第十章「水賊」15


「ここは……」
 レンガで壁や天井を舗装してあった通路はそれほど長くは無かった。ただ、ややカーブを描いて辿り着いた部屋に足を踏み入れると、その中の見覚えのある物体に思わず視線が行ってしまう。
 巨大なフラスコ……と言えばいいんだろうか。床とそれほど高くない天井をつなぐようにガラスの円筒が取り付けられており、中に充満している液体の中を下から湧き上がった気泡がこぽこぽと上へ登って行る。
 これはいわゆる“培養槽”だ。ホムンクルスや魔蟲などを研究する魔法使いが使用する機器の一つで、中に満たされた液体には、およそ生命に必要な栄養素が全て含まれていると言う。他にも、中に入れられた生命の排泄物の除去、水温の管理、新たな成分の注入など、様々な事を行うためには欠かせない研究道具なのだ。
 アイハラン村では道具屋として何度か扱ったことがあるけれど、その仕組みはさっぱり分からない。なんでも培養槽の中は神話に謳われる“原初の海”とかいうものの環境を再現しているそうなのだろうけれど、わからないものはわからない。わかるのは、これが魔蟲の研究にも使われるということだけだ。
「どうやら佐野の研究室に間違いはなさそうね」
 改めて室内を見回すと、本棚には魔蟲関連の魔道書が数多く並び、机の上に無造作に置かれた紙には、読むことさえできない古代魔法文字が綴られている。多少は理解できる図式から魔蟲の設計図だとは見て取れるけれど、他はさっぱりだ。
「………魔封玉、置いてないかな?」
 “魔物を極小サイズで封じ込める”と言うのは、モンスターを操る術を研究している佐野にとってはきわめてレアな研究対象であるのは間違いない。フジエーダでの事件でも、魔封玉の事をあたしから聞きだそうとしたぐらいだし。
 とは言え、床にまで研究書が散乱しているような室内をあさっている時間はない。あたしは一つ深く息を吸い込むと、細く、そして長く空気を吐き出しながら集中力を高め、魔封玉の“気配”を探し当てようと試みる。
 ―――マーメイドの力が発揮してるときは、あんなにはっきり感じれたのに……
 おそらく魔力が増大していたからだろう。それが無ければ、いくら水中で呼吸が出来ても、今いる水賊のアジトを見つけることはできなかった。
 ―――魔力を集中………………………いたっ!
 わずかながら反応を感じた。佐野の封印魔術からわずかに漏れる火の魔力の気配は間違いなく炎獣のポチのものだ。
 だけど反応は室内からではなく、その奥……本棚にふさがれた向こう側から感じてきた。当然、魔道書がびっしり並べられた本棚は動く気配を見せない。どこかに本棚を動かす装置があるのだろうけれど、今はそれを探している時間さえ惜しい。
「仕方ないか……」
 あたしはマントの中で腰の鞘からショートソードを引き抜く。そして本棚の側面へ回り込むと刀身に魔力を流し込み、下から上へ、気合とともに振り上げる。
「とりゃあッ!」
 ―――掛け声は、その内なにか考えた方がいいかもしれない……
 自分で自分の声に気を抜かれながらも、疲弊した魔力で放った魔力剣はいつもの切断力を発揮せず、本棚を吹き飛ばす程度に留める。そして予想通り、本棚の裏にはさらに奥へ続く通路が口を開けていた。
 ―――まだ奥か……
 今度の通路は先ほどのようにレンガで舗装されておらず、岩肌がむき出しになっている。広間から持ち込んできた松明を手に奥へ進むと、すぐに広めの部屋へと辿り着き―――
「舞子ちゃん!?」
 そこは牢屋だった。暗く、冷たい空気が充満した洞窟を利用したもので、人の手が入っているのは頑丈な鉄格子ぐらいしか見受けられない。
 そして鉄格子がはめられた檻のその中に、天井に手首を吊り上げられ、不気味な肉塊に埋もれかかっている舞子ちゃんの姿があった。
「舞子ちゃん!」
 二度目の呼びかけ……だけど舞子ちゃんからの返事はない。ブヨブヨとした肉塊から覗いているのは天井と鎖で繋がっている両手首と上を向いた顔だけで、今この瞬間にも舞子ちゃんの姿は肉の中に埋もれてしまいそうだった。
「今すぐ助けるから!」
 本棚を吹き飛ばしたように鉄格子も……と剣を格子へ叩きつけるけれど、帰ってきたのは鉄同士のぶつかる硬く澄んだ衝撃音と、剣を振るった両腕の痺れだけ。魔力を込めたはずの刃はかすかに鉄格子に食い込みはしたものの、わずか一本を切断するまでにも至っていなかった。
 ―――まずい。魔力使いすぎて……意識…が……
 魔力の消耗に加えて、何時間も水の中を歩き続けた疲労が一気に噴き出してくる。舞子ちゃんを見つけるまではと振り絞っていた気力も、先ほどの二度目の魔力剣と、舞子ちゃんを見つけられた事によって得たわずかな安堵が根こそぎ奪い去ってしまい、あと少しで舞子ちゃんを助けられるのに、あたしたちの間に立ちふさがる鉄格子にもたれかかるように膝を突いてしまう。
「ッ………か…鍵を…探さなくちゃ……」
 ここで気を失い訳にはかない……体力も魔力も気力もそこを突いたあたしの体を突き動かすのは、もう意思の力しかない。途切れそうになる意識を振り絞って立ち上がると、近くの壁にかけられたままになっている鍵を見つけ、牢屋の中へと足を踏み入れる。
 ―――あれ……なんか……変………?
 簡単すぎた。佐野なら、外の騒動を聞きつけてあたしの邪魔をするぐらいのことは、して当然。……それなのに、あまりにも簡単に牢屋の鍵が見つかった事が妙な感覚になって意識に引っかかった。
 ―――……そんなことよりも、今は舞子ちゃんを……
「この……舞子ちゃんから離れなさい!」
 舞子ちゃんに傷をつけないようにショートソードを肉の塊に突き立てると、中からドロッとした液体が噴き出してくる。それを全身に浴びるのを気にもとめずに肉の塊を切り開き、手首を縛めている革のベルトをはずすと、あたしは左手を気色の悪い肉の中に突きいれて、舞子ちゃんの腰を抱きしめる。
「んッ……!」
 女の子一人の体重が、今はスゴく重い……こんな事を聞かれたら怒られるかもしれないと苦笑すれば、わずかながらに腕へ力がみなぎってくる。肉の塊に足をかけ、両腕をあたしの首へ回した舞子ちゃんを残った力を搾り出して引き寄せると、ズルリと引き抜け、粘液にまみれた舞子ちゃんの身体があたしの腕の中へ倒れこんでくる。
「舞子ちゃん? 舞子ちゃん、目を覚まして!」
 あたしの方が今にも倒れそうなほどに息が乱れ、頭がふらついている。けれど倒れるにしても、まずは舞子ちゃんの無事を確かめてからだと、頬をぺちぺちと平手で叩く。
「舞子ちゃん、目を開けて! 目を開けないと、え〜と、え〜と………」
 ふと、あたしの目が粘液に濡れて妙な色っぽさを放つ舞子ちゃんの背中と、下着の紐とに目を止めてしまう。
「あ、う、えと……お、起きなかったら悪戯しちゃうからね!」
「………ん……おねえ…さ…ま……?」
「あ……」
「悪戯って……なんですか?」
 ―――……うわぁあああぁぁぁ!!! な、何でそのタイミングで目を覚まして、何でしっかり聞いちゃってますかね、この娘はぁ!!? ど、どうしよう、悪戯なんてしませんよ、あたしは!? 意識が錯乱して眠たいな〜って感じと舞子ちゃんが目を覚ましそうな意見とをミックスさせたら口から出ちゃっただけなんで、きっぱり無罪を主張します!
 何を言ってるんだあたしは……と頭の中に残った部分が冷静に自己分析。疲れてるんだと分析結果が出ると、今度こそ安堵があたしの身体を包み込み、倒れさせた。
「あ……おねえさま……ダメ………」
 何がダメなんだ……いやもう、あたしの体力の方がダメなんで、本当にもう舞子ちゃんに悪戯する気なんて起こりません……………と、
「ダメェ! 早く逃げてェ!」
 舞子ちゃんの叫び声が耳に届くのと同時に、あたしの頭の中である疑問が沸き起こってきた。
 ―――魔封玉の反応が、何で舞子ちゃんしかいない牢屋の方から感じたのか?
  ―――どうして牢屋の鍵を隠そうともせずに、すぐに見つかる場所に置いておいたのか?
   ―――そして、佐野は今どこに………?
「あ」
 最初と最後の疑問はすぐに繋がった。あの佐野なら魔封玉を自分の手元に置いておく可能性が高い。なら、魔封玉のある場所イコール佐野の居場所だ。
 そして二番目の疑問の答えもすぐに思いつく。
 魔封玉の反応。
 舞子ちゃんの存在。
 見つけやすく置いてあった鍵。
 ―――あたしをここへ入らせる罠!?
 この場にいたらマズいと頭が結論を下すけれど、すべての力を失った身体は指一本に至るまで重しを乗せられたように動きが鈍い。それに、覆いかぶさっている舞子ちゃんの身体が軽いはずなのにスゴく重い。
「舞子ちゃん、その下着………!?」
 あたしの体に押しつぶされた舞子ちゃんの下着から魔力の光が放たれていた。カップから肩紐、そしてお尻を包むショーツのほうも同様だ。複雑な紋章を描くそれが魔方陣だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
「じゅ、重力魔法!?」
 加えて、牢屋の扉が音をたてて閉まった上にガチャッと鍵までかかる。舞子ちゃんの体の下から這い出せず、牢屋からも出られない……その状況にトドメをさすのが光り輝き始めた床の魔方陣だ。
『ハハハハハッ! こうも見事に引っかかるとはねェ! やはりボクの天才たる所以、計略においてもやはり天才だったと言うことか!』
「さ、佐野!? あんたどこにいんのよ。姿を見せなさい!」
『それはごめんこうむる。死にゆくキミと顔をあわせてしまうと、ボクの決意も鈍ってしまいそうだからね……せっかくキミと、まだ手もつけていない極上の処女を共に失う決意をしたと言うのに……ああっ、ボクってなんて不幸!』
「ふざけるなァ!」
『いや、ボクはいたって本気で正気だとも。キミの死は永遠にボクの胸を締め付ける悲しい思い出になるだろうけれど、ボクには世界を支配すると言う野望がある。そのためには、最大の障害であるキミを今ここで殺しておかなければならないんだよ!』
「そんな野望は捨ててしまえェ!」
 ―――マズい。ヤバい。床の魔方陣が何の魔法なのかは知らないけど、このままじゃ確実に舞子ちゃんともども……!
 姿の見えない佐野に呼びかけても、近くにいるように感じられるだけでどこから喋っているのかまでは分からない。おそらく魔法で声の出所をぼかしているのだろう。振動・衝撃系の魔法の使い手である佐野ならばお手の物のはずだ。
「舞子ちゃん……剣を、あたしの剣を!」
「は、はい……でも…舞子も力が吸い取られて……」
「何でもいいからお願い! あたし、声を出すのも……!」
 解決策も脱出策も何一つとして思いつかない。せめて何でもいいので魔封玉が一つでもあれば、切り抜けることは出来るのに……!
「………っ!?」
 ―――魔封玉を佐野が持ってるんなら、逆に魔封玉の反応のある場所が……!
 こうなればもう賭けるしかない。舞子ちゃんが身体をよじるたびに粘液まみれの乳房が押し付けられるけれど、今は意識を集中しなければ……!
「ひゃうん!」
「ど、どうしたの!?」
「お…お姉様と身体を重ねてるって思っただけで……あの…舞子のおっぱいが……こ、これ以上は恥ずかしくて言えません〜……!」
 ―――だぁぁぁああああああああああっ!!! 今はそれどころじゃないのにぃ〜〜〜!!! 集中、集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中集中!!!
 頭の中から一切の煩念を追い払うように「集中」と繰り返して魔力の反応を手繰る……けれど、舞子ちゃんを包み込んでいたあの肉の塊が膨大な量の魔力を放っており、かすかにしか感じられない魔封玉の反応はその中に掻き消え、まったく感じ取れなくなってしまっている。
 ―――あの“肉”が魔方陣に魔力を供給してるんだ。だったらあれを何とかすれば……!
「こン…のォ………!」
『キミの頑張りは認めるけれど……残念だね。時間切れだよ』
 佐野がそう告げ……直後、魔方陣が発動した。
「……………ッ!?」
『最後の一つだけ教えてあげるよ。その魔方陣は「アースブレイク」。地面を振動させて局所的に崩壊させる魔法だよ』
 背中から伝わってくる振動に体を震わせながら、その魔法の意味を考える……生き埋めにするつもりなのかと思い至るけれど、どうもそれだけではないような気がする。
「あ……お姉様、お姉様の剣が取れましたぁ〜♪ お姉さまにお渡ししますね♪」
「早くして、あと、あたしの上から―――」
 左手の中に硬い剣の柄の感触を押し付けられるけれど、それから先は何も出来ない。発動した魔方陣が洞窟全体を震わせるかのような強烈な振動で牢屋の内部を震わせ、その振動からかばうように、あたしは舞子ちゃんを抱きしめ、その頭を胸に抱え込む。
「お姉様………」
 舞子ちゃんもあたしの身体へ腕を回し、地面の下から突き上げてくる振動に二人して歯を食いしばり―――その浮遊感は、突然現われた。
「あ―――――――――」
 地面が崩れ、落ちて行く……それまで背中を預けていた地面が轟音を響かせ崩れ落ち、そこが地獄へ繋がるとでも言うかのように、牢屋の中の何もかもが、あたしと舞子ちゃんを巻き込むように下へ下へと落下し始める。
 ―――牢屋の下は……縦穴!?
 首をよじって視線を向けた落下方向には、何も無かった。そこに何があるのか見えないほどの深さの穴だ。………考えなくても分かる。佐野があたしをここへ落としたと言う事は、落ちれば間違いなく死んでしまう高さがあるからだ。
 だから考えるのをやめた。別の事を思考を向けようとした矢先、崩れゆく岩以外のものに目が止まる。
 それは舞子ちゃんを包み込んでいたあの巨大な肉塊の成れの果て……おそらく内部に溜め込んでいた魔力を、魔法の発動を引き換えに失ってしまったのだろう。今はもう片手で鷲掴みにできるほどの大きさしかなく、手を伸ばせば届く位置を岩に張り付いたまま落ちている。
 ―――あれだけ魔力を放出していたんだから、それも当然か……


『は、はい……でも…舞子も力が吸い取られて……』


 その瞬間、頭の中でカチリと歯車が噛み合った。
 見れば、舞子ちゃんの下着に描かれていた魔方陣も消えてしまっている。肉の塊からの魔力の供給が途絶えて効力を失ったのだろう……だったら、
「あたしは賭け事に向いてないんだけど!」
 叫び、肺の中の空気を全て吐き出してから一気に胸を膨らませる。そして身をよじり、全身のわずかに残る絞りかすのような魔力を左手へと集中させる。
「ハァァァアアアアアアアアアッ!!!」
 体を空中で回し、左手の剣を横薙ぎに一閃。魔力を乗せた斬撃が飛ぶのは、あたしと舞子ちゃんの落ちてゆく姿が見える唯一の場所―――牢屋の岩の天井だ。そしてそこから、肉塊の魔力が消えたことで感じ取れるようになった魔封玉の反応がある。
 そしてあたしの想像通り、魔力剣の斬撃が触れた途端に“天井が消えた”。正確には、天井にへばりついていた佐野が幻術で自分の姿を覆い隠していた偽物の天井が消えたのだ。
 けれど―――
「アハハハハハハハハハッ! 無駄だねェ、無駄だったねェ! だけどそうでなくては面白くないよ。ボクの運命に立ちはだかったキミは、やはり最後まで足掻いてくれてこそ美しい!!!」
 浮遊の魔法で天井にへばりついている佐野には、燃えついる寸前のような最後の魔力剣ではなんら傷を負わせることが出来ないでいた。
 ………そんなこと分かりきっている。あたしはただ、佐野の元にまで届けたかっただけなのだ。
「―――出てきて」
 封印との均衡を破るための魔力と―――
「―――お願いだから」
 最後まであきらめないあたしの意思を―――
「―――さっさと出てきて助けなさいよ、バカァアアアアアア!!!」
 閉じ込められて必死にもがいているモンスターたちに―――!
「な…なにィ!?」
 佐野のすぐ傍で魔力が膨れ上がるのを感じるけれど、もうそちらを見ている余裕はない。落下速度は落ちるのには十分すぎるほどであり、あと瞬き数回ほどの間にあたしと舞子ちゃんは穴の底に叩きつけられるだろう。
 だけど不安は感じない……いつもなら、怪我をする前に感じるあの予知めいた感覚は、今この時になっても現われない。
 そして―――
「グォォォオオオオオオオオオッ!!!」
 壁を蹴り、落下速度に加速をつける事で落下するあたしへ追いついた炎獣と、その背に跨るシワンスクナとオークの姿が、天地逆さになったあたしの目の前から迫ってくる。
「……ったく、遅いんだから」
 舞子ちゃんを抱えたまま、あたしの身体は四腕の鬼に抱きかかえられる。そのまま炎獣のポチは逆の壁へ到達し、今度は速度を殺すように溜めを作って再び逆の壁へと跳躍する。
 ―――だけどそれだけでは無理だ。ポチの巨体と、背中に乗るあたしやモンスターの体重で負荷がかかりすぎている。
「スクナ、ポチ、ジェル、蜜蜘蛛!」
 続けざまに名前を呼べば、細かい指示を出さなくても意思は伝わる。
 ポチは上昇しようとする跳躍をやめ、あたしが指差したほうへと壁を蹴る。
 あたしが指し示したのは魔力を失ってしぼんでしまった肉塊だ。そこへの進路を塞ぐように落下する瓦礫をシワンスクナがスライムのジェルをムチのように振り回して払いのけ、見事に肉塊を掴み取る。
 それを受け取りながら、蜜蜘蛛の腹部に唇を寄せる。蜜蜘蛛が腹部に溜め込んだ黄金色の蜜を口に含むと、腕一本指一本ですら動かせそうに無かった身体に力と魔力が急速にみなぎっていく。
「舞子ちゃん……もう一回だけ恐い目にあわせちゃうけど、ゴメンね」
「え……お姉さま……?」
 スクナの腕の中では怯えてしまうのか、不安げな表情を浮かべてあたしのマントにしがみつく舞子ちゃんの頭を撫で、
「スクナ、ポチ、オーク、魔封玉に戻って!」
 あたしは、穴に落ちる速度を懸命に緩めてくれているポチと、抱きかかえてくれているシワンスクナ、そして今回完全に役に立っていないオークを魔封玉に戻し、ジェルと蜜蜘蛛を肩に乗せ、再び縦穴を真下へ向けて落ちていく。
「〜〜〜〜〜〜ッ!!!」
 息を飲んでしがみついてくる舞子ちゃんを左手で抱き寄せ、あたしはなぜか余裕を持って肉塊を握り締めた右手を真下へ突き出す。
「ふっくらめェ―――――――――!!!
 魔力を失い縮んだ肉塊……ならば逆もまた真なり。魔力を吸い取られたといった舞子ちゃんの言葉が正しいのなら、あたしからも魔力を吸い取ってくれるはずだ。
 それプラス、あたしには魔力放出のスキルがある。通常の魔道師が魔法を行使する際に放つ数十倍、数百倍もの魔力を右手の平から一気に放出する。
『――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!』
 変化は一気に起きた。
 さすがに苦しかったのだろう、あたしの手の中で悶えるように肉塊が身震いした直後、先ほど魔方陣の上にいたと気に何十倍もの大きさに風船のように膨らんでいく。その膨張はとどまるところを知らず、縦穴を完全に塞ぎきるとクッションのようにあたしと舞子ちゃんの体を受け止めてしまう。
「………は…ははっ……い、生きてます…よね?」
 膨張した肉塊――いや、既に肉風船だ。落下の衝撃を一切感じさせない弾力を持つ肉風船の上で、本当に上手く言ったのかと、舞子ちゃんに呼びかける。
 ただ……返事は無かった。もしかしたら落下の恐怖で気絶したのかと身体を起こして顔を上げると、
「ん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?!?」
 反射的に、飛びついてきた舞子ちゃんを腕を広げて受け止めてしまう。そして、何かを喋る前にあたしの唇は舞子ちゃんの唇にふさがれてしまう。
 体力は少し回復したといっても、疲労もなくなったわけじゃない。勢いを殺しきれず、舞子ちゃんともつれ合うように後ろへ倒れこんでしまうと、覆いかぶさる舞子ちゃんはあたしの首に腕を回し、口内で踊るように舌を蠢かせてくる。
 ただ、
 ―――泣いてるの……?
 ネットリとあたしの舌を絡め取りながらも、舞子ちゃんは咽ぶように嗚咽を繰り返している。そして何よりも、あたしの頬へ滴り落ちる暖かい雫が、この口付けが祝福でも喜びでもないのだと語っていた。
 だから、あたしは言ってあげなくちゃいけない。
 下着姿であたしにすがる舞子ちゃんの頬に手を当て、優しく唇を離させると、思ったとおりポロポロと涙を流している泣き顔の舞子ちゃんに、
「………気にしなくていいんだよ。あたしが勝手にやった事なんだから」
 それだけを告げ、何か言い返そうとした舞子ちゃんの唇を塞ぐように、今度はあたしから唇を押し付ける。
 触れるだけの、ただ唇同士が軽くくっついただけの一瞬の口づけだ。……ついさっき、舌を絡め合わせるキスを自分からしてきた舞子ちゃんなのに、なぜかあたしからのキスには真っ赤になって身体を跳ね起こしてしまう。
「………い…いじわるぅ……」
「え……? いや、なにも意地悪しようと思ったわけじゃないんだけど……」
「そんなことありません、お姉さまは意地悪ですぅ……舞子を恐がらせたり、喜ばせたり……お姉さまが死んだって聞かされて…ずっと…ずっと……本当に……心配で……」
「………ごめん。謝るの、あたしのほうだったみたいね」
 だけど、舞子ちゃんはあたしの言葉に頭を振る。
「違うんですぅ……舞子…本当は…違う事を言いたいのに……でも……でも……」
「焦らなくてもいいよ。後でゆっくり舞子ちゃんの話を聞いてあげるから」
「本当……ですかぁ……?」
「うん、本当。だから今はね―――」
 上に跨る舞子ちゃんをいきなり抱きかかえて身を回す。その直後、今まであたしたちがいた場所へ真上から衝撃弾が叩きつけられる。
「―――今は、悪い魔法使いをやっつけないとね」
 舞子ちゃんを肉風船の上に横たえたまま、あたしは身体を起こして立ち上がる。そして真上を見上げれば、黒いローブをまとった佐野が縦穴の暗闇の中へ溶け込むように浮かんでいた。
「やはり……キミはボクがこの手で殺してあげなければいけないようですね。直接この手を下したくないからと、こんな回りくどい方法を―――」
「うるさい」
 佐野の長ったらしい台詞を途中でさえぎり、右手を真上へ突きあげる。そしてその動きに合わせて下からへへ、まるで滝が逆流したかのような太い水流が立ち上り、佐野のローブを巻き込むようにして天井に突き刺さった。
「さあ……今度も封印魔術を使ってみる? このジェルスパイダーを封印できるんなら……だけど」
 合一は一瞬ですむ。あたしの両肩から跳ね、頭上で透明なスライムボディーに覆われた巨大蜘蛛、ジェルスパイダーと化したジェルと蜜蜘蛛は、封印されたお返しをする気満々で闘気をみなぎらせていた。
「………そ、そうだ。僕はこれから行かなければいけないところがあったんだ。うん、残念だけど、勝負をつけるのはまた後日と言う事で。
「あはははは、そんな逃げ口上を聞くと思ってんの? ジェルスパイダー、死なない程度にやっちゃいなさい!」
「ま、待て、話せば分かる、話せば―――――――――!!!」
 世の中には、話したところで許されない行為だってあるものだ。
 ジェルスパイダーは巨体を支える四本と、既に天井に突き刺した一本を除いた残り三本の足を真上へ向けると、佐野目掛けて一気に突き上げた。佐野もとっさに障壁を張って耐えようとしたけれど、高速かつ高質量のジェルスパイダーの脚はそんなものなどお構い無しに佐野を三連続で吹っ飛ばし、落ちてくる最中にも連続してコンボを叩き込んで、ボロ雑巾のようになったあたしの目の前へ叩き落とした。
「人間、諦めが肝心だと思うよ?」
 最後まで諦めなかったあたしが言うのもなんだけど……声に出さずに付け足してから、あたしは舞子ちゃんへ親指を立てて見せた。


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