第九章「湯煙」14


「………さよなら、美由紀さん」
 あたしの声には、死への恐れによる震えは無い。ただ、力を使い果たした疲れがあるだけで、喉が渇いたからと水を頼むような気軽ささえ含んでいたかもしれない。
「たくや君……本気なの? あなた今、私に殺されようとしてるのよ!?」
 ……殺そうとしてる方の台詞じゃないよ、それ。
 けれどあたしはそう言葉を返すことはせず、凍りついた温泉の傍で素肌を晒している寒さに身を震わせ、両腕で胸と股間をそっと隠すだけだった。
「たくや…君……」
 声だけを聞けば、殺されようとしているのは美由紀さんのようにも思える。手にした反身の刃はカタカタと怯える様に音を鳴らし、無抵抗で死を受け入れよと言うあたしを前にして切っ先を突きつけることすら出来ないでいる。
 寒い……いつまでこんな時間が続くのだろうかと、両脚の痛みと肌寒さに耐える。あたりを覆い尽くす冷気に時間までもが凍りついたのかとも思うけれど、一秒として止まることなく、もがく様に悩み続ける美由紀さんの心の内だけは、目を閉じているあたしの脳裏に鮮明に映し出される。
「どうして……そんなに平然としていられるのよ……」
 あたしは応えない。そんな無言の答えに美由紀さんは、
「私は……」
 と言いかけ、押し黙ってしまう。
 冷たい沈黙が支配する……けれど、先に耐え切れなくなるのは、間違いなくあたしでは無い。
「な……なによ、どうして、どうして私を見ないのよ!」
 唐突に、あたしの体を強い風が撫でる。美由紀さんが刀を握り締め、頭上へと振り上げたのだ。
「私を恨んでよ。憎んでよ。私の勝手で殺そうとしてるのに、どうしてそんな風に黙っていられるのよ!」
 美由紀さんの怒声に反射的に身がすくむけれど、それでもあたしは目を開けず、顔を上げない。……後はただ、剣が振り下ろされるのを待つだけだ。
 けれど、
「どうして、どうして私を嫌いになってくれないのよ……じゃなきゃ私……私……」
 ―――剣が地面に落ちる。
 振り下ろされたのではない。突き下ろされたのでもない。今にも凍りつきそうなほど冷え切った洗い場の床に、手の平から滑り落ちて乾いた音を立てた。
「こんなの…できないよ……」
 美由紀さんの言葉に、あたしは黙って瞳を開いた。
 剣を手放した両手で口元を覆っている。鬼神や炎獣ですら容易く退けた仮面の騎士の強さは微塵も感じられず、今にも崩れ落ちそうな――
「あっ……」
 あたしはとっさに両腕を広げ、ひざまずき倒れこんできた美由紀さんの体を受け止める。鎧を着けているせいだろう、思ったよりもしっかりとした重みを支えた瞬間に全身を駆け巡った両脚の激痛に顔をしかめさせてしまう。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 謝罪の言葉は、決してあたしにすがりついた事に向けられているものではない。美由紀さんはあたしの肩に顔をうずめて繰り返し謝り続け、あたしもまた、親に叱られた女の子のようにむせび泣く美由紀さんの体に腕を巻き付けた。
「謝るのはあたしの方なのにね……美由紀さん、ゴメンね。あたしのせいで辛い思いさせちゃって……」
 鎧の上に広がる髪を指先で軽く梳き、すぐ傍にある耳元へ優しく囁きかけると、美由紀さんは首を振ってそれを拒んだ。
 ……困った。
 女の子に抱きつかれるのにはどうにも弱い。美由紀さんの胸は鎧に包まれてるから決して「柔らかい感触が…」とは言えないけれど、戦いの余韻で熱を帯びた体や髪から立ち上る汗の香りを間近で嗅ぐと、頭の奥にジィン…と痺れるものが広がってしまう。
「美由紀さん……」
 もしあたしが裸でなければ、もう少し美由紀さんを抱きしめていただろう。クッ、と名残惜しい気持ちを押し込めて美由紀さんの体を少しだけ押し返す。
 目の前には、どんなに美由紀さんが嘆いても表情を変えない仮面があった。泣いている……そう感じても、涙に濡れる表情を隠してしまう仮面……
「………っ!」
 迷う事はなかった。美由紀さんの頬に手に平を当て、一度も見た事の無い仮面の下へと想いを馳せながら長い髪の下に隠れた仮面の止め具へと指を伸ばす。
「たく…や……く……」
 名前を囁く声が震えていた。仮面をはずそうとするのが怯えていて、恐がっていて……それでもアゴを軽く突き出し、あたしがする事を、美由紀さんは拒みはしない。
「見ても……いいかな?」
「ッ……!」
 止め具をハズし、仮面に両手をかけて、訊ねる。もし美由紀さんが嫌がっているのならあたしも無理強いをしたくなかったんだけれど……
「………ばか。本当に優しいんだから……」
 仮面に手を掛けたあたしの手に美由紀さんの手が重なる。寒さで少し凍えたあたしの手指を温めるように包み込み、そして、あたしと美由紀さんの二人の手で、無機質な表情を浮かべていた仮面は外されていく。
 ―――潤んだ瞳が、あたしをジッと見つめていた。
 思い描いていた通りの整った顔立ちは今は少しだけ赤く腫れ、涙で濡れていた。露わになった自分の顔を見られるのがそんなに恥ずかしく、そして恐いのか、不安に彩られた瞳はまるで迷子の女の子のように感じられた。
「綺麗だよ、美由紀さん……」
 お世辞でもなんでもない。心の底からそう思い、頬を濡らしている涙を手で拭う。仮面の下を人に手に触れられただけで体をピクンと震わせた美由紀さんは、
「なんだか……ドキドキしてる……」
 次第に表情を和らげ、濡れた唇から長いため息を漏らした。
「んっ……ふぅ………」
「美由紀さん……その表情、ちょっぴりエッチ」
「も、もう……馬鹿なこと…言わないでよ……」
 視線がツッと横へと逸れ、だけどあたしの手を止めようとはしない。むしろ、両手を突いて身体がもう一度触れ合ってしまいそうな距離にまで身を寄せてくる。
「もう少し……触れてみて……」
 恥ずかしそうに囁く美由紀さんに、あたしは応えた。頬だけではなく、鼻筋から目蓋へ、そして耳たぶへと優しく手の平をなで動かし、緊張してどんな些細な刺激にも反応する美由紀さんを、その表情を、見るだけではなく触覚の全てを使って確かめていく。
「あっ……!」
 この辺かな?……と当たりをつけて、右手で耳たぶを、左手で首筋を撫で上げると、美由紀さんは身体を萎縮させ身をよじる。そしてパッとあたしから離れると、火照った顔をますます真っ赤に染め上げて、悩ましい声を漏らしてしまった唇を手で押さえてしまう。
「恐がらなくてもいいのに。美由紀さんはあたしがひどいことするって思う?」
「そ、それとこれとは…話が……ふ…ぁ……ぁ!」
 逃げたのなら追えばいい……鎧の上から美由紀さんの型に手を置いたあたしは、自分の胸の膨らみが揺れるのを感じながら身を乗り出す。そのまま美由紀さんの首筋へ唇を滑らせると、
「ダメ……こんなのいきなり…すぎ……ッあぁぁァ…!」
 まるで初心な子の様な反応であたしを楽しませてくれる。
 唇が耳たぶに触れる。ここで感じるのも先ほど確認済み……なんだけれど、唇で味わってみたい衝動を抑えられず、
 ――軽く耳たぶを噛んでしまう。
「ひあっ!?」
 想像以上の反応に気をよくし、あたしは食い込むほどでは無いけれど歯を押し当てた場所へ舌先を滑らせる。舐めて、吸って、もう一度舐めてから固い歯の先端をその表面へ滑らせる。
「そ…そんなの……やァ……耳ばっかりどうして……あムゥ!」
「そんなにイヤなら……やめちゃう?」
「っ………い、意地悪なことしないって約束してくれるなら……私は…このままでも……」
 ――そ、そう言う事を言われると、今度はあたしの方が気恥ずかしくなってきちゃうんですけど……
 「このまま」と言う意味があたしの考えどおりであるのなら、確かに美由紀さんをこのまま押し倒せてしまえそうだ。……だと言うのに、
「……これであたしの勝ちだよね」
 と、黙ってようと思ってた言葉を、恥ずかしさと緊張に耐えかねて、つい唇から滑らせてしまう。
「ど…どういうこと、たくや君………ま、まさかひょっとして!?」
 さすがと言うか……たった一言であたしのした事を察した美由紀さんは、今しがたまで浮かべていた火照った表情をいきなり引き締めてしまう。
 このままじゃ説明する前に、いや説明すればするほど命の大ピンチだ。そうなる前に美由紀さんの身体へ力を込めて、
「えと、えと……芝居って言うか………ゴメン、美由紀さん!」
 そのまま押し倒して、ちょっと強引だけど―――て、あれ?
「たくや君の……バカァァァ――――――!!!」
 無理やり押し倒そうとしたあたしの身体は、逆に突き飛ばされて身体を浮かせていた。
 ――いや〜、さすが美由紀さん。恥じらいも手伝って、あたしってばまたまた飛んじゃってるよ。
 よく空を飛ぶ日だ。慣れたといえば慣れたけど、裸で空と飛ぶのはなにやらインモラルな感じがして、どうにもこうにも恥ずかしい。
 けれど、さして心配はいていない。あたしの背後にあるのは温泉だ。朝に続いて一日に二度も背中から水の中に落っこちるからには今日はよほど水運が悪いらしいえど、頭を打って大怪我したりはしないだろう……と楽観的に考えていたが、この時のあたしは大事な事を見落としていた。
 温泉は凍り付いてます。
 あたしの両脚は血がにじみ出るほどひどい怪我をしています。
 ついでに魔力も底をついてて疲労困憊で今にも眠りに落ちそうなほど神経衰弱してまして……だから、
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
 突き刺さるような冷水の冷たさが全身を包み込み、怪我した足からは失神以上致死未満の激痛が駆け上ってくる。容易く吹き飛んだ意識は吹き飛んでしまい、しかももがけばもがくほどに疲れ果てた身体は温泉の底へと沈んでしまう。助けを呼ぼうにもあたしの口からは泡が出て行くだけで……って、息いきイキィィィ!!!
 ―――あ、こりゃダメだ。
 冷たさと痛みと酸欠で、唐突にあたしは旅はここで終わるのだと悟ってしまう。
 些細な一言で美由紀さんを怒らせたのが失敗だった……最後にそんな事を考えながら、腰から胸までの深さしかない温泉で、あたしは見事に溺れてあっさり気を失ってしまったのであった。
 ―――ああ、情けない人生の終わり方だなぁ…とほほほほ……


第九章「湯煙」15へ