格安の代償1
(…なに…ここ…なぜ…なぜあたしがこんなめに…)
薄暗い中、美香はドアから漏れ入ってくる光を見ながら思っていた。
美香は友人の恭子と、昨日から葉塚市に入っている。
普段から休みというとなにかと遠くへ旅していた恭子がネットから見つけたという、格安の国内旅行の誘いをかけてきたのがひと月ほど前。以前から各地へ誘われる度に断ってきたのを、今回は乗ってしまった。少しぐらい仕事を忘れてのんびりするのもいいかと遊びたい気分になったところへ丁度パンフを差し出されたのだった。
"格安ミステリーツアー"チラシにはそう書いてあった。写真の類はなにも載っていなくいかにも安っぽそうなチラシだった。企画会社も聞いたことのない名で、なるほど恭子の旅慣れたアンテナの広さに感心もした。それにしてもいまどきミステリーツアーかよ、と思いもしたが、別に休暇を取ったとてなにをするか決めてるわけでもない。うやむやにOKするといつのまにか恭子のほうで勝手に美香の分も休暇届を出してきてくれていた。
「旅って楽しいって。知らないところでいろんな人に会えるし。美香も…なんていったっけ、彼氏の元を離れてさ、リフレッシュするといいのよ。」
確かに康隆との仲はこのごろ軽い倦怠期に入ってると感じていた。会うのが日常になって、いまでは当初のときめきを感じていないのは双方の認める事実だった。毎日会ってるわけでもないし、5日ぐらい空いたとしても変化はないと思ったのも仕方のないことだった。
一週間ほど前、恭子から1シートの錠剤を渡された。聞くと出発まで毎日飲んでくれという。それは恭子にも手渡されていた。なんでもこのツアーの決まりらしい。副作用があったら別のを用意してるので遠慮なく言ってくれとの事だった。
そして出発当日、集合場所に行ってみるとずいぶん人がいっぱいいた。おばさん連中の数がやたら多かったが、ちらほらと若者も見える。聞くと町内会や農協婦人部やらといろんな集まりが混合しているらしかった。周りのうるさいおばさんたちにお菓子やジュースをもらいながらバスは何時間も高速を飛ばした。ロマンスもへったくれもなかった。カラオケのマイクが自分にまわってきた時はさすがに閉口した。恭子に押し付けると、彼女は目をキラキラさせて演歌をめいっぱいの感情込めてうなっていた。満場の喝采を聞きながら美香は窓ガラスに顔を押し付けて思った。
(…勘弁してよ…)
バスが目的地の温泉場に着いた。騒ぎ疲れた大勢に混じって二人はバスを降りた。ツアコンの旗についていこうとすると、二人の背広を着た男性二人に呼び止められた。
「あのもしもし、○○美香さんと××恭子さんですよね。」
「あ、はい」
男性が手にするクリップボードに顔写真があるのが見えた。
「名乗り遅れて申し訳ございません。この旅行にお供させていただく槍杉です。」
「関原です。」
「あ、よろしくお願いします。」
二人してちょっと太ったさえない組み合わせだった。ロマンスには程遠いと二人ともがっかりした。おばさん達についていこうとする二人を男達が防いだ。
「あ、あれ違うんです、別のグループ。人数が少ないんで別のカラオケツアーに混ぜてもらってたんですよ。」
一人がハンカチで汗を拭きながら言った。
「私達はもう少し先です。ごめんなさいねぇ。荷物持つ前に言えば良かったんだけど。とりあえずバスにまたお乗りください。」
「ミステリーツアーの到着地に温泉場はさすがにないですよぉ。」
四人で笑った。促されてバスに戻ると二人の笑いは少しひきつった。添乗員と運転手を除けばバスの中は恭子と美香、二人だけだったからである。
立ち尽くす二人の後ろでプシューとドアが閉まった。
先ほどまでの喧騒が嘘のような静けさの中でバスはまた高速に乗った。
「添乗員さん二人も付いて…ホントにこの値段なの?」
「んーー、なかなか旅行会社も競争大変なのかねぇ。」
二人が首をかしげながら話すなか、バスは高速を降りた。それからが長かった。民家がだんだんと少なくなってくる。前の席で添乗員二人がじゃんけんをしているのが見えた。田んぼと畑ばかりの道を見てるといつのまにか二人は眠ってしまった。
「さ、目的地に着きましたよ、お二人さん。」
美香と恭子は目を覚ました。添乗員が二人とも前の席から振り返っていた。
「ん?…よう…つか…し?…」
「はづかしですよ…やすこ…」
「え?」
「みか…僕が美香の担当になったから…」
「ちょ…ちょっと…」
「いくらお世話になるったって呼び捨てなんて…」
「ええ、これからしばらくじっくりとお世話しますからね、友達感覚でいきましょうよ。」
「恋人同士と思ってもかまわないからさ…」
そういうと男達は席に座りなおした。二人はあっけに取られた。手振りで口をパクパクさせて無言で話した。
(ちょっと…どういうことなの?)
(いや…いや…わかんねえぇ…)
(ミステリーツアア?…どういう…)
バスは橋を渡った。するとなぜかゲート門がある。国内のはずなのにどういうことだろう。ひところ流行ったいわゆる"独立国"を市全体で名乗っているのか。それにしては固い表情の警備服が厳重そうに車の周囲を点検するのが気になった。
異常なくゲートを通過すると、まもなく街中に入った。店の数からすると昔は結構人口の多かった地域のようだった。というのは店の半分ほどのシャッターが閉まっていたからである。
奇妙な風景だった。普通の田舎の繁華街とは違う雰囲気が漂っていた。食料品店もあることにはあるが衣料品店からが普通とは違う。いや普通の店もあるのだ。しかし、皮製品専門だの、制服専門だの、医療器具専門だの、普段見ることのない種類の店が並んでいた。
そして街角には異様に大きい公衆トイレがある。奇妙な事にこのスペースに一番人の出入りが多いようである。いまも3人が入って2人ほど出て行った。その女性はやつれたような顔つきで口を拭っていた。
「今日はいないな…だかの…んな…」
「なに言ってんだよ…いつものように一日目だけはここら一帯、禁止令を…」
「ああそうだった…いきなりあんなの…られちゃな…にげら…」
前の座席で何かぼそぼそ言っていた。バスは繁華街をすぎ、ちょっとした駐車場らしき広場に止まった。
「荷物はそのままでいいから。宿に運んどくよ。」
運転手含め、なにかわからないが明らかに男達の態度が違っている。気安い言葉ではあったが命令してるような感じだった。手ぶらで降りた四人の後にバスは走り去った。
「まずは町の観光名所を案内しなきゃね。」
「それよりも…ここどこなんですか?」
「ああ、じゃあ改めて。葉塚市へようこそ。」
「歓迎いたします。それこそ町ぐるみで。いや市ぐるみか。」
「ぷっ、何人いると思ってんだよ。死ぬぞ。」
「…ここが目的地なんですか?」
「ええ、○○県のはずれにある知る人ぞ知る楽園。」
「楽園?」
「温泉は?」
「今日泊まる小さなとこぐらいしかないです。」
「テーマパークは?」
「ないです。あ、秘法館なら…」
「あるよある。ほら…」
「…あれ?」
「うん、あれ。」
「あり…ますよ。いまは言えないけど…んーー…あれ?」
「そう、あれ。」
ないんだな、と二人は確信した。あっても大したものではなさそうだ。
「自然?」
「まあ、市から出れば見たとおり、ね。日本の田園風景。」
恭子と美香は声を揃えて言った。
「楽園ん―?」
「ええ、楽園ですとも。やみ付きになります。保証付き。死ぬまで忘れられませんよ。」
だまされた。二人は顔を見合わせお互いがそう思ってることを確信した。
二人はまずそばにある神社へ案内された。石階段を昇るとドキッとした。御神体であろう大きな男性器をかたどった物体が祭られていた。
「やだあ…」
「いきなりすごいね…」
「大きいでしょう?波打つ血管まで再現してあるんです。亀頭もほらこんなに…カリ首もこんな段差があったらさぞ、入れられてこすられたらすぐ昇天しちゃうかな?…恭子、彼氏のより立派だろ?」
「そ、そんな…」
「よく見てごらん、先っぽからおつゆがいっぱい垂れてるだろ?カウパー腺液が…」
「…第一チンポ汁…」
美香の頭すぐ後ろで関原と名乗った男が囁いた。顔が一変に赤面した。
「ほら、鈴振って。二人ともちゃんとお参りして。二人とも子供じゃないんだ、これから何本も咥え込んでいくんだからね。これから…の人生で。」
言われるがままに二人は手を合わせた。
神社を去るときに二人は思った。
(なんか変だ…あんなこと言われたら普通怒るのに…セクハラもいいとこ…なんで腹が立たなかったんだろう…)
すぐ隣にある別の神社に連れて行かれた。もしやと思ったがやっぱりだった。今度は女性器が祭られている。あまりにリアルなその造形に二人は立ちすくんだ。関原と槍杉はニヤニヤと二人の表情を楽しんでいる。
「本物そっくりだろう?美香…」
どうやら説明するのは交代に決めているようだ。いまは添乗員二人ともそれぞれ担当の肩を後ろから押さえて、囁いている。
「毛がないだけだ…大陰唇も小陰唇も、クリトリスさえもリアルに作ってあるね…下のほうにほら、肛門まで…」
「…ケツのアナだよ、恭子…」
とんでもない事を囁かれてるのに、ごくりと喉が鳴った。
「これも感じているときを再現してあるんだ…クリトリスが大きくなって、マン汁だらだら流れてる…」
「あっ!…」
横にいる恭子が声を漏らした。
「…美香のアソコもイクときはこんなふうになるのかな…」
スカートの上から関原が尻を撫でた。
「ああっ!…」
「さっきの大きいのには負けるけど僕のもほら…」
「やっ!」
「あっ!」
後ろから男が腰を押し付けてきた。お尻の溝に固い物があたって前後している。周りは広いのになぜか逃げられない。
「美香…手を合わせろ…いつでもああなれるようにお参りするんだ…」
「…あ…あ…」
四人は揃って腰を折った。突き出した尻に布越しの男根がぴたりと張り付いていた。
男女それぞれ手を繋いで神社を後にした。後悔していた。二人は情けない目を交し合いながら階段を下りた。言葉を交わすことはなかった。各々が根拠のある罪悪感を感じていた。
一行はバスを降りた駐車場まで戻ってきた。
「これで本日の観光はおしまいです。」
気まずい雰囲気が吹っ飛んだ。アゴがはずれたかと思った。二人は口をあんぐりと開けた。
「こ、これだけ?」
「うん、これだけ。」
「移動時間、長かったからね。今日は二人とも疲れたでしょ。」
「あとは明日からのお楽しみ。のんびりいこうよ。」
「宿まで送ってあげるから、今夜はゆっくり休んで。」
「そうそう、明日から忙しくなるよー。めいいっぱい葉塚市を堪能させてあげるから。」
宿まで案内もしないでなにが添乗員だと思ったが、二人は言われるがままに付いていった。
歩く途中で男達が言った。
「頭痛くない?」
そういえば疲れたのかなんとなく頭がずきずきする。見ると恭子も同じような顔をしていた。
「ええ、まあ、でも…」
「バスで長いこと揺られたからね、旅館の人に出すように言ってあげるよ。」
「あ、はあ」
3人連れの男性が向こうからやってきた。
「あれー、関原さんに槍杉さん、こんどはこのコ達かい、こりゃあ上玉だねー。」
「ああ、どうもいつぞやは。またよろしくお願いします。」
「これは…なかなか…」
内2人の中年男性が美香と恭子の全身を舐め回す様に眺めた。
「あ、お三人さん、このコ達はまださっき着いたばかりで。」
「ああ、そかそか、じゃあ明日からだな。やっぱり…三日?」
「いや、五日。」
二人はおおーと声を揃えた。その陰から一人の少年がもじもじと美香を見ていた。
「じゃあ、すごいことになるな。この前のコ達はやり残したことがあって、なあ」
二人の中年男がうんうんと強く頷いている。なにを言ってるのかまったくわからなかった。
「ああ、この前のコ達だったら、また来たいって言ってましたよ。」
またおおーと声が上がった。
「やっぱり病み付きになるかな。」
「なるでしょう。あれだけのもてなしを受けたら。」
「お二人さん名前は?」
ビクッと男を見た。執拗に聞いてくる。なぜか拒絶できなかった。
「名前は?」
「…や…やすこ…○○恭子…」
「…み…か…××美香…です…」
「恭子ちゃんと美香ちゃんね。覚えたぞっ。」
「またあ。名前なんかすぅぐ忘れちゃうくせに。」
「いやあ、こんなきれいな女は忘れんよ。」
「おいおい、こないだなんか…」
「あ、ちょっと…」
槍杉が男達に首を振りながらウィンクした。
「あ、そかそか。今日着いたばっかだもんな。恭子と美香は。」
「え…」
また名前を呼び捨てにされた。一方的に親しい間柄にされたような気がしてぞくっとした。
「この町はいい町だよー。じゃあ俺ら例の会合に行くんで。」
「あきれたなあ。その年でよくやるねー。」
「俺やっぱり行くのやめるわ。これ見たら、なあ。」
「んーなるほど。俺もよしとくかあ。でもま、見るだけでもいいから行こうや。」
「そうだな。みんなにも知らせとくよ。こりゃあ会合は中止かもな。」
3人は2人の体を名残惜しそうに見ながら通り過ぎた。
「あの…なんの話…」
と、恭子が言いかけたとき、後ろで声が聞こえた。
「…ん?…そうか決めたか…で、どっち…両方か?…おお、髪の短いほう…」
おおーいと、いまの男性が一行を呼び止めた。振り返ると保護者らしき男は少年を指差し、「美香」と一言告げると片手を立てて頼み込むように拝んだ。関原が応えた。
「ああ、ああ、わかりましたぁ。任せてくださいぃ。こちらから連絡しますぅ。」
目を伏せた少年がちらと美香を恥ずかしそうに見た。そして一行はそれぞれに別れた。
「…あの…なんなんですか?…いまの…」
不安げに美香は尋ねた。怪しげな会話の内容の中心が自分達だったことは明白だ。しかもその中で自分が名指しを受けたのだ。
「いまは言えない。」
男達が振り返ってにっこりと笑った。
「これぞこの旅のミステリー。目的地だけじゃないの。なにが起こるかはお楽しみ。」
一行は旅館に到着した。
とても静かだった。シーズンオフのためかがらんとしている。待ちかねたように一人の男性が出迎えた。
「やあ、いらっしゃいませ。ようこそお待ちしておりました。」
フロントでチェックインの手続きを済ませ、階段を昇って部屋に案内されてる間にも、馴染みらしい槍杉と関原に従業員は話をしていた。これじゃ明日から仕事どころじゃないと言っていた。
部屋に入ると添乗員二人は丁寧に両手を畳に着けた。
「改めましてようこそ、葉塚市へ。」
「実は私達、あなたがたをある意味、だましておりました。」
「関原と槍杉、実はこの葉塚市の福祉担当をしております市役所員でございまして。」
美香と恭子は顔を見合わせた。
やっぱり騙された。安いのも納得できる。ミステリーツアーとは名ばかりの地方自治体の宣伝活動に参加させられたのだ。恭子はしょうがないわという顔をしていた。そしてちょっと首をかしげた。
「広報、じゃなくて福祉って言いました?」
「ええ、福祉担当です。独身者や引きこもり気味のための民生活動など、市民の豊かな交流を目的に活動しております。広報は…まあ、必要ないので。」
「あ…はあ…」
じゃあ、なぜ外部の自分達をここに連れてくるのだ。なんか理屈に合わないような気がして釈然としない。二人は首をかしげたままだった。
「それでは私共、今日は一旦引き上げさせていただきます。」
「あ、それと…」
背広の男が汗を拭いて言った。
「この葉塚市はね、周りを海に囲まれてて、外部との道はあの橋一本しかないんだ。橋を越えたとしても50キロぐらい行かないと民家もない。道には熊が出ることもあるのでくれぐれもそっちのほうには行かないようにね。この時間だったらバスもないから。」
男達は部屋を出て行った。
「はあーーあ。はめられたかあ。ごめんね、美香。」
「まあ、いいよ。のんびりできれば私は。」
「こんなことめったにないと思うんだけどなぁ。明日頼んで帰してもらおっか。」
「それもいいけど、どうなんだろ。ほらさっきの話、リピーターもいるみたいじゃない。」
「どうかなあ。あれだって作り話かもよ。」
「んー」
「それよりさ、あの…神社…どうだった?」
「うん…変だったよね…」
「いきなりあんなとこ連れてくかね。あんなこと言われて…いつもだったら蹴飛ばしてやるんだけど…」
「…そうだよね…」
少し無言の間が空いた。
「ちょ、ちょっと失礼して…あれ?トイレないのかなここ。」
「え?ないの?外なのかな…漏れそうなの?」
「え?いや…そうじゃないんだけど…ちょっと後ろ向いててくれる?お願い…」
「あ、うん、あたしも…」
二人は同じことを考えていた。美香のほうは浴衣に着替えると思わせて立ち上がった。女同士で着替えるなど恥ずかしくもないが、さすがにこれは別である。二人は背を向けてそれぞれ両側の壁に立った。そしてほぼ同時にスカートをめくり心配の箇所を覗き込んだ。
(…濡れてる…)
「失礼します。」
からっとふすまが開いた。和服の女性が手をついて挨拶した。二人はビクッと慌てて下着を戻した。
「本日はご利用いただきまして誠にありがとうございます。わたくし当旅館の女将でございます。ふつつかながら今夜一晩、お客様のお世話をさせていただきますのでなんでもお申し付けくださいませ。」
「よ、よろしくお願いします。」
突然の丁重な挨拶に面食らった。二人はテーブルに慌てて戻り正座した。女将は決まりきった口上で非常口、朝食の案内などを説明した。
「それと関原さんからお聞きしました、これ薬でございます。」
「あ、ありがとうございます。」
「やっぱり、痛くなりました?あたま。」
「ええ、橋を渡ってからなんとなく…」
「…そう…ですか…でもこれを飲めばいっぺんによくなりますから…30分ほどで効いてきます。あと明日からは痛くなることもないはずでございます。」
一個ずつの錠剤を渡された。入れてくれたお茶で流し込むのを赤ら顔の女将が見ていた。気の毒そうな顔に見えるのは気のせいだろうか。
「…あの!…」
「え?」
「…あの…旅行前に渡された薬は飲んでらっしゃいますか?…」
「ああ、忘れてたわ。美香、あんた飲んでる?」
「うん、ちゃんと…」
「…忘れないで飲んでくださいね!…そうしないと大変なことになります。」
「?…今日忘れただけですよ。大変な…ことって?」
「いえ!…いえ…あの…この地にはちょっとした…風土病があって…」
「…風土病?」
「そ…それでは…失礼いたします…」
引き上げようとした女将を恭子が引きとめた。
「あの…ここトイレは?」
「あ…そ…そうでございました…みなさん公衆の…ところをお使いになりますので…部屋を右に出まして突き当たりにございます…今日は鍵が開いておりますので…」
「?」
「そ…それでは…あっ!」
後ろを向いて立ち上がったときに女将がけつまずいて転んだ。その拍子に和服のすそがめくれ上がり二本のきれいな素足が剥き出しになった。
恭子と美香は息を飲んだ。女将は下着をつけてなかった。そのものはさすがに見えなかったが丸々とした尻を覆う布は一切なかった。そのかわりといってはなんだが、腰のところに皮のようなゴムのような黒いものが巻きついていた。そしてそれは中心から伸び、どうやらそれが股の部分を覆っているらしいのが見えた。
「あうっ!…ううっ!…」
必死ですそを戻しながら女将の全身がびくんびくんと震えた。固まった空気の中でそそくさと女将は立ち去った。
「ご…ごめんください…」
二人だけになった部屋にしばらくの気まずい沈黙が流れた。よくわからないが見てはいけないものを見たと二人とも感じていた。双方顔が赤くなって心臓がどきどきしていた。
「和服は…下着を着けないんだよ…知ってた?…」
「うん…知ってる…けど…でも…」
「あ、薬飲んどいたら?…」
「う、うん…」
お茶で薬を流し込むと恭子はトイレにと部屋を出て行った。
一人きりになった美香は部屋の隅っこに走り、スカートをめくった。
(…また濡れてる…)
一面の大きな窓にはカーテンもない。同じ高さに見える建物は遥か遠くだが、美香は縮こまるようにそろそろと下着を降ろした。ぐっしょりと沁み込んだ水分で少し重く感じられた。どこに置こうかと迷ったが、結局自分のバッグの中にしまった。底の隅っこに他の衣類に触れないように隠し丸めた。替えを取ってバッグを閉めるとかすかにヌルヌルした感触が手に残った。
トイレから戻ってきた恭子もバッグを開けて、手に隠し持っていたものをしまった。ごそごそと取り出したものをやはり隠して、顔を赤らめながら再び出て行った。恭子にも同じ事が起きているのだと、うすうす感じた。
戸棚を開けて浴衣を取った。着替えようと思っても外が気になってしょうがない。美香はもう一組の浴衣を手に取ると自分もトイレに向かった。
「…いい、お風呂だったねー。」
「ホント、私達で独占したみたいで気持ちよかったー。」
浴衣姿で湯気を立ち上らせながら大浴場から部屋に向かっている。階段を昇ると部屋の向こうさきほどのトイレが見えた。
「そういえばトイレやたらときれいだったねー。」
「うんうん、なんか未使用ってほどピカピカでびっくりしたあ。」
「トイレがきれいなところは旅館に限らずどこだって立派なのよ。質を見るには一番。」
「ふふっ」
旅慣れていることをひけらかしたいからなのか、自慢げに言う恭子を美香は愛らしく思った。
部屋に戻るとすぐに二人とも大の字になって寝転んだ。
「うあーー」
「極楽極楽ぅ」
「そういえば頭痛いの治ったね。」
「ああホントだあ。すごくさっぱり。」
まもなくしてドアがコンコンとノックされた。
「失礼します。」
野太い男の声に慌てて座りなおした。
「お食事の用意が出来ました。」
板前姿の男性が皿を持って入ってきた。ドアを開けたままに固定して慣れた手で数皿をいっぺんに持つ。
「いらっしゃいませ。腕によりを掛けさしてもらいました。」
「うわあ…」
大皿に豪華に盛られた海鮮がテーブルの中央に置かれた。
(こ…こんなすごい…)
板前は広いテーブルに次々と皿や鉢を並べていく。下が見えないほどに敷き詰められて行った。
「で、どっちが美香?恭子?」
「あ、あたしが恭子。」
「あたしが美香…です…」
また呼び捨てにされたと一瞬頭をよぎった。しかし二人はテーブルの皿たちに目を奪われていた。板前がきれいな湯上りの首筋や胸元、丸みを帯びた尻の曲線を舌なめずりしながら見ていることにも気づかない。
「明日はおいらもつっ…むから」
なにも言ってるのかわからないことよりもまず、喋り続ける二人は聞いてなかった。
「あのぅ…間違いじゃないんですか?。あたしたちは2人だけのミステリ…」
「ああ、間違えてやしないよ。全部食べてやー、おいしいからさー。」
男が出て二人だけになってもしばらく無言でみとれていた。
「…ごくっ…これ…全部?…」
「…らしい…」
「…かく…やす?…」
「…うん、ごくっ…こりゃあ格安だわあ…」
しばらくして…
「おいしーい!」
「これも…これもいいよ!…すっごぉ…」
箸が激しく行き交う。どれもすばらしい料理だった。海の幸はおろか山の幸もふんだんに、その他は芋と豆を中心にアレンジした、豪華な食事だった。
「こっちからこっち、ぜーんぶ豆と芋じゃん!。でもすんごくおいしー!」
「ダイエット中なんだけどなぁ。おいしすぎて残せないよぉ。」
「うまぁっうま…」
「うまうま…三重丸?」
「うまうまうま…五重まるぅ…」
二人は見事にすべてを平らげた。すべての皿にはつけあわせさえ残っていない。
「ぷはあっ」
「ふうぅっ」
「すごいね。ぜーんぶ食べちゃった。」
「おいしかったぁ。」
「…これかぁ…」
「…え?」
「…リピーターよ…」
「…ああ…そうね…」
「…こりゃあ…また来るよ…」
「毎日かなあ…」
「…ん?…」
「こんな豪華な…毎日なのかなあ…」
「…太るね…」
「…あはっ…」
「…芋と豆が特産だとしたら…太るね…」
「…あははっ…」
胃の中をいっぱいにして脱力していると眠気が襲ってきた。
「…ふわああ…なんか眠たくなっちゃったあ…」
「…ふ…ふわああ…あたしもぉ…」
「…テレビでドラマ見なきゃあ…」
そう言うと恭子は頭を肩にかくんともたげ、しばらくすると寝息をかきはじめた。
布団を敷いてもらうようフロントに電話をしなければと思ったが、心地よくて動きたくなかった。猛烈な睡魔だった。美香も同じように座椅子に体を任せて首を折った。
暗い中でふと目を開けた。外で女性の悲鳴が聞こえたような気がする。
恭子の布団がもぞもぞと動いて、またすぐに寝息が聞こえてきた。気のせいかと思い、ふかふかした枕の中で美香は眠いままの瞼を閉じた。
コンコン…コンコン…
ノックの音で目が醒めた。
「おはようございます。」
「ふあ?…あ…おは…ようございます…」
「朝食をお持ちしました。」
「あ…どうも…」
「…あたし…いらない…」
「そう言わずに食べてください。あの…もちませんよ…」
起きてすぐに食べたくもないのに、女将が差し出した朝食膳は素朴ながらまたも絶品の味だった。箸をすすめながら二人の意識は覚醒して行った。
「お薬飲みましたか?」
当然ながら二人とも首を振った。相当心配らしい。箸を咥えたまま恭子がバッグに手を伸ばそうとすると女将が袖から同じ物を差し出した。
「これをどうぞ。眠気覚ましも一緒に…」
と二錠ずつ渡された。食後のお茶で飲み干すと眠気覚ましが胃の中でしゅわっと溶けた。昨夜の消化物が下のほうへ押される感じがした。
「もうすぐ槍杉さんと関原さんがみえられます。10時にご出立だそうですよ。」
「ええ?」
時計を見ると既に10分前である。
「スケジュールはぎっしりと…伺っております。」
二人は先を争うようにして、歯を磨き、顔を洗う。恭子にはいつもの日常だった。
女将が申し訳なさそうな泣き顔をしている事が気になった。
服を着替えようとしたときに二人は気づいた。
(あれ…ブラがない…)
美香を見ると同じようにきょとんとしている。
「…見られ…るのが…嫌だったら…うっ…トイレで着替えを…」
嗚咽をこらえて女将が言った。わけがわからない。
恭子はバッグごと抱えて部屋を出ようとした。同じように美香も続いた。しかし丁度そこへ添乗員達がやってきた。昨日とは違いラフな私服である。
「おはよう!顔洗ったか?歯ぁ磨いたか?髭剃ったか?」
「あ、おはようございます。」
「おはよう。なあんだ、まだ浴衣のままか?出かけるぞ!二人とも早く着替えなさいっ。」
二人の男性は美香と恭子を部屋に押し戻した。
「え…でも…」
「でももストライキもないっ。もたもたしてる時間はないぞぅ。」
「…い…いや…あの…」
「早く着替えなさい…」
槍杉がとたんに静かに言った。命令口調だった。なぜだろう。逆らえない。
「…あ…朝のトイレ…」
美香がバッグを持って入り口に向かった。男達は依然として道をあけない。
「…言っただろう急ぐんだ。行く先々でトイレなんかいくらでもさせてやるよ…」
美香は後ずさった。逆らえなかった。恭子に助けてもらいたかった。しかし彼女もまた震えている。
「脱ぐんだ…」
二人の心臓がどきんと震えた。
「…う…うしろ…向いててください…」
しかし槍杉と関原はこちらを向いたままだった。女将を挟むようにしてしゃがんで三人でこちらを見ている。
「脱げ…」
たまらず恭子と美香のほうが後ろを向いた。ぶるぶる震えながら帯を解き、パンツ一枚だけの裸身を晒していった。ほおと男性二人は歓声を上げた。
「恭子は着やせするんだなあ。いいオッパイだ…」
「いやっ!」
「美香のも負けてないな。なにカップだ…Dか?」
「え…Fです…」
「恭子は?」
「…Eです…」
答えてしまう。手で胸を隠しながら両者は質問に逆らうことが出来なかった。
「なにしてるんだ…早く着ろ…見てもらいたいのか?…」
「あっ!」
「あっ!…い…いえ…」
突然、二人が腰を曲げて屈んだ。お互いになにかを我慢している。
…じわっ…
「やっやだっ!…」
「うしろむいてぇ…」
「ほらほら、着替えなさい。」
内股をぴったりと合わせながら二人はバッグから衣類を取り出した。ちらと見ると男達はニヤニヤしてこちらに目線を這わせながらぶつぶつと女将と話している。
「二人とも薬飲んだか?…そうか…」
「食事は…ほお、全部か…そりゃあいい…」
「そんな顔して本当は羨ましいんだろ…後でお前も来い…いいな…」
いったい何の話なんだろう。しかしいまは一刻も早く服をまとう事が先決だった。
(…な…ない…)
バッグの中にブラジャーが1つもなかった。3つは持ってきたはずだ。あたふたと中を探した。やっぱりない。パンツも探したがまさかここで着替える事など出来ない。あきらめた。
「あ…あの…この中…」
「早く着替えろよぉ。裸で連れてくぞぉ。」
「くっ…」
顔が真っ赤になった。仕方なくシャツに首を通す。もう一枚取り出そうとすると関原が遮った。
「そんなに寒くないだろ。一枚で充分だ一枚で。」
そう言われるとこれ以上上着を取り出すことは許されない気がした。双方ともシャツとスカートを一着だけずつ身に付けた。
「よおし、さっいくぞ。」
不安にわけもわからぬまま男達に手荷物を持たれ、二人は部屋を後にした。
「いってらっしゃいませ…」
女将の声が震えていた。その他板前など数人の男達が見送るなか、玄関を出る一行に再度か細い声がした。
「…ごめんなさい…」
玄関前には昨日の様な大型でない、小型バスが待ち構えていた。中央ほどにあるドアを手で開けると一行は車に乗り込んだ。二人は後列から二番目の席に通路を挟んで離れて座らされた。そして担当のそれぞれがその後ろ、つまり最後列に陣取った。
異様な感じがした。カーテンで窓のすべてが遮られていたからである。
「あ…あの…なんで…カーテン…」
「んー?演出。いかにもどこへ向かってるかわからない感じでしょ。」
「で…でも…どんな町並か…」
「んふん、あとでゆーっくり見せてあげるよ。」
バスは進み続ける。ざわめきが聞こえてくるのでどうやら町の中心街に入ったらしい。
「ここらへんが繁華街なんですか?」
首を伸ばして前を見ながら恭子が尋ねた。
「いやいや、ここはまだはずれですよ。繁華街なんてったらそれこそ、うじゃうじゃと。」
「どんなお店があります?ブティックとかは…」
「ああ、いっぱいありますよ。そのほかにも女性を喜ばせるようなお店がたーくさん。」
バスが止まった。ピコピコと横断歩道の音がするので信号待ちだとわかる。そのときだった。
「えっ…」
前方を見ている恭子が息を呑む小さな声を出した。そして歩行者のための信号音が止むとそれが聞こえた。女の声である。
(あっ!ああっ!やめてっ!…)
明らかに違和感のあるその声に身が凍りついた。おそるおそる手をカーテンのほうに伸ばした。しかし届く前にその手首が掴まれた。
「あっ!なっ!なにっ!」
バスが走り出すと同時に腕が上に上げられた。身を乗り出した後ろの関川が引っ張っている。
「いやっ!なにするのっ!」
見ると横の恭子も腕を掴まれている。男達はもう片方の腕ももぎ取り、二人にバンザイをさせて両手首を後ろへ引き寄せて行った。
「だめじゃないかあ。カーテンを開けたら台無しだろう。」
「おとなしくしてなきゃあ、せっかくのツアーが台無しだ。」
「いやっ!いやあっ!」
「やめてえぇっ!」
背もたれに頭だけを付け、じたばたと二人はもがいた。
「これだからいい。電波に慣れてないから嫌がるところがな。」
「ちょうどもうすぐだ。」
男達の力は強かった。暴れる手をものともせず、なんなく両方の手首になにかを巻きつけていく。そして手が離れなくなった。がちゃがちゃと音がした。
男達は軽く片手で枷を引きつけながら、話し合った。
「忘れないうちに渡しとくよ。例の"お初"リスト。」
「いやあ、任しちゃってすまないね関さん。」
「なんの。」
「次回は俺が引き受けるからさ。で…おわっ、また項目増えたのかぁ。よくみんな考えつくなぁ。」
「ああ、とうとう2枚になったよ。」
「おい、女がいるぞ。なになに…ああ、口で出し入れ…なるほどねぇ。やっぱり連絡は男からか?」
「いや、自分で電話してきた。まあ、させられてたんだろうな。こういうやり方もあるんだなって勉強になったよ。ところでその女わかってるか?」
「いや…あ、ああ…まじか?」
前で暴れる二人にかまうことなく談話に興じている。そうこうするうちにバスが止まった。
「さて到着だ。今日からが本当のツアーの始まりだ。お二人さん。」
「ここでしばらくのお別れだ。美香はここで降りるんだ。」
「えっ?どういうことですか!一緒にまわるんじゃ!」
関原は立ち上がると、手枷を引っ張りながら前に進んだ。
「それぞれがそれぞれの道を行く。年中一緒じゃマンネリだろ?」
ぐいぐいと力強く引っ張られ美香は席を立った。
「いやっ!一緒がいいですっ!一緒でッ!」
「あたしも行きますっ」
「恭子は別に用意してあるの。」
「美香っ!」
「いやっ!恭子っ!やすこっ!」
美香の姿が、のけぞって助けを求める頭を最後に出入り口から消えた。ドアが勢いよく閉まると叫び声はくぐもったものに変わった。(やすこぉ!…)
すると遥かに思える前方の助手席のドアがコンコンとたたかれた。運転手が窓を開ける。
「ちなみにあんたはどっちにすんの?」
「んー、…両方…」
「ははっそうだそうだ。あんたそういう人だわ。まあ、最初だけだからね。」
二人で笑った後、窓は閉められサイドブレーキが解除された。
バスが走り去っていくのをみつめていると、ぐいと手が引っ張られた。
「い…いたっ…」
「おっとと、転ぶなよぉ。」
「なんでバラバラなんですか…一緒のほうが楽しいのに…」
「それは先入観だよ。確かにそれもいいけど、あとから体験しあったことを話し合うのもいいもんだよ。」
関原の足は速かった。手首を掴まれよろよろとしながらついて行くのがやっとだった。
一面の広大なアスファルト広場であった。町から離れた郊外らしい。やはり郊外型で大型スーパーの駐車場、いや周囲に何もないからその二倍ぐらいはあるだろうか、とても広い。車を止めるための白い枠線が無数にあり、人っ子一人いなかった。いや、正確にはいないわけではなく制服を着て棒を持った誘導員が遠くのほうに数人いるだけだった。
美香と関原は、その中央にある一棟の建造物に向かっている。ドアとすりガラス窓がひとつあるだけのコンクリート剥き出しの平屋だった。しかしよく見ると屋根はコンクリートではないようだ。壁の四つ角にも微妙に違う色のしっかりした柱が出っ張っている。それほど安っぽいものではないようだ。
また冷静になってよく見れば敷地中央というのも間違いである。少し手前右側にあって、30Mほど向こうのほうにも、もう一つ同じような建造物が隠れていた。そして左側、位置的にはその間に、またなんとも形容しがたいものがあった。透明なガラス(それはまさかないだろう)プラスチックで構成された建造物、いや施設だ。平屋より高いその施設は、それこそ大きな分厚い透明板が何枚も間隔をおいて横たえられている。重なっているのに雨といの必要があるのだろうか、それぞれの板に途中からぽこんとしたのや角張った窪みがいくつもあって、そこから各々同じ方向に流れるように作ってある。そして四方八方からやはり透明の、上るための階段がありそれぞれのフロアへ入れるようになっている。(だからガラスとは思えないのだ。)してみればなるほど上へ行くほど板は小さくなっているのが推察できた。
なんなのかさっぱり想像もつかない。しかし青い数本の柱とクリスタルな板がなんともいえない美しさを物語っている。きっと使用目的などないのだろう。
「む…向こうに見えるのはオブジェですか?」
「おぶじぇ?ああ、そういえばそうも見えるなぁ。確かに町のみんなは"アクア"って呼んでる。正式名称は…たもくて…き、しみん…忘れた。造ってみたら結構いい感じなんでちょっと俺もビビっちゃった。しかし芸術家なんていわれると照れるなぁ。」
すたすたと関原は美香を引っ張っていく。止まりもせずに平屋のドアを開け、中に入り込んだ。上半分がやはりすりガラスでドア外側下方に、上に口を開けた"コ"の形で銀色の金属レールがあった。そしてドアの上には"公衆用施設"と書かれたパネルがあった。
外からは想像もつかぬ内装だった。待合室ぐらいの広さに壁床一面のタイル張りである。入り口に立つと左横の壁にはベンチが奥まで据え付けられ、いっそう待合室の趣があった。
異様なのは右壁である。手前隅にゲタ箱のような棚が置かれてるのはいいとしても、問題は壁中央のあたりである。複雑な曲線を描くこれこそオブジェといえそうな、大きな白いモチのようなものが岩のように壁からはみ出していた。
「こ…これなんですか?…あっ!」
関原は質問に答えず、呆然とたたずむ美香の腕を高くかざした。そのままオブジェの前に連れ出され、カチャリとした音と共に関原の手が離れた。しかし美香の手は降ろせなかった。
「いやっ!なにするんですかっ!降ろしてっ!」
(変なことされるっ!)
誰もいない暗がりの一室に男で吊るされる。身の危険を感じたとしても無理はなかった。
しかし関原は美香を離れて中の様子を点検して歩いた。よし、よし、と指をさしながら犬のように歩き回る。戸棚のところでも、よし、とか、OK、とか繰り返している。
「さて…」
すすっと尻を撫でさすられた。
「ひっ!いやっ!」
(やっぱりっ!)
身体を出来るだけ動かして逃げようとした。しかし地に着いた足が肩幅ほどにしか開かないぐらいに美香は吊るされている。動かせる範囲はちいさなものだった。ポケットに入った手が抜け出して行った。
「貴重品。こちらで預からせていただきます。」
「はっ…はあーーーぁ…」
「ちゃんと保管しとくから。驚かせてごめんね。預り証書こうか?」
「いいですけど…いやあ、びっくりしたぁ。」
「ははっ、じゃあ覚えといてね。現金*円とハンカチとティッシュと…」
「あっ、お財布バッグん中…」
「あ、大丈夫。すべてお二人のものは大切に保管いたしておりますから心配しないで。それに言ってくだされば紛失はもちろん、破損したものとかあったら市ですべて弁償しますから。ははっ、破損ったってねぇ、そんなに…」
安心した。まさか自治体のツアーでそんな不正が行われるわけがない。町の人が添乗員を保証するのを目の前で聞いたではないか。それにドアには鍵も付いてないのだ。本当に閉じ込められてるわけではない。明るいうちからバカな誤解をするほうがどうかしていると思った。
しばらく、関原は白いアクリル板に向かって作業をしていた。こちらを向いているので何を貼り、書いてるのかは皆目見当もつかない。ちらちら見られながらだったので、デッサンのモデルにでもなった気分だ。
終えて脇に抱えていると少しだけ見えた。美香の顔写真を含む大きな履歴書のようなものが貼られていた。もちろん履歴書などではなかろう。名前や年齢の下に、大きく"初"という文字があって、ずらっとそこから下は手書きの文字でぎっしり埋まっていた。
「よし、これで準備OKだ。」
そう言うと関原は、さも一仕事終えたとでもいうようにぱんぱんと手をたたき、ドアを開けた。
「え、ちょっと…」
「それではお楽しみください、美香…」
ドアが閉まった。ごそごそという音の後にごとっという音がした。アクリル板をレールにはめ込んだ音だ。そしてこつこつという足音が遠ざかっていく。部屋には昼近い光と静寂だけが残った。
そして美香だけが残された。見えない窓からやさしい光が部屋を薄暗く照らしている。
(…なに…ここ…なんでこんな目に…)
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