第十一章「賢者」38


 たくやたちが村はずれの洞窟を探索に出かけた一方で、姿を消した留美は三体のマーマンを引き連れて漁村の沖合いにいた。
 海底で魔法戦を繰り広げた時のように水を身体に纏わせて水着代わりにしているのではなく、三時間×三回で九時間ものSEXの余韻の残る身体を包んでいるのは、緑のワンピースの上にゆったりとした白のドレスローブと言う組み合わせだ。暑い漁村にあわせて袖は肘上と短く、その着こなしとスタイルの良さゆえに頭からばっさりかぶっている黒い布と言う印象の強い魔道師ローブとは思えないほどスタイリッシュにまとめられている。
 さながらドレスのような出で立ちで腰を当てて進むのは、沖合いは沖合いでも、海中だ。身体の周囲をかぜの結界で作り出した気泡で包み、暗い海の底を水流を操って進んでいる。その後ろから付いてくるマーマンたちも、海棲種族の自分たちですら足を踏み入れようとしないくらい海の底を、迷いなく進んでいく留美に疑念を隠しきれないが、住処を徹底的に破壊し尽くした凶悪な人間の魔道師に合えて質問の言葉を投げかけようとしない。
 その代わりに―――
『ギィ―――!!! 貴様貴様貴様ァ、このダゴン様をこんな格好で引っ張っていくとはどういう了見だギ―――――――――!?』
 ノーストの大錨と繋がる伸縮自在の鎖でグルグル巻きにされ、身動き取れないまま連行されているダゴンが歯軋りしながら叫んでいた。
 さながら肉団子のように丸められているのだ、恨み言の一つも言いたくなる気持ちはわかるが、例え海神が所有すべきノーストの大錨を振り回したとしても決して勝てないほどの実力差のある相手に暴言を吐くたびに、どのような惨劇が行われるのかとマーマンたちはビクビクと震えていた。
『我ら、何でお供させられてるんだキ……』
『時間が言ったりきたりって話も訳わかんないキ……』
『でも人間のメシは美味かったキ……♪』
 三者三様に怯えたりウンザリしたり反芻したりしているマーマンたちだが、留美は背後の様子を差して気にしてはいない。空気中よりも振動の伝達が速い水中なのだから声が聞こえていないわけではないのだが、変わり映えのしない暗い海底のあちらこちらをキョロキョロ見回しながら先へと進み、
「うむ、ここだな」
 そう言って留美が泡の動きを止めたのは、他の場所との違いなどほとんどない場所だ。時折モンスターより不気味な形状の深海魚が横を通り過ぎていくが、美女魔道師はやはり気に留める様子も、「きゃーこわいー」と悲鳴を上げる様子もなく、大きく息を吸って集中力を昂ぶらせていく。
「少し下がっていたほうがいいぞ。大丈夫だとは思うが、今から行う術式に巻き込まれて体が粉砕されても私は責任をもてんからな」
『チョ―――――――!? な、何でそんな危険なことするのに我らを連れてきたんだギ――――――!?』
「一人では静か過ぎるのでな。にぎやかし要因だ」
『ふざけるんじゃないギ―――――――――!!!』
「ああ、そう言えばそこの一番うるさいの。お前には別の用件がある」
 留美が内側から泡に手を触れると、水中であるはずの眼前に同心円を描く波紋が垂直に広がっていく。
「………もしもの時の生贄だ」
『チョ―――――――――――――――――――!!?』
「ははは、冗談だよ。ただ会うついでにこの錨を返してやったほうがいいのではないかと思ってな」
 こんな海の底で会うって誰に……マーマンたちが首を捻り気配を背後に感じながら、留美は魔力を集中させていく。
「―――我の眼前にあるは大海を隔てる門」
 呪文を唇から紡がれる……人間の魔法体系を知らないマーマンたちではあるが、海中であっても凛として響き渡るような留美の声に身を引き締めてしまう。
「―――我の眼前にあるは大門を封じる錠」
 前に伸ばした手が、結界によって隔てられた“海”の表面を指先でなぞる。
「―――我が掌中にはあるは門を破砕する槌」
 波紋が増える。
「―――我が指先にはあるは錠を開け放つ鍵」
 ガラスを擦り合わせるような軋む音が響く。
「―――虚空の海に漂いしは南海を束ねる龍神よ」
 波紋はいつしか形を変え、まるで無数の花弁を持つ蓮の花のように海中に広がっていく。
「―――虚空の海に揺いしは蒼海を駆ける龍神よ」
 音はいつしか規則的に刻まれる。
「―――我は一時開け放つ」
 水中に咲いた波紋の蓮華は、呪文を重ねるに従い、幾十、幾百と花弁の数を増やし、
「―――汝と我の絆を糧に、龍神よ、我の声に耳を傾けたまえ」
 深く暗い海の底に堂々と花を開き、咲き誇る。
『な、な、な、何をしているんだギ様は――――――――――!!?』
「………無粋だな。美しいものを前にして、声を荒げるな」
 結界越しに“海”に手を触れたまま、留美が背後を振り返る。すると、海中では幻かのように揺らいで見えていた蓮華の花がほんのりと光を帯び始め、薄暗い海底を柔らかい光で照らしだした。
「何をしているかと問われても、私のしていた事はとうに終わったさ。以前は作れなかった“門”をこしらえただけだし」
『も…モンかギ……?』
 海棲モンスターは海底の岩場の陰や洞窟を住処とするため、門や壁と言った建築物に関する知識はあまり持ち合わせていない。
「簡単に言えば出入り口だ。こちらと“あちら側”を繋いだ……ただそれだけのことさ」
『訳がわからんギ』
「なんだ。全ての海を統べるのが目標と聞いていたのだが、オツムはまるっきり馬鹿だな。何も考えていないから大それたことが言えるだけなのか?」
『ギギギギギッ…ちょっと強いからって調子に乗ってるギ……!』
「ふふっ、調子に乗っているのはそちらだろう。たかがマーマン“ごとき”が」
 わざと“ごとき”の部分を強調すると、プライドを刺激されたダゴンが鎖で雁字搦めにされたまま留美に向けて牙を剥く。けれど、それすらも子供が威嚇してくるのと同様にしか感じずに、
「―――どうしてお前たちがこの海の支配者ヅラをしていられる?」
 問う。
「―――どうしてマーメイドが一部族丸ごと消えたのに“海王”は姿を見せない?」
 答えは無い。当然だ。ダゴンもマーマンも事実を知らないのだから。
 今の彼らが横暴に振舞えるのは、それを戒める“存在”がいないからだ。もう何十年も姿を見せない上位の存在などいないも同然。中には生まれてから一度として“海王”を目にした者もマーマンの中には少なくないだろう。
 ―――ここへは、本当に久しぶりに訪れたからな。
 マーマンは知らない。……だが“人間”である留美は知っている。
 当時、この地方の海がどれだけの脅威に晒されていたか。
 倒すわけにはいかず封印するしかなく、万能を自負しながらも深い海の底では“門”を作ることすらままならない。それは出入り口のない“檻”だ。人間を、亜人を、モンスターたちを守るために、その当時は“彼女”を閉じ込めるしか他に手はなかった。
 ―――けれど、それを簡単に為しえる力を手に入れた……偶然とは恐いものだな。
 波紋で形作った蓮華型魔導式に流しているのは留美の魔力だ。だが蓮華型魔導式を形成するのに用いた魔力は留美のものではない。
 いつしか波紋は上の端が見えないほどに巨大に“成長”した。まさに満開。海の底に花開いた直立型魔導式は明滅することなく徐々に輝きの力強さを増し、その中央を留美たちのいる側へと盛り上がらせ始める。
「お前たちには私の古い友人に会わせてやる。出来ればアイツの許可を貰いたいのでな。その後のことは―――」
 どこか自慢げに言葉を紡いでいた留美だが、不意に言葉を区切り、眉をしかめながら空いたほうの手の平を下腹部に押し当てる。
『どうかしたギか? 腹でも痛いギか?』
「………なんでもない。それより気をつけたほうがいいぞ。そろそろお出ましだ」
 そして、海底が悲鳴を上げた。
 明らかに海水が奏でるものではない異音が周囲に響き渡った。ガラスを爪で引っかくような耳障りな音が波紋の蓮華の中央から鳴り、ダゴンやマーマンたちが身悶える。
 巨大な物質が……いや生物が“門”を潜り抜けようとしていた。見上げる魔法陣の中央から人やマーマンなど一飲みにしそうな巨大な顎が突き出される。だが魔法陣の裏側には何も存在しない。まるで暗幕で覆い隠された隠し部屋から舞台の上に現れるかのように、顎から頭部が、そして長大な首が、大量の海水を巻き込みながら留美たちの頭上を通り抜けていく。
『も、も、も、もしや海龍王様だギィィィ!!?』
「ふふふ……懐かしいだろう? それとも目にするのは初めてか? どうだ、南の海を統べるこいつを前にして大言を吐けるものなら吐いてみるがいい」
 目を見開き、口をあんぐり開けたダゴンとマーマンたちは、一斉に首を横に振る。たとえ海神の武具であるノーストの大錨があっても、その海神“本体”に勝てるわけがない。光り輝く蓮華の花を通り抜けてきた巨体が海底の空を覆いつくのを見れば、否が応でもそのスケールの違いを思い知らされてしまう。
 そんなマーマンたちの驚愕の表情に、留美は満足の笑みを浮かべると、人間が海に浮かべる巨船よりもなお巨大な海龍の動きに巻き込まれる海水の流れに結界の泡を乗せ、その頭部の傍にまで移動する。
「久しいな。どうだ、あの頃の傷は癒えたか、南海の王よ」
『………あの時の小さきものか。癒えたもなにも、百年以上もの間、我をただ一人で閉じ込めたのはお主ではないか。することがなく、ずいぶんと暇であったぞ』
「だが傷を負って力の制御が出来なくなったお前をあのままにしておけば、このあたりの人間も動物もモンスターも全て全滅していた。放っておくわけにはいかなかったんだよ。許してくれ」
『ふふ……許すも何も、むしろ感謝しているくらいさ。我のこの身体では自由に実を動かすこともままならなかったからな。“もう一つの海”ではのんびりと過ごさせてもらったが……その時間は終わりを迎えたようだな』
「ああ、お前のいない間に人間もモンスターも少し増長したらしい。マーメイドが一部族ごと、おそらく“聖域”あたりに捕らわれている」
『ほう……あそこにか。それで我に筋を通しに来たと言うのか。相変わらず律儀よな。だからこそ其方は信頼できる。あの日の約束どおり、我をこちら側へと呼び戻してくれたのだから』
「それは偶然だ。“夫”の力も借りたしな」
『ははは、単身で狂った我を打ち倒した其方が今では番(つがい)か。面白い、我の知らぬ間に世界はずいぶんと変わってしまったようだ』
 その巨大な身体には帆のような背びれが広がっている。その四肢は足ではなく海を行く鰭(ひれ)。胴体よりも長い首とそれに負けぬほど長い尾まで含めた全長は、大型の海棲モンスターであるサーペントはおろかクラーケンすらも凌駕する、まさに“海の王”にふさわしい圧倒的なまでの威容を誇っている。
 だがその頭部には瞳がない。大きさを除けば蛇にも似た形状だが、本来なら瞳があるべき場所には何もないのだが、それでも魔法陣の“向こう側”から現れた“南海の王”は、留美を頭上に乗せると、目的地である“聖域”に向けて一直線に泳航し始める。
『さあ行こうか、急ごうか、“古き友”よ。そのために我を呼んだのであろう?』


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