stage2「聖天の主」-02


 食堂兼酒場になっている宿屋の一階は、人一人見つけるのにも苦労するほどの街中のさびれぶりと比較すれば、随分と賑わっていると言えた。
 そんな中、テーブル席で留美と差し向かいに座った綾乃は、頭から足首まですっぽりと覆うローブ姿で、何かに怯える様に背中を丸めて身体を縮こまらせていた。
 ―――……なんだか雰囲気が怖い気が……
 テーブルやカウンターは5〜6割ほど埋まっている。馬車の駐車場からそう遠くない距離で、値段が手ごろだとたくやが見つけて数日の宿に決めたところだけれど、テーブルにずらっと並んだ料理の数々はどれも美味しい。綾乃がたくやと旅をするようになってから何度も宿に泊まる機会はあったものの、料理の味に関して大きなハズレを引いたことはあまりない。むしろこの宿は当たりと言える。
 けれど綾乃と留美が食事をしているテーブル以外の客は、見ている限りでは、この料理の味を求めてこの場にいるわけでもなさそうだ。
 ―――冒険者……ううん、傭兵さんなのかな……
 腰の剣帯に使い込まれたロングソードを吊るしたまま座っている者もいれば、壁際に槍や斧を立てかけてグラスに注いだ酒を舐めるように飲んでいる者たちもいる。
 平穏な街には似つかわしくない殺気が食堂の中に充満していた。誰も彼もが鋭い視線を店内に向けてお互いを牽制し、フォークがさらに触れて硬い音を一つたてるたびに冷や汗が湧き出るほどの剣呑な空気だ。
 だが、その気になれば食堂どころか街一つ吹き飛ばせるほどの実力者である留美だけはそんな空気を意にも介さず、
「ウェイター、注文の追加だ。鶏のハーブ煮込みとフレッシュチーズサラダ、ローストポークにロールキャベツとキノコのパスタ、パンも二籠持ってきてくれ。これだけだと野菜が足りないな。よし、サラダ三皿追加だ。それから赤ワインを二本ほど。それに合うつまみも何か――」
 ―――あ、明らかに食べすぎじゃないですか? 絶対に後で先輩が泣いちゃうと思うんですけど……?
 ここの支払いは、アーマキヤでたくやが泣く泣く娼婦として働いて得たお金だ。しかも娼館建設に貢献したと言う事で、娼館ギルドから正式に派遣された娼館長が到着した際に特別報奨までもらっている。合わせたらかなり多額になりすぎていたので大部分はマーメイドたちに譲り、それでもクラウド王国首都クラウディアまで三人が旅をするのに十分な額が残ったのだが、
 ―――何日、滞在するのかな……
 何日も街に滞在すれば、その分だけ食費も宿泊費もかかる。一週間もいたら財布の中身は空っぽになってしまうだろう。
 それなのに……綾乃よりも留美の方が明らかにスタイルが良い。食事量は、胸や腰周りの発達だけ促し、腰回りは関係ないのだろうか? 肉? やっぱりお肉を食べなきゃ胸も大きくなりませんか? て言うか、本人は否定しているけれど、たくやは明らかに巨乳派だ。吸ったり揉んだり挟んだり擦ったりして喜んでる。それどころか吸われたり揉まれたり挟まれたり擦られたりして悦んでもいる。たまに今のままの方が幸せそうに感じる時もあるけれど、重要なのはやっぱりたくやも食べる方だと言う事実。二人してその胸に栄養色々詰め込んでるんじゃないかとか嫉妬してしまう時もあるけれど、最近の自分の食事量を鑑(かんが)みて、
 ―――やっぱり食べなきゃ、元気は出ないもんね……
 留美が最後の一本になった鶏脚の照り焼きをかじっていると、先ほど注文した皿の数々が出来上がった順に続々とテーブルの上へ運ばれてくる。そして順に留美の口の中へ消えて行く料理の数々を見つめながら、それらがあの細い腰のいったい何処へ入って行くのかと不思議に思い、気がつけばもう食べるのは十分と思っていたはずの綾乃の手が、籠からパンを一つ取り、小さくちぎって自分の口に運んでいた。
 ―――この味は……
「故郷の味は懐かしいか?」
「――――――っ!?」
 綾乃の心の隙を突くように留美に声をかけられ、ローブに隠れて相手には見えないはずの表情に驚きの色を浮かべる。
 そして、反射的に何か否定する言葉を言おうとするけれど、舌の記憶は留美の言葉どおりだと言っている。結果、矛盾する二つの言葉がしたと喉とでぶつかり合い、綾乃はただ黙ってパンを自分の口へもう一口運ぶ。
 ―――もう、食べることはないのかなって思ってたけど……
 パンは小麦とハーブ、それから山で取れる岩塩とで出来ていて、外はカリッと、中はふんわりとしていてとても美味しかった。フジエーダにいた頃、自分で焼いてみようとしたけれど小麦も塩も違うせいか思ったような味にはならずに淋しさで胸を詰まらせた記憶が、あの頃の想いと共に鮮明に蘇ってくる。
 ―――私、帰ってきたんだ……
 かつて、“呪い”を受けた身として忌み嫌われた。
 まだ小さい子供だった綾乃が頼れるのは親だけだったのに、その親からも遠くにやられた。
 決して、良い思い出なんかなかったと思っていたはずのカダの街。たくやが、留美が、この街に来るとさえ言わなければ二度と戻るつもりのなかった自分の生まれ故郷で、パンを噛み締めるたびに胸の詰まる気持ちが込み上げてくる。
 ―――全然……大丈夫だって思ってたのに……すぐに立ち去りたいって……そう思ってたのに……
 そう言えば、自分のこのパンを最初に焼いてくれたのは母ではなかったか? 美味しくて気に入って、毎日食べるようになって、そのうち妹と一緒に母を手伝い、父もそれを美味しいといって食べてくれて―――
「うっ……」
 口の中がパンの味に馴染むほどに、目から涙が溢れ出てくる。
 たくやがいなくて良かった。いたら、きっとなんで泣いているのかわからずにオロオロしていただろうから。
「………先生、知ってらしたんですね、私のこと」
「火と闇の二重属性。そんな希少魔力保持者の記録がどこにも残っていないはずがない。生まれと育ちが良いのは見て取れたから、後は用事のついでに地元の魔法ギルドへ立ち寄って、生まれ年の記録を当たればよかった」
 勝手に調べたことは謝るが、と言葉を付け足すと、留美は優しげではあるがどうしたらいいか判らずに少しだけ困惑した目を綾乃に向ける。
「集落から一歩も外へ出ずに一生を過ごす者もいれば、故郷を離れて一生戻らない者もいる。だが……そうは見えなかった。戻るつもりがなければ悩みはしない。だから戻ることになっても悩みはしない。戻らなければいけないから悩むんだ。おまえはここに……カダの街に、何か遣り残したことがあるのだろう?」
「………私の、家の事情もご存知ですよね?」
「もちろん。出生時の魔力属性検査記録を見たから、この街の誰の手で取り上げられたかも知っている。だから、もしかしたら家に迷惑をかけるんじゃないかと考えて迷っているかと思って、強引にここまで連れてきた。たくやが一緒なら、途中で逃げることもないだろうし」
「そんなことしません……いえ、できません。私、ひとりじゃ何にもできませんから」
「ふふっ……存外、気付かないものだな、自分の成長と言うものは。だがしかし、街に着いても塞ぎがちで、心の琴線に触れればとあれこれ料理を注文したのだが……まさかパンとは。答えとしては少しシンプルすぎやしないか?」
「あう……す、すみません、気を使わせちゃって……」
「気にするな。どうせ食事代はたくや持ちだ。思う存分飲み食いして破産させてやればいい」
「……先輩が破産したら、旅費もなくなって、私たちも旅を続けられないんじゃないんですか?」
「それも安心しろ。あいつならまだまだ稼げる。これだけ人が集まっていれば、娼館に行く客も多かろう?」
 ひどいなぁ、と心の底から思いながらも、フードからわずかに見える綾乃の口元には笑みが浮かぶ。
 それを見てひとまずの安堵を得た留美は、手をつけなかったチーズのサラダとパスタを綾乃の前へと差し出すと、グラスに残ったワインを飲み干し、椅子から立ち上がる。
「先生、どこかへ?」
「たくやにした頼みごととは別件でね、私は私で用事がある。夜には戻るから、綾乃はその間、部屋でおとなしく待っていてくれるか?」
 頑なだった心が懐かしい味を得てわずかに緩んていた。綾乃の心がほぐすためにも、一人で考える時間は必要だろうと言う留美の配慮だったが、言われた綾乃はわずかに身体を強張らせる。
「………この席には認識阻害の結界を張っておいた。部屋のほうはさらに厳重にな。だから、久しぶりの故郷の味を満喫してから、ゆっくり休んで、ゆっくり考えると良い」
 結界なんていつの間に……と思いつつも、この世界最高の大賢者にしてみれば、それこそ結界の敷設なんて朝飯前だろう。
 ―――それに、この街の人に私がいることを気付かれたくないし……
 そう一瞬考えたけれど、留美から視線をはずしたわけではない……が、留美の姿はいつの間にか目の前から消えていて、テーブルの上には注文した料理の代金がぴったり置かれていた。
 ―――留美先生って、無銭飲食したり……するはずないよね、うん。
 あんな瞬間移動ができれば何でもし放題名はずだけれど、真っ先に犯罪行為を思いついたことを恥じると、いつの間にかパンを一つ食べきっていた綾乃は迷いながらもフォークを手に取り、先にパスタを絡めて一口。それからサラダも口に運ぶと、眉を下げ、
 ―――お母さんの作ってくれたやつの方が、美味しかったかな……
 懐かしい故郷の味付けが蘇らせる記憶は、家族との楽しい思い出だ。
 綾乃自身も料理は好きで、たくやとの旅の最中に何度もその腕を振るい、その回数だけ喜ばれてきた。けれどそれも、幼い頃に母から受けた教えがあったればこそ。妹は作るのを手伝ってはくれるけれど、もっぱら食べることの方が好きで、もっともっととせがまれたものだ。
 ―――でも……私の身体のことが街の人に知られてからは……
 当時のことを覚えている人はどれだけいるだろう。いっそ誰も彼もが忘れ去ってしまえばと、そんな無茶を願わないわけではない。
 今にして思えば、綾乃はあまり家の敷地の外へは出してもらえなかった。家が裕福だったこともあり、勉強も専属の教師が教えてくれていた。そして子供が遊ぶのには家の敷地は十分すぎる以上に広かったから、遊び相手が母と妹だけであること以外は、何も不満なく楽しい日々を過ごしていた。
 そんな平和な毎日に異変が起こったのは、遠回りの街道が出来てからのことだった。
 街の景気が次第に下降線をたどれば、それまで何もしなくても旅行客が訪れていた商売人たちの心に徐々に不安と不満が募っていく。立地に依存していただけの商売人たちは遠ざかる客足に対して何かできるわけでもなく、ただ、蓄積した鬱憤をぶつけるために全ての責任を綾乃の実家にぶつけ、そして他人とは違う身体をしていた綾乃にその照準を定めた。
 ―――理不尽、だよね。私が何か悪いことをしたわけじゃないのに……
 対象は別に何でも良かったのだと、今なら解る。『呪われた子供』と言う口実で綾乃を槍玉に挙げて、じわじわ迫り来る現実の圧迫から目を背けたかっただけなのだ。
 ―――フジエーダの寄宿舎のある学園に入学させられたのは、私を守るためだってことぐらい……
 父は綾乃を守り、母も綾乃を庇い、妹も綾乃を励ましてくれた。けれど騒ぎの渦中にい続ける事で、綾乃のみにどんな危険が及ぶか解らない。現に、家に放火されそうになったことも一度や二度だけではない。父には人望も人脈もあったので、街の内外全てが敵と言う状況にこそならなかったものの、むしろ味方をしてくれた自警団たちによって表立った行動が取り締まられたことで、抑圧され、過激な行動に出始めていたのではないかとも考えられる。
 ―――お父さんもお母さんも、大丈夫かな……
 フジエーダにいた頃、妹とはずっと手紙のやり取りをしていた。彼女は彼女でカータ=ギーリで騎士になるべく励んでいるらしい。それは故郷を、綾乃と暮らしたカダの街を守る力になりたいと言う妹の意思の表れだ。
 では綾乃はどうかと言うと、ただ両親に遠ざけられたと言う幼い頃からの心の傷を抱えて、本当は自分を守ろうとしていたのかもしれないその両親の気持ちを踏みにじるかのようにフジエーダを飛び出した。そのことが別の意味で綾乃を実家に戻らせない戒めとなっている。
 けれど、たくやと一緒に旅をしたことは決して無駄ではない。フジエーダでただ学校に通っていただけでは、何があろうともここまで戻ってくることはなかった。自分のトラウマに向き合うだけの心の強さを手に入れられたと言う思いがある。
 ―――ん……そう…だよね。こんなところでウジウジしてて、強くなったなんて言えないもんね。
 家に帰ろう。
 留美も言っていた。一生故郷に戻らない人もいると。たくやと共に行くと心に決めた綾乃が、次またこの街に戻ってこられるかなんて判りはしない。もしかしたら、今が両親の姿を見る最後の機会かもしれないのだ。
 ―――直接会ったら迷惑をかけるかもしれないから、遠くから姿を見て無事だってことを確かめて……あと、手紙を書こう。私は大丈夫だからって。私は……強くなれたって。
 そう思いながら手を動かすと、硬く澄んだ音をフォークが奏でる。気がつけば、考え事をしている間にパスタもサラダも無意識に平らげてしまっていた。最近は食事もろくに喉を通らなかったとは言え、
 ―――だ、だってしょうがないじゃないですか。ずっと旅ばっかりしてたら、おなかだっていっぱい空くから、たくさん食べるようになっちゃうんだもん!
 留美が人払いのための認識阻害の結界を張っていてくれて助かった。もう少し、誰に言い訳しているかわからない自分の心が落ち着いて、恥ずかしさから来る顔の火照りが収まってから席を立とう。―――ただ、家に戻ると言う決心は変わらない。今は遠くから見るだけでも、
 ―――ちゃんと顔を合わせるのは、私がもっともっと強くなって……そしてもう一度この街に帰ってきた時に。
 もう、最近ずっと抱え込んでいた悩みは綾乃の胸から消えていた。代わりに“いつか”と言う想いを得ると、綾乃はフォークを皿の上において、
「……………?」
 その瞬間、酒場の中の空気が変わったような気がした。
 ―――なんだか、ピリピリするような……ちょっと、怖い……
 フードを被った顔を上げて周囲を見回すと、食堂に響いていた冒険者や傭兵たちの雑談がやみ、緊張が空間を支配していた。誰もが手に武器を掴み、誰もが視線を一点に……外に繋がる出入り口の扉へと集中させていた。
 ―――あれ…は………?
 入り口の扉を開け放って立っていたのは赤毛の女性だったが……一瞬、自分の目を疑ったのは、かなりその女性に失礼に当たると反省する。
 ―――でも、物凄い格好で……わ、私じゃ似合わないし、とても着る勇気なんて……
 もし悪の女魔法使いがいるとしたら……まるで綾乃の想像を読み取って形にしたかのような姿をその女性はしていた。
 黒いマントに黒いショルダーアーマー、そしてマントの下はワンピース水着のような黒レザーのボンテージ。両脚は太股まであるレザーブーツに覆われ、淡い褐色の肌の太股に食い込むようなガーターベルトで食い込みの激しいボンテージに吊り上げられている。そして両腕もまた、手の甲に大振りの赤い宝石を埋め込まれた指出しレザーグローブで二の腕まで覆われ、濃い肌の色とあいまって見る者に強烈なインパクトを与える出で立ちをしているのだ。
 ―――ち…痴女さん……とかじゃないですよね……?
 首元までぴったり包み込んでいるボンテージはあまり肌を露出していないにもかかわらず、大胆に開いた胸元と食い込むようなハイレグの股間部のせいで、性的なイメージが前面に押し出されていた。長いマントのおかげで後ろから覗き見ることは難しいけれど、この女性ならさぞや“食い込ませて”いることだろう。
 そして何よりも目を引いたのは、黒一色に身を包んだその女性の美貌にだった。左目には妙に角ばっていて横に長いモノクル(片眼鏡)をつけているけれど、そのレンズ越しに見えるのは、絶対の自信。同性の綾乃が見ているだけで恥ずかしくなるほどの格好をしておきながら、長い赤毛の髪を頭の後ろで束ねたその女性は恥じらいの表情など欠片も覗かせず、不適とも言える笑みを口元に浮かべて、
「こりゃラッキーだ。三軒目で早速見つかるなんてね」
「え………?」
 認識阻害の結界の中にいる綾乃にピタリと視線を合わせてきた。
「ふうん、本当にいるもんだね、赤と黒の二重属性なんてさ。連れてくより研究施設にでも売り飛ばした方が儲かりそうな気もするけど―――」
 視線が合っただけなら、まだ偶然だと言うことも出来る―――が、束ねた髪を揺らすようにモノクルをはずした女性は、明らかに綾乃のことを見つめながら、まっすぐに綾乃の座るテーブルへと歩み寄ってくる。
「あ―――」
 逃げなきゃ……反射的に身の危険を察して腰を浮かせようとするけれど、身体が動くことを拒否する。まるで大型の肉食獣に睨まれているように全身が恐怖で萎縮してしまい、この場にとどまり続ける危険を察知していながら椅子から腰を上げることさえ出来ずにいた。
 ―――だが、
「仲間の恨み! ナツミィイイイイイ!!」
 突然、食堂にいた客の一人が女性の横手から両手剣を振り上げて切りかかる。
 女性は今になって綾乃以外の存在に気付いたかのように、焦った様子も見せずにそちらを向くと、
「ぐあァァァ!!!」
「ひっ!?」
 隣のテーブルに乗っていた皿の一枚が、いきなり盛大な音を響かせて砕け散る。その音に驚いて反射的に綾乃は目を閉じ、耳を塞いで身を竦めたが、目蓋が閉じきる寸前に、切りかかっていた男の腕から血が噴き出すのが見えた。
 ―――なに……見えない矢とか槍でも刺さったみたいな……
 何が起こったのか、綾乃には皆目見当がつかない。―――が、今度は食堂の壁が吹き飛び、それと同時に別の男が肩を抑えて床に倒れこむ。
 さらにその現象は続く。まるで透明人間が見えない槍で手当たり次第に突きまくる様に、食堂の中に食器や椅子やテーブルが次々にはじけて砕け、その音がなった数だけ綾乃以外の客たちは前触れもなく細い貫通創を腕や肩に受けて倒れ伏していく。
「くそう、誠司か、あの野郎もいやがるのか!!!」
「うるさいねェ。雑魚はいちいち喚(わめ)かずに死んでりゃいいんだよ!」
 最初に切りかかった男は、見た目にも歴戦の戦士。風穴が開いて血を垂れ流している腕をそのままに、逆の手で腰の後ろからナイフを引き抜くが、立ち上がる寸前に赤毛の女性は蹴り飛ばし、倒れた男の腕の傷口に容赦なく足の裏を叩き付けた。
「ぐぁああああああああああああああああああッ!!!」
「……っ! ………!!!」
 ―――先輩……留美先生………たすけて……!
 もう訳が判らない。女性が何もしないのに、食堂の中は次々に破壊され、中にいた客たちは次々に傷を負う。まるで悪い夢を見ているかのような光景に、ただただ怯えて必死にこの場にいないたくやたちへ助けを求めていると、
「何うずくまってるんだよ。さっさと立ちな。あたしらはこんなところに長居する気はないんだからね」
 赤毛の女の右手が綾乃のローブの胸元を掴み、小柄な身体を無理やり立ち上がらせる。
「………だ…だれ…なんですか…? なんで……こ、こんな……わたし……に……なに………?」
「あたしに質問かい? ま、答えてやるよ。あたしはただ、あんたの親父さんからあんたを連れてこいって依頼を受けただけさ」
「え………?」
 父が自分を?……その言葉の意味がすぐにはわからず、怖さも忘れて一瞬呆けた綾乃の目の前で、赤毛の女の左手を掲げ、その手に火を灯す。
「魔…法……?」
「そ。こういう弱っちいくせにしつこい連中はね、とっとと焼き殺しとくに限るんだよ。でないと―――」
 言葉を不意に途切れさせた女は、心底鬱陶しそうに視線を下に向けると、足の下で先ほどの男が女の足首を握り締めていた。
 そして、黒い魔道師の女は、唇を攣り上がらせて残忍な笑みを浮かべると、小さく呪文を唱えてから足元に向けて左手の炎を叩き付けた。
『―――――――――――――――――――――――!!!』
「あ―――はっはっはァ! 燃えろ燃えろ、雑魚はみんな燃えちまえェ!!!」
 床に放たれた炎は爆炎となり、テーブルなどの調度品を吹き飛ばしながら一気に周囲に燃え広がる。
 壁を焼き、床を焼き、そして人を焼く。―――制止する暇もない。一瞬にして食堂の中は朱に染まり、怪我をして身動きの取れない男たちから怨嗟とも呪詛とも声が沸き起こる。
『夏美ぃぃぃ! この魔女め、ち…ちくしょぉおおおおおおっ!!!』
『殺してやる、恨みを…お前にヤられたあいつの恨みをぉぉぉ!!!』
「はン、いっぱしにキャンキャン吠えるんじゃないよ、負け犬どもが。―――そんじゃ行こうか、お嬢様。あんたの親父さんが首を長くして待ってるよ」
 ―――あなたは……いったい……!?
 炎はまるで赤毛の女――夏美と呼ばれた女魔道師を怯えるように近づいてこない。業火が轟々と音を立てて燃え盛る食堂を、綾乃はその彼女に手を引かれて歩いていく。
「あんたは殺さない。なにせ“鍵”が手に入るんだ……あたしがより強い力を得るために、その役に立つまでは生かしておいてやるよ、綾乃―――」
 食堂の扉は内側から外へと枠ごと吹き飛んでいる。もう出入り口の用を成していない扉の後を潜り抜けると、


「綾乃=タッカー」


 夏美が言う。
 忘れようとしていた名前を。
 だけど忘れられないのだと、気付いたばかりの名前を。



 ―――そして二人は一つの運命で繋がっていることに気付かぬまま、火事に気付いて飛び出してきた人ごみを掻き分け、領主の館へと歩き始めた。


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