第十一章「賢者」00予告編


 その馬車は舗装のされていない道をゆっくりと進んでいた。
 街や村の間を行き来する一般的な交通手段として用いられるのは乗合馬車だ。十何人もの客を乗せた大型の馬車にはモンスターや盗賊に襲われた際に対処するために雇われた冒険者や傭兵が用心棒として同乗する。乗客は多少割高な料金を支払うことになるが、個人で用心棒を雇うのに比べれば格段に割安で“ある程度”安全な移動を行える。
 だが整備されていない街道を行くその馬車は、多少大型であるものの個人所有のものだった。
 馬二頭が引くその馬車は標準的な旅行仕様の車体だ。頑丈な造りをしているけれど、外装は華美にならない程度に品よく装飾が施されている。さして目立ちはしないものの製作者と所有者の美的センスが窺える外見だ。
 だが、その御者台に座っている姿には誰もが驚きの眼差しを向けるかもしれない。
 フルプレート……多少角ばった黒鉄の鎧に頭から爪先まで完全に覆い尽くした姿は、とてもではないが旅向きとは言えない。しかも南部域の年中暑い気候では、黒い地肌むき出しの鎧は太陽の光を浴びて加熱し、その中は蒸し風呂同然だろう。「きっと鎧の表面で卵が焼ける」と思ってしまうほどに奇異な格好だ。
 唯一涼しげに思えるのはフルフェイスの兜の頭頂から首や背中へと垂れ下がる飾り髪で、小石に乗り上げて馬車が揺れるたびに馬の尻尾と同じように小さく揺れている。
「―――このあたりもあまり変わり映えしなくなったな」
 御者台とは完全に分離した馬車の内部は、ただ一人の人間のための個室になっていた。
 寝台を兼ねた向かい合わせの座席。その下に備えられた衣装ケース、反対側は書棚。折りたたみ式のテーブルに、壁の一部には冷蔵用の魔法が施された古代魔術道具の箱まで備え付けられていて、旅の間はほとんど口に出来ない冷たい飲み物までもが常備されている。
 決して広いとは言えない車内だが、一人の人間が生活するには十分なスペースと設備が整っていた。―――だがしかし、どれほど高級な設備を整えて長旅でも快適な空間を作ったとしても、散らかっていてはその意味がぼやけてしまうような気がする。
 床や座席には読み終えた本がうず高く積まれ、文字や図形がびっしり書き込まれた紙が空になったワインのボトルと共に車内に散乱している。脱いだ服は向かいの座席に適当に放り投げられていて、収納性と居住性を両立して設計された馬車の内部は、さながら自分にだらしない女性の部屋そのものと化していた。
 しかし仮に、この馬車の中を目にしたとして大喜びする人間はいる。―――もちろん偏った趣味や性癖を持ったものではない。
 積み上げられた書物は魔術、錬金術、地理、歴史、数術、天文、軍略、はては恋愛や軍記物を題材にした小説などジャンルは幅広いが、重要なのはそこではない。秩序なく放られている紙に書き込まれている内容こそが、多くの分野の学者たちにとって宝の山そのものだった。
 新しい魔導式理論、画期的な金属精製術、未踏破地域の詳細な地形、歴史の真実へ近づく新解釈、読み解くだけで数年はかかる複雑な計算式、天体の運行と魔力との相関関係、各国の軍事力とそれを背景にした世界規模戦略―――とても一人の人間が生み出したとは思えない数々の成果が、例えこの内の一枚でも世に出れば大金に換わる知識の山が、この馬車の中には掘っても掘っても掘りつくせぬ金鉱のように散乱しているのだ。
 だが、この馬車の主である女性にとってそれらは紙くず同然の無価値なものでしかないのだが……
「退屈だな……」
 馬車の座席に腰掛けて窓枠に肘を付いた女性は、口に咥えた長めのキセルを揺らしながら、そう呟く。長い髪の毛先を指先で弄び、それにも一分とせずに飽きると、左右共に変わり映えのしない景色にも見飽きて、欠伸をしながら体を伸ばした。
 その女性は体はラインが浮かび上がり程フィットした黒いドレスに包まれていた。肩からは薄手のカーディガンを羽織っているが、およそ旅には不向きと思える服装だ。しかしながら、乳房のふくよかな丸みと、車内を見る限りかなり自堕落な生活を送っていそうな女性とは思えないほど均整の取れた官能的なまでのボディーラインを強調するその服は、女性にとてもよく似合っていた。バストにもヒップにもタップリと肉が乗り切っていて、若いだけの女性では決して持ち得ない濃厚な色気をかもし出している。そして脚を組みかえれば腰骨にまで届く深いスリットから張りのある太股が露わになり、足首に向かうにつれて絞り込まれていく無駄のない美しさを惜しげもなくさらけ出す。
 この場に男性が一人でもいれば、それは誘っているとも取れる行動なのだが、あいにくと車内には当の女性本人しかいない。御者台とも完全に分離されている空間は彼女一人だけのものではあるが、話し相手もいないのでは、どうやっても退屈を解消するなど出来るはずがなかった。
「やれやれ……私のような女でも付き合ってくれる婿殿でも探した方がいいかもしれないな」
 それも絶対無理だろうけど……自分がどんな男にも、それこそ世界で最も富を有するクラウド王国の王であろうとも持て余す女である事を自覚しているだけに、何を今さらと肩をすくめてため息を突く。
「確かに今さらだな……」
 つまらない思索をめぐらせるぐらいなら窓の外でも眺めている方が有益だった。いっそ目に映る石の数を全て数えて合算してみるかと無駄な労力を費やす算段をしていると、車内をさまよってた視線がしおり代わりに本に挟んでいたカードに吸い寄せられる。
「………友人の忠告など気にするべきではなかった」
 本の山の随分と下の方。一体何年前にそうしたか思い出せないような位置の本から、角が飛び出していたカードだけを引き抜く。
「私の運命がたった一枚のカードに決められてしまうとはな」
 描かれているのは馬が二頭で引いている馬車だった。このカード自体、手渡されたのはどれだけ昔のことか思い出せないが、魔力を帯びたカードは今なお色褪せておらず、何十何百何千回と見つめてきた絵柄は変わる事無くそこに存在している。
 よく見れば、その絵柄は女性が乗っている馬車とそっくりだった。それもそのはず、乗っている馬車は皮肉を込めてわざわざ同じデザインにするよう特注で作らせたのだから。
 だが一点だけ異なるところがある。現実の馬車には鎧姿の御者が乗っているのに対し、カードに描かれた馬車には御者が誰も乗っていない点だ。
 このカードを渡したのは女性の友人だった。彼女の人生を占い、その結果として『御者のいない馬車』のカードを差し出した。
 ―――意味するのは『当てのない放浪』とはよく言ったものだ。
 馬車を引くのが馬ならば、その馬を的確に操らなければ行き先も決まらない。そして友人の占いの結果どおりに、彼女の旅は確たる目的もなく、この数年を大陸中をただ巡るだけの行動だった。それでも当初は見聞を広められ、新鮮な驚きを得ることも多かったが、大陸中に張り巡らされている街道をほとんど記憶してしまうほどに大陸中を旅し続けた彼女には、目に映る何もかもが記憶にある出来事の焼き直しとしか映らなかった。
「そう言えば、あいつとはもう何年も顔をあわせていないな。どうせクラウディアに腰を落ち着けているとも思えんが……」
 友人を探す事を目的に行動を起こすのも一興かと思ったが、それも無駄かとすぐに首を振る。そしてキセルを口に咥えてゆっくりと息を吐くと……馬車がそれほど揺れていない事に気がついた。
 ―――舗装でもしたか。この道、以前通った時には岩だらけでかなり通りづらかったからな。
 頭の中に地図を呼び出して現在位置を確認。過去に三回通っているが、そのどれもが車内で上下左右に身体を揺さぶられる酷いものだったと記憶している。
 そもそもこの道の先には、小さな漁師の村があるだけだ。小さな宿には小さな温泉があって、美味い魚貝が食べられると言うぐらいで、さして観光地と言うわけでもない。沖にはマーマン(半魚人)やマーメイドなど海棲モンスターのテリトリーがあり、大規模な港湾設備を整える事も難しい場所なので、国もその村の住民しか必要としない街道の舗装には消極的だったはずだ。
 加えて、このあたりの地盤はかなり固い。ツルハシやショベルも下手すればはじき返されるほどで、人力による舗装工事も思うように行かない。最初に道を作った時などは、最終手段として攻性魔法で派手に吹き飛ばしたと聞いている。
「ふむ……この難所を随分と平らに均(なら)しているじゃないか」
 馬車が先に進むと、どうやら未だ舗装工事の途中らしく、幅が広くなった道の左右で幾人もの工夫(こうふ)たちが働いていた。岩だらけの荒れた街道を舗装した技術と労力を想像し、馬車を止めて敬意を示そうかとも―――
「………デュラハン、馬車を止めろ」
 天井に取り付けられた伝令管を引き寄せ、御者台に短く命じると、女性は馬車が停止するよりも早く扉を開け、舗装途中の街道へと降り立った。
「すまない、少し尋ねたい事がある。どうやってこの道を平らに均した? どのような魔法を使ったのだ?」
 近くにいた労働者を呼び止め、いきなり話を切り出す。少し前まで退屈で死にそうな顔をしていたのだが、女性の顔には好奇心が、そして瞳には疑念の輝きが感じられた。
 だがそんなものを見て取れるほど、その工夫は蒼明ではない………が、娼婦のように自分の性的な魅力を強調する服装をした美女に迫られて、思わず視線を下の方へと向けてしまう。
「お前では話にならんか。すまない、少し尋ねたい事があるのだが―――」
 だが工夫がじっくりと女性の胸元を観賞しようとした時には、既に別の工夫を引き止めて話を聞いていた。そんなやり取りを数回繰り返し、やっと話の分かる責任者らしき工夫を捕まえると、その男は難しい顔をしている女性にカンラカンラと笑いながら口を開いた。
「お前さん、なかなか鋭いねェ。確かにその通り。今回の工事はちょっと変わった方法で行われてね、たった一週間で岩とか厄介なところを全部均しちまったのさ」
「先に言っておくが自慢話なら不要だ。無駄な話に付き合いたくはないのでな。それよりも、かなり大規模な魔法を使ったはずだが、それはどういうものだったんだ? 差し障りなければ聞かせていただきたい」
「大規模? いんや、そんなことないぞ。なにせ今回の工事は漁師の村がなけなしの金でギルドに依頼してきたものだからの。建築系の魔法使いを雇うほどの余裕はなかったんじゃ」
「そんなはずはない。魔道師でなければ分からないだろうが、この周囲には特異な魔力が残留している。なにがしかの魔法を使ったのは明白なのだ」
「いや、本当なんじゃがのう」
 女性の口調は言葉を紡ぐごとに加熱し、対する工夫の男性は女性が何を誤解しているのか分からずポリポリとこめかみを掻く。
「実はの、最初は安く済ませて欲しいと言う話じゃったんじゃ。まあモンスターを刺激せん程度の漁しかできん村に金を出せと言うのも酷なもんでの。とりあえずやれるだけやってみようっちゅー話になったんじゃが……最近、マーマンどもが頻繁に人間を襲うようになってのォ」
 なんでも夜な夜な若い女性を求めて漁師の村の中を彷徨うまでになっているらしい。どうして急に村や人を襲うようになったか原因は定かではないが、追い返そうとした村人に怪我人も出ている。
「そったら噂が流れてもうたもんで必要な数の工夫も集まらんかったんじゃ。そしたらの、冒険者ギルドに足を運んだらちょーど女二人の冒険者がやってきたんじゃ。これ幸いとワシら工事責任者全員で土下座して泣き落としで護衛の仕事を引き受けてもらうように頼んだんじゃ。ギルドを通さんかったら手数料もいらんからのう」
「それは……」
 その女性二人組みの冒険者たちに思わず同情してしまう。ある意味、工夫たちの方がモンスターより性質が悪いのかもしれない。
 もうこの時になると、女性も無理して話を急ぐ事もしなくなった。急かして聞き出して情報に間違いがあっても困るし、相手のリズムに合わせると言うのも話を聞きだす上では大事だ。
「まあ、その二人がかなりの美人での、男どもがいいところを見せよう思うてガーッとやる気になったのはいいんじゃが、やっぱりこの道を舗装するのは資金的に難しくてのう……そしたらの、女冒険者の一人が工事用のハンマーを手にして、こう、グワーと振り回して、ドッカーンと道のデコボコを吹き飛ばしてしもうたんじゃ」
「………魔法ではなかったのですか?」
「違う違う。ワシも何度か魔法も使う大規模工事に関わった事がある。じゃがあの娘っ子は呪文を唱えとらんかった。まあ固い岩盤や岩を次々粉砕した“あれ”が魔法じゃないとは言い切れんがの。―――じゃがその子のおかげで、たった一週間で大雑把ではあるが八割以上は工程が進んだわい」
 女性は工事主任の男と連れ添い歩きながら眉をひそめ、地面に目を向ける。
 聞いた限りでは、何か強力な衝撃波を生む術で地面を削り取ったのだろう。工事用のハンマーを媒介にした……と言う事は強力な魔法具を使ったわけでもない。
 ―――しかし、それでは周囲に漂っている“この魔力”の説明がつかない。
 漂う魔力の属性から女性が推測する魔法が使われた場合、呪文詠唱だけでなく魔方陣によるサポートも不可欠な超高等魔術のはず。一般的に建築で用いられる難易度Aの物質破壊や難易度Sの次元喪失よりも遥かに上、あえてランクをつけるなら間違いなく難易度SSSとなる。
 それ以前に、地面を平らに均すだけならば衝撃波で十分だ。難易度SSSの大魔法を使えるほどの魔法使いなら、使えて当然のレベルの魔法なのだ。
 だが実際には、何の呪文詠唱も魔方陣のサポートも使わず、ただの工事用のハンマーで、たかが街道の舗装には不必要なほどの高レベルの魔法を、しかも何度も繰り返し使用している。―――それはまるで、一匹のアリを潰すのに周囲を取り囲むように高々と城壁を作ってから崩壊させて押しつぶすぐらいに滅茶苦茶な話だ。
「んで、これがその冒険者さんが壊していったハンマーの残骸じゃ」
 気がつけば、女性は街道の隅に積み上げられたくず鉄の山の前へ連れてこられていた。
「思いっきり吹っ飛ばすのは一日三回が体力的に限度らしいが、ハンマーも九本が粉々になっての。結構な出費じゃが工事期間が大幅短縮できた事を考えれば安いもんじゃ」
「そうですか……」
 工事主任の言葉に適当に返事を返すと、女性はドレスが汚れるのも厭わずに膝を突き、ハンマーの残骸から欠片を一つ手に取る。
 ―――強力な魔力を帯びている……自然鉱石でもありえない魔力量を精錬された金属が有しているのか。
 地中で長い年月をかけて魔力を帯びるに至った金属でも、溶かしたり叩いたり伸ばしたりすれば、自然形成された魔力回路は潰され消えうせ、含有していた魔力も全て失われる。有名な魔法金属であるミスリル銀も、ドワーフのような特殊な技術を有している鍛冶師が扱えば素晴らしい魔法剣を生み出すが、普通の鍛冶屋が扱えばただの金属に成り下がって普通の剣士か生み出せなくなってしまう。
 逆に、一度精錬した金属に魔力を帯びさせる方法は、現在では失われていると言っていい。表面に紋章を刻む、魔法石を柄に取り憑けるなど外部に魔力を付加させる事は出来ても、金属自体を魔法金属とする技術は失われた古代魔法文明でも高度な技術であり、その存在が示唆される記述が発見されているぐらいで確たる再現には至っていないのだ。
 ―――私でもその方法にたどり着いていないと言うのに、それを成し得る者がいる……面白い、久しぶりに面白いと感じるな。
 女性は嬉しそうに唇を吊り上げると、ハンマーの残骸を握り締めて立ち上がる。そして工事主任へ向き直ると、
「ご説明、ありがとうございました。大変参考になりました。心より感謝いたします」
「な〜に、若い女性と二人きりで話などするのは久しぶりじゃったから、ちょっと張り切ってしもうたわい」
「若い女性……ですか。―――ああ、そうだ。この金属の山、街へ持って帰ったらマジックショップへ持っていくといいでしょう。鍛冶師の元もよいかもしれませんが、正当な評価を得るならばいっそ魔法ギルドへ持っていくのがいいかもしれない。くず鉄屋でぞんざいに扱われるのは勿体無さ過ぎる」
「ほう? なんかよー分からんが、高く買ってくれるならどこへでも持っていくぞ」
「それがいいでしょう。―――あともう一つお聞きしたい。件の女冒険者はどこへいかれました? 見たところ、工夫たちの中に女性の姿はありませんでしたが……」
「彼女らなら先を急ぐたびとか言うとったのう……護衛を頼んでおった今日の朝まで付き合ってくれたのじゃが、その後は街に戻って図書館に行くと言うておった。調べものがあるそうな」
「なるほど、街に帰りましたか」
「いいや、あっちじゃ」
 工事主任の男が指差したのは街とは逆方向。女性が乗っていた馬車の向かっていた方向であり、街道の先が至る場所である漁師達の村のほうだった。
「いざお別れと言う時に、漁師の村から依頼を受けたという男二人組みがやって来たんじゃ。そいつら、事もあろうにワシ等のアイドルたくやちゃんにいきなり抱きつきおってのう……思い出しただけでも腹がたつ!―――もっともその男はすぐさまたくやちゃんに殴り倒されたんじゃが、男の方がこれまたゾンビみたいにすぐ復活しおって、追いかけられて村の方に走って行っちまったんじゃ」
「そうですか……それにしても“たくや”とは、あまり女性には向かない名前ですね」
 「確かにその通り」と工事主任が相槌を打ち、二人して楽しそうに笑いあうと、女性は丁寧に礼を述べ、自分の馬車へと戻る。そして乗り込む前に御者台から動かいていなかった鎧姿の御者に短く告げる。
「デュラハン、目的地はこの先の村だ。急いでくれ」
「………ガッ」
 簡潔な指示を受け、デュラハンと呼ばれた鎧姿の男は女性が馬車に乗り込むのと同時に手綱を操り、馬を歩かせ始めた。
 ―――面白い……
 先ほどまで話していた工事主任や興味を持って馬車に視線を向けてくるものたちに笑顔で手を振りながらも、既に興味はこの先にいる“たくや”と呼ばれる女冒険者へと注がれていた。
「ふふふ……私が“面白い”と思うなんて随分と珍しいとは思わないか」
 思いがけず出会えた興味対象の出現にほくそえみながら、女性は車内に投げ出していた馬車の絵のカードを指で挟んで眼前にかざす。
「なあ啓子、お前でもこの出会いは分からなかったのか? それともいつかこうなると知って私にこのカードを手渡したのか?」
 指先でカードを表裏にクルリと一回転させると、既にそれは御者のいない馬車が描かれたカードではなくなっていた。
 白―――何年も色あせなかった絵が綺麗に消え去り、彼女の運命を暗示していたカードは絵が描かれる前の真っ白いカードへと変わっていた。
「本当に面白いと、そう思うよ……一体これは何を意味しているんだろうな………」
 窓から流れ込んでくる風に、少しずつ潮の香りが混ざり始める。
 出会いの時は近い……女性は無造作に本を一冊拾い上げると、適当に開いて白紙のカードを挟み、閉じる。この本はもう開く事はないだろうと、そんな予感を抱きながら。
「分からないからこそ人生は楽しく、だからこそ心地好い……のだろうな」
 街道を抜けた先には水平線にまで届く青い海が広がっていた。それは決まってしまっていた運命から解き放たれた女性の目にどのように映ったことだろうか―――


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