第十一章「賢者」裏4


「―――これでいいわ。直りかけていた体中の骨折も痛みもないはずです」
「ど…どうも……」
 留美先生に“希代香”と紹介された女性に湯船の中で癒しの魔法をかけてもらっていたあたしは、こめかみに触れていた手が離れると、口元までお湯の中に沈めながらススッ…と距離を開けた。
 ―――だってさ、タオル一枚身体に巻きつけた女の人がすぐ傍にいるんだよ? しかも美人だよ? さらに濡れたタオルが肌に張り付いて妙に艶かましくて……
 希代香さんに羞恥心がないわけじゃない。どこからどう見ても女にしか見えないあたしを、そのまま女だと信じて疑っていないだけ。この浴場内にいる男は、あたしを除けばポチだけだけれど、留美先生の怒りも沈静化した今、女湯に入っていても怒られない子供――に見えるけど実年齢は不明――であるために追い出されることもないまま、再び三人に分裂してお互いの背中を流し合っている。
 ―――恥ずかしがる必要はないって思ってるんだけど……それはそれであたしが困るんだってば〜!
 美女と一緒に入浴と言うのは男としては嬉しいと言えば嬉しい。だけど昨日今日であったばかりの留美先生や希代香さんと一緒だと、それ以上に恥ずかしさの方が上回ってしまうのだ。
 ―――とは言え……この人、いったい誰だろう?
 縦カールした長い黒髪の美女を、治療中に真正面から見てはいない。彼女が立っていたのは後ろからだ……が、浴場に入ってきた際に目にしたタオルが巻きつけられたボディーラインは決して貧弱などとは言えない。第一印象ではほっそりとしたイメージではあるものの、頭の中で鮮明に描き出されるその姿はどこか肉感的で、、落ち着いた大人の女性と言う雰囲気とあいまって扇情的な色気をかもし出している。胸の大きさだけで言えばあたしの方が勝っているけれど、タオルを押し上げる膨らみのラインは実に程よく美しく、触れれば吸い付いてきそうな質感の白い肌は白磁のような上品さを湛えていた。
 どうやら留美先生とは面識があるらしく、魔法ギルドのギルドマスターと言う正体が判明した留美先生をも平然と呼び捨てにしている。優秀な治療術師であることは留美先生が説明してくれたけれど、村の中では一度も目にしたことがなく、村の外から来た人なのかと思えば、
「あらあら、魔王にも果敢に勝負を挑む勇者さんなのに、意外に恥ずかしがり屋さんだったんですね」
 昼間の洞窟内での戦闘の事も知っている。魔法による治療中の間も、あたしに興味を抱いてあれこれと尋ねられたりしたけれど、どうも先ほどが初対面ではないらしく、それより以前にあたしと顔を合わせているような感じだ。
 ―――だけど、こんな美人なら一目見れば忘れられそうにないんだけどな……
 全身から放たれる上品さは、名産品も観光名所もなく寂れ、その上マーマン騒動で荒(すさ)んでいた漁村には不釣合いだ。名門貴族と言われても信じてしまいそうなほどに物腰も柔らかくて品があるし、だからこそ余計に漁村では存在が浮いて目立っていたはずなのだ。
 ―――弘二があたしが男だってばらしまくったせいで、村の人からは結構避けられてたし……
 もしかしたら、そのせいであたしは希代香さんを覚えていないのかもしれない……と、口元でぶくぶく泡を立てながら自分の中で一応の結論をつけていると、海に面した側の浴槽の淵に背中を預けていた留美先生が、堪えきれない笑みを漏らすかのように表情を崩すと、
「希代香、そいつの正体は男だぞ」
 いきなりバラされた。
「え……? 何の冗談ですか、どこからどう見たって女の子じゃないですか」
 まあ、普通はそう言われるのだろうけれど、後で本当のことをきっちり説明されて、覗きだどうのと話がこじれるよりは先に説明しておいたほうがいいかもしれない。あたしは顔の下半分を温泉に沈めたまま、後ろを振り返ることなく希代香さんから離れていく。
「あの〜…なんて言うか、呪いみたいなものでして、身体が男から女になっちゃってるんですよ……」
「エクスチェンジャーだ。天然記念物級に珍しいだろう?」
 あっさりとエクスチェンジャーである事までばらされてしまった……その言葉を口にしたと言うことは、この希代香さんも留美先生や、敵として相対した佐野と同じぐらいの賢者なのだろう。
 ―――そう言えば、留美先生にエクスチェンジャーだって事、いつ話したっけ?
 そもそも、あたしが元々男だと言う話さえした覚えがない。なし崩し的に変化の指輪で男の身体にされはしたものの、それ以前は海底での勝負だったので話す余裕はなかったはずだ。
 ―――てことは、あたしが説明するまでもなく見破ったって事!?………ん? 今、「ハズレ」って聞こえた気がするんだけど……
 なんにしろ、忘奪の竪琴に記憶の大部分が一度吸い取られたせいか、それとも夜遅いせいか、頭の働きがいまいち鈍い。それにほとんど記憶が戻ってきたといっても100%とは限らないのだから、忘れてしまっていることも考えられる。
 ―――このことで深く悩むのはやめとこう。まあ……何か大事なことまで忘れてる気もするけど……
 忘れてることがあると思えるのなら、きっとその中に喋った記憶もあるのだろう。よし、これで一件落着。すっきりした……はずなのだけれど、なぜか十分温まったはずの温泉に使っているはずの身体にブルッと震えが走る。
「男………? 男が……どうして女湯に入っているんですかッ!!?」
「や、それは―――」
 怒鳴られたら反射的に誤って言い訳する……悲しいまでに卑屈な根性が染み付いてしまっているけれど、思わず振り返ったあたしを待っていたのは希代香さんの身体から立ち上る雷と、全身が訴える命の危険だった。
「このバカ、温泉で雷眼を使うヤツがあるか!!!」
 ―――雷眼って……え、ええええええ!?
 留美先生の怒鳴り声に含まれていた単語が、あたしにある相手を連想させる。……が、その前にあたしの生命を守るほうが最優先だ。
「今すぐこの場から消え去りなさい!!!」
「ひええええ〜、ま、魔力壁―――!!!」
 左手を突き出し、高圧縮した魔力を放って壁とする。
 せっかく完治したばかりの腕が再びズタズタになることに構ってはいられないけれど……希代香さんの瞳から放たれた視界を埋め尽くさんばかりの電撃を防ぎはしたものの、いまいち収束が甘かったらしく、その衝撃全てを殺すことまでは出来ない。あたしの身体は温泉を隔てる垣根に叩きつけられ、一瞬で粉々に砕かれて燃え尽きた垣根の灰と共に男湯へと叩き込まれてしまった。
「ほ…ほえほえ〜……」
 辛うじて立ち上がれたけれど、吹っ飛ばされて水面に叩きつけられた衝撃で目が完全に回っている。このままだと間違いなく雷眼の連撃で今度こそ死ぬな〜…と思っていたら、怨敵を睨みつけるような視線をあたしへ向けていた希代香さんの肩に留美先生が手を置き、間に割って入ってきた。
「希代香、落ち着け。たくや以外にマーメイドたちをすくう手立てが他にあるのか?」
「ですが、あの人は男です。性別を偽ってまで女湯にもぐりこむなんて、なんて破廉恥な……!」
「女湯に潜入するために神剣まで持ち出すのか? 本人もあの身体では男湯にも入れず困っているんだし、後から入浴しに来たのは私たちなのだから、少しは我慢しろ」
「けど………」
「たくやがお前に何かしたわけではあるまい。もしその怒りをぶつけるとしたら、それは別の男に…だろう?」
「………すみませんでした」
 留美先生に諭された希代香さんは唇を噛み締めてますます渋面になり、やがて仕方がないとしぶしぶ納得すると、それでもあたしから離れるように温泉の端に腰を下ろす。
「たくや、生きてるか? あ〜あ、また左腕をそんなにボロボロにして。思い切りがいいのかもしれんが、長く旅をしたいのならもっと自分の身体を大事にしろ」
「ふぁ〜い、らいりょうぶれす〜……しょ、しょれよりあのひとってもしかしてぇ〜……」
「一言では説明しにくいんだが……揉め事になるぐらいだったら、面倒くさがらずに最初に説明しておくべきだった。あいつの名前は希代香=アッキヤ。由緒正しい貴族のご令嬢だ。……百年前はな」
 百年前……また聞かされたその言葉がキーワードになり、あたしの推測が正解であることを確信する。
「今の名は希代香=ノースト=アッキヤ……とでも言うべきかな。百年前にここの海へ身を投げて自ら命を断ちながらも、海龍王と一つになって生き長らえてしまった不遇な女だ」



「―――以前、私がこの村を訪れたのは百年ほど前のことだ」
 垣根はなくなってしまったものの、魔力放出で再び傷を負った腕を治療してもらったあたしは男湯に、怒りもある程度収まり、むしろ落ち込んだ表情で女湯の隅に希代香さんが、そしてあたしたちを再び争わせないようにと垣根付近の女湯に留美先生がそれぞれ位置取る。
 重みを増したように感じられる白い湯気でうっすらと輪郭がぼやけて見える希代香さんは、留美先生が自分の事を話し始めても黙して語らない。そのことが、今から話されることが希代香さんにとって決して良い思い出ではないのだと言う証でもある。
 ―――聞かれるのがイヤなら、無理して聞こうとは思わないけれど……
 でも、この村で百年前に何があったのかは気になる。
 留美先生が海龍王と戦い、封印したのが百年前。その頃から留美先生は今と変わらず存在し続けている。それも知りたい謎の一つではあるけれど、今は留美先生と希代香さんの間に、そして希代香さんと海龍王の間に何があったのかを聞くことの方が先決だ……と緊張した面持ちで耳を傾けていると、
「その時、希代香は男に振られてな」
 留美先生がいきなりぶっちゃけた。
「る、留美、もう少し言い方というものがあるのではないですか!?」
 たまらず叫ぶ希代香さん。そりゃそうだろう、いきなり自分の失恋話から切り出されたのだから。
「ではどこから話し直す? お前がこの村に医者としてきていた事からか? 悪い男と気づかずに騙されてエロいことをしたところか? どのみち、ふられたショックで身を投げた事は変わりはしない。細かく説明するだけ時間の無駄……それにその辺りには触れて欲しくない話もあるだろう?」
「ですけど……」
「たくやは他人の秘密を言いふらすような人間ではないさ」
 留美先生からそこまで信頼を得ていることは素直に嬉しい。希代香さんもじっとあたしの方を見詰めた後、諦めたようにため息をついて話の先を促した。
「後はよくある話だ。人の魂がゴーストに変化するのと同様に、この世への未練が残っていた希代香の魂は悪霊の類になりかけていたんだが、同じように振られた直後の海龍王がその魂を身体ごと飲み込んだんだ」
「………る、留美、もう少し言い方を考えてもらえませんか?」
「魔王の書と戦ったあの大空洞はそもそも、東の空竜王と子作りするための“寝室”だったんだ。けれど出入り口を海底にしか作らなかったことが原因で喧嘩をしてな」
「………それ以上言うと、私も怒りますよ?」
「そういう理由で二人の魂は同調し、一つになった。その後は大暴れだ。振られた鬱憤を晴らすために電撃を放つは水を吐くわ。漁村は火の海になり、海岸線もずいぶん形を変えた。まあ、振られた女は恐ろしいという良い例えだな」
「…………………」
 希代香さんはもう何を言っても無駄だと悟ったのか、俯いて口を閉ざしてしまう。離れた位置でお湯に身体を浸らせているあたしの目に、彼女の肩が震えているように見えるのは気のせいだろうか?
「その時の私は、二人に落ち着かせようと説得を続けていたが、同調し、融合した二人の魂は狂ったまま暴れ続けるだけだった、仕方なく私は七日七晩に及ぶ激戦の末に、ここの海底に放置されていた並行空間に希代香と海龍王を封じ込めた……」
 平行空間と言うと、現実の空間からずらして重なり合うようにして存在する空間……だったか。依然、こことは違う温泉街で偶然足を踏み入れたときのことを思い出す。
「それは古代魔法文明時代に作りかけられたまま放置された不完全な平行空間だった。試験的に作成したものだったのだろうが、ゲートの構造に問題があり、海龍王の巨体を通す際に強引に押し広げて、誰も中には踏み入れられなくなり、そして中から外へ出ることも不可能になった……」
「………………」
 留美先生の言葉には、当時に希代香さんや海龍王さんを救えなかった後悔が見え隠れしている。まるで時間が止まったかのような静寂が温泉に広がる。
 百年……口にすれば簡単な言葉でも、実際に百年を平行空間の中で……おそらく誰もいない場所で過ごさなければいけなかった寂しさはどれほどのものだったろうか。長命種であるドラゴンにとってはたいした事がなくても、魂の半分は希代香さんと言う人間。愛する人に裏切られた深い傷を抱えたまま、一人ぼっちの海の中でどれだけの時を過ごしたのかなんて、あたしには想像することも出来ない。
「留美先生は……もしかして、希代香さんを助けるためにこの村に来たんですか?」
「私の旅は馬任せ。今回ここに来たのもほんの偶然だった……千年も生きているとな、大陸中でそんな話ばかりさ。悲劇が起きても何も感じなくなり、やがては退屈な日々の中に悲しみの記憶は埋もれていく」
 そう言うけれど、湯気を揺らす声には後悔の色が含まれていて、とても何も感じていないようには思えない。
 留美先生と希代香さんのお互いの呼び方を聞けば、親しい間柄であることはすぐにわかる。そんな相手の悲しみに気づけぬまま、みすみす海に身を投げさせ、竜と一体になって村に襲い掛かってきたからと言う理由で百年も封印したのだ。忘れると言うほうが話に無理がある。
 ―――留美先生……希代香さんを助けてあげられてよかったですね……
 そう心の中で囁くと、話を終えた留美先生が顔を上げてあたしへと目を向ける。微笑を湛えるその表情は、まるであたしを感謝しているようにも見えるけれど、昔話をして照れているようにも見える。
「紆余曲折はあったが、希代香は平行空間から無事に開放された。けれど、魂は海龍王と完全に合一している。人間としての記憶も龍としての記憶も持ったままな。元々希代香は治療術師として優秀な魔道師だっただけに、百年の間にこうして人間の姿に変化する術も完成させたらしい。そもそも多くのドラゴンは竜人になる術を心得ているが、王の位を関するほどの力を持つドラゴンが人と化す話は私も初耳だ」
「………今は人としての後悔もありません。再び現世に戻れた今は、以前と変わらず海龍王として南の海を統治するだけです」
 留美先生の言葉を引き継ぐように口を開いた希代香さんは、いつの間にか垣根のあった傍まで近づいてきていた。そこでわずかに逡巡を見せ、それでも境界線を越えて男湯へと入ってくると、きっと温泉の熱で火照った頬を赤く染めながらあたしのいる場所までやってきた。
「………お願いがあります」
 希代香さんのような美人の憂いを帯びた瞳に見つめられては、どんなお願いでも引き受けないわけにはいかない。あたしは軽い緊張を体中に行き渡らせると、躊躇いながらも続く希代香さんの言葉を心して受け止めた。
「………マーメイドたちを、SEXしてはくださいませんか?」


 それがどれだけ無茶なお願いであろうとも、ノーと言えない自分が恨めしかった……


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