第3話その1


「相原君、お疲れ〜〜」 「はぁ…お、お疲れ様でした……」  やっと終わった…演劇の練習って、あたしが思ってたよりもよっぽど疲れるなぁ……  もうすぐ宮野森学園の秋の名物、学園祭が盛大に行われると言う事もあり、美由紀さん率いる演劇部の練習は 日に日に厳しさを増していた。 「ふぅ……」  衣替えの時期も過ぎて、最近めっきり寒くなってきたけれど練習用ステージには主役の美由紀さんやあたしの かいた汗がライトの熱気で蒸発し、かなり湿気た空気が漂っている。  ライトが消された舞台から降り、タオルで首筋から白い布を巻きつけただけのような衣装へと流れ落ちていく 汗を拭いながら大きなガラスで隔てられた部室へと移動した。  演劇部の部室はかなり本格的な物で、かなり広めの部室には一通りの音響設備も整っている。けれど多くの舞 台衣装やフィルム棚などが所狭しと並べられているため、広々とした舞台に比べてこちら側はものすごく狭く感 じてしまう。  そしてそんな室内を日光や人の目から遮る様にいつも閉められている窓を覆うカーテンの隙間から何気なく視 線を外へと向けると、そこは既に真っ暗。部の尊厳のためか己の利益のためかは知らないけれど、放課後返上で 学園祭の準備に残っていた生徒もほとんど帰り、校舎に明かりがついているのは職員室以外には見当たらない。 練習ですっかり時間の感覚がなくなっていたあたしは、自分たちが居残り組の一番最後なのだとその時になって ようやく気づく事ができた。  はぁぁ…こんな事なら手伝うなんて言うんじゃなかった……最近明日香も一緒に帰ってくれないし、そのせい か怒りっぽいし……おかげで朝も起こしてもらえないし、教室じゃ後ろから視線が突き刺さるし、話し掛けよう としても無視されるし……もう針の筵(むしろ)よね…… 「はぁぁ……」  ここ数日の明日香の機嫌の悪さを思い出し、長々と溜息をつく。そして胸の空気が全て外に出てしまった直後、 まだほんのり湿り気が残る肩に、ポンっと軽く手を乗せられる。 「どうしたの、窓の外見て溜息なんかついちゃって」  振りかえると、そこには美由紀さんが立っていた。あたしが着ているのとお揃いの舞台衣装からいつの間にや らエンジのブレザーへと着替えを既に終えていて、ぼんやりと真っ暗な外を眺めていたあたしに気遣うような目 を向けている。 「あ、美由紀さん…もう着替えたの?」 「だって急がないと校門が閉まっちゃうもの。本当は付き添ってくれてるはずの先生も眠たいって先に帰っちゃ ったもんだから、少しでも早く出ないと公務員さんに怒られるのよ」 「それじゃあたしも早く着替えないと…って、他の人は?」 「みんなは先に帰ったわよ。最後の方は私と相原君の見せ場だったもの。その間に着替えをすませておいて、片 づけが終わったらさっさと。薄情よねぇ」 「そ…そうですか、帰っちゃったんですか…ははは……」  と言う事は、夜の部室にあたしと美由紀さんの二人っきり……これは…ちょっと危険かも……  演劇部部長を勤める美由紀さんは、普段は真面目で明るくて思いやりもあってスゴくいい人なんだけど、演劇 になると完全にその役になりきってしまい、「暴走」してしまうのだ。  なにも暴れ出すとかそう言うんじゃないんだけど……今日の練習ではキスが四回に胸タッチが三回、お尻も鷲 掴みにされ、あわや押し倒されそうにも……押し倒されるのは台本にもあるシーンなんだけど……  実際、はじめてあたしが演劇部の練習に参加した日には「暴走」した美由紀さんに劇でも冗談でもなく本当に押 し倒され、他の女の子部員三人が見つめる前でレズってしまったという過去もある。  そんなわけで、美由紀さんが「普段」はいたって真面目な人だと言う事は重々承知なんだけれど、なにかと身の 危険を感じてしまうのはしょうがない。舞台上ではもっと近くにまで顔を寄せたりするんだけど、それ以上は近 づいてこないで欲しいと言う意思表示みたいに腕を体の前で組み、すすっと横へと移動する。 「あ、ごめんねぇ。私が見てると着替えにくいよね」 「えっと…そう言うのとは違うんですけど……」 「う〜ん…じゃあ疲れたの? 今日は相原君に合わせてゆっくりやったつもりなんだけどね」  と、止められなきゃ恋人になりきって衣装を脱がすぐらいに暴走しておいて……まぁ、美由紀さんの熱心な指 導のおかげで、あたしの演技も何とか見られる物になったみたいだけど…… 「でも本当にごめんね。科学部の方も準備で忙しいんでしょうけど、こっちの練習にばっかりつき合わせて」 「あ、それはいいの。今年は千里の「まともだった」発明品を並べるだけだから。それに科学部に近付こうとする 物好きな生徒ってほとんどいないから…あはは……」  あたしがいない分は弘二に頑張ってってお願いしてあるしね。ただ…デートの約束はどうしようかな…う〜ん …しらばっくれよう。  ――とまぁ、そんな事を考えているうちにあたしも制服へと着替え終わる。美由紀さんがあたしに迫ってくる と言う恐るべき事態――どっちかって言うと、美由紀さんは美人だしスタイルもいいから、内心はちょっと期待 してたりもしてたんだけど――もなく、あたしは汗の匂いを気にしながらもカバンを手にして更衣室の代わりに 利用している派手な衣装の群れから外に出た。 「お待たせ。さ、それじゃ帰りましょ」 「相原君、この後ひま?」 「へ? い、いきなり何を……まぁ、今から家に帰ってご飯を食べて寝るだけだけど」 「よかったら今からご飯食べに行かない? 知り合いに美味しい中華料理店やってる人がいるのよ。相原君には お世話になってるからそのお礼って言う事でね」  ちゅ…中華……ラーメンと餃子って言う落ちじゃないよね……美味しい中華……  目の前に並ぶご馳走(想像ではラーメンと餃子と冷凍シュウマイなんだけど)、立ち上る香ばしい香り(想像で は餃子なんだけど)、蕩けるような味わい(想像ではラーメンなんだけど)……ううう…貧乏舌がものすごく悲し い……  そんなものすごく貧しい想像ではあるけれど、練習で疲れたあたしのおなかを刺激するには十分過ぎる。話を 聞いた途端、背中がくっつくほどペコペコになっていたお腹からキュルルルルルルル〜〜っと恥ずかしくも、と ても自分に正直な音が部室内におおきく鳴り響いた。 「あ…あう……中華……」  いけない…口の中が涎で一杯……こぼれちゃいそう…… 「OKみたいね。それじゃ行こっか」  臨時のあたしも含めて一番熱心に練習していたのに微塵の疲れも見せずに明るい声でそう言うと、美由紀さん は美味しい中華を想像してぼんやりしていたあたしの手を引きながら廊下への扉を開ける。  あたしも引かれるまま付いていっていたけれど、美由紀さんはなぜか廊下に出たところで立ち止まり、慣性に 従ってその背中に顔をぶつける羽目になってしまった。 「あたたた…美由紀さん、どうしたの?」  我に帰ったあたしはぶつけた鼻を押さえながら首を伸ばして美由紀さんの肩越しに向こう側――廊下に視線を 送る。するとそこには―― 「あ、やっと出てきた。人を何分待たせるのよ、まったく」 「明日香…なんでここに?」 「なんでって…うちのクラスの準備もずいぶん遅く終わったから…それでたまたま時間がよかったから待ってた だけよ。それだけなんだからね」  まだ時計を見てないから正確な時間はわからないんだけど……クラスの連中がこんな時間まで真面目に準備を しているとも思えない。仮にそうだったとしても追いこみの時期でもないのに、クラスの出し物と演劇部の練習 の終わる時間とではずいぶん違うはず。  きっと明日香が待っていてくれたんだ……それが正解である事を表すように、あたしの視線に気付いた明日香 は恥ずかしそうに顔を背けた。 「……ほら、もう時間も遅いんだからさっさと帰るわよ!」  しばしの沈黙の跡、恥ずかしさを紛らわせる様に明日香が少し大きめの声でそう言うと、あたしの手を掴んで 引っ張っていこうとする。  けど――それを阻むかのように美由紀さんの腕があたしの首に絡みついてきた。 「帰っちゃダメよ。相原君は私とお食事に行くんだから」 「………たくや、それどう言う事?」 「へ? へ? へ?」  確かにさっき誘われたっけ……でも、それがどう言う事かって言うのは…… 「あの…演劇部に付き合ってくれてるお礼だって……」 「! ちょっと渡辺さん、たくやに変なちょっかいを出すのはやめてもらえませんか!?」 「べっつにぃ。これって単なる感謝の気持ちだもの。片桐さんにあれこれ言われる事じゃないと思うんだけど」  み、美由紀さん、なんだか明日香を刺激するような言い方を…って、胸が…押しつけられてる……  それこそあたしたちの仲のよさ(?)を明日香に見せ付ける様に、美由紀さんは唇があたしの耳に触れそうなぐ らいに自分の体をあたしの背中に押しつけてくる。耳の裏側やうなじに汗の湿り気も伴った熱い吐息を吹き掛け られ、まるで肌を撫でられるような感触に身を振るわせ、その一方であたしよりも大きな胸が制服越しにでも伝 えてくる温もりと柔らかさに蕩けそうな気分になってしまう…… 「………学生がこんな時間から遊びに行くのも問題有ると思うけど?」  ギュウウウウウ〜〜  いた、痛い痛い痛い! 明日香さん、ちょっと、手に力込め過ぎ!! 手首に爪が食いこんでるぅ!! 「いまどきそんなの律儀に守ってる子なんていないわよ、ね、相原君♪」  ああっ! 息が、美由紀さんの息が耳元に! それに背中の方が物凄い状態になってるんですけどぉ!!  地獄と天国が前と後ろに広がる状況……もしにやけた顔をしようものなら明日香に握られている手首から骨も 折れよと言わんばかりに激痛が走り、そうするとその痛みを和らげようとするかの如く、美由紀さんもFカップ の巨乳をふにふにと押しつけてくる。  もはや進む事も引く事もできず、そうしている間にも二人の視線は火花を散らし、明かりはついているけど少 し薄暗い廊下にさらに険悪なムードが充満していく。 「……悪いんですけど…たくやに変な事をするのはやめてもらえませんか?」 「変な事って? 相原君が演劇部を手伝ってくれるのは自分で決めたことなんだから、片桐さんが口を挟む事じ ゃないと思うけど?」 「そうじゃなくて…今あなたがしている事です!」 「これは単なるスキンシップ。目くじら立てて怒る事じゃないでしょ?」  いや、これは、もうスキンシップの域を越えてるんですけど…気持ちいいし…あうっ! また手が、明日香の 手がぁぁぁ!! 「お…怒ってなんか!」 「ふぅん…もしかして片桐さん、焼いてるの? 私と相原君が仲良くしてるのが…」 「なっ!?」  そりゃ怒りもするだろうなぁ……きっと、ここ最近の雰囲気を少しでも解消しようとあたしの事を長い時間待 っててくれたんだろうけど、その結果がこれじゃ……  まさに美由紀さんの言葉は図星だった様で、明日香の顔が一種驚きの表情を見せると恥ずかしさで見る見る真 っ赤に染まっていく。  ヤバい…これじゃ、明日以降さらに雰囲気が悪くなっちゃう…… 「あの…美由紀さん、そろそろ……」 「よかったらあたしと付き合う? 相原君さえよかったら、学園祭の後も、男に戻ってからも……」 「……へ?」  これ以上続くと血の雨が降りそうだと思い、あたしが何とか身をよじって背後の美由紀さんに振り向いた直後、 とんでもない爆弾発言がその唇から飛び出てきた。 「そ、それどう言う事よ! たくやは…たくやはあたしの!」 「恋人なんでしょ? それは知ってるけど、二人は結婚しているわけじゃないし、相原君だってこんなに束縛す る彼女はいやでしょ?」  同意を求められても困るんですけど…… 「そんなのダメ、絶対にダメぇ!!」 「選ぶのは相原君よ。それとも、幼なじみとか恋人とか、そんな肩書きがないと縛りつけておけないほど、自分 に魅力がないの?」 「魅力って、胸の大きさだけじゃないでしょう!!」 「じゃあ…勝負してみる?」  徹底的に明日香の心中を言い当てて怒りを煽った美由紀さんは、明日香から目をそらせると学園祭間近の為に 廊下に張られた出店のチラシの一枚を指差し、つられて明日香とあたしもそちらへ目を向けた。 「あれで勝負して、勝った方が相原君と付き合うの。どう?」 「………いいわ。それで勝負してあげる」  自信満々の美由紀さんに、もはや後には引けなくなった明日香もゆっくりと顔を縦に肯かせる。  その紙には派手な色彩でデカデカとこう書いてあった。 『秋の学園祭・美人コンテスト』


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