第一章「転性」01
目を開けると……どうしてかは分からないけれど、森の中にいた。
「ここ……どこ――っったぁ……!」
目の前に展開される深緑のじめじめした葉だらけの光景に慌てて体を起こした途端、こめかみ左右から眉間に
向かって五寸釘を突き込まれ、あまつさえそれをグリグリ捻られたような痛みが頭を襲う。
「ぐっっ…つううううう〜〜〜〜!! な、なんだってのよ、なんでこんなに頭が……っ……!」
はっきり言って声を出すのも辛い。呼吸をするたびに喉が、胸が動くだけでも頭の中は痛みという錐にグサグ
サと刺されまくって、たまらず頭を手で押さえながら後ろ向きに倒れこんだ。
着ていた鎧はいつのまにか脱いでしまったらしく、背中と首の裏に暗い森の湿った草の感触が直接触れる。
「………それにしても……ここ…どこよ……」
痛みのあまりに涙をにじませながら周りを見まわす。けれどここが森の中という事ぐらいしか分からない。
最初は夜かと思うほどの暗さだったけど、頭痛に喘ぎながら見上げる枝葉の重なりの向こうからわずかだけど
光が透けて見えていた。
森の木々はまったく手入れされていない状態だった。
腕を回しても届かないぐらいの太さの木がほとんどだけれど、無秩序に生えた枝が幾重にも重なり合って日光
をほぼ完璧に遮断していた。そのため光が射さない地面は湿気が多く、ひんやり冷たい空気が体をなぞっていく。
………アイハランの森じゃないのかな。
アイハランの村はその豊かな森を魔法資源にして外貨を獲得している。
樹齢が十年を超えればその木の枝は魔力を通す「回路」が十分に出来あがっている。それを利用して加工し、魔
法補助用のスタッフ(杖)などを作って売っているのだ。
けれどここの木々にはそばにいるだけで癒されるようなやさしい魔力は通っていない。死んでいると言うわけ
じゃないけれど、土地柄もあるのだろう、手入れもされずに大きくなった木にはどこかくらい雰囲気がまとわり
ついていた。
「いたたた……頭は痛いし、変な場所にいるし…どうなってんのよ、まったく……」
どうしてこんな場所にいるのか……痛みに眉をしかめながら頭を捻ってみるものの、それがさっぱり分かりや
しない。
今日が祭の日で、強引に選ばれた勇者役として神殿に足を踏み入れた……その辺りまでは覚えているんだけど、
どうにも今まで夢でも見ていたんじゃないかと思うほど記憶があやふやで、はっきりした事を思い出す事が出来
ない。
ただ、頭に浮かぶのは見た事もない明日香の泣き顔と、黒いイメージの何か恐いもの……
『おい』
「う〜…へまでもやらかして、明日香に気絶するぐらい殴られた挙句に森の奥深いところにでも捨てられちゃっ
たかな……」
あの突発的に拳を振りまわす幼なじみならやりそうだ。頭が痛いのもきっと力一杯殴られたからだと推論すれ
ば、見事につじつまが合う……
『おいったらおい』
「こんなに痛いって事はよっぽどひどい失敗でもしたのかな? う〜ん…まったく覚えてないんだけど……あ、
もしかしてテントでの事を根に持って、こんなにひどい事を!?」
『もしも〜し、聞こえておるか? もしもし、もしも〜〜〜し!』
「でもこれはさすがにやりすぎよ。人に無理やり勇者役なんて押し付けたんだから、ちょっとぐらいの失敗や愚
痴は多めに見て、労わってくれたっていいじゃない。こうなったらおばさんにちくって、こっぴどく怒ってもら
わないと――その前にどうやって戻ろう…村もどっちか分からないし…うっ…ひっぐ……あ、明日香、ひどいぃ
〜〜〜!!」
『目が覚めたんならいいかげんこっち向いて人の話を聞かんかい! いいかげんにせんとこの場で押し倒して一
生夢見に出ちゃうぐらいイヤらしい事しまくるぞ。いいのかぁぁぁぁ!!』
「ひゃああああっ!? ――なに、誰かいるの!?」
突然聞こえた怒声に慌てて跳ね起きる。
まるで肉体労働の後のようにけだるい体はとっさの事でもよく反応してくれた……のは良いけれど、誰かいる
のかと周囲を見回した後、そのまま首を捻ってしまう
声はすぐ耳元で叫ばれた様に近かった。――けれど誰もいない。見える範囲でだけど、暗い森の中にはあたし
一人しかおらず、人はおろか森の中にいそうな小動物の姿も見当たらない。ただ不気味な暗がりがあたしのいる
場所を静かに取り囲んでいるだけだった。
「…………あれ? あたし?」
どうして「あたし」なんていう一人称を使ってるんだろ?
いつもならば自分の事は「僕」と呼んでいるはずなのにと首をひねる。
「おかしいな……もしかして明日香が変な呪いでも掛けたんじゃないだろうな」
あの幼なじみは昔っから魔法を覚えるたびに僕を実験台にするところがある。子供の頃はファイヤーボールを
平然と投げつけてくるぐらい手加減無しだったけど、まぁ最近は………なんで呪いの魔法になんか興味持つんだ
か。そりゃ病気になったり寝込んだり程度で大怪我って言う事は無いけれど、意識不明にさせるんだからやっぱ
り酷いか。
そうこう考える間、つい「あたし」としてしまいそうな自分の呼び名にずいぶんと気を使ってしまう。
これも新しい呪いか……はぁ…今回の罰は本当に手が込んでるわよね……
ため息を一つ突く。体の重みの影響を受けてか、それともこの森の空気がよどんでいるのか、胸の奥に溜まっ
たもやもやしたものを長々と吐き出すと、そのまま地面へと腰を下ろした。
――何かがおかしい。
無理やり明日香に結び付けて考えてみても、本当の意味で自分を納得させられていない。
頭は痛いけれど外傷らしきものはないし、体は重たいけれど立ったり座ったりするときはどこかフワついた感
じで逆に体重が軽くなったようにさえ思える。
「あたし」と呼ぶようになったのだって、呪いとは考えられない。明日香だったらそんな面倒な事をせずに殴り
つけるか攻撃呪文で火達磨にしてくれるだろう。
「さっきの怒鳴り声も空耳みたいだったし……なにがどうなってるのよ……」
『あの〜〜…そろそろワシの事に気づいてくれてもいいんじゃないかのぉ……』
「………ん?」
この声――さっきの怒鳴り声と違って物寂しそうな老人のようだけど、間違いなくさっきの声と同じものだ。
「………だれ。だれかいるの?」
『ここじゃ〜〜…ここにおるぞ〜〜…ぐすん、やっと…やっと気付いてもらえたぁ……』
いや…ここにいるって言われても、どこにも姿が見えないんだけど……
前後左右、どちらを向いても人の姿を見つけられない。その上、初老ぐらいの男の声は泣き声へと変わり、暗
い森で聞くにはものすごく不気味だ。
もしかしてゴースト? やだなぁ…あたし幽霊嫌いなのに……どうしよう、逃げた方がいいかも……
神殿でモンスターに襲われた記憶もよみがえり、逃げ出そうと思い始めた意思に反応して震える背筋と脚に力
が入る。
大丈夫…危なくなったら明日香が助けてくれるし……
いつもならそう思えば体の震えは収まるはずだ。だけど今日に限って、震えは収まるどころか大きくなってい
く一方だった。
――逃げよう、と、立ちあがろうとして手をつき、脚に力を込める。するとそのとき、指先に固い感触が触れ
るのに気付いた。
なんだろうと下ろした視線の先、あたしが倒れていた場所のすぐ側に、見た事もない一冊の本が落ちていた。
「? なんでこんなところにこんなものが……」
魔道書なのだろう――黒く、分厚い皮張りの表紙には見た事もない複雑な文字でタイトルらしきものが金字で
書かれ、小さな魔方陣が刻みこまれた大きめのメダルが中央にはめ込まれている。
金の色はくすみ、かなり年代を感じさせるその本に、未熟ながらも道具屋としての感が値打ち物だと告げてい
る。
けれど同時に、この場の暗い雰囲気に妙にマッチしている不気味な雰囲気のその本に対して、いじめられっ子
時代に養われた危険センサーが音を立てて警報を鳴らしてもいたりもするのである、これが。
う〜ん……もしかして呪われてるとか……こういうのって下手に手に取ると危ないのよね。
落ちてるものは拾って売っちゃえ、なんて言う姉が口にした暴言を思い出して苦笑いを浮かべると、道具屋の
癖でついつい本を手に取ってしまう。
――結構軽い。
見た目の重厚さとは裏腹に、魔道書は自分から浮き上がるかのような軽さであたしの手に収まった。
「? これって魔法文字かな」
目を凝らしてよく見れば表紙の文字は学校で習った古代魔法文字に似ていなくもない。けれど似ていると言う
だけで複雑な文字の意味はまったく解からず、金色のメダルに描かれた魔方陣もなんの魔方陣だかさっぱり理解
できなかった。
本のページには鍵穴のない錠が掛けられていて開く事もできない。恐らくはアンロックの魔法で開くんだろう
と思うけれど、魔法が使えないあたしにはこれ以上どうしようもなかった。
「結局なんの本かわかんないのよね。――う〜ん…こんな森の中に落ちてるんだから真っ当なものじゃないと思
うけど……どうしようかな……」
もしこれが古代魔法文明時代のモノなら一生遊んで暮らせる値段がついてもおかしくない。
それに呪われているような感じはないから一応の安全も確認出来たけれど、いろいろと腑に落ちない事が多す
ぎる。
こんな本がこんな場所にあること自体が不自然過ぎるのだ。
あたしの手にしている魔道書は確かに古びてはいるけれど風雨にさらされた跡は見受けられなかった。そうな
るとこの本はつい最近、多分あたしがここで眠っている間に誰かが側に置いていった事になる。
誰がそんな事をするだろうか――あたしが魔法をつかえないし、当然魔道書だって扱う事はできない。もし顔
見知りだったら、こんな立派そうな魔道書を置いていくわけがない。それに鍵まで掛けて。
「………しょうがない」
ハァ…とため息をつく。自分でも未練があるのは分かっているけれど、
「怪しすぎるから置いていこう」
とりあえず家に帰って、準備を整えてから取りに来るって言う手も有るし。
そうしてあたしは本を元あった場所に置こうと手を下ろす。すると――
『………捨てるなあああぁぁぁああああああああああっ!! お…おのれ……ワシは、ワシは悲しいぞおおおぉ
ぉぉ!!』
先ほどよりもはっきりとした声が大音量で頭に響く。
「ひ、ひやああああぁぁぁぁぁ!!!」
突然の驚きにまるで女の子のような悲鳴を上げたあたしは、つい手にした本を近くの草むらめがけて放り投げ
てしまう。
『――コラァ! ワシの体を放るんじゃない! もっとやさしく、その胸でやさし〜く抱擁するように、大切に
エロエロに取り扱わんかい!!』
「な…本が…本が喋ってるの?」
『あったり前じゃい! ワシを何様じゃと思っとるか!』
――ちょっと頭が付いて行けてない。
本が…口もないのにどうやって喋ってるんだろう……
喋っていると言う事はあの本に廃止があって、だけど本は喋る事ができないから何かが憑いていることになっ
て――
「えっと……最初に聞いておくけど幽霊とかそういうの?」
『ふっふっふ……………………………………ワシは幽霊よりも恐い』
「いやぁぁぁ〜〜〜〜!! こっち来るな〜〜〜〜!!!」
幽霊嫌い、幽霊恐い、幽霊退散っ!
あたしの手にはひそかに愛用しているハタキやモップの存在がない。だからとっさに目に付いた、地面にごろ
ごろと転がっている小石や小枝を拾い上げると無我夢中で喋る本に向かって投げつけた。
『いてっ! あてっ! いてっ! こら、石投げるなってぐふぉ! さっきの一発こめかみにクリーンヒットぉ
!!――って、本のこめかみってどこじゃい!――すまん、冗談じゃ、ワシは幽霊よりも安全無機質あごっ!
――む、無公害じゃからストップ、石投げるなんてある意味人種差別っぽくてひどいぞ、あうっ枝が刺さる、な
ので本の虐待反へぶっ!』
「あ、最後に投げたの、ちょっと大きかったけど――死んだ?」
『―――し…死ぬかぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!』
「いやあぁぁぁ!! また出たぁ〜〜〜!!」
『待て待て待てぇい! いいかげん石投げるのはやめんか! 結構痛いんじゃから、それ。とりあえず落ち着い
てワシの話を聞け、幽霊じゃない、こうやって実態もっとるんじゃから、な?』
「………もし幽霊だったらもっと大きいの投げるからね」
本がわめくだけでこちらを襲ってこないのを見て、とりあえず息をついて手を下ろす。
『まったく……最近の若い者は手が速いと言うか切れやすいと言うか、いわゆる短絡的? ワシ、何でこんな目
に合わなきゃならんの?』
「そっちが脅かすからでしょ。それよりも何者…っていうより、なんなの? 本の姿をしてるけど、生きてるな
んて言わないでしょうね」
生きている魔道書……そんなものが存在するなんて言う話は聞いた事がない。
魔法によって生み出される複製人間ホムンクルスの製造なら村で一時期話題になったことがある。そのとき聞
いた話では、物に命を与えるにはある程度の内臓器官が必要で、とてもじゃないけれど魔道書一冊にそんなもの
が積めこまれているとはとても思えない。
あたしも適当に言っただけなんで正体に見当がついていると言うわけじゃないけれど、とりあえず投石攻撃が
有効だと分かった。そんなわけで手にした石で本に狙いをつけ、なるべく威圧するように正体を尋ねる。
『ふっ…聞きたいか?』
「石、投げて欲しいみたいね。せ〜の」
『ごめんなさい、話します、是非とも聞いてください。だから石はやめて』
もはや涙声になってきた本が少し可哀想になってきたので、あたしも石を下ろす。すると黒い本は放り投げら
れた地点にひょこっと立ちあがる――どうやって動いてるんだろ――と、一歩(?)あたしに近づいて胸を――表
紙を反らして、とんでもない事を口にした。
聞いて驚け見て驚け!
ワシは魔王。魔王パンデモニウム! かつて魔の眷族を率いて世界を破壊し尽くした大魔王とはワシのことよ!
長い封印から目覚めたからには、必ずや再び世界を混沌と破壊で満たし尽くしてレッツ世界制服、ワ〜〜ッハ
ッハッハッハッ!
「…………………………」
高らかに哄笑を上げる本を前に、こめかみに人差し指を当てて「魔王」という言葉の意味を理解するのに10秒。
「…………………………えっと」
今度は指をあごに当て、虚空に視線を向けてその意味を受け入れるのにさらに30秒。
そして――
「――何を言ってんだか」
肩をすくめて全てを否定するのはたったの0.1秒だった。
『し、信じてもらえんのかぁ!? なんで? ワシって魔王様なんじゃぞ? もうちょっとこう、恐怖に怯える
とか泣き叫ぶとか「是非あなた様の部下に!」とかってひれ伏すのが普通じゃないかえ?』
「それのどこが普通だって言うのよ。魔王? あんたみたいなやつのどこが魔王だって言うのよ!」
恐がっていた事をごまかすように勢いよく指差して問い詰めると、黒い本はうっ…と息を呑む。
が、その事が自称と言えども魔王のプライドを刺激したのだろう。前にも増して大声を張り上げ、
『な…何を言うかぁ! 確かに今は本体の魔道書の姿じゃが、ワシってやればスゴいんだぞぉ!!』
「じゃあ何かスゴい事やって見せてよ。そしたら魔王って信じてあげるから」
『ならば括目してとくと見るがいい―――この大魔王の実力を!』
――ぴょん、ぴょん、ぴょん
『はっはっはぁ! 驚いたか、恐怖したか、おしっこチビったか! 本の身でありながらもこのジャンプ、性能、
れ、連続、1分、、ぐらいはぁ!!』
なんというか……不可思議と言うよりも面白い、もしこんな状況じゃなかったら見世物として拍手ぐらいして
いただろう。
本が10センチぐらいの高さまで連続してジャンプして「魔王の実力」とやらを示していた本だけど、不意に動
きを止めるとパタンと地面に倒れてしまう。
『ゼェ、ハァ、ゼェ、ハァ……さ…最近動いてなかったから……運動…不足……』
「どこが魔王だあぁぁぁ〜〜〜〜〜!!」
『あおうっ! ……い、石はやめてくれるって言ったのにぃ〜〜〜!』
「うるさい! あんたのどこが魔王よ。ジャンプするだけで魔王って認められるんだったら三歳児でも大魔王よ
! それにね、魔王って言うのはねこう…大きくって」
『む〜、その条件は今は無理っぽいな』
「――黒くって」
『ワシ黒いぞ』
「……手が四本あって甲羅被ってて不気味な変態でドロドロのゲバゲバでなんていうかこうウニョウニョのベタ
ベタ? みたいなやつを言うのよ!」
『抽象的すぎるのぉ……さっぱり分からん』
「うっ……悪かったわね。説明が下手で」
『とりあえずワシが魔王って事で説明を続けるぞ〜』
………こんな気の抜けた話し方のどこが魔王なんだろ?
『まぁ、ちょ〜っと昔に悪事を働いておったらの、気付いたら封印されとったんよ、ワシって』
「封印? たしか魔王って勇者に倒されたんじゃ……、物語だとそうなってるんだけど」
『そんな事は知らんわい。大方ワシの存在を公にせんようにするための情報操作じゃろうて』
ふ〜ん…それもそうね。もし魔王がいる〜、なんて言ったら誰かがそれを悪用しようとするかもしれないし、
それに……
『? ワシの表紙に何かついてるか?』
「いや…そうじゃないんだけど……」
これが魔王だって未だに信じられないし……
『説明を続けるぞ。――そんなわけで背中に山が五つか六つ乗っかってるような重たい封印の下でワシは力を蓄
えたんじゃ。たまにズンッと封印に力が加わってせっかく溜めた魔力も散ってしもうたんじゃがの』
「ふんふん、それでそれで?」
『それでもワシは諦めなかった。わずかに残る魔力を少しずつ、少しずつ、それこそ百万円貯金のように恨み満
載の力を蓄え……封印がわずかに弱まった隙をついてついに外へと飛び出したんじゃ!』
「お〜〜」
――パチパチパチ
『拍手センキュー! ――とまぁ、そこまでは良かったんじゃがな、長い間封印されておったし、外に出るのに
力を使い果たしたワシは随分と腹が空いておった。それであまり美味そうとは思わなんだが目の前におった人間
に襲いかかったんじゃが失敗しての――』
…………ちょっと待って。
魔王――本人がそう言ってるんだし、そう言う事にしておいて――が口にした言葉にあたしの意識が引っかか
る。
『それでもワシはくじけなかった。途中でなかなかよさそうな娘が現れたんで憑依しようとしたんじゃが、これ
も失敗……弱そうな人間の方に取り付く事になったんじゃ。じゃがそれがまた貧弱な人間でのぉ。一応肉体の方
にはワシの魔力を通してある程度いじれたんじゃが――』
話を聞いているうちに自然と手が震えてだしてしまう。
なるほど、大体の事情はわかった。こいつが不味そうで貧弱で虚弱体質で女顔とまで言った人間って言うのは
――そこまで言って無かったっけ?――、つまり、あたしで……
事情がわかる…いや、説明されていくに連れて手の中に握っているものをさらに強く握り締めて、饒舌に喋っ
ている本に向けて狙いを定めていく。
「あっ……」
『どうにも精神の方にワシの力が届かなくてな。それに手間取っておるといきなり魔力が暴走してこんなところ
まで飛ばされたんじゃ。いや〜、まいったまいった、はっはっはっ♪』
「アレがお前かぁぁぁ〜〜〜〜!!!」
――ゴガッ
腕を力いっぱい振りまわして投じた拳大の石はまっすぐ飛んでいくと、狙いをはずすことなく黒い本の中央へ
と直撃した。
『うごぉぉおおおおっ!! ま、まだワシが話してるじゃないかぁ。なんでこんな事するんじゃあ! ひどいぞ
ひどいぞぉ!!』
「う、うるさぁい! 恐かったんだからね、本当に恐かったんだからね! それに吹き飛ばしたり怪我させたり
…この人でなし、鬼、悪魔! それに憑依? いじった? 人の体に何したって言うのよぉぉぉ〜〜〜!!!」
『ワシは人でも鬼でも悪魔でもなく魔王じゃ! ――確かに恐い思いをさせたし、おとなしくさせるために吹き
飛ばしたりもしたけど、怪我したのは自分の剣で切ったんじゃないか。ワシは見てたぞ』
「あんたが現れたから怪我したんじゃないの。だからあんたが悪いの!」
『うわ、かわいい顔して無茶苦茶理論じゃのう。最近の美少女はわがままなんだから』
「あたしは男よ! いくらあたしが女顔だからって言っていい事と悪い事があるわよ!」
顔のことを言われて一気に感情が逆立っていく。ついでに思い出すのは女顔の事で虐められてた少年時代……
うわ、思い出したくもない!
『何を言うか! ワシの目に狂いは無い。っていうかどうやって身間違えろというんじゃ! その自己主張抜群
のふくよかでボインボインムチムチプリプリの巨乳! 男物の服では腰回りが余るほどにくびれたウエスト!
同じく男物のズボンを張り詰めさせる程に丸く膨らんだ豊満なヒップ! ああっ…ワシが触手ウネウネのローパ
ーじゃったら今すぐ襲いかかって穴という穴に肉棒ウネウネを捻じ込んで! まだ男を知らぬ初物おマ○コの中
で触手をくねらせ泣き叫ばせて、その顔に胸の谷間から這い上がらせたチ○チンでザーメンドバッと、ドバァァ
アアアアッとぉ!! あうう、心のチ○チンが疼くぅぅぅ!』
「へ…変態! 男相手になんて言う妄想してるのよ、この変態魔王!」
黒い本の興奮し、熱のこもった語り口に身の危険を感じ、あたしはずりずりと後ろへ後退さって距離を置く。
『変態…魔王………このワシが…世界を破壊し尽くした最強最悪無敵の大魔王のワシが変態者と言うのか!?』
「そうじゃないの! お、男にそんな…触手ってなによ触手って。そんな事考えるようなやつのどこが正常だっ
て言うのよ!」
『ええい、ならばお主はなんなんじゃ! 最初は男じゃったくせにワシが魔力を流した途端に女になりおって。
ならば今すぐその胸に飛び込んで己が女の身だと言う事をイヤと言うほどわからせるぐらいにパフパフしてもら
うぞよ〜〜♪』
まった、なんだか最後の方は怒ってるって言うより喜んでるって感じが……って、またジャンプしてきたぁ!
!
自身の表紙の固さ故に反動をつけづらくピョンピョンと小さく細かく飛んでくる本に対して、もうイヤな予感
が決定的になったあたしは相手の目標となっている胸を両手でかばって立ちあがる。
と――
「あっ……」
胸が……柔らかい?
腕を組んだときに右腕は下、右手は心臓をかばうみたいに左の胸に当てられた。その右手全体に弾力のあるや
わらかな膨らみが押し当てられる。
最初は何かわからなかった。鎧を着ると中に熱が篭るのでシャツの下には何もつけていない。いや、入れてい
ないといったほうが正しいだろう。
けれどあたしの指は弾力を帯びた丸いモノをしっかりと鷲づかみ……その指の動く感触があたしの左胸から直
接伝わってきていた。
「う…うそ……こ…これってなにがどうなって…んっ……!」
どこまでも指が埋もれてしまいそうなやわらかさを確かめるように、あたしの右手は何度も膨らみを撫でまわ
し、こね回す。
「あっ…やだ……そんな……」
さっきまで平らだったはずのあたしの胸は見下ろせば足元が隠れてしまうほどに膨らんでいた。その形と存在
を確かめるべく、わずかに力を抜いた右手の指を自分の左胸の周囲を描くように滑らせる。
わきの下から下側へと弧を描いて滑り込み、同様に膨らんだ右の胸とで服の上に形作るVの字の谷間を這い上
がり、怯えるように折れ曲がる指をそのまま盛り上がりの先端……段々と速く大きくなっていく心臓の鼓動に合
わせてフルフルと震えている乳房の先っぽの部分へと――
「っ―――!!」
………いまの感覚…なに? ――全身が…びくって跳ね上がって……
ふれた場所が自分の乳首だと言う事はわかった。だけど自分の体だ。お風呂で体を洗うときにだって触る事は
あったのに、さっきの雷が走ったような感じを体験した事がない。
「こ……これ……まさか本当に……」
女性の胸。
今しがた確かめた。紛れもない。他の人のを触った事とか無いけど、あたしの胸についているモノは女性特有
の大きな胸の膨らみ……乳房だった。
じゃあ…あたしの股間には……
自分の体が女性のものになっていると自覚した直後、自分の体とは言え初めて触る女性のやわらかさに興奮し
ていた頭から音を立てて血の気が引いていく。
「あっ……」
おチ○チンがなくなったのではと言うショックとあまり馴染みの無い連続した感情の激しい起伏で貧血を起こ
したあたしは草の上に力なく座り込んでしまう。
座り方もあぐらではなく女の子座り……ズボンを内側から押し広げている太股に軽い圧迫感を覚えながらも股
間を隠すように膝を寄せ、足首を外に向ける座り方は股間におチ○チンがついていては脚が閉じきれない。それ
が今はどうだ。太股はぴっちり閉じ合わさり、いかにも女の子らしく座ってしまっている。
股間に何も感じない。
有るべきものを失った場所にはぽっかりと空白だけが広がっているように思える。
男らしくないと何度も明日香に言われてきた。それに自分でもそんなに男らしくないと自覚していた。
けれど、それでも大事な男の部位が失われたショックはあたしを呆然とさせ何も考えられなくなってしまう。
「そんな…それじゃ本当にあたしの体は……」
『くっくっくっ…いい落胆振りじゃな。どれ、ここは一つしっかり触って確かめてみんか?』
「触…って……」
落胆し、真っ白になった意識に誰かの声がゆっくりと染み入ってくる。
この…声は……
『そう……自分の体が本当に女になったか、その目で見て確かめるのじゃ……』
「……………」
『触っただけでは解かるまい…まずは全ての衣服を脱ぎ去ってしまえ……そして生まれたままの姿になり…』
「……裸に…なって……」
『それから指でまさぐるんじゃ……お主の新しい性器を、ヴァギナを、おマ○コを、処女マンをぉぉぉ!!!』
「うっ――うるさぁぁぁぁい!」
耳から脳へと直接流れ込んできて、そのままの行動をあたしに取らせようとする誘惑の声を自ら叫ぶ事で強引
に振り払うと、地面に落ちている小石を全力で目の前に移動していた黒い本へとぶつけまくった。
『あうっ、おうっ、あぐっ、あたっ、おうっっ! と、投石は禁止〜〜!!』
「うるさいうるさいうるさいっ! 人がショックで落ち込んでるって言うのに変な事を拭きこまないでよっ!!
この大バカ野郎〜〜!!」
『ごめんなさい、洗脳しようとしてすみませんでした、もうしないから許してくり〜〜〜!!』
「許すかバカ! 変態! 変態魔王の大バカ〜〜〜!! あんたのせいでこんな体になっちゃったって言うのに、
この責任どうしてくれるのよ〜〜〜!!」
『そ、それは二人一緒にあがっ世界げふっ征服とかぐはぁいかがでへぶぅ!!』
「元に戻してよ、バカ、バカ、バカバカバカバカバカ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
『ごめんなさい……ごめんなさい……ワシが悪いんです……だから石はいや…あう、角が…角がぁ……』
やり過ぎたかな……まぁ…本だから死んではいないようだけど。
とりあえず石や枝を拾っては投げつける事を十分以上繰り返し、諸悪の根源を懲らしめた事でようやく気分の
落ち着いたあたしの前には魔王を名乗る黒い本が小石に囲まれズタボロになって横たわっていた。
その姿には自称魔王の貫禄とかそう言ったものは一切ない。このまま放っておけば鳥か何かに啄ばまれてもっ
とぼろぼろになるだろう。いや、その前に湿気を吸いすぎて腐って土に帰るのが早いかもしれない。
「………ちょっと…かわいそうかな。――あ〜あ、しかたないか」
あたしが身につけている装備は服だけだし、一人でこんな森を歩いていくのもちょっぴり恐いし……
『た…助けてくださって…ありがとう…ございます……ちゃんと男の体に戻してや…あげ…るから……だから…
助けて…許してくだせぇ…お代官…様……』
「――その約束、忘れないでよね」
ああ、あたしってなんでこうお人好しなのかな……
別にあたしを女にしてくれたこの本――自称魔王のパンデモニウム――なんか置いていってもいいんだけど、
あたしがぼろぼろにしちゃった負い目もある。
「はぁ……言っておくけど……あたしの名前はたくや。お主とかオダイカンなんていう呼び方はやめてよね、ま
ったく……」
『わ……わかり…やした……げふっ……』
ため息を一つ。とりあえずそれで気持ちを切り替えたあたしは、気を失ったように言葉を発さなくなった魔道
書を拾い上げて胸に抱えると、とにかくこの薄暗い森を出るために足を進め始めた。
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