第四章「王女」10
「ガーディアン? それはいったいナニアルか?」
大介からの手紙を受け取った神官長は、現在騎士が操る馬上で揺られて疑問の声を上げていた。
事態が一刻を争うがゆえに、静香救出の部隊を編成するよりも先に王女護衛の精鋭騎士とジャスミン、そして神官長と僧侶がもう一人、先遣隊として現場に急行することとなったのだ。
しかし手紙にあった場所に向かう途中で併走する馬を操るジャスミンから聞かされた言葉は博学の神官長にとっても聞き慣れないものであった。
「ガーディアン。簡単に言えば古代魔法文明の遺物です。クラウディア王城の地下に眠る白銀の人型兵器でゴーレムの一種と考えられていますが、その戦闘力は絶大。戦に用いればどのような軍団を持ってしても止める事は不可能でしょう」
「そ、そんな事、初耳アルヨ! もしかしてクラウディア王国の繁栄はその兵器で――」
「我が国はそのようなことをいたしません! そもそも、扱える人間のいない兵器に価値などありません。ですが……」
『そのお姫様が扱えるって訳か? そりゃまた大変じゃのう』
ジャスミンの言葉を引き継いだのは神官長でも馬を駆る騎士たちでもなかった。たくやのみを案じてジャスミンの背にしがみついて付いてきためぐみが抱きしめている黒い本……最近出番の少ない魔王の書だった。
『たしかあれは操縦者のDNAによる登録と人体内部に特殊な魔導回路を埋め込まなんだら動かんはずじゃ。いや〜、ワシもアレを相手にするのは結構骨じゃったな。何しろ魔法は効かんしデカいし怪力だし。もっともワシって魔王様じゃからそれでも勝利するところがナイスなのじゃ。ピンチの後に大逆転の大勝利、これぞ輝くヴィクトリー!!』
「…………なんなんですか、これは? 私としては背中で変な声を出されるのは非常に不快なのですが」
『ひょっひょっひょ。ワシはなかなか居心地いいがのう。姉ちゃんの背中にす〜りすり♪』
「あわわわわ、すみませんすみませんすみません〜!!」
魔王の書のセクハラ発言に眉を逆立てるジャスミンに、乗りなれない馬の上でお尻に何度も衝撃を受けて涙目になっためぐみがひたすらに謝った。
「気にしないほうがいいアル。その本の相手を本気でしてたら即効で胃に穴が開くアルヨ」
「………と、とりあえず、姫様のみが扱えるガーディアンですが、問題がありまして……」
まるで自分が年下の少女をいじめているような気になり、頭の痛い思いを詩ながらジャスミンが強引に話を続ける。
「契約者――ガーディアンを操る資格を持つ者の事ですが――姫様は呼びかけるだけでガーディアンをその場に呼ぶことができます。
キング、クイーン、ルーク、ビショップ、ナイト、ポーン。クラウディア王女の静香様のみを守るチェスの駒を模した十六体の機人。
護衛としての力は申し分ありません。いかなる者にも打ち勝つ力を有するのですから。ですが……いささかサイズと攻撃力に問題があります。そしてそれ以上に致命的な問題が………」
そう口にした時だ。ジャスミンたちが向かう方向で、街中ではめったに聞くことのない爆発音が響く。
「………たしかに問題ありそうアルな」
「………ご理解していただけて、私も嬉しいです」
そう遠くない向こう。全員が目を向けた先からは白煙が空に向かって伸びていた。
「これ……いったいなんなのよぉぉぉ!!?」
信じられない光景に、あたしは驚愕と疑問とが混ざり合った悲鳴を上げていた。
眼前に人の姿がそびえていた。
全身はレンガを積み重ねた城壁のようであり、そのレンガの一つ一つは白銀の輝きを放っている。――事実、あたしの目にはそれは塔か城の様に映っていた。
見上げれば頭は二階建ての建物よりも高い位置にあり、人型というのはかなり太目の寸胴で、腕も脚も丸太よりさらに太い。それが今、飛び降りようとしていた大蜘蛛を拳で殴りつけ、狭い路地裏の左右に並び立つ建物を横へと押しつぶし、一歩、道に力なく叩きつけられた蜘蛛へと足を踏み出して地面を震わせた。
「は…ははははは……」
大蜘蛛よりもさらに巨大な巨人が歩くだけで周囲の建物が崩れて行く。静香さんが捕まっていた建物なんて、巨人が腕を振ったときに二階の床が根こそぎ砕けていて、今では外壁のみが残る状態だ。―――まぁ、人が住んでなかったからいっか。
とはいえ、これで形勢逆転だ。さっきまであたしを苦しめていた大蜘蛛は巨人を前にして怯えた様に身をすくめている。これならやっつけることも可能なはずだ。
けど……なにか嫌な予感がする。なんていうかこー…このまま簡単に終わるはずがない、そう思えて仕方がない。
「静香さん、大丈夫なの? あの蜘蛛、結構強いんだけど……」
「……………」
「? 静香さん…静香さん?」
「……………ぐぅ」
それってイビキ?――あたしがそう尋ねるよりも先に、あれほど凛々しく思えた静香さんの体がフラッと後ろ向きに倒れてくる。
「ちょ、ちょっとなんでぇ!?」
慌てて腕を伸ばして静香さんを受け止める。そのまま地面へとあたしも倒れこむけれど静香さんは大丈夫……のはずなのに、なぜか静香さんはこういう状況だというのに、
「すぅ……すぅ……」
―――目を閉じて熟睡してしまっていた。
「ま…まじ? 静香さん、ちょっと起きてってば。あんなでかいの呼び出して寝ちゃうのってあまりに無責任じゃない。起きて、起きてよ、起きてってば!!」
がくがくと体をゆすっても眠ったお姫様は起きてはくれない。よし、こうなったら王子様の熱いキスで!!
―――ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!
錯乱気味だったあたしが静香さんに………な音をしようとすると、白銀の巨人は片足を引いて振り返り、樽の様な頭に入った二つの細い隙間から覗く赤い瞳であたしを見下ろした。
「ひぇ〜〜!! すみませんごめんなさいあたしが調子に乗っておりました〜〜!」
大きすぎる唸り声と不気味に光る瞳の輝きに怒っていることを察して頭を下げる。けど巨人のほうは許してくれそうに無くて、静香さんと一緒にいるというのに高々と右手を振り上げる。
もしかして……暴走、してる?
ゴーレムなどの自立型魔導式というのは術者の命令には絶対服従なのが基本だ。もっとも構築式にそういう事を組み込んでおかなかった場合は別だけれど、死んだ術者の命を守り通したゴーレムの話などは有名な話だ。
この巨人がゴーレムなのかは、そして暴走しているのかどうかも別として……問題なのは、あたしがもう動けないということだ。
―――ウオオオォォォォォ!!!
「くっ…!!」
巨人の拳が振り下ろされる。まるで壁が迫ってくるような迫力に目を閉じ、けれど無駄な抵抗と知りつつもあたしは静香さんの体に覆いかぶさる。
あっ…そういえばあたしたち裸だっけ……あぁ…どうせ死ぬなら女の子と抱き合ってなんていうのも……
そんな事を思いつつ、巨人の拳が建物の壁をやすやすと粉砕する音を聞く。……けれど、砕けたのはあたしがいる所よりも少し離れた場所だ。
「え? なんで……」
拳がそれて無事だったことを喜ぶよりも、なんで拳が逸れたのかを疑問に思いながら顔を上げると、白銀の輝きを鈍らせるように巨人の腕へ白い糸が何十何百と巻き付いている。その糸をたどって行き着くのは……巨人に殴られてから動きを止めていた大蜘蛛だ。
―――キシャアアアアアァァァァ!!!
―――ウォォオオオオオオオオオ!!!
両者ともに自分お相手を認め合ったのだろう。戦いの始まりを示すように雄叫びと共に魔力を吹き上げる巨人は糸に絡め取られていない腕を振り上げ、地面を揺るがせながら大蜘蛛もまた巨人へと駆け寄っていく。
けれど蜘蛛の動きはあまりに正面過ぎる。巨人は自ら歩み出てくる蜘蛛にタイミングを合わせると巨大な拳を地面に叩き付け、蜘蛛の頭部と胸部をやすやすと粉砕した――かに見えた。
―――キシャアアアアアアアアッ!!!
しかし蜘蛛は歩みを止めない。頭を失った体で巨人の懐に飛び込むと巨体を支える足元へと体当たりを仕掛ける。
城壁のような巨人の体がぐらりと揺れる。力の差を考えれば蜘蛛の勝ちに思われたけれど…結果としては最悪だ。踏みとどまろうと左右に伸ばされた腕が周囲の建物を掴むと、固いはずの壁は指先で容易く抉られ、その大きな破片はあたしの頭上にも降り注いでくる。
「壁よ阻みたまえ、ロングウォール!」
巨人の拳よりも小さいとは言え人一人押しつぶすのに十分な大きさの破片が直撃する瞬間、あたしと静香さんの周囲を光の壁が包み破片は砕かれ、弾き飛ばされていく。
「ふぅ、なんとか間にアタアルネ〜〜」
「し…神官長……助かった〜……」
障壁の魔法による光の壁に囲われてようやく安堵の息をつく。それから後ろを振り返ると、神官長を先頭に、重そうな甲冑を身にまとった一団がすぐ傍までやってきていた。
「たくやちゃん、お手柄だたアル。後はワタシラに任せて……」
「どうか…したんですか?」
不意に言葉を切り、糸のように細い目を見開きそうな感じにあたしを凝視する神官長。後ろの騎士は反応はそこまでストレートではないけれどチラチラとあたしの方へ視線を送ってくる。
「み…見ちゃダメです!!」
動きを止めた神官長たちの横を抜けて前に現れたのはめぐみちゃんだ。彼女は最前列に立つと神官長の顔に力いっぱい手にした本を叩きつけ、男たちの前をふさぐように両手を広げた。
「たくやさん、服、早く服を着てください! そんな格好で男の人の前にいちゃいけません!!」
「え……あ、そう…だっけ……」
っ〜……いけない、頭がふらふらしすぎて…ちょっとそこまで意識が回ってなかった。
血を流しすぎた頭で思い出せばあたしも静香さんも全裸のままだ。さぞあたしの乳房に視線が……って、なにを…やば、本当に意識が……
「神官長、騎士たちを連れて少し離れていただけますか?」
「い、いやしかし、たくやちゃんたちを魔法で安全を……」
「それは私が代わりを務めます。雷の壁よ、ヴォルトウォール!」
耳障りな音と共に、あたしたちの周囲を取り囲んでいた半球状の壁のさらに外側、巨人と大蜘蛛が戦いを繰り広げている場所とを隔てるように青白い火花を散らす電光の壁がそそり立った。
「神官長、姫様の肌をこれ以上見るのは国際問題にも発展しかねません。どうぞ一時引いて頂きたく……さもなくば」
「そ、そうアルネ、うん分かたアル。皆の衆、一時退却アル〜〜」
神官長が生み出していた光の壁が消える。もっとも男は全員後ろを向いて離れていく途中なので、そこに残っていたのは二人、めぐみちゃんとジャスミンさんだ。
「た、たくやさん、どうしたんですか!? 血が、血が出てます!!」
「ん? あ〜…ちょっと…ね。ははは…」
「笑い事じゃありません! す、すぐに治療を……ええっと…じ、慈愛深き水の女神アリシア、汝の力を借りて我に一時の癒しの力を……」
あ……ヒーリングの呪文……なんか気持ちいい…はうっ……
あたしの怪我を見て慌てて治療の魔法を掛けてくれるめぐみちゃん。その横にひざまずいたジャスミンさんは未だに目を覚まさない静香さんを抱きかかえて自分が着ていた上着を露わになっていた乳房へと掛ける。そして改まった面持ちであたしを見つめると、長い髪の毛をふわっと揺らしながら頭を下げた。
「たくや様、あなたのおかげで姫様の身が守られました。この場にはおられないクラウディア王の代わりに感謝の言葉を述べさせていただきます」
「そ、そんな。気にしないでください。元はと言えば静香さんに町を案愛してあげようって言い出したあたしが悪いんだし、助けようとしたのもあたしの意思なんですから。それより……」
「まずは服を着てください。傷を治すのに時間がかかりますからその間に上だけでも」
「めぐみちゃん、もうちょっと待って。――ジャスミンさん、あれ、あのおっきいのを止める方法無いんですか? 呼び出した静香さんは眠っちゃってるし……」
あたしがアレと呼んだのは背後で蜘蛛と戦いを続けている白銀の巨人のことだ。戦いの場は少しずつこちらから離れて――と言っても10メートルほど――行ってはいるけれど、その代わりに路地裏の左右の建物は完膚なきまでに破壊されて瓦礫の山と化している。
戦いは一進一退状態だ。雷の障壁越しに見ていると、蜘蛛は巨人に殴られて体を抉られても煙が集まるように潰れた部分が元の場所へと集まり、すぐに体を復元している。けれど体当たりやあたしも恐い思いをさせられた足の爪では白銀の巨人には決定的なダメージを与えることは出来ず、巨人が押す形ではあるけれど互いに相手を倒すことが出来ない戦いが続いていた。
「このまま暴れ続けられたらそのうち人がいっぱいいる所まで行っちゃいます。そうなる前に何とかしないと」
「………無理です。あの巨人――ガーディアン・ルークは止めようがありません。特に防御、魔法防御に重点が置かれているため、私の最大攻撃呪文でも大してダメージを与えられません」
「そんな……」
「ガーディアンを召還するには多大な魔力と精神力を費やさなければなりません。ですが姫様では制御し続けるだけの精神力が無く、召還後は昏睡状態に陥ってガーディアンは暴走状態となります。我が国でも二度ほど、姫が賊に襲われた際にガーディアンが呼ばれ、目を覚まされるまで一時間ほどで周囲を破壊し尽くしました。神官長殿を含めた現戦力では足止めさえ……」
「―――静香さんを起こせばいいのね」
それが分かれば十分だ。あたしでも実行できる手が残ってる。
「めぐみちゃん、もういい。ちょっと離れててね」
「え…たくやさん、何をするおつもりですか?」
頭の傷は……うん、塞がってる。
髪の毛の間にたまった血はどうしようもない。とりあえずシャツを頭からかぶったあたしは膝立ちになると、なにをするつもりなのかと見守っているジャスミンさんの腕から静香さんを抱き上げる。
「たくや様、姫様に何をなさるおつもりですか?」
「ちょっとね。寝ぼすけさんを起こす儀式…って所かな」
寝てる人間を起こす、そんなことはスゴく簡単だ。
「静香さん…ちょっと痛いけどごめんね」
先に寝ている静香さんに謝ってから、あたしは右手を上へと振り上げる。
―――パァン
傍でめぐみさんとジャスミンさんの息を飲む音が聞こえる。けれどまだまだぁ!!
―――パァン
往復ビンタ遠慮なし。右と左から一回ずつひっぱたくと、わずかにだけれど静香さんが苦悶の声を漏らしてまつげを振るわせた。
「た、たくや様、もうおやめくだ――」
「トドメの一発、いきま〜っすぅ!!」
ここまできたらこれしかない。手の代わりに体をのけぞらせて頭を振り上げたあたしは、勢いを付けて静香さんの額に頭突きを叩き込んだ。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!! こ、これでどうだぁ!!」
「どうだではありません!!」
「へっ…ジャスミンさん、なに怒ってるの? 起きない人はこうやって起こすんでしょ? あたし、姉さんや幼馴染に子供の頃はこうやってずっと……」
「あの……普通は違うと思います」
「そ…そうなの? じゃあ、それでも起きないからってファイヤーボール弱で黒焦げにされたり、ウインドボムでベッドごと天井に叩き付けられたり……」
「そこまで過激なのは、おそらくたくやさんのお家だけの習慣なんじゃないかと……」
は…ははは……やっぱりそうだったんだ。近所の家からは目覚ましの爆音や轟音が響かないな〜って思ってたんだ…あはははは……そっか、あたしがおかしいのか、あはははは……明日香と姉さんのばかぁぁぁ〜〜〜!!
「………んっ……いた…い……」
「!? 静香さん、目…覚めた?」
方法はともかくとして……こうも強くほっぺたをぶたれたのは初めてかもしれない静香さんはボンヤリと瞳をあけ、あたしと、そして気を失っている間にこの場に現れためぐみちゃんとジャスミンさんの顔を不思議そうに見回した。
「………ねむい」
「寝ちゃダメぇ!! 寝るならアレをきちんと片付けてから寝て。さもないともう一回ほっぺたを叩くからね! いいの、痛いわよっ!?」
「た、たくやさん、落ち着いて……」
「落ち着いてなんていられないわよ! 静香さんは王女なんでしょ? だったら自分の行動に責任を持たなくちゃダメ。助けてもらったのにこんな事を言うのはあたしだって心苦しいけど……ちゃんと責任を取って。寝るのはその後、いい?」
「………ん」
聞いてくれてるのか寝ぼけているのか判断しづらい声を出して小さく肯いた静香さんは巨人を呼んだ時と同じように右手を伸ばす。
………最初は意識が朦朧としていて分からなかったけれど、改めてみると静香さんの手を中心に高密度の魔導式が構築されて魔力が流れ込んでいるのが分かる。その式の複雑さは…魔法使い落第のあたしでは存在が分かるだけで読み取ることは不可能なほどだ。
「………ルーク、戻って」
通常の魔法と異なり、呪文も力を解放するキーワードも無く、この場にいない誰か……少し離れた場所で暴れている巨人に語りかけるように言葉を紡ぐ。
「あ……見てください。巨人さんが……」
めぐみさんが驚き指差した方向へ顔を向けると、雷の壁の向こうで白銀の巨人の体が黄金色の輝きへと包み込まれていく。そして光の粒子へと変換されて少しずつ巨体の輪郭を失い、やがて空中に溶けるように姿を消してしまった。
それはどこか儚く……周囲の瓦礫が無ければ、そこに巨人がいたことが夢ではないかと疑ってしまうようなあっけない消滅だった。
「……………はぁぁ…やっと終わったぁ……」
これでようやく誘拐騒動も一段落。そう思うと疲れに耐え切れなくなって、あたしはがっくりとうな垂れながらため息をついた。
「静香さんが誘拐されて迷子になって…ああもうやだ。あたしは平和な人生を過ごしていたかった…どこでどう人生間違っちゃったんだろうなぁ……」
「気を落とさないでください。きっといいこともありますよ」
「………めぐみちゃん、それ絶対に適当に言ってるでしょ」
「え…あ、いえ、私はただたくやさんに元気を出してもらおうと思って、べ、別に悪気はありません!」
「……ん。ありがとね。そう言ってくれただけで、なんだか楽になっちゃった。――ハァ〜〜……」
これはもうダメだ。今日のあたしはいくらなんでも動きすぎだし怪我もしすぎてる。頭からは血だって出たし、体のあちこち打ち身だらけ。もう指一本だって動かせそうに無い。
なら少しぐらい休んだっていいはずだ。あたしの体には大きすぎる男物のシャツを引っ張って股間を覆ったあたしは、巨人の暴走の中でも辛うじて残っていた背後の壁にもたれかかり、長く長く息をつく……すると、何かがあたしの視界を覆い、日の光をさえぎられた周囲が急に暗くなった。
「あ……忘れてた」
暴れていたのは巨人だけではない。部屋の中にいた大蜘蛛がまだ残っている。すっかり失念している間に巨大なモンスターはあたしたちのそばに忍び寄り、長い脚を広げて覆いかぶさろうとしていた。
「たくや様、めぐみさん、姫を連れてお逃げください!」
逃げろって言われたって…あたしもう体が……
ジャスミンさんがすぐさま振り返り、呪文の詠唱を始める。けれど……間に合わない。疲れきったあたしも、眠っている静香さんも、驚いているめぐみちゃんも、そこから一歩も逃げ出すことも出来ないまま、蜘蛛の巨体があたしたちに覆いかぶさってくる。
「…………あれ? 死んで…ない?」
本日何度目かの絶体絶命。――しかし、押しつぶされると思っていたあたしの体はつぶれるどころか痛みさえない。もしかすると痛みを感じる間もなく死んじゃったのかもしれないけれど……恐る恐る目を開けてみると、それが違うことに気づくことが出来た。
「これ…どうなってるんですか? この蜘蛛さん、体が無いんですけど……」
めぐみちゃんの疑問の声こそがこの蜘蛛の正体だった。
押しつぶされたけれど、大蜘蛛にはあたしたちの体をつぶすための「体」が存在していなかった。地面に倒れている静香さん以外、蜘蛛の下敷きになるはずだった三人の頭は蜘蛛の巨体を突き抜けて上面に出てしまっている。……なんていうか、モグラが頭を出しているようで、元気な時なら笑えるのかもしれない光景だ。
「この蜘蛛……気体だったんだ」
わずかな抵抗を感じるけれど動かせないほどじゃない。右手をゆっくりと持ち上げると、手指の隙間から黒い煙が零れ落ち、腕が通り抜けた場所を埋めて行く。
「おそらくこの蜘蛛はギズモのようなガス状のモンスターなのでしょう。攻撃の際にはその密度を高めて体を固体化し、攻撃を受ける際には密度を薄くしてやり過ごす。この類のモンスターには魔法以外の攻撃は効果が薄いからガーディアンとも戦えたわけですね」
この気体に毒がないとも限らない。静香さんを抱えて立ち上がったジャスミンさん簡単な推測を述べながら蜘蛛の体の中か抜け出すと、少し離れた場所に立って……呪文を唱え始めた。
「お二人とも、その場を離れてください。その蜘蛛が弱っている間に焼き尽くします」
「焼き尽くすって……そんな、もうこんなに弱って動けないじゃないですか」
「人に仇を為すモンスターを駆逐するまでの事。たくや様、あなたのその怪我もこの蜘蛛によって付けられたものではないのですか?」
そう言われると、塞がったはずの傷口がまたズキズキと傷み始める。皮膚一枚がくっついただけで中のほうに傷が残っているのかもしれない。
でもこの怪我は誘拐犯に負わされたもので、この蜘蛛は――
「……あたしの事、助けてくれたから」
誘拐犯に押さえ込まれた時に、この大蜘蛛が助けてくれなかったら怪我どころではすまなかったはずだ。それはたまたまの偶然かもしれないし……あたしがワンドを使ってお願いしたことに答えてくれたのかもしれない。
「ではどうするというのです。この蜘蛛をこのまま逃がすというおつもりですか? そうすれば私たち以外の誰かが怪我を追い、命を奪われるかもしれないのです。たくや様にその責任が取れるというのですか!?」
「………めぐみちゃん、悪いけど神官長たちを呼んできて」
「は、はい。あの…どうするんですか?」
身を起こし、蜘蛛から離れためぐみちゃんに笑みを向ける。
もし言ったら……なんか止められそうだから。
「この蜘蛛が…あたしの言う事を聞くようになればいいんですよね」
蜘蛛の体に覆われて見えない地面に手を這わせると、あたしは逃げるときに持ち出したナイフを拾い上げる。そして鞘から引き抜き、眼前に構える。
「とりあえず、やるだけやって…それでダメなら諦めるから」
「!? た、たくやさん、何してるんですか!?」
めぐみちゃんの慌てた声を聞きながら、あたしはナイフの刃を腕に押し当て、横へと滑らせる。
切れあいのよい刃はあたしの腕に直線の傷を付けると、それほど深くは無いけれど赤い鮮血が勢いよくあふれ出してくる。
瞬く間に血にまみれるあたしの腕……それをゆっくりと蜘蛛の体の中へと沈めたあたしは瞳を閉じ、意識を集中させて魔法とは違う呪文の言葉をつむぎだす。
それは世界に語りかける言葉であり……あたしとこの蜘蛛とが主従の契約を交わす為の言葉だ。
「……魔王たくやの名において、我、汝と契約する」
―――キシャアァァァ………
そう口にした途端、何かがあたしの体から流れ出して蜘蛛の体へと吸い込まれていく。
スライムと契約した時、その対価はあたしの魔力だった。魔力は人の体液に多く含まれる。汗や唾液、特に濃厚なのが精と血がその代表的なもので、この程度はアイハラン村の小学校ででも教えてくれる。
すでに実態を持てないほどに衰弱したこの蜘蛛にエッチなことをしろって言うのは到底無理だし……あたしも虫とエッチするなんて、考えただけで身の毛がよだつ。だから代わりに傷口を蜘蛛に触れさせることで直接魔力を送り込むしか方法を思いつけなかった。
「っ…!……契約を結べ。対価は我が血、我が魔力。それを持って汝の命を繋ぎ止め、命(いのち)を永らえ、我が命(めい)に…したがっ…て……」
やばい…目が回ってきた……さすがにこれ以上は……
緊迫した事態が連続して起こった為に張り詰めた意識が辛うじてあたしの意識を繋ぎ止めていてくれたけれど、その最後の気力さえも血と魔力の流出に合わせて次第に薄れ……
「お願い…契約して。じゃないと……」
―――……キシャアァァァァ………
もう限界だ……瞳が閉じそうになり、体が傾いで倒れて行く中で、以前スライムと契約した時にも感じた何かが体に流れ込んでくる感覚を胸の奥に感じ取ることが出来た。
「ありがとね……じゃあ…おとなしくしててね……」
―――キシャァァァ………
どこか心配しているのではないか、そう感じさせる泣き声を上げて大蜘蛛の姿が掻き消える。その場に残されたのは赤く染まった地面に座り込むあたしと、金色に輝く小さな宝珠だけだった。
「………ふぅ…これで一件落着……」
「落着なんかじゃありません!」
うわっ……と、めぐみちゃん、なんでそんなに怒ってるのよ……目に涙まで浮かべちゃって……
「どうしてこんなことしたんですか…たくやさん、また怪我しちゃったじゃないですか…グスッ…わ、私、スゴく心配して…グスッ…グスッ……」
「あ…あははは……ごめんね…めぐみちゃん……」
だから神官長を呼んできて欲しかったのにな……あんまり血とかそういうのを見せたくなかったから。
あたしの傍に駆け寄り、泣き崩れためぐみちゃんを慰めるために手を伸ばそうとして……やっぱりやめた。今のあたし、ものすごく汚れてるから……
めぐみちゃんには後でちゃんと謝ろう。――そう思いながら目を瞑ると、あたしは瞬く間に眠りの底へと落ちて行った―――
「兄貴、大丈夫ですか?」
「ひょ…ひょひへはふ…はのはま、ひょほひへやふぅ〜〜〜!!!」
路地裏のさらに奥、日の光さえ差し込まない狭い路地を二人の男が歩いていた。
王女静香を誘拐した男たちだ。蜘蛛に手足の骨を粉々に砕かれ、顔など原形を留めていないぐらいにひしゃげて血まみれになっていたが、かろうじて息があり、それを外で見張りに立っていた男が救い出したのだ。
「もう少しの辛抱です。この先に闇医者がいます。金は無いけど脅せば手当てぐらいしてくれますから……」
「ううう……ふううううっ!!!」
方、腕、手、指、すべての骨に何かしらの傷を負い、動かせないはずの手を動かして吠える誘拐犯のリーダーは、静香…そして静香と誤解していたたくやへの恨みだけで命を永らえていたとも言える。だが……
―――ビシャッ
「うわっ、な、なんだぁ!?」
頭上から誘拐犯の男たちへ液体が降り注ぐ。慌てて拭い取り地面へと叩きつければ、それは液体というにはあまりにも粘り気が強く、ゼラチン質で……あまりにも動きすぎていた。
「な…なんだよこれ、気色わ――」
―――ビシャッ
―――――ビシャッ
――ビシャッ
―――――――――ビシャッ
「わわっ、うわああああああっ!!!」
まだ五体満足だった手下の男は、いくら拭っても降り注ぐ粘液から身を守るために兄貴と呼ぶ男を放り捨てる。そして自由になった両手で必死に頭上をかばうが、体に纏わり付く粘液は次第にその量を増し、プルプルと不気味な振動を繰り返しながら互いに結びつき、男の全身を覆う膜へと姿を変えて行った。
「ちくしょう、なんなんだよ、なんなんだよぉぉぉ! 離れろ、畜生が!!」
「お〜、やっぱりここに来たか。さすが俺様、ナイス読み」
男が必死に粘液と格闘していると、不意に路地裏に不似合いな能天気そうな男の声が聞こえてきた。
「て、てめぇ、なにもんだぁぁぁ!!」
「や〜、どもども。この街で細々と情報屋やっている大介って者です。短い付き合いになるでしょうけどお見知りおきを」
一人で苦闘する誘拐犯に軽薄そうな笑みを顔に張り付かせた大介はひらひらと手を振る。まるでバカにするような態度に男は怒りの形相で大介を見つめると、
「このガキヤァァァ! ざけてないでさっさと助けやがれ!!」
「冗談でしょ? 俺って情報屋で便利屋でも慈善家じゃないんだよ。なんでおたくを助けなきゃいけないの?」
「うるせぇ!! いいから早くしろ、早くしろおぉぉぉ!!!」
「ん〜…まぁ金をもらえるならやるけど……もう手遅れなんじゃない?」
そういって大介は地面の一点を指差した。釣られて男が目を向けると、底にはいつの間にか集まっていた粘液が山のように盛り上がり……腕を一本、生やしていた。
―――パキャ
骨が砕ける音。
―――ズジュ
咀嚼する音。
―――ジュブ…グチャ…ズチャ……
飲み込み、反芻し、食い、溶かし、吸い上げ…食らう。突き出ていた腕は男が見ている前で少しずつ粘液の山……スライムというモンスターに骨も残さず食われてしまった。
「う…うわぁああああああああああっ!!!」
「んじゃスライムちゃん、アフターサービスはここまでだ。後始末はよろしく頼むぜ。俺は偽情報流しておくからさ」
「いやだ、助け、助けてくれ、金なら払う頼む嫌だ死にたくない俺は嫌だ死にたくなんかいやだイヤだ嫌だイッ―――――」
まず溶かされたのは体をかばうために掲げられていた両腕だ。そして頭上から降り注ぐ粘液を受け止めた顔から口へとスライムは流れ込み、声を発する喉を溶かして内側から焼くような苦痛を与える。
「―――――――――――!!!!!!!」
もがく為の腕はもう消えている。助けを呼ぶための喉も塞がれている。すぐに内臓までスライムで満たされ、誘拐犯の男は髪の毛一本残さずにスライムへと飲み込まれていくだろう。
「―――!!!―――――!!!!」
ただ一つ、男に出来ることといえば―――死を前にして断末魔の痙攣を起こす事だけだった……
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