った。
「え…えっと……ルーミットさん……どうかなさいましたか?」
「言いにくいんだけど………えっとね、綾乃ちゃん、娼婦になってるよね?」
「………はい?」
言われた意味がすぐには分からない。……うんまあ、あたしもそういう反応が返ってくるとは思ってたし。
だけどここで綾乃ちゃんに「私は娼婦じゃないです」と言われたら、それこそ余計に話がややこしくなる。だからちょっと強引に……
「ついさっき、綾乃ちゃんは娼婦になりたいって言ったよね?」
「え……えっと……私………」
「言ったよね!?」
「は、はい……多分…言ったと思います………」
よし、第一段階の言質は取った。んじゃ次。
「それでさっき、働きたいって言ったよね?」
「あの……その事が何か………」
「言ったよね♪」
「ひっ!………は…はい……」
その怯えよう……なんか釈然としないものがあるけど、この際置いておこう。―――必要な事はちゃんと聞くことが出来たんだから。
とりあえず、これが綾乃ちゃんにお金を受け取ってもらえる最良だと思う方便だ。
与えるんじゃなくて、綾乃ちゃんが自分で稼ぐお金……なら、きちんと働いてもらえばいいわけだから―――
「それじゃ綾乃ちゃん。―――今晩一晩、あたしが綾乃ちゃんを金貨百五十枚で「買う」。これなら文句はないわよね?」
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