第九章「湯煙」06


 あたしが治療を受けていた建物は、あの落下するような感覚の後にすぐ傍に建っていたログハウスだった。
 その外にはあたしが封印する前に気を失った事でそのままになっていたプラズマタートルが待っていた。周囲の電撃で焼け焦げた跡がいくつもあるのを見ると、よほど暴れたのだろう。あたしを迎えに来た「エン」と「ブ」、二人のアサシンを見る目には殺気がみなぎっていて、あたしがなだめなければさぞや景気よく電撃を雨あられと降らせたことだろう。
 手足や腹部に包帯を巻き、その上からバスタオルを巻いたあたしは「傷に響かないように」と落ち着きを取り戻したプラズマタートルの瀬に綾乃ちゃんとともに腰をかけ、アサシンの二人に案内されて森の中を進んでいく事となった。
「―――にしても、他の人たちどこに行ったんだろ?」
 揺られる事数分、いくらゆっくりと歩くプラズマタートルと言っても、あの森の中にいた温泉を捜しに来ていた人の数を考えると一人や二人と遭遇してもいいはずだ。それなのに木々の間からは人影はおろか、獣一匹姿を見せない。見た目は普通の森なのに聞こえてくるのは風になびく木々の擦れあう音だけであり、意識し始めると不自然を感じずにはいられなかった。
「まだ気付いてなかったの?」
 そんなあたしの疑問にセミロングの髪のアサシン――「エン」が歩きながらこちらへ振り向き、答えてくれる。
「外の世界じゃまずありえない場所だもんね、ここ。わかりにくいと言えばわかりにくいんだろうけど、感がよければすぐにでも気づくんだけどね」
「ははは……あたし、あんまり頭よく無いから」
 苦笑を浮かべながら頬をポリポリ指でかくと、前を向きなおした「エン」が肩をすくめ、
「やれやれ、そんな人間がどうやってここへ入り込んだのやら。偶然っておっそろしいわよね〜」
 と、まあ悪気は無いんだろうけれど軽口を叩いてしまう。―――自分がどこを歩いているのかを忘れて、だ。
―――グアアアアァァァアアアアアアアアッ!!!
「プラズマタートル、落ち着いて、あたしと綾乃ちゃんが上に乗ってるのを忘れちゃダメよ、電撃禁止、丸焼けはヤダってばぁ!」
 あたしが馬鹿にされた事に敏感に反応したプラズマタートルが甲羅から突き出した槍上の突起の何本かに電光をまとわせる。慌てて甲羅を叩いたり撫でたりして必死になだめ、電撃放出の巻き添えを食うのだけは免れたけれど、アサシンの二人はあたし以上に恐い思いをしたようだ。咆哮に驚いて腰を抜かし、二人で手を握り合ってガタガタブルブルと震えてしまっている。
「だ、大丈夫だから。この子、こう見えても結構優しいんだよ。………まあ、鳥の丸焼きが大好物だったりするんだけどね」
「わ、私を丸焼きにしても絶対に美味しくないんだからね!」
 ―――う〜む…プラズマタートルが「食べてみないとわからない」とか考えてるのは黙っておいた方がよさそうね。
 甲羅に手を当て、「人を食べちゃダメだから」と念を押しておくものの、「あたしがやられた」と言う恨みはちょっと拭い去りがたい。温泉に着いたら封印しておく方がよさそうなんだけど、その温泉にいつまで経っても辿り着けない。
「あの〜…早く温泉に行きたいんだけど……」
「わ、わかりました、だから食べないで、ね♪」
 亀に色目を使ってお願いしてどれほどの効果があるのかは分からないが、ともあれ「エン」と「ブ」が再び立ち上がって先導を再び始めてくれると、プラズマタートルもその後をゆっくりと付いて行きだした。
「………それで、この場所がどうのって、結局どういうことなの? もしかして、これだけの範囲を結界で覆ってるとか?」
 美由紀さんを追いかけていた時、追ってきた綾乃ちゃんや他の人が一定のラインを超えてしまったあたしを認識できなかった事を思い出して、そう言ってみる。
「それは“入り口”だけね。出入りしてる所を関係ない人に見られたらややこしいし」
「入り口って言ったって、あそこ何にもなかったわよ。変な感じはしたけど………ん、なに?」
 記憶を手繰り寄せていると、二人の女アサシンが不思議そうにあたしを見つめているのに気付く。
「いや……本気で何があったのか気付いてないの? 結界があった事にも気付いて無い感じなんだけど」
「まあいいじゃない。―――簡単に言っちゃえば、ここは“もう一つの世界”。難しく言うと並列存在的閉鎖空間……だったかな? なんかややこしい名前だったのは覚えてるんだけど、私たちも詳しく説明されたわけじゃないからね〜」
「例えば、“地図の下にあるもう一枚の地図”ってとこかな。普段の生活を過ごしているのが一枚目の地図で、“扉”を潜り抜けるとこっち側に入ってこれて………話についてこれてる?」
「へ? あ、まぁ、少しは……」
 実を言うとさっぱり。こういう理論っぽい事は綾乃ちゃんの方が得意なんだけど、チラッと視線を送ると少し難しい顔をして考え込んでいた。
「―――じゃあ、ここは“魔界”と同様の“別世界”なんですか?」
「そこまでかけ離れてる訳じゃないわよ。元々ある世界を写し取って作り上げた空間だって聞いてるもの」
「なるほど……そうなんですね」
 アサシンの答えに一人納得する綾乃ちゃんだが、あたしのほうは全然話についていけてない。
「綾乃ちゃん、あたしにも分かるように説明して……」
「はぁ………構いませんけど、多分ここ、古代の魔法技術で作られてると思いますから、どうしても話はややこしくなると思います」
「こ、古代魔法〜!? それに「作られた」って……どういう意味?」
「フジエーダを攻めてきた魔法使いの人が乗ってきていた馬車が内部の空間を加工して、見た目の何倍もの広さになっていたってジャスミンさんから聞きました。それも古代魔法技術の一つだとも。そういった空間を加工する技術が存在していたなら、この空間が誰かの手によって作られたものだと考える事は十分可能です。もっとも規模は桁違いですけど」
「ほ…ほえ……」
「あ……す、すみません。先輩だったらこのぐらいのこと、既にご存知でしたよね。偉そうに説明しちゃって、すみません、すみません!」
 ―――いや、本気で全然わかんなかったんだから有り難いくらいで、謝られると逆に困っちゃうんだけど……
 けれど改めて頭上を仰ぎ見ても、夕暮れを知らせる赤い空が広がるだけで、とてもでは無いけれどここが作られた空間だとは思えない。アイハラン村でも古代魔法技術の研究を行っている魔法使いや賢者は何人かいたけれど、ここに連れてきたら仰天する事間違いなしと言うところだろう。―――となると、
「何でこんな空間を造ったのか気になるよね……まるで温泉隠すみたいに」
「良い源泉を見つけたから自分だけの温泉を作っちゃったのよ、あのマスターが」
「………は?」
「いい忘れてた? この空間作ったの、私たちのマスターなのよね。どこでどうやったか知らないけど……あんなものを見せられたらね」
 不意に森を抜け、視界が開ける。―――すると、小高い丘の上に建つあたしたちの眼下には、いくつもの湯煙があがっているのが見えた。
 湯煙の数は二つや三つではない。おそらくフジエーダの街よりも広い山々に囲まれた土地にはざっと見ただけで二十以上の温泉が存在しており、それらから立ち上る湯煙は渾然となって白いもやと化し、山すそ近くの景色を覆い隠してしまっていた。
「うわぁ……これが秘湯……」
 あたしと綾乃ちゃんは、想像以上に広大な温泉場にただただ驚くだけだった。森の中の秘湯と言うから小さな露天風呂をイメージしていた事もあって、その何百何千倍と言うスケールの温泉を目の当たりにしてしまうと、もう言葉で言い表せないほどの驚きに呆然としてしまうしかなかった。
「ようこそ、温泉て〜まぱ〜く“湯幻郷”へ」
 あたしが腰掛けるプラズマタートルへ道を譲るように「エン」と「ブ」の二人が道の左右へ分かれ、驚きが納まりきていないあたしたちへ慇懃な態度で頭を下げる。
「たくや様、綾乃様、我等一同、来客として貴方様たちを心より歓迎いたします」
「それではこちらへ。我等が主、ギルドの長、「ケイ」がお待ちです」
 ………今、なんて言いました?
 おそらくあたしが驚くのは二人のアサシンの予想の範囲内だったのだろう。微笑を浮かべて顔を上げた二人は―――いや、「三人」はあたしが疑問に対する言葉を口にする。
「我等が主は世界中に組織を広げる冒険者ギルド、シーフギルド、そして娼館ギルドを束ねておられるお方です」
「今はお忍びでこの地にまで参られましたが、その力は大国の国主すら凌ぐお方。くれぐれも粗相の無いようお願い申し上げます」
「我等が主は身を挺してまでフジエーダを救った英雄へあらん限りのもてなしをと申されております。知らぬこととは申せ、これまでの我等が非礼、重ね重ねご容赦くださいませ」
 いつの間にかプラズマタートルの後方へ現われた三人目のアサシンも女性だった。あたしが振り返るのを見るとフードをハズし、ショートカットのどちらかと言えば凛々しい顔を露わにする。
「これより先はこの「ゲキ」がご案内いたします。そちらの大亀に乗られたままで構いませんので、そのままお進みください」
「はぁ………」
 ―――どういうことだろう……
 誇張されているとは言え、あたしがフジエーダを救ったという話はできる限り表に出ないように取り計らってくれているはずだ。宿場町に滞在中もそれとなく噂を耳にしたけれど、クラウド王国の王女が魔物の軍勢を追い払ったなどの事実と想像の混ざり合ったものばかりで、真実が広まるのは当分先の話だ。
 それを知っていることにも驚きだけれど、ここには偶然やって来たはずのあたしの事を調べ上げていることも気になる。
 ………もしかしたら、誘い込まれたのかもしれない。
 相手の態度の変化に対して警戒心が膨れ上がる。あたしが予期せぬ侵入者なら、手当だけして外の世界に放り出せばすむことだし、わざわざこの場所の説明までする必要性は何一つ無い。―――そんな考えが顔に出ていたのだろう、プラズマタートルの前に回った「ゲキ」と言う名のアサシンはうやうやしく片膝を突き、最上の礼を持ってあたしへと頭を垂れる。
「何も心配されることはありません」
 「エン」が言う。
「我等三人は主の意に従うもの。我等が主は決して無粋な真似をいたしません」
 「ブ」が続ける。
「ただ貞操の安全は……いえ、そう言う意味ではなくて……と、ともかくお進みください」
 ………最後の最後で本音が出たか。でもまあ、ここまで来て引き返すのも勿体無いか。
 あたしの体を女へと変えた呪いを解く温泉を捜しに来たのだから、何もせず黙って引き返すわけにもいかない。それに、
「あたしの頭でいろいろと考えても無駄だもんね。プラズマタートル、ここはお言葉に甘えましょ♪」
 甲羅に手を置き、そう告げる。するとあたしと綾乃ちゃんを乗せたプラズマタートルはゆっくりと歩き出し、温泉郷へと続く緩やかな下り坂を降り始めた―――




 湯と、濃密な草の香りが漂っていた。
 プラズマタートルから降り、素足に心地よい石畳を歩いて辿り着いた温泉には「薬湯」と看板が立てかけられていた。
 パスタオルの胸元を締め直して先へ進み、空間に満ちた湯煙の壁を抜けると、周囲を石で取り囲まれた空間が目の前に広がった。
「いらっしゃい。思っていたよりも早かったわね」
 子供が数人泳ぎ回っても余裕がありそうな湯船には先客がいた。入り口の正面の多い輪に背を預けた長い髪の美女。当然全裸なのだけれど、胸の先端より下は水面に浸かってしまっていて、魅惑的な上乳の曲線も白い蒸気にさえぎられてここからではほとんど見えないのが残念だ。
「………先輩、何か変な事を考えていらっしゃいませんか?」
「え、や、ははは……男としては女性と一緒にお風呂に入るのは、なんてゆーか嬉し恥ずかしストロベリーって感じだから」
 うわ、自分でもなに言ってるのか分からないや。緊張してるなー。
 後ろにはまだ胸もお尻も小さくてあどけなさの残るものの既にあんなことやこんなことして手をつけちゃってる上に今は股間が大変な事になっている綾乃ちゃんがいて。
 前にはあたしの体が貧相に思えるほど肉感的なボディーラインの絶世の美女が温泉に入っていて。
 同性だからこそ体験できるちょっとしたパラダイス状態なのに、あたしの中の男の部分が興奮を隠しきれずに暴走寸前なのだから、かなり困ってしまっている。
 綾乃ちゃんはと言えば、あたしがなかなかお風呂に入ろうとしないものだから、大きなバスタオルで巻き隠した体をモジモジさせ、しきりに股間の部分を気にしている。ここに来るまではプラズマタートルに乗ってきたけれど、少しでも歩けば「アレ」が足やタオルに刺激され、大きくなるのを抑えきれないのだろう。―――うわ、こんな綾乃ちゃんと一緒に他の女性の先客がいる温泉に入ってもいいものでしょうか!?
「そんなところにいないで、早く入ったら?」
 湯の中から美女―――ギルドマスターに促されてあたしと綾乃ちゃんは顔を見合わせる。「どうしよっか?」と言う意味の苦笑を浮かべるけれど、ここまで来た以上はしかたない。温泉の淵にひざまずいて桶を手に取ると、あたしはバスタオルをほどき、慎重に体へお湯をかけて行く。
「ッ〜〜〜〜〜〜〜!!!」
「ここのお湯は切り傷によく効くわよ。染みれば染みるほどね」
 そうはいうけれど……こ、これはかなり……イタタタタッ……
 何本ものナイフが刺さった腕や太股の怪我は大方治ってしまっていた。あたしの体に備わった治癒力と包帯の間に挟んで傷口の上に貼り付けられていたお札の効果なのだろうけれど、それでもまだ傷口が塞がった程度。熱いお湯が傷口のあった場所に触れると、悲鳴を上げたいぐらいの激痛が脳天にまで突き抜けてくる。
 特にお腹の傷が一番ひどい。話では致命傷だったらしく、こことあと数箇所はまだ治りきっていない。体にお湯をかけるたびに痛みで筋肉が硬直し、傷口が引きつる感覚に声を上げずに悶絶してしまう。
「あらあら、随分ひどくやられたものね。ごめんなさいね、しつけが悪くって」
「い…いえ……あ、あたしが、勝手に入ってきちゃったわけで……ア…アグゥゥゥ……!!!」
 先にかけ湯を終えた綾乃ちゃんに手伝ってもらい、さっと体を洗ってからお湯へ足先をつける。
「ッッッッッ………!!!」
「せ、先輩、お顔が引きつってますよ!?」
「こ、このぐらいなら…平気、だから………ウゥ……染みるぅ〜〜……」
 胸までお湯に浸かって深呼吸を繰り返すと、傷口の痛みは次第に落ち着きを取り戻してくる。お湯もなかなかいい温度で、このままゆったりと入っていれば、確かに怪我も早く良くなりそうだ。
「そのまま動かずにいなさい。先だって魔力も大量に消耗しているようだし、いい機会だから、ここでゆっくり過ごして体調を整える事ね」
「………やっぱり知ってるんですね。あたしのこと」
 動くなと言われても、こう離れていては湯気で相手の顔も見えない。タオルを締め直した綾乃ちゃんを伴い、一度は薬湯にひたした裸体でざぶざぶとお湯を掻き分けて美女の元へ向かう。
「ああそこ、深くなってるから」
「は?―――ングブグングゥ!!!」
「あらまあ、せっかく前もって「動かないで」と念を押しておいたのに」
「お、温泉に落とし穴なんてつけるなァ! てか、なんなのよこの温泉はぁ!!!」
 深くなかったからすぐに浮き上がれたけれど、頭の先まで一気にずぶ濡れだ。頭を水面から上げてブルブルと左右へ振り、お湯の雫を周囲へと飛び散らせる。
「まったく人が悪いですよ……」
「ふふふっ、ごめんなさい。一ヶ月ほどここに入り浸ってるから刺激が欲しかったのよ。可愛い悪戯だと思って許してね♪」
「悪戯にも程がありますよ。あたし、怪我人なのに……」
 と口にしても、女の人へそう強く言う事もできない。それにさっきよりは距離も縮まった事もあり、しかも視線が低いから胸の谷間が目の前に……って、あれ? なんでこんなにどアップで……
「じゃあお詫びの印に……」
「………、〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッ!!!」
 見事な形の双丘に目を奪われたその瞬間、顔を左右からはさまれ、もっと見ていたいと訴えるあたしの視界は強引に上を向かされてしまう。そして今度は美女の顔が間近へ迫っていると視認したときには、あたしの唇には別の柔らかい唇が押し付けられてしまっていた。
「わァ………」
 離れた場所で綾乃ちゃんが声を上げる。それを聞きながら、口の中をまだ名前すら知らない美女の下に這い回られたあたしは小さな呻き声を漏らしながら、唇から流し込まれた液体をコクッコクッと飲み下してしまう。
「んッ………ムゥ…むむぅ………!」
 ゾクッと背筋に震えが走り、あたしの中で興奮に火が灯ってしまう。
 このまま窒息するまでキスされていたい……思わずそう思うような口付けに抗う事も忘れ、まぶたを閉じて自分から舌を絡めていたことに気づいたあたしは、不意に頭を振り、水底の穴にはまらないように美女から距離をとって回り込んだ。
「な……なななななァ………!!!」
「そんなに私とのキスはイヤだった?」
「そうじゃない、そうじゃないけど……あ、あうぅぅぅ……!」
「ふふふ、面白い子。想像していたよりもずっと。経験は十分すぎるほど重ねて来てるのに、最後の大事な部分ではとても純粋なのね。……けど、そう言う子ほどいじめてみたいの。男や道具なんかには頼らないわ。私の指と舌、体全部を使って愛してあげて忘れられなくしてあげて………ハァ……想像しただけで体が火照っちゃう……」
 あ、遊ばれてる――――――!!! それになんか恐いよこの人――――――!!!
「あの、あの、先輩、さっきのって、やっぱりディープなのだったんですか!?」
「綾乃ちゃん、あまりそう言うのを覚えないで……それより出よう、早く出よう、ここに一秒でもいると貞操どころの騒ぎじゃなくなるから」
 追いかけてきた綾乃ちゃんの体の向きをクルッと変えて、いざ逃げ出さんと試みる。
「そう言わないで。本当のお詫びは飲ませた薬湯のほうなんだから。貴重なのよ、この蟠桃酒」
 振り返ると、元の位置に座りなおした美女は雪のように白く小さい盃を唇に当て、傾けていた。その横では投機の酒瓶を載せたお盆が水面に浮いていて、あたしの視線に気づくと、
「申し訳ないけど盃は一つしかないの。口移しでよければもう一度飲ませてあげるわよ。そちらの子もどう?」
 口移し……さっきは驚いて逃げちゃったけど、あの人に口移しで……
「だ、ダメだって。お酒を飲まされて人生観180度コロッと方向転換させられるって、ある意味最悪の転落人生じゃないですか!」
「酒は飲んでも飲まれるな。……娼館で働いているのなら、お酒を楽しむ事も覚えておいた方がいいわよ、ルーミットさん?」
「む………」
 そこまで知られてるなんて……娼婦してるってばれて、恥ずかしいかも……
 けれどあたしの事を調べ上げているなら、逆に文句の一つでも言いたくなってくる。この場を逃げるのをやめ、手を伸ばしてもすぐには届かない距離をとって温泉に体を沈めると、すこし警戒しながら口を開いた。
「あ―――」
「あなたの事をどうして知っているか気になるんでしょう?」
 ―――ううう、完全にこっちの考えが読まれてるぅ……
「本当に分かりやすい子ね。でも決してそれは短所では無いわ。これから先、何度もその性格で苦労を背負い込むでしょうけれど、むしろ美点と言ってもいいぐらい」
「そんな美点、願い下げですって……」
「いいえ。あなたがそれを認めれば、決して短所ではなく長所になる。いいじゃない、裏表が無い人は他人からも慕われやすいんだから」
「とは言え、これから先も苦労続きか……はぁぁ……」
「これまでの体験を考えれば、既に性格が歪んでいてもおかしくないのにね」
 そう言うと、美女は手にした杯に酒を注ごうと酒瓶に手を伸ばした。
「お酌します。どうぞ」
「あら? ありがとう、可愛いお嬢さん」
 結局正体がわからない美女の杯に、綾乃ちゃんがお酒を注ぐ。――いや、聞かされた言葉が本当なら、目の前の美人は大陸中に組織を広げた三つのギルドの長と言う事になる。けれど、あたしの目からはどう見ても、当てはまりそうなのは娼館ギルドのマスターぐらいだろう。あの魅惑的なボディーラインなら娼婦と言われた方がしっくり来る。
 湯船に浸かり、笑顔で綾乃ちゃんと言葉を交わす美女をじっと見つめるけれど、その正体に行き当たる事は出来ない。誰なんだろうか、そればかり考えて重たくなってきた考えを払うようにため息を吐き出すと、その美女が微笑みながらあたしを見つめている事に気がついた。
「そんなに聞きたいのかしら?」
「………ええ。色々と」
 胸にわだかまる疑問を晴らさないと、せっかくの温泉も楽しめない。
 きっと、聞けば何でも答えてくれるだろう―――そんな直感めいた考えを抱きながら、まずは何から訊ねようかと思考をめぐらせる。
 ―――あたしが今、一番知りたいことは……
 そして、一つの問いへと行き着く。けれどさすがに抽象的な質問になるからと口にするのをやめて頭を振り、でも美女の笑みを見ている内にどうしても訊ねてしまいたくなり、口を開く。


「もしかしたらあたしがなんなのか、知ってるんですか?」


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