ルート2−2


 ああ……どうしてこう言う風になっちゃうのかな……  少し古めな一軒家に男の一人暮し……さぞや中はものすごいものだろうという予想を裏切り、年末にやってき た母親に大掃除されたと言う室内はかなり綺麗だった。  三人仲良く(?)初詣をした後、あたしと明日香は家に戻るバスを途中で降りて宮村先生に誘われるがままに先 生のお宅にお邪魔し、そして三人でコタツを囲んでの新年勉強会の始めたのであった。  さすがと言うか意外と言うか、いつも朗らかな笑みを絶やさない宮村先生だけど、それでも名門宮野森学園の 教師。担当の国語は言うに及ばず、数学や英語、受験に必要な科目のほとんどを教えてくれて、その上に先生の 持っている参考書は初級から東大レベルまでそりゃもう至れり尽せり。  家にはあたしたち三人しかいない。テレビもラジオもついていない。  明日香に無理やり連れていかれた進学塾の年末講習のうるささとは程遠い集中できる環境で、あたしも明日香 も自分の苦手な科目の勉強を黙々とこなしていた……はずだったんだけど……  うっ……胸…苦しい……あ、足も…痺れがぁぁぁ……!  勉強をはじめて一時間ほどたっただろうか、あたしはすでにかなりグロッキー状態になっていた。  原因はあたしの着ている着物。普通の服と違って汚したりしわをつけるわけにはいかないのだ。  そんなわけで長い袖が鉛筆の黒で汚れないかを気にし、脚は正座したまま崩す事もできずに座布団を太股の間 にはさんでも指先の感覚が無くなっちゃうほどに痺れまくってる。  とどめとばかりに襲いかかってくるのは胸の圧迫感だ。なにしろ夏美に「美しく着物を着こなすためなのよ!」 とか言われて帯でぎゅうぎゅうと締め付けられて胸を目立たないように押さえつけられ、そんな格好でコタツに 向かって勉強していれば息苦しさも倍増しちゃうのだ。 「はぁぁ……んっ……」 「相原、さっきからため息ばかりだぞ。そんなに難しい問題か?」 「あ、いえいえ、そう言うわけじゃないんですけど……」  あたしの筆はさっきからぜんぜん進んでいない。それを心配して横から覗き込んできた宮村先生に心配させま いと愛想笑いを返す。 「本番はもっと長丁場だ。休憩までがんばれよ。どれ、どんなのがわからないんだ?」  わからないわけじゃないんだけどなぁ……でもまぁ、教えてくれるって言うんなら……  あたしが苦しんでいるって言うのにさっぱり気づいていない先生が、まるで寄り添うような場所に移動してき て問題集を覗き込んでくる。 「あっ……」 「これか。この言葉は「散りなんひとぞ」にかかってだな――」  肩に先生の胸が触れる。細身に見えるけど結構たくましい感触に体を緊張させ、説明に集中しようとしても熱 心に語る先生の吐く息が首筋にまとわり付くたびにくすぐったくて肩をすくめてしまう。  どうしよう。なんだかすごく意識しちゃう……学園の授業じゃこんなに近くで話すことなんて無かったし……  もし男のままだったら「はぁ、なるほど」で済ませてしまうかもしれないけれど、女になってから大勢の男の人 にエッチな目にあわされてきたあたしは人畜無害の宮村先生にもついついそう言う事を思い出して警戒してしま うのか、妙に意識してしまうのだ。  温もり、吐息、声の調子、臭い、指先の動き、弾力。  先生がそばにいる。ただそれだけの事なのに、あたしの意識は先生からもたらされる感覚で少しずつ満たされ てしまっていく。  うわ、なんだか胸がドキドキしてきちゃった。顔も熱くなってきて、先生の説明なんて耳に入らないよ…… 「――だからこれは館から「去る人」と「桜が散る」と言う二重の意味を持っているわけだ。ここまではわかるか?」 「え……えっ? ええ、はい、わかります、わかりますよ」 「そうか。じゃあ後は自分で答えを考えてみてくれ。何事も考えないとただの丸暗記になってしまうからな」 「は、はぁ……」  先生の顔が見れない。風邪でも引いたかの様に火照る自分の顔を見せられず、熱心に説明してくれた先生に御 礼の一つも言いたいけれど顔を上げられないまま生返事を返すしかなかった。  そんな時だ。 「先生。ここの解法を教えて欲しいんですけど」 「んっ、片桐もか? どれ、ちょっと待て」  まただ。今日の明日香、なんか変だな……  明日香に呼ばれた先生はあたしのそばからコタツの反対側へと移動すると、今までのあたしのように横から腕 を伸ばして説明をはじめた。  でも…いつもの明日香なら難関大学レベルも平気な顔をして解いてるのに、今日に限って質問を繰り返してる。 そのたびにあたしの目の前で、明日香は宮村先生と仲よさそうに…… 「この場合のcosθが√3/2だから角度は30度で、二等分線である事を考えれば三角形DEFは正三角形 になって――」 「ああ、だからこの辺の長さは5+√3で――」 「後は公式に当てはめるだけだからわかるな?」 「はい。どうもありがとうございます」  あんまり集中できていないあたしとは違い、明日香は説明を受ければすぐに理解してしまう。そのたびに二人 は笑顔を浮かべ……あああああっ!! 先生の手が明日香の肩にぃ!! 大丈夫だって理性で分かってるんだけ ど、本能的になんだかやだ……え〜ん、こんな環境で集中なんてできるわけ無いじゃないのよぉ〜〜〜!!  先生も明日香の方が質問をするからあっち側にずっといる。そしてあたしの目の前には恋仲の幼馴染と知的で 年上の男性とのツーショットという精神的にかなり悪い光景が繰り広げられる。  しかも明日香がコートの下に着ていたセーターは肩から胸元、背中が大きく開いていた。冬場なんだから胸の 谷間が見えるようなものと言うわけじゃないけど、幼馴染に美しさを改めて実感させられる白いラインに先生の 体が重なるたびにズキッと胸が痛んでしまう。  明日香も入やがる素振りを見せない。先生も気にしない。勉強に集中している二人にはそれは些細な事なんだ ろうけど見せ付けられるあたしの心中は穏やかではない。二人の会話が聞こえるだけでどんなに集中しようとし ても知らないうちに湧き上がる嫉妬の感情で全てが吹き飛んでしまう。  ………もしかして…明日香、宮村先生に気があるんじゃ……………は…ははは…まさか……  千里の研究が遅れているせいであたしは女のまま、長い時間を過ごしている。その間もちゃんと明日香と付き 合ってるし、一緒にいると男の野生(もしくは本能?)が刺激されて、そのまま二人で…なんていう、他の人なら 同性愛者と言われてしまう事だってやっちゃってる。  だけど、今のままじゃあたしと明日香は女同士。不自然な関係をいつまでも続けるわけにはいかない……その 結末を想像しちゃうと、あたしの心は新年が明けたばかりなのにどんよりと重くなってしまう。  学園でも屈指の秀才の明日香、そしてその明日香と勉強の会話をそつ無くこなせてしまう宮村先生。こうして みればお似合いなのかもしれない……もともと宮野森に入れたことが奇跡に近いあたしが男に戻って明日香と一 緒にいるよりも……  ……いやな事考えてるな……もし本当にこんな着物が似合う女の子になっちゃたら……あたしはどうしたらい いんだろ…… 「…………はぁぁ…」 「ずいぶんと疲れてるようだな。さっきからぜんぜん進んでないじゃないか」 「あっ………すみません……ちょっと気分が優れなくて……」  手に持っているシャーペンの先はさっき教えてもらった場所から一ミリも動いていない。何も書かれていない 解答欄に穴でもあけようとしてるみたいにペン先は押しつけられていた。 「………まぁ、気分が乗らないときに勉強しても身につかないからな。よし、ここらで休憩を入れよう。気分転 換に何か飲み物を持ってくるよ」 「あっ…だったらあたしも手伝います」 「いやいや。相原も片桐もゆっくり休んでいてくれ。こう見えても、ちゃんと家事は一通りこなせるんだからな」  相違って手を振りながら先生が部屋から出て行くと、あたしと明日香の二人っきり。  なんだか……話し掛けづらいな。あんなに先生とばっかり話をしてた明日香とは…… 「んっ! んんん〜〜〜!!……ふぅ。もう少し続けてもよかったんだけどなぁ」  そんなあたしの思いを知るはずも無く、明日香は組んだ両手を上げて背筋を伸ばすと問題集の上に肘をついて あたしから視線をそらしてしまう。  子供の頃からの付き合いのあたしには、それがあたしを避けている態度だと言うのはすぐに見て取れた。  部屋の空気が重苦しい。  あたしは明日香に宮村先生の事を語り掛ける言葉も勇気も無く、  明日香もあたしに瞳を向けることは無く、いつもの凛とした表情を潜めさせて、ぼんやりと明かりの差し込む 窓の方を見つめていた。  遠くから宮村先生が立てているのであろう、台所からの音だけが聞こえてくる空間。すぐに戻ってくると思わ れた先生はなかなか帰ってこず、あたしと明日香はコタツに向かい合って据わっているのに向き合う事は無く、 短くも長く感じられる時間を身じろぎする事さえ遠慮してジッと過ごしていた。  時計の針は正確に時を刻む。リズミカルな音は感覚以上に長い時間を演出する。  速いのか…遅いのか…意識に徐々に浸透していく時間の足音は、無言を保ったままのあたしたちの間に無遠慮 に響き渡る。  そして、時間の音は何回なっただろうか、不意に、 「あ、明日香、あのね……」 「宮村先生の事…どう思う?」  同時につむがれたあたしと明日香の声が静寂の空間に波紋のように広がっていく。  だけど、あたしのなんとか絞り出した囁くような声は明日香の声にかき消されていた。その結果、次の言葉を つむがない明日香に代わって、あたしが何かをしゃべらなければならない。 「宮村先生……いい先生だと…思うよ。やさしいし、頭も良いみたいだし、親身になって相談に乗ってくれるし ……」 「そう……そうよね、やっぱり……」  こんな事を聞くって言う事は…やっぱり明日香は……  あたしの答えを聞いても、明日香はこちらを見ようとはしない。  どうして……一言いってくれれば、あたしもなにか行動が取れるのに……  もし明日香が宮村先生を好きだと言ったら、あたしは泣いちゃうだろうか? 怒るだろうか? それとも笑っ て祝福できるだろうか?  わからない……わからないから不安になり、不安になるから余計なことを考えて、もっとわからなくなってい く……明日香が何を考えていくのかわからなくなっていく…… 「……………あのね…たくや……」  長い長い間を取って、ようやく明日かがもう一度口を開いた。  けど、あたしはその言葉が恐かった。  けど、あたしはその言葉を聞きたかった。  あたしは遮る事もできたはず……だけど、晴れやかな着物をまとった体をおびえるように一度震わせた後は、 背中を丸め、ただ黙って俯いているだけだった。 「たくや……あのね…私………」 「……………………………………………」 「私ね………ちゃんと……祝福してあげるからね」 「………………………………………………………………は?」  祝福……されるの? あたしが? 明日香に? なんで? どうして?  あたしの頭の中では明日香と宮村先生がくっついてそれをちゃんと祝ってあげるとか言う想像はあったけれど、 明日香の言葉はそれと微妙に違っていた。 「その…たくやも女の子になっちゃったんだから……女同士じゃなくて、ちゃんと男の人と…その……」 「ちょっ…ちょっとちょっと!! なに言ってるのよ、祝福とか男がどうだって…いったい何の話?」 「だから、その……たくやは宮村先生の事…好きなんでしょ? だから私…周りがたくやのことをどう言ったっ てちゃんと……」 「そこが違う!! 宮村先生を好きなのって…明日香じゃないの?」 「な、なんで私が!!」  バンッ、とコタツの台に両手を叩きつけると、明日香はあたしに食って掛かりそうな勢いで腰を上げた。  習性的に怒られると思って後退さってしまい、痺れた足が思うように動かず尻餅をついたあたしの顔を明日香 がにらみつける。  その目に涙がにじんでいた。どうして明日香が泣いているのかはわからないけど、もしかすると顔を背けてい たのはこれを隠すためだったんじゃないだろうか? 「だって…明日香、いつもだったらすらすら解いちゃう問題でも質問してたじゃない。まるで先生の気を引くみ たいに……」 「それは、先生がたくやのそばにいると…その…嫉妬しちゃって……それにたくやだって、あたしが先生といる と悲しそうな顔してたじゃない。あれは先生と引き離されたからじゃ……」 「どうしてそうなるのよ! あれは明日香と先生が引っ付きすぎで、ちょっと悔しかったって言うか……」 「…………………………」 「…………………………」 「…………………………」 「…………………………」 「…………………………」 「…………………………」 「………………………え〜と……簡単にするとね」  明日香は腰を下ろすと、難しい顔をしてこめかみに指を当てる。あたしもそれに習い…いや、習おうとするん だけど、足が痺れて膝から下が動かなくって、いたたたた。 「私たちって、二人そろって勘違いしてたの?」 「そ、そうじゃないかな? こうやってお互いの目の前で男の人とべったりされると…あたたたた、脚がぁぁぁ !!」 「……………………ぷっ!」 「……あ、あはははは♪」  顔がほころぶ。笑い声が漏れる。  それまでの重苦しい空気を吹き払うかのように、コタツに手をついて必死に座りなおそうとするあたしを見て 明日香が噴き出し、あたしも恥ずかしさを誤魔化すかのように照れ笑いを浮かべてしまう。 「まったく…二人そろって何を考えてたんだか。ほんと馬鹿ばかしいったらありゃしない」 「あたしはなんだかホッとしちゃったな。そうかぁ、宮村先生って明日香のタイプじゃないもんね」 「あら? のんびりしてる所はたくやにそっくりなんじゃない?」 「えっ、じゃあやっぱり!?」 「冗談よ、冗談。あ〜あ、なんでこんなのに惚れてるのかな、私って。すぐに女になってさぁ…ふふふ♪」  足を投げ出し、足袋を履いた指先の痺れが抜けるのを待つあたしを見つめる明日香の顔は、あたしが見慣れて いるいつもの明日香の笑顔だった。  うん、明日香にはやっぱり笑顔が似合うよね。あたしもその方が落ちつくし。あ〜あ、余計な心配しちゃった なぁ。 「お? どうしたんだ二人とも。なにか楽しい事でもあったのか?」  お互いの顔を見てはいつまでも笑い続けていると、そこに宮村先生がお盆を持って戻ってきた。 「ええ、ちょっといろいろあっちゃって。ね、明日香♪」 「そうね。先生のことで色々とね。ふふふ…♪」 「俺のことでか? いやぁ、二人のようなかわいい娘に噂してもらえるとはありがたいな。さぁさぁ、正月らし く甘酒を作って来たから飲んでくれ。なかなかの自信作だぞ」  あたしたちの言葉に動じる様子も無く――もっとも宮村先生がそんな事を考えるとあたしたちも思ってないけ ど――、先生はお盆に載ったお湯のみをあたしと明日香の前においてくれる。 「あっ…なんだかいい香りですね。湯気だけで胸の奥からあったまるような……………あれ?」  ある程度痺れの取れた足をコタツの中に入れながらお湯のみを両手で包むと、ペンを強く握りすぎて緊張して いた指先の疲れが陶器の温もりでスッ…と取れていく。  ところがだ。いざ口をつけて飲もうとした時、あたしの目はお湯飲みの中のある事に気づいてしまう。  甘酒なら酒粕から作るので白く濁っているはずだ。だけど胸に染み入るような甘い香りを放つ液体はお湯飲み の底が見えるほど透き通っていた。  クンクン……そういえばこの匂いって…まさか日本酒!? 「せ、先生、これってお酒じゃないんですか!?」 「ああ。甘酒なんだから当然お酒だな」 「そうじゃなくて! 甘酒じゃなくて日本酒でしょ!?」 「よくわかったな。いや、甘酒を作ろうと思ったんだが取っておいた酒粕を年末に粕汁で使ったのを忘れていて な。だから代用品に田舎の地酒を使ってみたんだ。先生も子供の頃から飲んでたから味は保証するぞ」 「保証されても飲めるはず無いでしょう! あたしは学生なんですよ!!」 「いいじゃないか。正月なんだし、俺も学園に報告するような事はしないって。それに相原の歳なら飲んでも別 に不思議じゃないだろう?」(18禁ゲームの登場人物は「大人」だと認識されます) 「あ、あたしは飲みません。明日香も――」  コクッ、コクッ、コクッ、コクッ―― 「あ………あれ? 明日香…さん?」  先生に幾ら怒っても柳の様にのほほんと躱されてしまうだけだ。だから明日香にも飲んじゃダメだと言おうと して、首を横に向けた時には…………………時、既に遅し。 「………はぁ…なんだかこれ…スゴく美味しいですね。フルーティーで蕩けるような滑らかさ……ハァ…体の内 側からぽかぽかしてきちゃった」 「片桐は気に入ってくれたようだな。お代わりはたくさんあるから鍋ごと持ってくるか」 「ええ、頂きます♪ ね、たくや♪」 「ほえ? え…えっと、その、あの……」  明日香にしては珍しく、なにも気付かなかったみたいで……気分がよくなっていた事も手伝って、日本酒で作 られたという謎の甘酒をあたしの目の前で喉を鳴らして飲み干してしまっていた。 「ほらぁ、美味しいからたくやも飲んでみてよ。早くしないと冷めちゃうじゃない」 「あのさ……どうしても飲まなきゃダメ?」 「だめ。ほら、早くぅ……」  たった一杯でここまで酔っちゃうものなんだろうか……見る見るうちに頬をピンク色に染めていく明日香に勧 められては、あたしは逃げる事ができなかった。  ………ええいっ! 一杯だけ、一杯だけなら酔ったり倒れたりしないわよ!!  覚悟を決めた。  あたしは甘い湯気を漂わせるお湯飲みを強く握り締めると、その中身を一気に喉の奥へと流しこんだ――


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