第九章「湯煙」12
「はぁぁ……まだ胸がバクバク言ってる。まさか綾乃ちゃんがねぇ……」
美由紀さんに連れられて――抱えられて、と言うのが正しいが――綾乃ちゃんの声も聞こえないほど離れた温泉にまで辿り着くと、あたしは色々複雑に交じり合ってなんと言っていいか分からない胸のもやもやを思いっきり吐き出した。
つねづね、“あたしの所有物”を自称している綾乃ちゃんには気にせず自由にとは言ってあったし、あたし自身も綾乃ちゃんを束縛するつもりも無い。とは言え、友達だし、旅の仲間だし、初めてを奪っちゃったりもした仲だし……そんな綾乃ちゃんがギルドマスターと温泉地であんなこと――正確に言うとフェラチオラ――をしているのを目にしてしまって、平静でいられるほど他人に無関心でもない。
――エッチをするって約束……どうしよう……
あれは浮気か、それとも心移りか……あたしの腕の中で体を震わせリビドーを迎えた綾乃ちゃんを思い浮かべると、どちらかと言うと寝取られの様な気もするし……
「――彼女のためにも言っておくけど、あれは膨れ上がってる陰の魔力を放出ていただけよ。闇系統の魔力は精神に悪影響を与えやすいし」
頭を抱えているあたしを見かねたのだろう、ここに着てから一言も話していなかった美由紀さんが嘆息混じりにそう述べた。
「それはあたしも分かってるけど……心の準備も出来てないのにああいうのを見せられちゃって、まだ頭がパニックから抜け切ってないのよ、現実問題」
本当なら、あれはあたしがしてあげなくちゃいけない事だったんだ……と考えれば、頭の中では綾乃ちゃんの股間のものを激しく頬張り責め立てるあたし自身の姿が鮮明に描き出される。ギルドマスターと自分を入れ替え、涙を流しながらも悶え狂う綾乃ちゃんを何度も何度も登りつめさせて……
「ブルルルル、な…何考えてるのよ。それはやり過ぎだって。けど、でも、綾乃ちゃんてばそんな大胆な、うわぁ――――――!!!」
「………なに考えてるのか、丸分かりの叫び声ね」
「な、ナニのことなんて考えて無いもん!」
慌てて首を振って否定して……すぐに自分の間違いに気がついた。
「えっと……今の発現は忘れてくれると嬉しいな〜……なんて♪」
「忘れようにも、一瞬、私まで頭の中が真っ白になったわよ。……でも、マスターのアレを見た後じゃ、しょうがないかな」
そう言って、わずかに魔を置いてから口元を手で隠す美由紀さん。……今までにこういうことは何度かあったようだ。仮面に覆われていない口元を押さえていれば一見クールな立ち姿のようではあるけれど、あたしの目には美由紀さんが恥ずかしいのを必死に押し殺しているように見えてしまう。
「大変そうだね……色々と」
「うっ……でも、これも仕事だから」
「騎士ってのも大変だよね。あたしにはやっぱりのんびり暮らしてる方が性にあってるな」
「あはは」と笑いながら、夜風に吹かれて湿り気も乾いた髪をポリポリと掻く。自分を卑下するつもりは無いけれど、どう考えてもあたしには切った張ったの世界は向いていない。男に戻るという目的がなければ今すぐにでも冒険者なんて辞めたいところだ。
「そういえば美由紀さん、あたしに話があるって言ったよね? よければアイハラン村がどうなったか、聞かせてくれないかな?」
「……………」
「――美由紀さん?」
美由紀さんはあたしの言葉に答えてくれなかった。それならそれで構わないのだけど、その時はなぜか気になり、美由紀さんの方へと顔を向ける。
――そこにいる美由紀さんは、何かが変わっていた。
何が…と問われれば答えに悩むだろう。仮面で表情は分からない。手を下ろした口元からは表情を読み取る事が出来ない。まるでそこにいるはずの美由紀さんが空気のように……いや、冷たさを感じさせる透き通る氷にでもなったかのようだ。
「――美由紀さん?」
もう一度呼びかける。……けれど反応は同じだ。美由紀さんは答えないまま、仮面の奥から冷たい眼差しをあたしへ向けるだけだった。
「あたし……もしかして怒らせるような事を言っちゃった?」
村では明日香に向けた何気ない一言で軒先に吊るされた事が何度かある。どこがどういけなかったのか分からないけれど、もしそうなら、先に謝っておいた方があたしの身の危険が軽減されたりするんで……
「たくや君……アイハラン村へ、戻りたい?」
と、突然告げられる。
その声音はあまりに抑揚がなかった。まるで人形のような、あたしの目の前で話して、笑って、困って……仮面を着けてはいても、いくつもの表情を見せてくれた美由紀さんからは一度として感じたことの無い――それらの感情を感じさせない“無感情”。
「もちろん」と、そう答えることが何故かためらわれる。もし言えば、それで何もかもが終わってしまうような、そんな恐怖が沸き起こり……それを杞憂だと、笑って振り払う事がなぜか出来ないでいる。
「あの綾乃と言う子はたくや君の恋人なの?」
二度目の美由紀さんの言葉は、冷たい刃の鋭さを持っているかのようにあたしの心を震え上がらせた。
どうしてそんな事を訊くのかと訊き返したい。けれど、美由紀さんが全身から漂わせる雰囲気がそれを許さない。あたしは問いに肯定も否定も出来ないまま、バスタオルの胸元を握り締めて美由紀さんの三言目を待つことしか出来ずにいた。
「たくや君は……男に戻りたいんだよね?」
――ドクンと、心臓が跳ね上がった。
三度目の言葉は確認だった。いまさら訊く事でもなく、何度もあたしが口にした言葉で……それを訊かれる理由が分からず、あたしの困惑はただただ深みを増して行くばかりだ。
肌に纏わりつく空気は温泉から立ち上る湯気を含み、夜だというのに自然と汗がにじんでくる。だというのに、あたしの心と体は雪山にいるかのように冷たく凍えている。それが錯覚だと分かっているのに、美由紀さんの目の前にいるだけで、生きる気力を奪い取られそうなほどにあたしは、――震えていた。
「………どうしてそんなことばかり訊くのか、教えてくれてもいい?」
美由紀さんは搾り出したあたしの言葉に応えない。代わりに、
「たくや君のこと……まだ誰にも報告していない。昨晩は私が一人で侵入者たちを捕らえたことになっているし、マスターにも……背信にあたると知りながら、魔王の事は何一つ語っていない」
「あ―――ごめん。あたし、美由紀さんが気遣ってくれてるのも知らずに、一人ではしゃいで……」
「違うの。謝るのは私の方なの」
と言い、美由紀さんは一瞬だけ仮面に隠した感情を垣間見せた。
逡巡――何を迷うのかと訝しがるあたしの前で、彼女の手が腰の剣の柄へと伸びる。
「村には、私が責任を持って報せに行く」
鞘に納まったままの剣の根元に左手を添え、親指で鍔を押す。
「綾乃さんから受ける怨嗟は、私が全て引き受ける」
反身の刃が引き抜かれる。――磨き上げられた美しい刀身は、月よりも冷たい輝きを放っている。
「たくや君」
あたしの名を呼ぶ。唇に微笑みを浮かべて。今にも泣き出しそうな微笑みを浮かべて。
「――ごめんなさい。あなたの運命を、私が止める」
「――――――!!!」
気付いた時には足は床を蹴りつけ、後ろへ飛び退っていた。―――直後、あたしの背筋を最大級の危険信号が駆け巡る。
認識よりも、理解よりも、直感よりも、何よりも早く動き出したあたしに、美由紀さんは一瞬で眼前に詰め寄っていた。
その手には反り身の刃。柄を両手で持ち、右下へと剣先を垂らしている。
―――くる!?
左腰から右肩へ抜ける斬撃のイメージ。既に戦闘において幾度か体験した、相手の攻撃の先を感じる感覚だ。
理由をあれこれと考えている余裕は無い。この感覚が役に立つなら勝手に使って、離れるように逃げ回れば――
「―――ッ!?」
美由紀さんから離れようと動き始めたあたしの全身を切り刻むように、斬撃のイメージが増える。
――左肩から右の腰へ、
――右肘を切り落とされ、
――左肩を断ち切られ、
――左の腹部を前から後ろへ、
――そして右肩から股間へと背中を両断される。
最初の一刀を含めて六斬。右に、左に、そして後ろに、前に、どの包囲からも剣に切り刻まれるイメージは擬似的な感覚として、最初にあたしの神経を凍りつかせた。
……逃げられない!?
それらのイメージは連続していながら一瞬――いや、タイムラグのほとんど無い同時攻撃。あたしが瞬き一ついた後には、このイメージの通りに美由紀さんの剣で全身を切り刻まれたあたしの骸が洗い場へ転がる事だろう。
――イヤだ。
体が確実な死を前にして萎縮しようとしている。
攻撃が来るのが分かっていて、逃げられないのも分かっていて、だからこそ心が諦めようとしている。……だけどあたしの気持ちは納得していない。美由紀さんにただ謝られて、それだけで死ぬなんて全然納得が行ってない―――!
「美由紀さん!」
目前に迫る仮面の女騎士の名を呼び、あたしはもう一度足へ力を込めた。
背後へもう二歩飛べば温泉がある。そこに追い込まれてしまえば出ることも出来ないまま終わりを迎えるだろうけれど、今すぐ死ぬより何倍もマシだ。―――例えそれが不可能であろうとも、その先がなかろうとも、一瞬で全身を縛り付けた死の恐怖を押さえつけ、あたしは背後へと跳躍した。
「ッ………!」
――ギリッと、固い何かの擦れる音が耳に届く。
その異音が何かを確かめもせず、あたしは三歩目の跳躍。……だが、顔を上げたときには全身に及んでいた斬撃のイメージは全て消え去り、視界の中央にはあたしが飛び退いた分だけ離れてしまった美由紀さんの姿が映っていた。
何で追ってこないの?……疑念を頭によぎらせながら、あたしは足から温泉に着水する。ただここまで逃げる事だけを考えてただけにバランスは崩れ、滑る水底に足を取られ、盛大な水しぶきを撒き散らしながら倒れこんだ。
「ケホッ…ケホッ……み、美由紀さん……」
「初太刀を躱されるなんて、思ってもみなかったわ。たくや君なら……あれで終わりだと思ったんだけど」
……躱してなんか、いない。必死に逃げようとしたけれど、飛ぶその瞬間にも斬撃のイメージはあたしを追い、この温泉に飛び込む前にあたしは斬られていなければ“おかしかった”はずなのだ。
「美由紀さん……どうして……」
どうして剣を止めたのか、そしてどうしてあたしを殺そうとするのか、そう尋ねようとしたあたしを無表情に見つめた美由紀さんは、洗い場の石畳に反身の剣を突き立てる。
「―――逃がしはしない。魔王・たくや!」
パンッと音を立てて美由紀さんが両手を打ち合わせる。そして手の平をひねれば、その手の中に十数枚の四角い紙が一斉に現われ出でる。
昨晩にも幾度か目にした。あれは間違いなく、美由紀さんが氷の魔法を発動させるための“媒体”だ。
「美由紀さん、どうしたのよ、何でいきなりこんなことするのよ!?」
「問答無用、氷塊弾!」
放たれた数枚の札は漂う湯気を集め、熱を奪い、人の頭ほどもある大きな氷の固まりを作り出す。
「烈っ!」
そして、声。――どこか悲壮を漂わせる、故に強い声が氷を砕き、氷塊を無数の鋭い破片へ姿を変え、あたし目掛けて降り注ぐ。
「何で聞いてくれないのよ!」
もし攻撃がなければ、あたしは泣いていた。
でも目の前に迫る氷を前にして、あたしは泣く事よりも逃げる事を選択。……けれど、足が重い。思いのほか深い温泉が、水面より下にあるあたしの下半身を絡め取り、動きを阻害していた。
だからあたしが選んだのは、後ろに逃げるのではなく下へ逃げる事。息を吸い、一気に身をかがめ、無数の氷弾が降り注ぐ前に温泉へと潜りこむ。
「―――!」
白い泡とまとい、着水音を響かせて氷の散弾がお湯の中へ叩き込まれてくる。けれど一メートルも深さの無いお湯の中でも淵沿いだけは安全地帯だ。斜めに打ち出された氷塊は容易く水面を貫通しても、温泉の淵を形作る岩間では砕けない。加えて、着水の衝撃で氷は砕け、水底ではさしたる威力も無い。
だからあたしは動いた。岩を蹴り、次々と氷塊が着弾するお湯の底を息の続く限り泳ぎ、広い温泉の中ほどから頭を突き出した。
「さっきのはマジで危ないって!」
「当然でしょう。私はあなたを殺すつもりなんだから」
紙の札を一枚指に挟む美由紀さんは、前と同じ場所に立っている。―――が、空気を一息吸い込むと、嫌な気配は美由紀さんのほうではなく、別の方向から感じられた。
前後左右、どちらでもない……真上、頭上だ。
それをわざわざ見上げるつもりは無い。背筋が震え上がるほどの重たい感覚は、直感だけで危険すぎると判断。
「―――氷柱、落鳳」
嫌な予感が一気に膨れ上がる。見てはいけないと思いつつも視線は上を向いてしまい……そこに迫り来る氷の壁、いや、巨大な氷の固まりの存在を確かめてしまう。
……マズい!
温泉の中では素早く動けない。――だからこそ、あたしは素早く判断した。
「オニガミ―――」
「――それはさせない」
四本腕の鬼神を召喚しようと上げた右腕、そして、同時にあたしの横を美由紀さんが通り過ぎていた。
「悪いけど、モンスターを召喚させるわけには行かないの」
水面の上を走り抜けた――いや、美由紀さんが魔法剣士ならそれぐらいは驚く事じゃない。それよりも今、あたしが注意すべき事は……右腕に貼り付けられた一枚の紙だ。
「氷縛」
刹那……一瞬よりもなお短い時間で、あたしの腕は凍りついた。肌にまとうお湯、空中の水蒸気、それらが集まり、あたしの右腕の肘から先は氷の固まりに包み込まれてしまう。だから――
「オニガミ、出てきて!」
あたしは激痛と化した冷たさを忘れ、そのまま魔封玉を呼び出す。
その呼びかけに応じ、魔封玉は氷付けとなった右手の先へと現われ、一瞬にして四腕の巨体があたしの目の前へと姿を現す。
「お願い、助けて!」
腕が氷付けにされようとも、魔封玉を呼び出すこととはそもそも関係が無い。その気になれば左腕でも足の先でも頭の天辺にだって呼び出せる。……ただ、手の平と言うのが呼び出すイメージがしやすいと言うだけのことだ。
けど、呼び出したモンスターへの命令となると別だ。氷付けにされた腕の痛みは思考を阻害し、適切な考えをモンスターへ伝える事は出来ない。契約による繋がりがあっても、まともに考える事が出来ない状況ではどうしようもないのだ。
だからあたしには叫ぶことしか出来なかった。腕を溶かす為に温泉へと身を屈め、すべてをオニガミに託して助けを請うことしか……
――そして、それはあたしが助かるためには十分な命令……いや、願いだった。
一撃。
正確には二撃。
数人がかりでやっと抱えられそうなほどの巨大な氷柱。その重量と速度の乗った落下はとても受け止められるものではない。……が、オニガミは右の二腕で柱底を殴りつけた。
「心配不要」
その言葉どおり、あたしの心配はまったくの杞憂だった。
轟音と共に二つの拳が氷柱にめり込むと、見上げれば首が痛くなりそうな巨大な氷の固まりは落下を止めた。
――砕けた。
視界を覆う氷柱の底。直径5メートルはありそうな氷の固まりの一番下に音を立ててヒビが入った。
一本、そして二本――後は連鎖的にヒビの数は増え、オニガミが二つの拳を振り抜くと、吹っ飛び、砕けた。
「………って、オニガミ、今すぐ逃げてェ!」
澄んだ破砕の音も、重なれば轟音だ。一度重力に逆らった氷の塊は細かく砕けはしたが、細かく見えるだけでその一つ一つは先ほど美由紀さんの放った氷弾よりも巨大だ。オニガミの傍でそれを見上げていれば、真下にいるあたしたち目掛けてそれらが降り注いでくるのは明白だった。
「シャレになんないって、これ〜〜〜!!!」
オニガミの四本の腕がお湯の中からあたしを掬い上げてくれてすぐ、水面には無数の氷が降り注ぐ。――とてもあたし一人では逃げ切れなかっただろう。けれどオニガミは力任せに水を蹴り、一度の跳躍で温泉同士を隔てる垣根の上にまで移動してしまっていた。
「主、無事、我安堵」
「……安堵したのはあたしのほうよ」
息を突いた直後、オニガミが隣りの温泉の洗い場に着地し、タオル一枚まいただけのあたしの体に軽い衝撃が伝わる。―――けれど息を突く暇はそれ以上はない。“それ”は垣根をぶち抜き、いきなり来た。
垣根を打ち抜く氷弾の嵐。氷柱のように先端の尖った氷は最初のものよりも見るからに殺傷力が高い。それが十数本。
「………へ?」
そして、あたしの体もいきなり浮いていた。
オニガミはあたしを軽々と真上へ放り投げていた。星明りだけでも十分明るい夜闇で半回転、地面の方向を向いた視界ではオニガミが腰を落として構えるのが見えた。
「砕!」
咆哮。そして粉砕。
次々と襲い来る巨大な氷弾はオニガミの腕によって飛んでくる端から叩き落される。一発も体に触れる事は無い。その腕の逞しさと本数は人には不可能な強さと速さで氷を連続して砕き落とした。―――が、
「あなたの強さは驚異的ではあるけれど、対処できないわけじゃない」
目にも見えない速さで美由紀さんがオニガミの背後を取る。……いや、まだ壊された垣根からは氷弾が飛んできている。美由紀さんは隣りの温泉にいなければ“おかしいのだ”。
その疑念は契約の際に結ばれた魔力の流れに乗って、あたしへも伝わってくる。
転移の魔法を使ったのか? それとも高速機動?――だが何にしろ、まだ最後の氷弾を破壊していないオニガミの背後は、完全な死角だった。
「氷縛、九重!」
飛来した氷弾の最後を砕いたときには、オニガミのししには美由紀さんの札が貼り付けられていた。――その数、九枚。それらは美由紀さんの言葉に反応し、四本腕の鬼神を氷付けにするべく、破砕できない強固な氷を生み出して行く。
「オニガミ、戻って。代わりにポチ!」
完全に身動きがとれなくなる前にオニガミを魔封玉へと戻す。そしてあたしの落下を受け止めさせる為に、あたしの体のすぐ下へ黒い毛並みに赤い炎をまとった大型の炎獣、ポチを召喚する。
――氷には炎。オニガミを封じる美由紀さんの氷でもポチの炎なら!
任意の対象のみを燃やし尽くす炎獣の炎は、あたしの右腕を覆っていた氷のみをも溶かしてくれる。
そして着地。あたしを乗せたポチが四本足で洗い場の床を踏みしめたときには、美由紀さんは壊れた垣根のすぐ傍にまで飛び退いていた。
「グォオオオオオオオオオオオッ!!!」
「ポチ、美由紀さんに怪我させないで、ポチ!」
気付いた時には、ポチは大きく開いた口の中に真っ赤に燃える火球を生み出していた。一目見ただけで、人ひとりを燃やし尽くすのには十分すぎるほどの熱量と威力が見て取れる。
「ポチ、あたしの命令を聞いて! お手お代わり伏せ待てェ!」
連続して言ってみて、今言うべきなのが最後の「待て」だけだったと思い至ったときには既に炎は吐き出されていた。
「ポチの馬鹿ァ! 美由紀さん、逃げて―――!!!」
逃げる気はあっても、美由紀さんを傷つけるつもりはさらさら無い。跨っているポチの背中をぽかぽか叩くあたしの目の前で、
「氷壁」
今度は氷の壁だ。美由紀さんの投じた一枚の札が視界いっぱいに広がる氷の幕を生み出した。
着炎―――けれど氷の壁に激突した炎は爆散する事も燃え広がる事もしない。炎は瞬時に氷の幕に包み込まれ、洗い場には炎を抱き込んでも溶け残った氷の繭が転がっただけだった。
「たくや君のモンスターたちは昨日見せてもらっている。例え全てのモンスターを同時に呼んでも、対処できるだけの準備は整えているわ」
「ッ………!」
美由紀さんの淡々と告げる言葉に、焦りの感情が一気に膨れ上がる。
……逃げられない。そう確信してしまうだけの感情が美由紀さんの声にはある。現実であり、事実。それを語る無感情があったのだ。
そしてその証明であるように、あたしの契約したモンスターの中で最強のオニガミは氷付けされる寸前に追い込まれ、炎獣ポチの炎ですら美由紀さんの氷の前に押さえ込まれてしまった。もし持久戦に持ち込むにしても、オニガミの背後を一瞬で取った美由紀さんにいつまで抗えるのかは考えたくもなかった。
―――残る手段は……
「後はフジエーダで見せた巨大な蜘蛛型スライムよね。……試してみる?」
「……そこまで知ってたんだ」
手の中の二つの魔封玉でジェルと蜜蜘蛛を呼ぶべきかと悩んでいたあたしの機先を制される。……知っているなら、既に対策は取られている…か。
「ポチ、戻っていいよ。後はあたしだけでいいから」
「ガルル……」
「大丈夫。あたしは……最後まで精一杯やってみるから」
あたしの身長よりも高い位置にあるポチの背を降り、魔封玉へ戻す。そして、美由紀さんから視線をはずしたその一瞬で、あたしは吹き飛ばされた。
「ッ………!!!」
体を温泉の水面を滑るように飛んでいく。実際、滑るよりも水面を“削る”か“抉る”といった方が正しいだろう。一機は巨大な岩へ背中を叩きつけられて動きが止めたあたしの目には、飛んできた軌跡に沿って真っ直ぐに波打つ水面が映る。そして、その先にいる美由紀さんの姿も……
「ぅぅ……こんな目にあうなら……温泉なんて探しに来なきゃ…よかった……」
幸い、あれだけの速さで岩に叩きつけられたのに体はまだ動く。どうやって吹っ飛ばされたのか分からないまま岩に背を預け、それでも視線はしっかりと美由紀さんを見据えたまま立ち上がった。
今の衝撃のせいだろうか、体に巻きつけていたバスタオルがほどけ、お湯へと落ちる。それを沈みきる前に震える手で握り締めると、豊かな胸の膨らみを隠すように両腕で抱きしめた。
そんなあたしを見つめたまま、美由紀さんが口を開く。
「……どうして、こんな事になったんだろうね」
あたしの方がそれを聞きたい。
「……たくや君に会えて、本当に嬉しかったのに」
あたしだって、美由紀さんに会えて嬉しかった。
「はは……私にはジュリエット役は似合わないのかな……」
ジュリエットってなんだろう……そもそも、美由紀さんの言葉はあたしに向けられたものではない。独り言だ。
仮面に覆われた表情の半分は、どんな感情を浮かべているだろうか……笑っているとも、泣いているとも取れる美由紀さんの声音と、美由紀さんの姿を朧にする分厚い湯気とが、あたしに感情を読ませる事を拒んでいるように思われた。
「美由紀さん、あたしに出来るのは後一つだけなんだけど……もし、それが上手くいって、そしたら……」
「――ダメ。たくや君を逃がすことは出来ない。逃がすわけにはいかないのよ」
明確な拒絶。例え美由紀さんがあたしへ好意を持っていてくれたとしても、仮面の騎士はそれに惑う事無く、あたしへ刃を突き立てるだろう。
「それって……あたしが魔王だから? まだあたし、悪い事はして無いけど、他の人が迷惑するから……だからあたしを殺そうって言うの?」
理由はこれしかない。美由紀さんがあたしをこうまでして殺そうとする理由は……思いつく限り、これ一つだ。
「……………知ってるわよ。たくや君にはまだ、いくつもの結界を同時に破壊する手段がある事を」
問いに対する答えは返らず、あたしの元へと届いたのは温泉に似つかわしく無い、冷たい風だった。
「だから、魔法で攻撃するよりも剣で仕留める方が確実に……たくや君を、殺してあげられる」
けど言葉とは裏腹に、美由紀さんの周囲には魔力が渦巻き、一度は広がった冷気を含む空気が美由紀さんのいる場所へと集まっていく。
「―――十二氷刀、雪月花」
魔力の余波で湯気が吹き飛ばされ、視界が晴れる。――そしてあたしが目にしたものは、周囲に十二本の長剣を浮かべた美由紀さんの姿だった。
「それが……美由紀さんの本気ってわけ?」
手の中のタオルからお湯が絞られるほど、手に力が込もる。
感じる魔力の量が半端じゃない。ただ前にしているだけで肌がビリビリと震えそうな膨大な魔力の余波に、あの十二本の剣がどれだけの魔力を凝縮しているかは容易に想像できた。
「――それで斬られたら、ものすごく痛そうだよね」
「抵抗しなければ、一瞬よ。痛い思いもせずに済むわ」
「ふふ……ありがとね、美由紀さん。―――でもね」
お湯の中では思うように逃げられない。
あたしの手の中にあるのはタオル一枚。こんなものでは身も守れない。
息を吸い、吐き出す。――普段何気なく行うこの行為に多大なる労力と精神力を費やしながら、あたしは温泉の中へと身をかがめた。
水面の上とは違い、水面の下のお湯の温もりは冷えたあたしの身体に少しだけ活力を蘇らせてくれる。――もし生き延びられたら、この温泉の効能を確かめてみるのもいいかもしれない。きっとそこには“元気の湯”とでも書かれているだろう。
「美由紀さん……あたし、諦めだけはスゴく悪いから」
「そう……じゃあ、これで最後だから」
美由紀さんの両腕が鳥の羽ばたきのように左右へ広がり、右に二本、左に二本、芸術品のような美しさの氷剣を手にする。
こうなればもう破れかぶれもいいところだ。最後だというのなら……あたしも、全部振り絞る!
「―――いくからね!」
始まりの言葉にしては抜けてるように思える言葉を口にし、あたしは後ろの岩の根元へ押し当てた足へ力を込め、身を起こしながら足を踏み出す。
―――来た!
右肩、右腕、左脇腹、左腕。
線ではなく点として、美由紀さんの攻撃のイメージがあたしの肌に突き刺さる。
おそらく最初の四剣は投擲。洗い場より低い温泉の中で身をかがめるあたしへ、接近するよりも遠間から仕留めるつもりなのだろう。
それに対して、あたしがしようとしていることは愚直にも程がある。
美由紀さんへ近づきたい。真っ直ぐに、ただお湯を掻き分けて近づくことしか頭に無い。
ただそれを……魔力全開でやるだけだ。
第九章「湯煙」13へ