第九章「湯煙」10


 ―――迂闊だった。
 人前でモンスターを呼び出すことの危険性はフジエーダで既に体験していた事だ。
 けれど今回は事情が異なる……仮面の騎士・美由紀さんは事前にあたしがモンスターを操る事を知っていたし、共にアサシンたちと戦う最中にもモンスターたちを恐れる事も敵視する事もなかった。だからあたしも違和感を覚える事無く戦えたのだけれど……もう一つの危険性について何も考えていなかった。
 あたしが“魔王”と呼ばれる存在である事を知られる危険性……それはある意味、モンスターを人前で操る事よりも致命的なミスと言える。
 自分で自分を魔王だなどと普段まったく認識していないせいで気にも留めていなかった。そして、本物の“魔王”と言う存在がどれだけスケベで情け無いエロ本であるかも知っているだけに、さして“魔王”と言う存在に恐怖心も感じていなかった。
 ―――だが、普通なら“魔王”は恐れてしかるべきなのだ。
 まして、美由紀さんは予言で導き出された「魔王が誕生する」運命を見届ける為にこの地までやって来たギルドマスターの護衛役なのだ。
 魔王と言う存在に敏感になって当然。
 ともすれば、災いを招く前に斬って捨てると言う考えを持っていたかもしれない。
 けれど昨晩、あたしへ剣を突きつけた美由紀さんは―――



「『何も言わないで』……かぁ……」
 結局、部屋に戻っても一睡も出来ずに朝を迎えてしまい、建物横の井戸から組み上げた冷たい水で顔を洗いながら美由紀さんの言った言葉を繰り返してしまう。
 ―――あなたはここにいなかった。あなたはなにもしなかった。私は何も聞かなかった。だからもう……
 そうあたしに言った美由紀さんの顔が脳裏に焼きついて離れない。……もしあの時が昼間なら、泣いている様に見えた美由紀さんのあの仮面、どう見えていたんだろうか……
 見えているのに見えていなかった。明るさが足りなくて、仮面をかぶっていて、だから気になって仕方が無い。
「………妙に意識しちゃってるな」
 忘れろといわれているのだ。何もかも忘れてぐっすり眠ればいい。そうすれば見逃してくれた美由紀さんだってあたしを意識せずに何もなかった風によそえるはずだ。
「ああぁ……そんな腹芸があたしに出来るわけ無いって……」
 井戸の淵に手を付いて、ど〜しても美由紀さんの言葉を忘れられない頭を下げてガックリうなだれる。……そんなあたしの背後から地面を踏む音が聞こえてきて、とっさに美由紀さんかと考えてしまう。
「――――――ッ!!!」
 反射的に振り返ったあたしの前には、美由紀さんではなく……綾乃ちゃんが立っていた。
「あ……」
 まるで今になってあたしがここにいる事を知ったみたいに綾乃ちゃんは驚いている。
 昨日の夜に温泉で別れて以来の再会なのだけれど………かなり気まずい。一日経つけれど、股間の方はまだアレが生えたままなのだろう、赤くなった顔を俯かせてスカートの股間を抑えられていると、否応無しに口でしてしまった事を思い出してしまう。
 ―――あたしが温泉を去った後、あのギルドマスターに何されたんだろう……
 これは考えるべきじゃなかった……アサシン襲撃の一件で忘れていられたのに、綾乃ちゃんの恥らう姿を目にしていると、温泉を舞台にして謎の美女と綾乃ちゃんの間に何があったのかと淫らな妄想ばかりを掻きたてられてしまう。
 ダメだ、ダメだダメだダメだダメだダメだダメだぁぁぁあああ!!! あ、朝から綾乃ちゃんをネタにあたしはなんてェ事まで考えてるのよ。こ…こんな妄想、全部捨て去らなきゃぁぁぁ……!
 そうだ。昨晩の事は美由紀さんとの事のように忘れてしまおう。―――と言うわけで健全な関係は挨拶から。あたしはぎこちない笑みを浮かべて片手を上げると、
「お……おはよう、綾乃ちゃん。昨日はよく眠れた?」
 ―――うむ、自然だ。どこからどう見てもいつもどおりの挨拶だ。
 朝にふさわしい眩しい笑顔。明るい声。そしてさりげな〜く話題を提供して……それが失敗だと気付いたのは、綾乃ちゃんが顔を真っ赤にして、わなわなと体を震わせ始めた時だった。
「し……知られてたんですね………わ…私……先輩にだけは気付かれたくなかったのに……」
「え? はれ? な、何かマズかったですか、さっきの?」
「いいんです、先輩がわざととぼけてらっしゃってるのは分かってます。そんな優しい先輩が私は……でも…私の体はもう先輩だけの物じゃなくなってしまったんです……私…私…なんてお詫びをしていいのか、もう分かりません!」
「わぁぁぁ―――ッ!!! ちょっと待って、あ、あたしは綾乃ちゃんを独り占めって言うか、なんだかまだ事情は飲み込めてないけどあたしだけのものって一体なにィ!?」
「娼婦になるって決めたときから覚悟してました。けど…けど……先輩が一人でこんな事を続けてたって、私が足手まといなばっかりにお一人で苦労されていた事を理解はしていても全然分かっていなかったんです!」
「あの〜…綾乃ちゃん、あたしの声、聞こえてる?」
「でも、私、それでも先輩と一緒にいたいんです! お願いします」
 さっぱり話がわかんない……昨晩何があったのかは想像がついてるんだけど、あのおとなしい綾乃ちゃんがここまでまくし立てる原因って……なんて考えていると、涙をポロポロ溢れさせながら、綾乃ちゃんがあたしの胸へいきなり飛び込んできた。
「んのわぁ! あ、あぶなッ! 後ろ井戸、落っこちるって、井戸ぉぉぉ!!!」
 加減を忘れて抱きついてきた綾乃ちゃんに押されて上半身が縦長の井戸の穴に覆いかぶさるように仰け反ってしまう。
「先輩だけにって決めてた私の気持ちがなんて薄っぺらだったのか分かりました。何度も、数えられないぐらい体を汚されて、これが娼婦の仕事なんだって分かっても……わたし…やっぱり先輩のことが……」
「そっ……それは…よかっ…た……」
 話を全部聞ける余裕は無い。……が、これ以上暴れないよう綾乃ちゃんの細い体を両腕で抱きしめ、井戸へ落下しそうになる上半身を貧弱な背筋腹筋フル活用して必死になって引き戻す。
「き、昨日のことなら犬に噛まれたと思って忘れた方がいいわよ。何しろ相手は娼館ギルドのギルドマスターでもあるんだし」
「だけど……私、他の人の手で……」
「だったらあたしの方が汚れちゃってるわよ。それこそいろんな男の人にされまくってきちゃったんだもん。こうして綾乃ちゃんを抱きしめる資格なんて無いぐらいにギットギトのベットベトのドッロドロに。……綾乃ちゃん、そんなあたしとは一緒にいたくない?」
 パッと泣き濡れた顔を跳ね上げた綾乃ちゃんは、フルフルと首を横へ振る。
「それと同じよ。あたしだって、綾乃ちゃんが一緒に旅してくれるから寂しい想いをしなくて済んでるんだもん。いまさら一人には戻りたくないよ」
「じゃあ……これからも、ずっと一緒でも……?」
「一緒も一緒。あたしには綾乃ちゃんのどこが汚れてるのか全然わかんないし。だから、これからも一緒に旅を続けましょ。綾乃ちゃんが別れたくなるまで逃がしゃしないんだからね。分かった?」
「は…はい♪」
 やっと綾乃ちゃんに笑顔が戻った……のはいいんだけど、後ろの井戸が見えて無い綾乃ちゃんは嬉しさに我を忘れ、グイグイとあたしへ体を押し付けてくるし、井戸の淵に踵をつけた今のあたしは物凄くバランスが悪い。気を抜けば釣瓶と一緒に暗い井戸のソコまでまッ逆さまなんてことになりかねないので、正直な話、自分で自分の口がなに言ってるのかほとんど分かっちゃいなかった。
「じゃ、じゃあ……だ、だだだだったら、先輩に、ひ…一つだけお願いが……」
「綾乃ちゃんのお願いだったら、何でも聞くから、あの、そろそろ体をォ……!」
「あの……こんな事を言うと、はしたない子って思われるかもしれませんけど……」
 思わない、だからそろそろあたしを井戸の恐怖から解放をぉぉぉ!―――あ、なんか背筋つりそう。って、我慢だあたしィィィ!!!
「私……せ…先輩とSEXしたいです!」
「―――は?」
「昨日は先輩と…あの……………だったから……で、できればで…いいんですけど……」
「まあ……綾乃ちゃんが相手だったら構わないかな?」
「本当ですか!?」
 よほど恥ずかしかったのだろう、今にも消えてしまいそうなほど体を小さくしていた綾乃ちゃんはあたしの了承の言葉を聞くと、本当に嬉しそうな声を上げた。―――が、
「あっ……」
「綾乃ちゃん? どうかしたの?」
 押し込みの力が弱まり、ようやく一息つけたかと思いきや、綾乃ちゃんは再び顔を俯かせて苦悶の色を帯びた声を上げた。
「どこか痛いの? お腹? 調子が悪いなら早く部屋に戻った方が……」
「そうじゃなくて……んッ…こんな……先輩の…腕の中で……」
 ―――なんか聞き覚えのある声のようなんだけど……
 けど今はそれどころじゃない。苦しそうな綾乃ちゃんを早く部屋へつれて帰ろうと抱きしめる腕へ力を込める。するとビクンッと一際肩を大きく震わせ、涙に濡れた顔をあたしのシャツをグイッと押し上げている大きな胸へうずめてきてしまう。
「あ、綾乃ちゃん!?」
「―――、―――――、ッ――――――――――!!!」
 何かを堪えるようにあたしの胸へすがり付いて体を震わせ続ける綾乃ちゃんを、あたしはただただオロオロ首をめぐらせて抱きしめる事しか出来ない。気分が悪いのかと背中をさすり、倒れないようにと腰へ腕を回し、息の荒い綾乃ちゃんに耳元で彼女の名前を呼び続ける。
「せ……セン…パ……」
「大丈夫? 意識はある? なにか変なものを食べちゃった!? お腹が痛いなら薬持ってくるよ!?」
「ち、違……わたし…は………」
 呼びかけに答えて上を向いた綾乃ちゃんの顔は、窒息寸前のように真っ赤になって熱を帯びている。全身に広がっていた痙攣も次第に収まりつつあるけれど………突然、綾乃ちゃんの瞳にブワッと大量の涙が溢れ出してきた。
「―――違うんですぅぅぅ〜〜〜〜〜〜!!!」
「んキョワぁあっ!!!」
 いきなり大声を上げた綾乃ちゃんに突き飛ばされ、上半身が中を泳ぐ。辛うじて地面へ残せた左足一本でバランスをとり、両腕と右足でジタバタもがいて二度目の落下のピンチから逃れた時には、綾乃ちゃんは既に泣きながら立ち去った後だった。
「………今日の綾乃ちゃん、一体どうしたって言うのよ?」
 ピンチから脱してもいまだ鼓動の収まらない胸を押さえ、綾乃ちゃんの鳴き声の名残が残ってるように感じる朝の森を見つめていると、井戸の淵にも耐えかかっているあたしの横へ誰かが歩み寄ってきた。
「ギルドマスター……おはようございます……」
 なんだかもう、朝も早くから驚く元気も失った。ギルドマスターの姿と言えば全裸しか見覚えは無いんだけれど、さすがに朝だけあってちゃんと服も着ているが……
「っ………!」
 少し低くなっているあたしの視線に堂々と突き出されているのは、腰の上にまで届きそうな深いスリットから飛び出た見事なまでの脚線美。その美しい白さと見事なラインに胸を突き上げるような衝動に駆られてしまい、慌てて視線をそらして立ち上がってしまう。
「ふふふ……仲のいいお二人が朝から痴話げんかかと様子をうかがっていたけれど……いけない人」
「……それ、あたしのことですか?」
「他に誰かいる? あんなに可愛い子を泣かせたんですもの。当然でしょ?……それとも、悪い女と言い換えてあげましょうか?」
 綾乃ちゃんを泣かせた根本的な原因は目の前にいる美女にあるんだと思うんだけど……だけど、ギルドマスターがあたしの足元を指差し、地面に小さな水滴の後が出来ているのを見て、
「それ、綾乃さんの射精の跡」
 と言われた瞬間、あたしの思考と体はピシッと音を立てて凍りついていた。
「触るでもなく扱くでもなく、ただ抱きしめるだけで殿方をイかせてしまうなんて……すばらしいわ。有望な娼婦はギルドにとって宝も同然。そしてその若さと美貌……フフフ、私といっしょに娼館の星を目指してみない?」
「あたしは一応も何も男なんですけど……って、なに、綾乃ちゃんの!? なんでこれが綾乃ちゃんが×××した証拠だって言い切れるんですか!?」
「あなたへすがりつく表情。必死に押し殺そうとしていた体の震え。スカートの下ですりあわされる太股と、それでも我慢できなくなった下半身を両手で押さえ込むあのしぐさ……私が見間違えると思う? あんなに可愛らしい子のリビドーの瞬間を」
 思えません……この人がそう言うと、物凄く説得力があるように聞こえてしまうから不思議だ……
「それにいけないのはあなたのほうなのよ、たくやさん」
「あたしが? なにも悪いことしてませんけど……」
「何もしないのがいけないのよ。いい? 興奮していると気付いた時点で慰めてあげるのが先輩娼婦の務めなのよ。それなのに丸一日ただ歩いていただけだなんて……目の前に餌を置かれてお預けさせられている犬の気分を考えてごらんなさい」
「あたしが餌で綾乃ちゃんが犬ですか……けど、昨日はこっちに向かってる最中だったし……」
「だったら場所はどこにでもあったでしょう? 道の脇の茂みや森を少し入ればまぐわう場所なんていくらでも」
「あ、あたしはそんな変態じゃありません!」
「人間、最初は洞窟で生活していたのよ。外で裸になってSEXすることはもっとも自然な形なのよ?」
「んな自然は崩壊してしまえェ!!!」
「まあ……なんて過激で粗暴な発言なのかしら。かわいそうな綾乃さん。この様な人を姉と慕うなんて……」
「とにかく! 今後は綾乃ちゃんに手を出すのはやめてください! 金輪際! 絶対に! いいですね!?」
「あら恐い。―――でも綾乃さんはとても可愛らしいんですもの。もし私が我慢できなかったら?」
「その時は……」
 どうするかなんて考えずに勢いだけで言っただけなんだけれど、いい返されて思わず口をつぐんでしまう。
 今までどこにいたのだろうか、不意に仮面の女騎士――美由紀さんが姿を見せたからだ。おそらくはギルドマスターの影になって見えない場所にいた……としか考えられない。建物や木の影など離れた場所からではなく、今までずっとその場所にたたずんでいたかのように視界の中へ静かに、そして突然現われたのだ。
「う……あう……」
 綾乃ちゃんと抱き合ってるところを美由紀さんにも見られてた?
 それよりもギルドマスターに何かしようとしたら護衛の美由紀さんに切り捨てられかねないし。
 それ以前に昨晩の事……美由紀さんの姿を見たら一気に思い出しちゃって……口を開いたら、下手な事を言っちゃいそう……
 ―――何も言えない。恐さや秘密を抱えている事が頭の中で渦を巻くと、あたしは容易く混乱に陥る。そんなあたしの様子に早々に気付いたギルドマスターはわざと怯えた眼差しであたしを見つめながら、
「それで、私をどうするおつもりなの?」
「いや……あの……」
「そう……口で言えない様なひどい事をするつもりなのね……」
「や……それは……」
「しかたないわ……それは全て私の行いが招いたもの。彼女に触れた事を怒っているのでしょうから……」
「えと……えと……」
「私の体でよければ好きにすればいいわ……抵抗はしないから、あなたの気の済むまで……」
「だから……えっと……あたしは……」
「んッ……恐いわ。でも……あなたにされるのかと思うと、体が勝手に……」
「あう……あうぅぅ……」
「―――それで? 私をどうするつもりなの?」
 一言も反論できないまま、最初の言葉でもう一度質問されたあたしは地面に膝をつき、
「もうしわけありませんでした」
 と、深々と頭を下げさせていただいた。
「あらん? 本当に構わないのよ、私は。年下の女の子にいじめられるのも、たまには面白そうだし。そ・れ・と・も・元男の子のたくや君には私のような年上の女性は守備範囲外なのか・し・ら?」
「いえ、そんな、滅相もありません。余りにお美しすぎて恐縮いたしている次第であります!」
「そんなこと言わないで……一晩だけ、身も心も蕩けるような逢瀬を味わってみたくない? 二人きりじゃなくて、さ・ん・に・ん・で♪」
「いや……複数プレイはご容赦を……あたし、二桁を経験済みだし……」
「そういえばフジエーダではかわいそうな目にあったのよね。―――う〜ん…同情はするけど、私も混ざりたかったと言うのが本音かしら。ここじゃなくてフジエーダまで行けばよかったわ。そしたら殿方に取り囲まれて滅茶苦茶に……♪」
 この人の方が滅茶苦茶だよ〜…と泣きたくなるけれど、下手にギルドマスターのご機嫌を損なうわけにはいかないし……
 面白い玩具を見つけたように言葉であたしをからかうギルドマスター。あたしは地面に直で座らされ、この時間が一秒でも早く過ぎる事を願って頭を下げ続けていたが……救いの手は思いもよらぬ方向から伸ばされてきた。
「マスター、彼も困っています。ここへ参られたのは、そのような事を為されるためではなかったはずですが」
 ウルウル涙を流しながら逃げ出す算段を考えていると、それまでギルドマスターの背後で彫像のように無言を通していた美由紀さんが、おもむろに口を開いた。
「まだこの地の結界の修復は完全ではありません。手の者が警戒に当たってはいますが万が一を考え、マスターには早々に用事を済まされて安全な場所に移動していただきたいのです」
「そうだったわね。――と言うわけであなたたち、変えるのは明日以降になさい。わかったわね?」
「………はい?」
 話についていけず、地面に向けていた視線を上げると、そこには意味ありげな笑みを浮かべる長い髪の美女と、今は表情が完全に読めない仮面と視線がかち合ってしまう。
「何も難しい話ではありません。外の世界と今いる空間とを行き来するゲートを通る時は無防備になります。そのため外側には二重の結界を、内側にも十重二十重の警戒網を敷いていたのですが、昨晩侵入した刺客たちによってその多くを破壊、または損傷させられてしまいました」
 結界を壊したのはあたしだったはずだけれど……美由紀さんが「そう言うこと」にしたのなら、その方がいいんだろう。
「そのため警戒のレベルを上げざるを得ず、たくや様、綾乃様のお二人には結界の修繕が完了する明日までこの地にご逗留願いたいのです」
「ああ、はい。そう言う理由だったら……今は綾乃ちゃんと二人っきりになったら、間が持たなさそうだし……」
 先ほどの綾乃ちゃんんお様子を思い出し、正座したまま頬をポリポリと掻く。
「じゃあ、二人とももう一日ここにいるのが分かったし、私はもう一度綾乃さんにあってきます。美由紀、結界の方はお任せします」
「………だからそれは―――いえ、なんでもありません」
 美由紀さんが見てる……その事に気付くと、下手な事を言う前に自分から口をつぐんでしまう。そんなあたしを見て、ギルドマスターはクスッと小さく笑みをこぼす。
「心配しなくても構わないわ。私はただ、綾乃さんの魔力属性を調べるだけだから」
「属性……? それなら調べなくても……」
「彼女の属性は『陽』。火と光の系統の魔法に向いている属性ね。それは昨晩、彼女の口から聞いたわ」
 だったらなんで? 首を傾げるあたしに、今度は美由紀さんが説明しようと口を開く。それを後ろ手を振ってさえぎり、ギルドマスターは言葉を続けた。
「一定の周期に従い、性別が変わる……これはあなたのように完全に女になる事よりも不思議そうに見えるけれど、理論だてて説明は可能よ。彼女の生まれ持った特異能力によるものだと気付けばね」
「特異……能力?―――あ、聞いたことがある! 魔法を使わずに魔法と同等の奇跡を起こす能力!」
「そう、あなたが会った人の中ではクラウド王国の王女、静香様もその一人ね。ガーディアンと言う魔導兵器と通じ合える能力などを持つ彼女は、なんら修練をせずにガーディアンを呼び出す行為を行っている。それこそ呼吸や食事と同じレベルでね。そして綾乃さんの特異能力はダブル――二重属性保有者よ」
 ―――人間の中を通った魔力には、その人に応じた魔力の色を帯びる。
 燃えやすい、光りやすい、冷えやすい……それはその人の成長にも影響を与えるといわれているが、燃えやすい魔力は火炎の魔法に、冷えやすい魔力は冷気魔法にと、どのような魔法に適しているかと言う意味合いで考えられるのが主だった。
 それが魔力の『属性』……ちなみにあたしの属性は、どんな魔法にも適さないどころか魔法の発動を阻害する『無』なんて言うありがたくないものだったりする。
 原則として、属性は一人につき一つしかない。もし体の中に魔力の色を決める要因が二つ以上あったとしても、まだ体も出来ていないような母親のお腹にいる状態の内に混ざり合い、そのどちらでも無い別の属性へと変化してしまうからだ。
 もし二重属性と言うのが本当なら、それこそ魔法学上ではとてつもない才能と言えるだろう。一つの体に二つの属性、その仕組みを解析すれば……あ、なんか実態実験されてる綾乃ちゃんを想像しちゃうんですけど〜……
「綾乃さんのもう一つの魔力属性は『陰』。魔法の発動に難があるのは、普段から『陽』の魔力に『陰』の魔力が微妙に混ざっているからでしょうね。闇系統の『陰』属性なら光系統の魔力とは相性が悪いし。そして、彼女の体の中で『陰』の魔力が高まる周期があり、今がまさにその時……」
「そ、そんなのでおチ○チンが生えちゃうものなんですか?」
「さあ?」
 ……おいおい。そんな無責任な……
「魔力がきっかけになっているのは確かでしょうけど、肉体変化は占い師の私には専門外ですもの。変身の前後で体が大きく変化する獣人もいるし、それと同様なのかもしれない……と言う事ぐらいね」
 ―――と言う事は、綾乃ちゃんにおチ○チンが生えるのはポチなんかの変身と一緒ってことか。股間限定って言うのがいささか困ったものではあるんだけど……でも、ちょっと待った。
「大体は分かりました。でもなんで綾乃ちゃんの魔力に『陰』属性が混じってるって分かったんです?」
「あら、そんなの簡単よ」
 ギルドマスターは朝の井戸端にはあまり似つかわしく無いような艶のある眼差しで空を眺める。
「だって――精液を飲めば魔力の属性が分かるもの」
「「………え?」」
 さすがに予想外だったのだろうか、自分の主の言葉を妨げないように沈黙を保っていた美由紀さんの驚きの声があたしとハモる。
(………精液で魔力が分かるって……いまさらなんですけど、この人って何者?)
(……………)
(サキュバスとかじゃないよね? 大丈夫だよね?)
(……………)
(答えてよぉ……)
 アイコンタクトで美由紀さんに尋ねようとしても視線を合わせてくれようとしない。仮面を明後日の方向に向けて「我、関せず」を貫いている。……まあ、自分の主がこんな人間離れした特技を持っていたのだ。困惑する理由もわかるけど……
「そう言うわけだから、綾乃さんの股間にアレが生えてきたときは少し多めに抜いてあげなさい。今のところは性欲が増大しているだけで済んでいるけれど、闇系統の魔力は人間の精神にあまりよく無いから」
「はぁ……」
「あら、気の無い返事ね。だったら私が今夜にでもベッドの上で……」
「ダメダメダメダメダメダメダメダメ、絶っっっ対にダメェ!」
「じゃあ頑張りなさい。『陰』の魔力を体内に残したまま体を元に戻させないようにね」
「分かりました……頑張ってみます」
 言われるまでもなく綾乃ちゃんとは既に約束してしまってるわけだけど、「大目に抜け」〜とか「精液残すな」〜とか言われても……むむ、「やりまくれ」とか言われてるみたいで……
 まるで綾乃ちゃんとエッチな事をするのを促されているような気分になる。顔を赤くして正座したままモジモジしていると、ギルドマスターは少し間を置き、次の言葉を放った。
「でも……あなたと綾乃さんは出会うべくして出会ったんだと、私はそう思うわ」
「そりゃあ……綾乃ちゃんには感謝してますけど。料理作るのも上手だし、こんなあたしを慕ってくれてるし……だ、だけどエッチとそれとはまた話が別なんじゃないかと……」
 昨日の夜の出来事で、あたしと綾乃ちゃんがそう言う関係だと思われているとのなら、ちょっと困る。あたしは綾乃ちゃんにまで手を出すようなスケベじゃ……って、今まで三回手を出してるけど、可能な限り清く正しく美しく……
「あなたの考え、全部顔に出てるけど……でも私はそう言う意味で言っているんじゃないわ。二人には似ている点があるということよ。それに……あなたを男として捉えてくれている子でもあるんだから」
「あたしを…男……?」
「ふふふ……役に立てない占い師のおせっかいはここまでよ。後は自分で考えなさい。じゃあ美由紀、私は温泉に使ってくるから、後のことは任せたわよ」
 ―――いや、ちょっと待って。あたしを男としてみてるって、一体どういう……
 自分の言うべき事を全ていい終えたギルドマスターは、最後に口にした言葉の通り、あたしの疑問には答えずに温泉へ向かう小道の方へと歩き去っていく。
 ―――本当に何も分かっていないのだろうか?
 あたしの事を占うと、エクスチェンジャーがどうのと言ってカードが真っ白になってしまうらしいけど、あんなに何もかも見透かされてるような事を言われたら、本当は占えてるんじゃないかと疑って見てしまう。
「たくや君、立てる?」
「う…む……今はちょっと……」
 さっきまで自らの主人の後ろへ立ってあたしの一挙手一投足に目を光らせていた美由紀さんだが、そのギルドマスターがいなくなると、足が痺れて立てないあたしに手を貸してくれる。その手を取り、言う事を聞かない足を引きずるように立ち上がると、あたしは井戸の淵へ腰掛けるように体重を預けた。
「たたたっ……ありがと美由紀さん」
「このぐらい何でも……」
「そうじゃなくて。あの……あたしの正体のこと。ギルドマスターには黙っててくれたんでしょう?」
 あたしの問い掛けに美由紀さんは無言。仮面で表情を隠しているはずなのに、あたしから視線をそらし、騎士の姿には似つかわしく無い“弱さ”をあたしの前に見せながら恥らうような仕草で両手の指を絡め合わせている。
「でも…本当にこれでいいの? 美由紀さんの立場なら、あたしのことは報告しなくちゃいけないんでしょ?」
「だって……」
 美由紀さんがまるで普通の女の子のように小さな声で囁く。―――その直後、前言をかき消すように頭を左右へ振ると、
「話したい事があるの。今夜、温泉で……」
「それはいいけど……あ、美由紀さん!?」
 ここには温泉が無数にある。いったいそのどれで……と訊ねようとする前に、美由紀さんはあたしに背を向け、そのまま森の中へ走り去ってしまう。
「話…ねぇ……」
 おそらく魔王のことだとは思うけれど……気が重い。世間一般の目から見れば、あたしは存在するだけで不幸を撒き散らすような「害悪」なのだから。いくら美由紀さんが庇ってくれても庇いきれるはずもなく、むしろ迷惑をかけてることが心苦しくて仕方が無い。
「ちゃんと話、した方がいいよね」
 男へ戻る方法を探す旅はお預けになるかもしれない。けれどギルドマスターに正直に話してしまえば、そう悪いようにはされないはず……もしかすると美由紀さんの言う「話」もその事についてかもしれない。
「今夜……か」
 井戸の淵に腰掛けたまま、清んだ青空へ視線を向ける。
 ―――綾乃ちゃんと顔をあわせるのは気まずい。
 ―――温泉に行ったらギルドマスターに見つかってヤらしい事をされそうだ。
 ―――森を散策して美由紀さんとばったり出会ったら、何を話していいのやら。
「……長い一日になりそうね」
 こんな天気のいい日が勿体無い。――が、今は誰とも顔をあわせるとマズい状況にばかりなってしまうので、どうやら部屋でゴロゴロしているしかなさそうだった。
「はぁ……もう一眠りしよっと」
 そう言って欠伸をした途端……あたしは後ろへ向けてバランスを崩してしまった。


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