stage1「フジエーダ攻防戦」37


―――炸裂。
―――爆音。
―――衝撃。
―――熱風
 黒い魔道師のはなったファイヤーボールがあたしの背後で弾け、凶悪な熱量を周囲へ撒き散らす。
 メイド服が汚れてほつれるのを頭から追い出し、地面へ転がって肌を焼く空気から逃れる。すぐさま起き上がったあたしの耳に聞こえてきたのは、追い討ちを掛けるヘルファイアの呪文詠唱の声だ。
「なに考えてんのよ!」
 横っ飛びでその場を離れると、わずかな間の後に地面へ光の円陣が描かれ、炎が噴き上げる。それを横目に見つつ足元の瓦礫から手ごろなものを拾い上げると、佐野めがけて投げつける。
「はははははっ! それで抵抗のつもりかい? やはり君は可愛らしい哀願動物である事に変わりはないらしいね!」
 うわぁ……あたしに押しつぶされたの、まだ根に持ってるよ。大人気ないなぁ。
 高笑いしているけれど、佐野は二度も鼻血を流した事がよっぽど屈辱だったらしい。加減もフェミニストっぷりも忘れて、直撃しただけで骨も残さず焼け死ねそうな火炎系魔法を次々と繰り出してくる。
 けれどガーディアンに振り落とされて佐野の上に落っこちたのは偶然だし、膝蹴りと爪先蹴りも痴漢変態に対する基本的な報復攻撃だ。―――と、そんな事を考えている内に、佐野の手に炎の玉が燃え上がる。
「男を惑わす売女め。この僕の心の痛みと屈辱、その身を持ってあがなうといい!」
「こらまて。あたしがいつ男を惑わしたぁ!!」
「惑わしたとも! 清い心の持ち主であるこの僕が! 清廉潔白なこの僕が! 君と言う女性に何度誘惑され、そのたびに心を痛めたと思っているんだ! これは罪だ、万死に値する!」
「あんたのどぉっこが清い心の持ち主よ! そんな奴が娼館でエッチな事しようと思うはずないでしょうが!」
「ぼ、僕は娼館になんて行っていない。い…行くはずないじゃないか、あんなところ!」
「嘘ばっかり。金貨百枚って言ったら分かるかしら? あんたの悪行は歓楽街中に広がってたんだから!」
「知らない、知らない、知らない! それは僕じゃない、僕ほどの高貴な人間が下賎な売女に劣情を抱くものか! それはきっと他人だ。そうだ、僕の名前をかたる他人なんだ!」
「あ〜、それとも健忘症でもうすっかり忘れちゃったとか? 若作りでアレは全然勃たないとか? おかわいそうに、おほほほほ♪」
―――ブチッ
「き……き……キィィサァァァマァァァァ!!!」
 うわ、佐野をからかうのってすっごい楽しい。ああん、なんか快感覚えちゃう♪
 ちょっと魅すれば火炎魔法を喰らって一巻の終わりだというのに、佐野をおちょくる口先だけは止められない。頭は良いのにプライドが高すぎるから、あたしの一言一言に不必要なまでに反応してくれる。なんともからかいがいのある相手だ。
「―――ッ!!」
 けれど喋りながら走り回れば、体力の消耗も激しい、足がもつれたところにファイヤーボールの爆風を受け、焼け焦げた瓦礫の上に倒れこんでしまう。
「ふっ…ふはははは……て、てこずらせてくれたじゃないか。いいざまだね、ひひゃ、ひひゃひゃひゃひゃ!」
 けど、あたし以上に疲れているのは佐野のほうだ。あれだけ喋りながら呪文の詠唱もやって魔法制御の精神集中もやっていたんだから、あたしから見てもヤバそうなぐらいに酸欠になっている。勝ち誇ってあたしへ近づいてこようとしているけれど、その足元もおぼつかない様子で、荒い呼吸を繰り返しながら右へ右へと体が傾いで行く。……あれはきっと、手にした杖が重いんだろう。
「まったく……想像以上に二流……ううん、三流以下の魔法使いよね、あんたって」
「な…に…?」
 あたしの言葉に、佐野の顔色が変わる。
 本気であたしを倒したいのなら、勝ち誇る前に威力が弱くてもすぐさま魔法を使えばよかった。それで避けられないあたしはダメージを受け、そこでこの鬼ごっこも終わりになったはずだ。
 おかげであたしは、ゆっくり立ち上がるだけの時間を得ることが出来た。そしてメイド服の汚れをはたく。
「状況判断もまずいし、魔法の狙いはあいまい。威力の大きい呪文ばっかり使って、絡め手も何もないじゃない。ヘルファイアなんて一対一じゃなく、トラップとかに使う魔法でしょ? 敵を誘い込んで一気に殲滅、それが一番効果的な使い方じゃない」
「な、なにを…知ったような事を……き、君のような女に魔法の何が分かるというんだね。いいかね、魔法とは――」
「魔法は技術の一つであって万能ではない。――あたしの住んでた村じゃ、赤ん坊だって知ってるわよ」
 佐野はうろたえている。あたしに魔法云々で反論されるとは思っていなかったんだろう、あたしの言葉に言い返そうとしても呻き声しか出せず、ただただ困惑した表情を浮かべるだけだった。
「そもそもおかしいのよ。身を隠すものなんてほとんどない場所なんだから、自分の周囲に展開するファイヤーサークル(炎陣)とか、相手を追っかけるホーミングフレア(追尾炎)の方が有効じゃない。それなのに馬鹿の一つ覚えみたいにファイヤーボールとヘルファイアばっかり。それに呪文詠唱も遅くて、あたしでも躱せるんだから。これじゃ明日香に追っかけられてる方が何百倍も手ごわいわよ」
「なっ……なっ…なっ……なあぁぁぁ〜〜〜!!!」
 きちんと言葉を喋って欲しい……まあ、あたしなんかに指摘されたら、魔法使いとしてはそれこそ失格ものだとは思うけど。
 けれど一対一で戦うのなら、佐野はそれほど強い相手じゃない。恐らく魔法使いとしては賢者か大魔法使いの域に達しているんだろうけれど、魔法戦闘にまったく慣れていないのが致命的だ。
「魔法使いならおとなしく後衛に徹してなさいよ。護衛の一人も付けずにこんなところにいるから、あたしなんかにおちょくられるの。わかった?」
「………………」
 ―――あれ? 反応がない。そんなにショックだったのかな?
 立ち尽くしたまま、佐野は動きを見せなくなった。フードをかぶったままではどんな表情をしているのかうかがう事も出来ず、どうにも不気味さを拭いきれない。
 箒があればぶん殴ってやるんだけど……なんでも掃き飛ばせる魔法の箒は詰め所でガーディアンに抱え上げられた時に落としてきてしまった。しかたないので、コブシ大の瓦礫を拾い上げると、狙いを佐野の頭部につけて投げつけようとして―――
「………これは…僕の考えが甘かったようだ」
 佐野が手にした杖を振っただけで、あたしの手の中にあった瓦礫が小刻みに振動したかと思うと、粉々に砕け散った。
「なっ!?」
 慌てて後ろへ飛び退る。そのあたしの足元で見えない何かが弾けて音を立てた。
「あまり動かない方がいい。今の僕は……少々自制心に欠けているからね。君に美しい顔をグシャグシャにしてしまうかもしれないから」
 抑揚のない声。それを聞いて、あたしの背筋に冷たい震えが走る。
 見えない攻撃……佐野が魔法使いである事を考えれば、繰り出している魔法は振動の「ウエイブ」か圧縮空気をぶつける「エア」。
 五大要素の分類で共に「風」に属する系統だけど、エアブリットなら「見えない突っ込み」と言われる様に殴られる感触に近い。あたしの手に振動の余韻が残っている事から、ウエイブブリットかそれに類似する魔法のようだ。
「君の指摘どおり、僕はまだ至らないところがあったらしい。だがこれは……呪文の詠唱を必要としない。さあ………どうする!?」
 ―――ヤバい!
 佐野が身にまとうローブの裾が大きくはためいた。それが杖へ流れ込む空気の動きによるものだと気付くよりも早く、あたしは自分の直感に従って右へ向かって走り始めていた。
「だぁあああああああああっ!!!」
 詠唱無しなんてズルい!……と言い返す暇を与えてくれないぐらいに追いかける振動弾の音が連続して響いてくる。
 瓦礫を破砕し、古びた石畳を割り砕く。遠距離攻撃こそ魔法の真骨頂と言うように、連射される魔法に逃げ惑うことしか出来ず、あたしと佐野の距離はだんだんと開いていく。
「ははははは、逃げるがいい。おびえるがいい。すくむがいい。そのすべてを僕が許可しよう。しかし、それ以外はすべて不許可だ! もう君には敗北以外は残されていない。僕の足元にひざまずき、体を開いて許しを請うしかないのだよ!」
「誰がするか、そんな事ぉ!」
 走りながら一投。小さめの石が不可視の魔力弾を飛び越えて佐野へと向かうけれど、届く直前で明後日の方向へはじかれる。
「振動障壁!?」
「無駄無駄無駄無駄無駄ぁ!! この僕の「ウォーム」の杖に資格はない!」
 マジックアイテム。しかも詠唱無しでこれだけ魔法を連射できるのなら、間違いなく古代魔導器だ。「神器」「遺産」クラスほどではないけれど、かなり高位の物である事は間違いない。
 近づくことも出来ない。石を投げてもあたらない。―――どうしよう? これってもう、逃げるしかない?
「逃がしはしないよ。君ほど僕を侮辱したのは初めてだからね。それに君に美しさは嫌いではない……そうだ。時間をかけてタップリとその罪と僕の素晴らしさを理解させてあげるようじゃないか。そして僕自身の戒めとして、一生飼い続けて上げるとしよう。喜びたまえ!」
「そんな一生真っ平ゴメンだぁぁぁ!!」
「うるさいな。ではまずノドから潰してやろう!」
 ―――――!?
 振動は目に見えない。水面に広がる波紋のようなわずかな空気の揺れを、炎に照らされているだけのこの広場で見極める事は難しい。
 けれど音が響く。チチチと、鳥の鳴き声のような小さな連続音が。
「……………!」
 音の正体はあたしの目の前へ撒き散らされた大量の砂だ。振動弾に触れた無数の砂粒が弾き飛ばされる時に音を奏でる。そしてその音を追えば、砂の中、あたしの喉元へ向かい直進してくる振動弾の姿と浮かび上がっていた。
 避けようとして体が動く。――けれどその必要はなかった。あたしの反応よりも早く、黒い影があたしの前に飛び出してきて、手にした剣で魔法弾を切り払っていた。
「あ……リビングメイルと一緒にいた……」
 飛来する不可視のはずの振動の魔法を連続して切り払ったのは、小柄な黒装束だった。右手に短剣を、左手には箒を持ち、あたしをかばってくれていた。
「あたしを助けに来てくれたの?」
「………………」
 黒装束は無言のまま頷き、箒の柄を差し出した。
 ―――そう。言葉はいらない。スライムとだって意思疎通できるんだから。
 この黒装束とあたしの間には「契約」と言うつながりがある。いつどこでどうやって契約したのかはまだ分からないけれど、命を賭けてでもあたしを守ろうという強い気持ちが伝わってくる。
「―――ありがとうね」
 落としてきた箒を拾い、ここまで追いかけてきてくれた黒装束に短く、けれど心を込めて礼を言うと、あたしは重さを確かめるように箒を両手で正面に構える。
「そっちが魔法の杖なら、こっちは魔法の箒よ。これで条件は同じはず!」
 これ一本あれば結構いろんな事が出来る……要はどんなものでも使い様。箒を握り締めた場所から魔力を流し込むと、箒の先に青い電光が閃き出す。
「そんな箒と僕の杖を同じにするな! それで一体何ができると言うのだ!!」
 佐野のローブがはためき、振動弾が再び放たれる。―――うわ、見えない物は叩き落とせないんだけど!
 条件は何も変わっていないんだと気付いたのは遅いけど、今のあたしには心強い助っ人もいる。駆けつけた黒装束は地面から砂を掴んで振動弾の来ているであろう方向へと投げつけた。
 そして舞う砂の中からさっきも聞いた音が響き、振動が砂の中で陰影として浮かび上がる。それが不可視の振動弾の通り道だ。
「見えさえすればこんなものぉ!」
 足を踏み出し、箒を一閃。黒装束の頭上へと降り抜かれた箒は軽い衝撃を手の平に伝え、飛来していた振動弾をまとめて掃き散らす。
「ば、馬鹿な!」
「手の込んだ手品もネタばれしたらおしまいよね♪」
「そんなはずが…なぜ箒なんかに、箒なんかにぃぃぃ!!」
 空気のはじける音が連続して響く。
 振動弾が散り、広場の空気を震わせる。
 佐野の怒りに任せた単調な攻撃はあたしでも躱せる。完全ではないけれど、不可視の魔法が見られ、聞かれている以上、その優位性は失われている。
 右へ。左へ。黒装束が撒き散らす砂粒の中の振動弾を見極めてステップを踏む。
 躱し、払い、前へと進む。
 回避できる攻撃とは言え、無尽蔵に繰り出されてはいつかはあたしの方が根を上げてしまう。一度のミスが命の危険に繋がりかねない状況は戦うことに慣れていないあたしの精神を容赦なく削り取る。
 避けそこねた振動弾でスカートの裾が引き裂かれる。振動は触れただけでも体に流れ込んでくるから、もっと早く、もっと速く動かなければならない。
 ―――その思いに、体の方が勝手に反応し始める。
 だんだんと跳躍の幅が広がっていく。まるで獣のように低い姿勢で駆け、跳躍する。
 止まらない。
 ただ杖を振り回すだけの佐野ですら視認が追いつかないほど、あたしの動きが加速する。石畳を蹴り、瓦礫の上を飛びまわり、炎で熱せられた空気を割って動く。
 ―――どういうこと…って、考えるだけ無駄なんだろうな。
 自分の体の事を、自分が一番分かってないのかもしれない。けれどやるべき事は分かっている。
 佐野を中心に円を描いていたあたしの動きを、一気に直線に変える。振動弾を放つべく佐野が振り回した佐野の杖の下へ敏捷な黒装束と共に身を低くして、くぐり込む。
「っ―――!?」
 カウンター気味に放たれた箒が佐野の周囲に展開された障壁にはじかれる。
 魔法戦ではさすがにあちらに分がある。不必要なまでに頑丈な結界を殴って敗れない事を感じ取ると、あたしは反撃される前に素早く後退して距離を置いた。
「あ〜、さっきのはいい感じだったのにぃ!」
 自分で分かる改心の一撃を防がれて悔しがる。けれど、ショックの度合いで言うならば、懐にまでやすやすと入り込まれた佐野の方がはるかに大きい。
「馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿なぁあああっ!! 僕が…僕が押されているというのか!?」
「今謝るんなら特別に一発分殴るだけで許してあげる。その後で街のみんなに土下座させてあげるからね!」
「うるさい、僕は…僕は負けていない!」
 理由はどうあれ、あたしの優位に変わりはない。例えどんな魔法を使ってきても、今なら軽く躱す自信がある。
 今度こそ障壁を払い去るために、箒を強く握って有らん限りの魔力を込める。箒の先に纏わりつく電光は青白い輝きをさらに増し、その威力を高めていく。
 けれど、佐野は攻撃をしようとはしない。わなわなと体を震わせるとフードを払うように脱ぎさり、狂った光を帯びた目であたしを睨みつける。
「僕にはまだ、切り札があるっ!!」
 不意に佐野が箒を地面へ垂直に突き立てる。
 そして周囲に響くのは、風の流れる音でも、空気が小刻みに震える音でもない。それはまるで笛の音のような、魔力を帯びた「曲」だった。
「いでよ、僕のかわいい魔蟲たちよ!!!」
 佐野が叫ぶ。
 あたしの目の前で、佐野のローブが大きく膨らんだ。今までのようにはためくのではなく、袖が、裾が、胸元が、まるで風船のように膨らんで……次の瞬間には、まるで黒い霧かと見紛うばかりに、大量の魔蟲がローブの内側から溢れ出してきた。
「こ、こんなの服の中に入れてたの!?」
 驚くところはそこなのかと自問自答しながら、群れを成して向かってくる魔蟲を横へ跳躍して回避。けれど次々と佐野のローブから現われる無数の魔蟲は既に空気を軋ませる異音と化した羽音を響かせ、瞬く間にあたしと黒装束の周囲を取り囲んだ。
『おやおや、あっけないものだね。僕の生み出した魔蟲は人の皮膚を簡単に食い破るよ。内側から食べられたくなければ、頑張る事だね』
 魔蟲の壁の向こうから、なんか物騒な事を言う佐野の声が聞こえてくる。……って、た、食べられるんですか、あたし!?
 男のままなら「美味しくないですよ〜」とか言い返してただろうけど、ボンッキュッボンッでメイド服まで着てるし……自分の事ながらおいしそうだなと、思わず納得してしまう。
「だからっておとなしく食べられると思ったら、大間違いなんだからね!」
 箒を振り、魔蟲の壁を掃き払う。
 使えないと思っていても、ここまで幾度もあたしのピンチを救ってくれた魔法の箒だ。こんな小さな魔蟲を払うことも簡単なはずだ。
 確かに箒は無数の魔蟲をまとめて掃き飛ばす。――けれどそれだけだ。何千何万と集まり視界を塞ぐ魔蟲が少しばかりその数を減らしても、黒い壁に亀裂が入ったりはしない。
 連続して箒を振り回してみても、宙に浮く魔蟲には致命的なダメージを与えられない。飛ばされた魔蟲はまた舞い戻り、壁になるだけだ。
 ―――マズい。
 アイハラン村に住んでいた魔蟲使いの爺さんから聞いた事を思い出す。……魔蟲は基本的に虫と変わりないから、苦手とするのは基本的に火。
 幸い、広場のあちらこちらには、佐野が放ったか円形魔法の残り火がくすぶっている。だけど今いる広場の中央付近は魔法を放っていた佐野が立っていた場所でもあり、炎のある場所までは移動する必要がある。
 けどあたしの周囲には隙間が見当たらないほどびっしりと魔蟲の群れが飛び交っている。
 ――― 一か八か、魔蟲に突っ込んでみる…?
 火のある場所は大体覚えている。そこまで一気に走ることさえ出来れば何とかなるかもしれないけれど、その間に魔蟲にどれだけ体を食いちぎられるのか。
 左腕には篭手、両肩に鎧を着けているけれど、それで全身を守れるわけではない。例え顔をかばって魔蟲の中へ突っ込んだとしても、視界を真っ黒に覆うほどの魔蟲の群れから急所すべてを守りきれるはずもない。最悪、首の血管一本を食いちぎられればそれで終わる。鼻や口を塞がれて、眼球を食い破られて……こう言う時、悪い想像ばかりが脳裏に鮮明に描かれるのは決意をゆるがせるので困ったものだ。
 足元へ視線を向けると、短剣を手にした黒装束のリビングメイル(?)が油断なく構えている。先ほどの振動弾の時と違い、妙手はないらしい。
『さあ、どのような気分だね、絶対の死を前にして』
 魔蟲の向こうから、落ち着きを取り戻しながらも、どこか興奮を隠しきれていない佐野の声が聞こえてくる。
『諦めて命乞いをするか、このまま死ぬか。ああ、僕としては君のような美しい美女に命乞いをされれば許してしまいかねない。決して、美しい女性は嫌いではないからね』
「へ〜、褒められて悪い気はしないけど、残念でした」
 あたしの答えは、ささやかな最後の攻撃だ。
「あたしは、あんたの事が大っ嫌い。命乞いなんか絶対してやらないもんね」
 そして佐野のいる方の見当をつけて、アッカンベーと舌を突き出した。
「………もっとも」
 あたしは契約したモンスターすべての魔封玉を手の中に呼び出す。
「ただでやられるつもりもないけどね」
 ―――数は四。オーガの封じられた紅玉石の魔封玉だけは魔力が弱くて召喚できそうにないけれど、ポチと契約したてのオーク、それに四体のリビングメイル、これだけいればこの状態から一泡吹かせることも出来るはずだ。
『………では、君は今ここで死んでも構わないというのかね? それだけの美貌を持ちながら、輝く事無くこんなところで――』
「るっさいわね! 美しいとか美貌とか、そんなのあたしにはどうでもいいの! 殺るんならさっさと掛かってきなさいよ!」
 こんなところで叫んでも意味はない。それどころか、姿が見えない佐野は鼻を鳴らして笑い、焦るあたしとは対照的に余裕を取り戻していた。………なんかムカつく。
『よろしい。では君の体の皮膚を一箇所たりとも傷つけない事を約束しよう。ただし―――内側は僕の魔蟲で埋め尽くし、永遠に変わらない美しさを保つはく製として僕の傍らに置く事を約束する!』
「………うえ、悪趣味」
 そんな約束、してもらいたくない……と心から思ってつぶやいてしまうと、なにかブチッと鈍い音が魔蟲の羽音に混じって聞こえた気がした。
『では、死にたまえ』
 冷たく、けれど怒りを押し殺した震える声がそう告げる。そして直後、周囲を飛びまわっていた魔蟲の黒い群れが、一斉にあたしへ殺到し始める。
 ―――佐野のいる場所まで、五歩? 十歩?
 左腕で顔をかばい、轟音のような羽ばたく音を響かせて襲い来る魔蟲の中へ、あたしは自分から飛び込んだ。
 露出した肌に魔蟲が止まり、這い回り、噛み付く。そのあまりのおぞましさは生理的に受け付けないものの、壁を突っ切る以外に取るべき道は残されていない。
「―――――――ッ!!!」
 悲鳴を上げたくても、顔はもう既に魔蟲に覆い尽くされている。耳の穴から頭の中へ入り込まれようとして、鼻からですら何匹もの魔蟲が体を擦り付けて割り入ろうとしてくる。
 散歩進んだだけで足が重くなる。抵抗のある魔蟲の壁を掻き分ける疲労だけではない。手足に纏わり憑いた魔蟲があたしの動きを阻害しているのだ。
 魔蟲は小さな虫と変わらない大きさなのに、甲虫のような殻を備え、鋭い口と強靭な足を備えている。左手だけでも壁の外へ出せれば、魔封玉を放って佐野へ攻撃する事が出来るのに、その左手からの感覚がもう既に、ない。
 食べられている。生きながらに食べられている。
 魔蟲に包まれ、感覚が次第に薄れて行く。痛いと言う感覚ですら麻痺し、今あたしが動いているのかさえ分からなくなってくる。
 ―――こんなところで、終わりなのかな…?
 諦めに似た感情が心を支配しようとする。
 辛く、苦しい……このまま倒れてしまえば、もう何も考えず、眠るように終われるのかも知れない。
 ―――冗談じゃない。
 もう男だとか女だとかで悩む事も、好きでもない人に体をまさぐられる必要もない。
 ―――だけどあたしはまだ……!
「まだ……まだ何もしていない!」
 左手の感覚が戻ってくる。
 手の中の固い魔封玉の感触がしっかりと感じられる。その内の一つがまるで燃えているように熱を帯びていることも。
 叫んだ拍子に、口の中へ魔蟲が容赦なく入り込んで、ノドの入り口へと殺到する。
 あたしの力は、まだ奮われていない。終わるにしても負けるにしても、やり尽くしてからじゃなかったら……
「―――――――――――ッ!」
 それは放つと言うよりも、落とすと言うのに近かった。
 左手の中から零れ落ちた小さな玉は魔蟲の奏でる羽音の波に飲み込まれていく。
 けれどそれが目覚めた途端……黒に埋め尽くされていたあたしの視界が、まぶたを突き抜けるような輝きを放って魔蟲を焼き払った。
『ギョオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!』
「ケホッ、ケホッ……な、なんで炎が……?」
 口の中に詰まっていた魔蟲を吐き出して目を開けると、あたしの周囲は……いや、体もすべて炎に包まれていた。
 不思議と熱さは感じない。確かに体の表面は炎に覆われているのに、焼け落ちるのは飛んでいた魔蟲だけで、あちこち食いちぎられたメイド服も、すぐ傍にいた黒装束も、赤く燃え上がる炎の中にいても焼け焦げた様子が見当たらなかった。
 ふと顔を上げれば、あたしの後ろに巨大な獣が立っているのに気付く。
 身の丈はあたしよりも頭一つ高く、体毛は黒い四足の獣だ。先ほど咆声を上げたのもコレなんだろうかと考えていると、獣はやけに尖った鼻先をあたしへ向け、甘えるような仕草で胸元に擦りついてきた。
「え……も、もしかして…ポチ?」
『バウッ!』
 気付いてもらえたことが嬉しいらしい。獣――元コボルトで、獣人のように変化していたはずのポチは、見違えるぐらいに大きくなった体全体で喜びを表す。
「随分とまた……おっきくなっちゃったね……」
 この大きさじゃ胸に抱きしめてあげる事は出来ないけれど、こうも甘えられるとくすぐったくて、ついこちらからもノド元をくすぐったり、跳ねてはいるけれど見た目よりも柔らかい体毛を撫でてあげたりしてしまう。
「………………」
「あ、ごめんね。君も頑張ってくれたよね」
 無言のまま黒装束が寄り添うのに気付き、その頭をなでる。
「………………」
 こちらはあまり反応をみせない。それでも指先から伝わる微妙な体の動きから、この小柄な黒装束がモジモジと恥ずかしそうにしているのが伝わってくる。
「さて……なにはともあれ、コレで形勢逆転ってとこかしら、魔道師さん?」
 顔を向けると、黒いローブの魔道師は地面へ崩れ落ちていた。魔蟲を燃やし尽くされたショックは今までの比ではないらしく、信じられないものを見る顔つきで震える指先をあたしへ向けていた。
「き、き、き、貴様、何物だぁ!?」
 杖の先端がこちらを向く。
 錯乱した精神状態で放たれる振動弾は躱すのも容易く、砂を舞い上がらせるまでもなく、軽く横にステップを踏むだけで通り過ぎていく。
「そういえば、きちんと自己紹介した事ってなかったっけ。いい機会だから教えてあげよっか」
 今度は袖を向けられ、再び無数の魔蟲が放たれる。
 数を減らした魔蟲の群れは、もはや躱すまでもない。前足を踏み出したポチが大きく口を開き、ノドの奥から吐き出した火炎に飲み込まれて小さな魔蟲たちは蛍のように燃え落ちていく。
「そんな…僕の魔蟲が…魔法が……なんで通じないんだ! 僕は魔王になって、そしてすべてを手に入れるんだ…なのに…どうして……」
「魔王になんてなれるわけないでしょ。ここに既にいるんだから」
 力ない声を絞り出す佐野へ、箒を手に近づいていく。
 手の平に魔封玉を一つ転がすと、それを上に放る。
 色は鈍色。余計な鉄の鎧を多く含んだ固い色の一玉だ。
『呼ばれて!』『飛び出て!』『ジャジャジャジャ〜ン!』『あ、ワイだけ台詞なし!』
「な…なんだぁ!?」
 佐野の頭上で封印を解かれた魔封玉から四体のリビングメイルが現われる。どれも小柄とは言え鉄の鎧を身にまとっている。落下してくる四体の直撃を避けるため、佐野は自分の周囲に展開した結界に力を込める。
「今のは…今のはなんだ!? どうしてモンスターが突然現われる、なぜ君の言う事を聞く! 召喚魔法を使っているのか、君のような小娘が、どうしてそんな超高等魔術を簡単にぃ!!!」
「ん〜…改めて聞かれるとどうなってるのかってのは、よく分かんないんだけど……一言で説明するなら」
 先端を地面へ下ろした箒を両手で握る。そしてゆっくり、ありったけの魔力を流し込むと、青白い輝きが箒の先を包み込む。
「―――あたし、魔王やってるから」
「ひッ―――!!!」
 精神力の低い魔道師の場合、上に意識を集中させた魔法障壁は、代わりに自然と下が薄くなる。
 今度はあたしの箒の威力が上回った。渾身の力を込めた魔法の箒は四体のリビングメイルともども佐野の周囲に張り巡らされた魔法障壁を根こそぎ吹き飛ばす。
 大上段。
 振り上げた箒を両手で構え、困惑する佐野の頭上へ振り下ろす。
 ―――直撃。
 真下へ向けて掃かれた頭は、勢いのままに地面へ叩きつけられる。跳ね返る間もなく追いついてきた箒の魔力に押えつけられ、衝撃を逃がす事も出来ずに固い石畳へ顔から押えつけられる。
 メガネのレンズの割れる音が聞こえ、鼻の骨のひしゃげる音も聞こえてくる。
「魔王になろうとしてる人が、とっくに魔王になってるあたしに勝てるわけないじゃない。……なんてね」
 箒の輝きが収まり、腕から力を抜いても佐野は起き上がってこない。――いや、起き上がってこられない。苦悶の声を上げる事もなく、手足を痙攣させている様は、まさに叩き潰された虫を連想させるものだった。
「やりすぎた気もするけど……やっと終わったぁ……」
 人を殴って気分爽快になるような性格じゃないけれど、今回だけは別。
 長い長い数日に終止符を打てた事で安堵と共に疲れが押し寄せてくると、あたしは炎の消えた広場にへたり込んでしまった。
「みんなご苦労様。ほんと…いっぱい助けられちゃったね」
 黒装束やポチがいなければ、何度死んでいたことか。そのことへの感謝を笑顔で表しながら手を差し出すと、ポチはオレンジの輝きを放つ魔封玉に、黒装束は黒く透き通る魔封玉へ封じられていく。
『いや〜、ワイらってそんな感謝されるほど――』
「あんた等は問答無用で黙ってなさい」
 こちらは四体まとめて一つの玉に封じられていくリビングメイルたち。
 急に静けさを取り戻した広場の真ん中で、あたしは息を吐き出した。胸の奥にわだかまる興奮の余韻が薄れて行くと、手足から力が抜け落ち、寒いわけでもないのに震えが込み上げてくる。
「ははは……やっぱりあたしに向いてないなぁ、こういうのって……」
 今頃恐怖に震える体を左腕で抱きしめる。体を見下ろせば、借り物のメイド服も魔法で引き裂かれたり魔蟲に食われたりで、かなりボロボロになってしまっている。
 けれどあれだけ激しく攻め立てられたのに大きな怪我は何一つ無い。慣れない魔力の流動をやったりして疲れてはいるけれど、少し休んで震えが収まりさえすれば、ちゃんと自分の足で立つことも出来そうだ。
「―――お〜い、無事か。無事なら返事をしてくれー!」
「あ―――」
 気を抜いてしばらくすると、ガーディアンが走り去った方向から、人が何人かやってきた。助けに来てくれたのであろうその人たちに、箒を長く持って振り回して合図を送ると、気付いた一人がこちらへ走ってきて―――
「たくやさぁ〜〜〜ん!!!」
 あたしの名前を呼びながら飛びついてきた。
「んのわぁ!?」
 慌てて両腕で受け止める。
 やわらかい感触が腕の中に広がる……けど、心地よい感触にひたれる時間はほとんどない。座っていて踏ん張る事も出来ず、あたしは飛び込んできた人を抱きしめたまま後ろへと倒れこみ、後頭部をしたたか打ちつけてしまう。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!」
「え、あ、たくやさん、あの……大丈夫、ですか?」
 ゴチンと衝撃が突き抜けて、目の前に火花が飛んだ。いや、コレはマジで痛いぃ………って、無茶なダイブをかましてくれたのは誰よ!!?
「あ………めぐみ、ちゃん?」
 涙をこらえながら目を開けると、あたしの体の上に乗っかっている僧衣姿のめぐみちゃんと視線があった。
「え〜っと………や、久しぶり♪」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
 泣きたいのはこちらの方なんだけど……メガネのレンズの向こう側で、めぐみちゃんの瞳からポロポロと大粒の涙が溢れ出していた。
「ウッ…ヒック……たくやさん…たくやさぁん………」
「ちょっと待って。あたし何もしてないよね。泣かすような事、してないつもりなんだけど!?」
「ふ……ふぇぇぇ〜〜〜〜〜〜〜ん!!!」
 うわぁぁぁ!!! どうしよう、めぐみちゃんが大泣き始めちゃったよ、ど、どうすればいいんでしょうこういう場合はぁ!!
 あたしの胸に顔をうずめて泣きじゃくるめぐみちゃんをどうしたらいいのか、まるで分からない。肩や髪を手で撫でてあげても、泣くのがさらに酷くなるばかりで一向に収まる様子を見せてくれないでいる。
「あたしはこう泣きつかれる経験は無くって……あ〜ん、誰か助けてぇぇぇ〜〜〜!!」
「ま、しばらくはそうしてるのが良いんじゃないの? 彼女、ずっと君の事を心配してたんだし」
 頭上――と言っても、仰向けになっていては頭上が上だか前なんだか――から聞こえてきた声に視線だけで振り仰ぐ。
 そこにはユージさんとユーイチさんがいた。……が、その顔に浮かぶ笑みは……
「なんつーか、感動の場面って分かってるけど女同士で抱き合ってるってのはエロい事を考えてしょうがないなぁ、おい」
「僕はユーイチほど節操無しじゃないんだけど」
「嘘つきやがれ、このむっつりスケベ。僧侶とメイドの異色の組み合わせだぜ。コレで燃えないのはハウッ!」
 助けに来てくれたはずなのにエロい事ばかり言っているユーイチさんの頭を、長く持った箒を振り回してとりあえず一撃。
「………ちょっと見ない間に、結構過激になったね」
「ユージさんがそう言うと変な意味に聞こえるの! それにあたし、森でされた事や川に突き落とされた恨み、忘れてないんだからね」
「おお恐い。それじゃあこれ以上恨まれる前にお助けしますよ、王女様」
「む……」
 なにか意味を含んだ言葉に眉をしかめながらも、めぐみちゃんに泣きつかれたままユージさんへ恨み言を言うのは結構はばかられる。結局、ユージさんにめぐみちゃんを宥めてもらいながら起こしてもらい、あたしも箒を杖代わりにして何とかその場に立ち上がった。
「それにしてもよぉ、さっきここでスッゲぇ炎が上がってたけど、あれは誰がやってたんだ? たくやちゃんか?」
「ああ、あれは佐野って言う魔法使いが……ほら、そこにいるでしょ。今回の事の元凶がそいつなのよ。そいつが無茶苦茶やってくれちゃってさ」
 功を誇るわけじゃないけれど、ちょっとだけ胸を張って佐野を打ち倒した場所を指差した。
「………どこにいるんだ、そんな奴」
「だからそこに………あれ?」
 佐野の姿が無い。ついさっきまで佐野が倒れ伏していた場所には、放射線状に日々の入った石畳の中心に血痕が残っているだけで、黒いローブも、魔蟲を操っていた杖も何も残っていなかった。
「そんな……ついさっきまで、ちゃんとここにいたのに」
「―――息の根はちゃんと止めたのか?」
「うっ………」
 ユーイチさんのちょっぴり恐い一言に、返事を返せない。確かに気を失ったように見えていたけれど……
「マズいね。あの魔法使い、頭は切れるけど、追い詰められたら何をするか分からないタイプだから。早めに捜索した方が良いだろうね」
「だな。ヤロウ……見つけ次第、ぶん殴ってやる」
 佐野の姿が消えた事を知ると、ユージさんたちは広場へ来ていた人を集めて矢継ぎ早に命令を出していく。
 あたしも休んでなんかいられない。すぐにでも佐野を捜しに行こうと顔を上げたその時、
「な……なんだ、あれ……?」
 誰かが空を見上げ、つぶやく様にそう言った。
 一人、二人……そしてそしていつしか全員が、水の神殿の方角の空を見上げていた。
 ―――光の柱。
 それは光り輝く魔力によって描き出された複雑な文様の集まりだった。
 地上から天へと伸びる円筒形の立体型魔法陣。あれだけの規模の高度な魔法陣は呪文による魔導式だけでは構築できない。少なくとも数日前から事前に準備していなくては―――
「もしかして……」
 不意に、佐野が口にした言葉が頭をよぎる。
 ―――魔王の力を召喚する。
 そのための魔法陣は水の神殿前の広場に描かれ、そのための魔力はフジエーダの下に走るレイラインと三十人以上の精液で充填されている。
「まさか本当に…召喚魔法を成功させようって言うの?」
 まだ戦いは終わっていない……一度安堵した体はすぐには力が入らない。呆然と光の柱を見つめ、あたしは箒にすがりつきながら跪いた―――


stage1「フジエーダ攻防戦」38