第九章「湯煙」13


「ッ――――――!」
 ―――跳んだ。
 ―――素っ裸で吹っ飛んだ。
 ―――何かが足の裏で爆発したと言った方がいいかもしれない。
 閃光のように飛来する四本の氷剣を跳び越すように、あたしは宙を飛んでいた。先ほど岩へ叩きつけられた速度を越え、消しきれない勢いのままに頭とつま先の位置を入れ替え美由紀さんの頭上を通り過ぎた。
「……って、いくらなんでも飛びすぎだァ!!!」
 本当は剣の下を身をかがめて潜り抜けようと思っていたのに、思いがけない跳躍力に空を飛んだまま目を白黒させる。
 あたしがした事は魔法でもなんでもない。ただ、魔力を足に集め、クラウチングスターとよろしく踏み出しただけだ。その際に、魔力剣でコツを掴んだ魔力の放出を加減無しで思いっきりやっただけ……なのだが、
 ――魔力剣も威力を抑えるのが大変だったもんね……
 魔力は全力を出す事よりも、それを抑えて適量を放出する方が難しいのは、魔力を無駄にしない暴走させないための基本中の基本だ。魔法が使えなくても村の学校でやらされたので、その辺の基礎は知ってるわけなんだけど、まさか魔法の暴発じゃなくて自分の体の暴発で魔力コントロールの大切さを思い知る事になるとは思ってもみなかった。
 けれど思いがけない効力は、その分だけ代償も大きい。体を前に押し出した左足が、本当に爆発したのではないかと思うほどの痛みを発している。
 ――けど今は、そんな事を気にしてる余裕は無い…か。
 あたしも驚いたけれど、同様に美由紀さんも口を軽く開いて驚きの表情を形作ってあたしを見上げている。このチャンスを逃しては、あたしに生き残るチャンスは訪れないだろう。
 だからあたしは歯を食いしばって痛みを無視。視界の端に赤いものが見えたような気がするけれど意識の外へと追い出し、蜜蜘蛛の魔封玉を手の中に呼び出した。
「……く!」
 不意に、ゆっくりだった視界が速度を取り戻す。ほんの一瞬の空中浮遊の間に、随分といろんな事を考えていると、美由紀さんは振り仰ぐ動作で体をねじり、左手で五本目の氷剣を投げつけてくる。
「きゃあっ!」
 叫び声を上げながらも、あたしの手は出てきた蜜蜘蛛をしっかりホールド。吐き出させた頑丈な糸を垣根へと貼り付けさせると、それを手掛かりに身体の軌道を変え、氷剣の投擲から身を躱した。
「それが本当の力と言うわけね!」
 垣根に背中から当たり、息を詰まらせながら床へ降り立つ。するとすかさず左右に一刀ずつ手にした美由紀さんが間合いを詰め、あたしの両肩へ刃を振り下ろそうとしていた。
 それに対するあたしの武器は濡れたバスタオル。結構重くて、タップリ水を含んだ状態で殴れば結構なダメージだ。……が、氷の剣を相手にしては分が悪い。だから、
「あたしだって驚いてるんだけどぉ!」
 叫びながら魔力放出。美由紀さんの二本の氷剣と交差するように右手で振り上げる。
「なっ……!」
 美由紀さんが互いの武器が生み出した結果に驚きの声を上げる。
 ――相打ちだ。氷剣の影響か、濡れタオルは一瞬で凍りついてしまい、剣の場合と同様にあたしの魔力量に耐え切れず弾け飛ぶ。けれど同時に、あたしの魔力と激突した二本の氷剣もまた、柄を残して砕け散っていた。
「やっ――」
 やった……そう言おうとした瞬間、しゃがみこんだあたしの頭上を新たな氷剣が通り過ぎる。
 美由紀さんが振り抜いた手の行く先には既に別の剣が柄を向けている。砕けた剣はすぐに捨て、空中から引き抜くように連続して斬撃があたしの上から降り注ぐ。
 あたしが次に選ぶのは、やはり“逃げ”だ。集中させた魔力は少ないけれど、無事な右足から魔力を放って美由紀さんの脇を通り抜ける。
「逃がさないって何度も―――」
「あたしだってただ逃げてるわけじゃない!」
 美由紀さんのスピードはあたしも何度も目にしている。濡れた洗い場を生傷覚悟で滑って移動し、その間に右手を振って、武器になるものを手繰り寄せる。
 右手の甲へ篭手のようにしがみつかせた蜜蜘蛛、その糸が捉えたのは……美由紀さんの氷剣だ。
「これで―――」
 武器を手にしたからといって、剣術で美由紀さんに勝てるはずも無い。それ以前に、二度目の魔力放出を伴った跳躍で、今にも泣き叫びたいほどの激痛が両足から駆け上がってきている。
「ゴメン美由紀さん、あたしは……足掻く事だけはやめないから!」
 氷の柄に糸を巻きつけ、最後の力を振り絞ってそれを手に取る。そして、
「美由紀さんに、これ以上悲しい思いをさせるのだってゴメンなんだから!」
 そして―――出来れば美由紀さんには見せたくなかった本当の切り札を呼び出した。
「ポチ、もう一回出てきて!」
「同じ事を何度やったって…………っ!?」
 ポチはポチでも、呼び出したのは子供同然の獣人形態のポチのほうだ。見た目は完全な犬耳ショタ系美少年のポチは昨晩美由紀さんの前には出していない。登場に美由紀さんもあっけに取られたが、次の行動は予想外のさらに斜め上を行ったことだろう。
「うむっ………!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!!」
 ポチに一声も泣かせず、あたしは自分の唇でポチの唇を奪う。しかも舌まで入れて、すっごく濃厚な口付けを交わして、その口内を吸い上げた。
「なっ……なっ……なっ………!」
 何か言おうとして口を開くけれど、足を止めて手を止めて、ワナワナと体を震わせて、
「た……たくや君の不潔!」
 言うにこと書いてそれですか、あたしの評価は!?……でもまあ、戦闘中に男の子とキスをしたのだ。多少の非難は覚悟の上。あたし自身も色々と複雑な想いを抱えて、それでも背に腹は変えられなくて、心で血の涙を流しながらポチとキスしているのだ。……それもこれも生き残る為に。
 そして、美由紀さんが切りかかってこないのをいい事に、念入りにポチの口の中を舌でまさぐり、柔らかい髪の毛に指を差し入れてネットリと、濃厚に、唾液を一滴もこぼさないよう音を響かせて唾液を吸い上げてから、ゆっくりと時間をかけて唇を離した。
「ク…ゥン………」
 っ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!! そ、そう言う顔をされると……殺されかけてるのも忘れてドキッとしちゃうんですけど……
「ポチ、ゴメンね。続きはまたゆっくりしてあげるから」
 未練を残さないようにポチをすぐに魔封玉へ戻すと、奪った氷の剣を杖代わりにして、温泉を背にするようにヨロヨロと立ち上がった。
「ッ……ッ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
「あ、あれ? 美由紀さん、なんか怒ってない?」
「怒ってなんか……いないんだからっ!!!」
 叫ぶや否や、美由紀さんは両手の剣を投擲する。けれど狙いは正確ではなく、二本の氷剣はあたしの左右を通り過ぎていく。
「私の気持ちも知らないくせに! 逃げてばかりでまともに戦おうとしないくせに! 私は、たくや君の事を―――!!!」
「……これが、あたしが選んだ戦い方だから」
 ―――ドクンッ
 心臓が大きく鼓動する。
 これが最後に残されたあたしの力……しかもとっておきのヤツ。出来れば美由紀さんにも見せたくなかった、本当の“切り札”だ。
 速くて目で追いきれなかった美由紀さんの動きが、今のあたしの目にはスローとまではいかないまでも、しっかりと付いていけている。
 脚は……大丈夫。まだ動く。力強く、そして急テンポの心臓によって送り出された血液が、傷ついた両脚に最後の動きをするだけの力を与えてくれる。
「―――美由紀さん、反則ゴメン!」
 美由紀さんの両手は最後の二本の氷剣を掴む。―――それと同時に距離を一瞬で詰めたあたしは、美由紀さんの左手の剣を弾き飛ばしてしまう。
 力も、そしてスピードも、今なら美由紀さんに追いついている。―――ワーウルフの力に少しだけ目覚めている今のあたしになら。
「調べたんなら知ってるでしょ……あたしがどうやって佐野を倒したかって!」
 続けて弾き飛ばして勝負を決めようと思っていた十二本目の氷剣だが、美由紀さんは両手で柄を握ってあたしの剣を受け止める。
「身体強化!? でも報告にあった能力とは全然違うッ!」
「本当なら本当に使いたくなかったんだけど……“魔王の力”って色々あるの!」
 叩きつけるあたしの攻撃を、美由紀さんは刃を立てて逸らして往なす。けれど攻撃が連続するほどに、確かな剣術の技を持つはずの美由紀さんがあたしの攻撃に追い詰められていく。
 ――けど、もうあたしの方が持たない……
 両脚の負傷、度重なる魔力放出、そして魔力がそこを付きかけている状態でのワーウルフ因子の覚醒……無理をしすぎた両脚は痛みの限界を越えたのか、感覚が麻痺して何も感じない。そして魔力の大量の消費は睡魔となってあたしの意識を少しずつ削り落としていた。
 ――これで決める。一気に!
「あああぁぁぁあああぁあぁ!!!」
 残った魔力を振り絞り、徐々に細くなっていく氷剣を横薙ぎに振り払う。
 避けられれば衝撃波が美由紀さんを襲うだろう。そして受け止められれば……


―――キィィィン


 結果は、あたしの予測どおりだった。
 あたしが手にしていた氷剣と、美由紀さんが手にしていた氷剣は、ぶつかり合うのと同時に、硬く済んだ音を響かせて砕け散った。
 もう氷の剣は一本も残ってはいない。これで、そうこれで―――
「……あたしの負けか」
「そう……なるわね」
 魔力を使い果たし、体力も限界を迎えたあたしは、糸が切れた操り人形のようにその場にひざまずいた。そのあたしの目の前で、刀身の砕けた氷権の柄を捨てた美由紀さんは十三本目の剣……自分の腰に差した反身の剣を鞘擦りの音をかすかに響かせながら引き抜いた。
「もう少し……だったわね。あと少しでたくや君は生き延びる事が出来たのに……」
「そんなこと無いよ。運も味方してくれたし、何もかも全部使い果たしてこれだもん。……きっと、どう足掻いたってこうなる運命だったのかもね。……美由紀さん、まだ奥の手を残してたみたいだし」
 少し肌寒さを感じる裸の体を抱きしめながら後ろを振り返れば、あれだけ白い湯気を立ち上らせていた温泉が見事に凍り付いて白い冷気を立ち上らせている。いつの間にかあたしの吐く息も白くなっていて、この場所だけ冬が来たかのような寒さに覆われていた。
 その原因は、温泉へ向けて美由紀さんが投げた六本の氷剣だ。あれだけの魔力を圧縮して作り出した氷の剣なら、これぐらいの事はしてのけるだろうけれど……正直なところ、あれに斬られてなくてよかった……
「さて……それじゃ美由紀さん。痛く無いように優しくしてね」
「え……?」
「あたしもね、やるだけの事はやったんだし……そりゃ、死ぬのかと思ったら未練なんて山ほどあるけど……ま、美由紀さんにだったらいいや」
「な、なに言ってるのよ。さっきまであんなに逃げようとして、生きようとして一生懸命だったのに……どうしてそんな風に簡単に死のうとできるのよ!?」
「………あたしが女になってから、魔王になってから死のうって考えた事、一度も無いと思う?」
 そう言うと、どこか狼狽していた美由紀さんはハッと息を飲んで口元を手で覆った。
「ははは……フジエーダではいろんな事があったから。一度や二度じゃないんだよ。ひどいことされたの。それに……街の人にも嫌われちゃったしね。小さい子に石を投げられたの、あれって結構ショックだったし」
「たくや…君……そんな…わ、私………」
「気にしなくていいって。……じゃあ、おねがい。言っとくけど痛いのはイヤだからね」
 もう言う事は無い……あたしは動かない足の代わりに両手を使って美由紀さんへ背を向けると、それ以上は何も言わずに黙って目を閉じた。



 ………さよなら、美由紀さん。こんな事頼んで、ゴメンね……


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