第九章「湯煙」18


 ―――翌日。
「そう、二人とも旅立ったのね」
 一夜明け、陽の光に照らされた温泉場は見るも無残に破壊された跡が、くっきりと浮かび上がっていた。
 吹き飛ばされた垣根。砕かれた敷石。穴が空いてお湯が流れ出した温泉。……被害は全体のほんの一部だとしても、朝湯に浸かりながら眺めるにしては、それらの風景はいささか趣きを欠いていることは否めなかった。
 ――それをわざわざ見なくても……
 被害を受けていない温泉は残っている。……というのに、ギルドマスターは傍らに立つ美由紀を責めるかのように、瓦礫に囲まれた温泉を選んで入り、破壊の風景を愛でながら唇を盃に注いだ酒で湿らせていた。
 これも一興……と笑うギルドマスターではあるが、美由紀にはあまりに居心地が悪すぎる。いつ主の叱責が来るのかと緊張しながらと傍らに控えているのは精神的にキツく、仮面の下ではダラダラと冷や汗が流れていた。
「それで……あなたはどうするのかしら?」
 ――きた!
 責任を取らされるのは覚悟している。自分の主がどのような罰を下すのかは想像に難くは無いが……それも自分が取り乱し、感情を制御できなかったのが原因だ。それも仕方が無い。
「………ぎょ、御意のままに」
「それは私が自由に決めてもいいと言うことかしら?」
「はっ……いかような罰も謹んでお受けいたします」
 氷に彫像のように外面的には完璧に同様を押し殺す。
 そこには理不尽な罰を与えるはずが無いと言うギルドマスターへの信頼も含まれており、下されるのは自分の罪に適したものであるからだと確信もしている。―――だが、
「あなたはここを出て行かないの?」
 ……この言葉には、思考が一瞬止まってしまった。
 端的に言えば、解雇通告である。
 これまで献身的なまでにギルドマスターへ尽くしてきた美由紀にとっては、思いがけない通達であり、同時に存在意義までもが崩れ落ちそうなまでに揺らいでしまう。
 ギルドマスター……しかも大陸中に影響力を持つ冒険者ギルドのギルドマスターともなれば、時にその“力”は大国の皇帝すらも凌ぐ。その護衛ともなれば、単に腕が建つから務められるというものではなく、いかなる買収や脅迫にも屈しない絶対的な忠誠心こそが第一に求められる。
 その数少ない護衛者を生み出すために、幼少の頃より繰り返される過酷な訓練に加え、ギルドマスター、そして組織への絶対的な忠誠を擦り込まれる。そこには人道を逸脱した行為も数多く行われる。主のためだけの完璧な戦士を組織的に作り出す……そこまでしなければならないほどに、ギルドマスターと言う存在は世界にとって重要なのである。
 美由紀の場合は少々特殊だった。護衛に女性を希望した現ギルドマスターの意向に沿うため、外部より集められた見目麗しい女性戦士たちの中から選抜され、三人のアサシンを配下を与えられて護衛を務めることになったのである。
 その際に精神制御も施されるはずであった。だが、それを良しとしなかったギルドマスターにより、美由紀は“美由紀と言う人格”を保ったままギルドマスターの“守護者”となったのだが、だからといって忠誠心に欠けると言うことは無い。むしろ仮面で顔を隠し、感情を押し殺し、どのような局面においても主を優先する事を自らに課し、これまでのいかなる守護者よりも自分に厳しく、その責を務め上げてきた。
 だからこそ……心の奥底で望んでいた事を言い当てられ、動揺したのである。
「私はあなたの心の自由まで束縛するつもりは無いわよ。彼女の……いえ、彼の元へ行きたいのならなおさらね」
「……マスター、戯れはおやめください。私はあなたの護衛としてこの場にいるのです。その責務はなによりも優先され――」
「あら? たくや君、何か忘れ物?」
 この場にいるはずが無いたくやの名前が出た途端、美由紀はその場から飛び退り、きょろきょろと周囲に視線を走らせた。
「嘘だと言うのは少し考えれば分かるでしょう? 見送ったのはあなた自身なのに」
「ま…マスター!」
「ふふふ……私の前では仮面を着けたままなのね」
 ギルドマスターのからかうような視線が自分にではなく、顔を覆う仮面に向けられているのだと気付く。
「その仮面はあなたの忠誠の現れ。私にもほとんど見せた事の無い素顔を彼女の前でだけはさらけ出して見せていたわね」
「あれは……たくや君が……仮面をはずしてしまって……」
「いい訳が苦しいわよ。私が昨夜の“あの場面”を見たのを忘れたの?」
「ッ………!」
 たくやとの痴態とそれを見られた恥ずかしさをまとめて思い出し、仮面の下どころか首筋まで真っ赤になる。そんな美由紀の様子にクスクスと笑いながら、ギルドマスターは水面に浮かべたお盆に乗った徳利を手に取る。
「あなたが私の守護者になったのはあなたが望んだから……いいえ、望む望まないに関わらずにそれしか道がなく、あなたがそれを受け入れたから。……けれど今はどうかしら? ここに残るのもあなたの自由。そして“彼”を追いかけるのもあなたの自由」
「ですがマスター……私は……」
 言葉に言い詰まる美由紀にギルドマスターはますます笑みを濃くする。それはどこか恥らう娘を見て楽しみ喜ぶ意地悪な母親……と言う風に見えなくも無い。
「では美由紀、あなたの運命を後押ししてあげましょうか?」
 そう言うと、ギルドマスターは水面から伸ばした指先に一枚のカードをどこからともなく取り出してみせる。
 絶対の予言……ギルドマスターの手にするカードに描き出された“運命”は不可避であり、それに従おうとも逆らおうとも、その運命は変えられない。―――はずであった。
「私……は……」
 ――美由紀の脳裏にたくやの姿がよぎる。
「私は……その“運命”に従うことは出来ません」
「いいの? 私の占う運命に従っていれば、あなたは選ぶ苦悩からは開放されるのよ?」
「でもそれじゃ……たくや君にあわせる顔がなくなりそうですから」
 本当にこれでいいのかと悩みながら、それでも迷いの無い声でそういった美由紀は、仮面の留め金に手を伸ばし、自分の主の前に素顔をさらけ出した。
「マスター……これより私は、今代の魔王であるたくや君の監視任務につかせていただきます」
 てっきり、次の言葉は別れの言葉だと思っていたギルドマスターは、いきなり敬礼した美由紀にしばしポカンと口を開けてしまう。
「準備が整い次第、すぐに出発しますので。では、失礼させていただきます!」
 言うだけ言うと、美由紀はさっと踵を返して走り出し、あっという間に視界から姿を消してしまう。あの分ではいちいちと立たずにたくやたちに追いつけることだろう。……が、
『あれほど慌てなくても、たくや様にならすぐに追いつけますでしょうに』
「それだけあの子の事が心配なんでしょう? 一目惚れしてから、ずっと心配し続けていたんだから、当然じゃないかしらね。……その一途さがあの子の可愛いところなのだけれど」
 美由紀が走り去り、盃に注いだ酒をクッと一息に飲み干すと、ギルドマスターは艶かましいと息を一つ突いてから声が聞こえてきた傍らへと首を向けた。
 ――水面の女性が一人、立っていた。
 それだけならば驚くに値しない。魔法を使えば水上に立つことは比較的容易であり、傍らに美由紀がいたギルドマスターにしてみれば、その程度の技は見ようと思えばいつでも見れるものだ。
 だがギルドマスターの視線の先にいる女性は実体ではなかった。目を凝らせば向こう側が透けて見えるような希薄な身体は輪郭すらも少しおぼろげで、どこか幽鬼の類を連想させる。しかし、頭の後ろで髪の毛を縛り、細めのレンズのメガネをかけた美貌はキツい印象を受けるものの知性に満ちており、美由紀はおろかギルドマスターにさえ引けをとらない豊満な胸周りや腰回りで隙なく女性用スーツを着こなす姿は、どう見ても幽霊にとは思えない気品と美しさが感じられた。
『お久しぶりです、ギルドマスター。それともケイとお呼びした方がよろしいですか?』
「どちらでも構わないわよ。それにしても……幻影越しとは言え、こうして話すのは何十年ぶりかしらね、ジャスミン」
『この様な姿で申し訳ありません。あなたがお近くに来ていると知ったのですが、今は我が姫のお傍を離れるわけにはいきませんので』
 そう答えたのは、今はフジエーダの街に滞在しているクラウド王国の王女の静香=オードリー=クラウディア、その教育役ジャスミンであった。
『古き友とお会いするのにこの様な手段に頼らざるを得ないこと、お詫びいたします、ケイ』
 切れ長の瞳に暖かな光を浮かべたジャスミンの影が深々と腰を折る。
「それも構わないわ。あなたがクラウド王家に仕え、私が三つのギルドを統括するようになってから、お互い忙しくなったものね。幻影でも使わなければ、次に顔をあわせるのはいつになるか想像がつかないもの。それに、フジエーダはまだ混乱が収まりきっていないのでしょう?」
『ええ。支援物資も到着し、復旧作業も軌道に乗り始めてはいますが、姫様も私もすぐには動けないでしょう。各国にクラウド王家の名を使い協力を求めましたので、この地の領主へ差し出がましい事をした詫びもしなければまいりませんし』
「領主と王家には私が手を回しておくわ。あと、冒険者ギルドからの支援隊ももうすぐ到着するはずよ。本来なら討伐隊の予定だったけど」
『ケイには珍しいですね、そのような物言いは。ここにいると言うことは、我等が勝利する事は既に予言済みだったのではないですか?』
「外れたわ。……いえ、運命が変わったのよ。ある人物の力でね」
 腰を伸ばしたジャスミンをギルドマスターが見上げ、メガネの奥に輝く瞳をまっすぐに見据える。どこかこの状況を楽しむような物言いに、信じられない事態を聞かされたジャスミンも表情を緩ませる。
『楽しそうですね。的中率が下がってしまったというのに』
「悪い結果だったもの。むしろ外れてホッとしてるわ。世界が揺れずに済んだのだし。……例え魔王が生まれたのだとしても」
『ご存知なのですね、たくや様のこと……既にフジエーダでの事は調べ上げられているようですし』
「盗賊ギルドは情報第一ですもの。正確な情報を誰よりも先んじて入手しなければやっていけないわ」
『では単刀直入にお聞きします。たくや様を元の姿へ戻す方法を占っていただきたい。姫様のため、引いてはクラウド王家の為に』
「無理よ」
 旧友の頼みを短い一言であっさり拒否したギルドマスターは、中身を飲み干して空になった盃を盆へ戻す。
「あなたも気付いているのでしょう? たくや君はエクスチェンジャーとして覚醒し始めている。本来ならただの人と変わりの無いはずの彼が、男としてたどるはずだった運命を女性となることで踏み外した。……いいえ、切り離された、と言う方が正しいわね。それは同時に、私の読む運命の外にいるとも言える。そして運命を変える手段……と言うものも、同じ理由で私の占いでは見つけられないでしょうね」
『では……たくや様は男性には戻れないと?』
「そうは言っていないわ。それすらも未定。うつろい変わる気まぐれな運命の流れの中で、元の身体に戻るすべを手に入れられるかどうかは、たくや君の行動次第なの」
『……ならば、この件は“あの方”に相談した方がいいようですね』
「ええ。彼女なら元に……とは行かなくても、女性から男性へ変わる術も女同士で子を作る術も知っているかもね。……でも、彼女の居場所も私には分からないわよ? そもそもこの世界にいるのかも分からないんだから」
『子を為す術が分かれば十分です』
 そうきっぱりと言い切ると、ジャスミンの幻影は豊かな胸を誇張するように腕を組む。
『子孫を残すのはクラウド王家の為ではありますが、我が主たる静香様のお望みはたくや様と結ばれる事。そして私の望みは静香様第一ですので』
 それに対し、ギルドマスターは吐息。まるで子供の駄々を聞き流すように首を振る。
「それも無理ね。私の一番かわいがっている子がたくや君の元へ向かったのよ?」
『……その言葉がどう意味かを伺いたいものですね。是非に』
「言わなければ分からないの? これからのたび、四六時中傍らにいれば当然たくや君の心も傾いていくでしょうね……ふふふ…♪」
『何をおっしゃるやら』
 ギルドマスターの微笑に、今度はジャスミンが言葉で噛み付いた。
『静香様とたくや様の間には他のものが割り込む隙間も無いほどに固い絆が結ばれております。まして、姫様は私がお教えした教養全てを身につけられ、その気品は大陸において並ぶものなど降りません。例えお二人の過ごせる時間は短くとも、なんら一切まったくもって問題にはなりません。笑止です!』
「そうかしら? 私の調査によれば、こちらの方がいいから出しているわよ。それにたくや君は大きな胸に母性を感じるタイプのようだし。幼い頃から両親が不在だったものねぇ……」
『な…なにをおっしゃるのですか! 姫様はまだまだこれから成長なさるのです。今であれなら将来はきっと更なる成長を持ってたくや様をメロメロに魅了なさるに違いないはずなのです!』
「知っている? たくや君の姉も幼馴染も髪の毛が長いのよ。その点でも私の美由紀の方がポイント高いわね。ああそれと、たくや君に惚れたのも美由紀の方が先よ。たくや君がまだ男の子の時なんだから。それから――」
『もう結構です!』
 水面を震わせるほどの絶叫が周囲に響き渡るのと同時に、量の拳を握り締めたジャスミンの幻像が乱れる。
『あなたに相談しようとしたのがそもそもの間違いでした。興味を持った方には手を出さずにはいられない性格のあなたに……いえ、この場所にいた時点で、もっと疑って掛かるべきでした。私のミスです』
「私は楽しかったわよ。普段取り澄ましているあなたがあれほど激昂する様はなかなか拝めないもの。本性を見せるのはアノ時だけですものね」
『これ以上、魔力を消費してまであなたと話そうとは思いません。先ほどの件はいずれ、たくや様がクラウディアに到着なされた時にでもはっきりする事でしょうし』
 最後は完全にギルドマスターの手の平で踊らされてしまい、恥じらいで少し赤くなった幻影の顔に面白くなさそうな表情を浮かべる。そしてそのまま消えようとすると、
「少し待って。実は私からあなたへお願いがあるの」
 と、ギルドマスターが“本題”を切り出した。
「捜して欲しいものがあるの。存在は知っている。名前も分かっている。けれど私の占いでは見つけられないもの……エクスチェンジャーを」
『何を戯言を。たくや様ならば今ごろ―――』
「いいえ。私が言っているのは、“彼”を“彼女”へ変えた物。そして“彼女”を“彼”へ戻すものよ」
 その言葉にジャスミンの眉が少しだけ跳ね、非難のまなざしを向けていた顔に興味と言う名の感情が見え始める。
「性別を司る雌雄一対の神剣、エクスチェンジャー。――雄剣の名はメールフィアス、雌剣の名はフィメリオン、一方は人類の歴史からその名を消し、もう一方は泉の底へと沈み消えた悲劇の剣……」
『―――まさか、アイハラン村でたくや様は……!?』
「そう。あの村に伝えられていた剣こそが、伝説の中に埋もれてしまった神剣エクスチェンジャーの雌剣『フィメリオン』。男性を女性に変えてしまう神の剣よ。私も本物とは思っていなかったんだけど、伝承のとおりなら、魔王復活のドサクサの際に手にした剣で身体のどこかに傷を負ったんでしょう」
『では……フィメリオンと対になるメールフィアスがあればたくや様は元に戻れるのですね?』
「それは分からない。エクスチェンジャーの剣の詳細な力を知るものなんて、この世界に誰一人として存在しないわ。あくまで推測にしか過ぎないけれど……いずれ、たくや君はその存在に行き着くでしょう。だから」
『分かりました。フィメリオンの回収とメールフィアスの探索はクラウド王家も協力するとお約束いたします』
「ありがとう。今度会うときは、もう一人も交えてお酒でも酌み交わしましょう」
『その時を楽しみにしていますよ、ケイ』
 そして、ジャスミンの姿は湯気の中に溶け込むように消えてしまう。その様子を振り返るでもなく盃を唇に触れさせていたギルドマスターは、不意にカードを一枚取り出して眼前へとかざす。
「―――チャリオット。戦車のカードか……と言う事は、護衛つきの馬車と言うところかしら。帰りの足もできたし、これでのんびりと聖央都までは帰れそうね」
 美由紀が傍にいなくなったことは寂しくもある。……だがそれ以上に、これからたくやを中心にして世界がどう動いていくのかが気になってしょうがない自分がいることに、ギルドマスターはおもわず苦笑。
「未来が分からないのがこれほどに楽しみだなんてね……では、私自身がその運命に巻き込まれるまで、のんびり待たせてもらいましょうか」
 ギルドマスターは水面に浮かべた盆に乗った徳利を手に取ると、盃に透明な酒を注ぎ入れた。


第十章「水賊」01へ