第2話
「千里ぉ!! 来てくれたのね!!」
「んなっ!? か、片桐先輩、いきなりなんなんですか!?」
相原先輩が化学室に向かっているのはすぐに分かった。けれど、教室に入るなりいきなり宿敵・ロングヘアー
がちょっと羨ましい片桐明日香が抱きついてきたのだ! これを困惑せずして、私にいったいどうしろと(少し
困惑)!?
「もう千里だけが頼りなの、お願い、力を貸して!」
「力を貸せですって!? お断りです。どうして私があなたに力を貸さなければいけないんですか。いいですか、
相原先輩が女になったときにあなたが言った言葉を覚えていますか? 私の研究が失敗だらけ? 役に立たない
? 何があったかは知りませんが、あれだけ人を罵倒しておいて、いまさら力を貸せというのは筋違いもはなは
だしいでしょう」
「そんなぁ…千里ぉ〜〜〜」
「なれなれしく人の名前を呼ばないで下さい。申し訳ありませんが、私はこれで失礼します」
気丈なこの人には珍しく、両目に涙を溜めた片桐先輩を振りほどいて振り向くが、その先には道を塞ぐように
相原先輩が立つ。
「……どいてもらえませんか? 先輩が自分の恋人を助けてあげたい気持ちは分からないでもないですが、私に
は関係のない話です」
その行為が無性に腹立たしい。よく分からないけど、先輩がこの女の肩を持つ事になんとなく怒りを覚えてし
まい、無意識に語気が荒くなる。
「……この前の事は謝るわよ。だから…お願い、力を貸して」
その私の態度をこの意思軟弱な先輩が不快に思ったとしてもどうと言う事もない。けれど、神妙な面持ちをし
た相原先輩は重たそうに唇を開くと、私に対して謝罪の言葉を語る。
「なんで先輩が謝るんですか。謝るなら後ろの人じゃないんですか?」
「そ…それはその……いろいろあって……」
ボソボソと呟く声に細めた目で後ろに視線を投げ掛けると、あの片桐明日香に似つかわしくないほどに妙にオ
ドオドしていて、まるで一昨日までの女だった相原先輩を感じさせる。
ふむ……なんだかおかしいですね……この二人になにかあったんでしょうか?
いつになく積極的な相原先輩に女性らしい弱々しさを感じさせる片桐先輩。まるでいつもの二人の性格が入れ
替わったような感覚に少し戸惑いを覚えるが……
「だから私が謝ってるでしょう!! なんで拓也に謝らせないといけないのよ!!」
「ちょ…ちょっと明日香、落ちついて、ここで千里の機嫌を損ねたら――」
「…………はい?」
自分でもかなりぶっきらぼうな態度をとっている事は自覚していた。湧きあがる不快感を隠そうともせず、こ
の二人に相対していて、強気な片桐先輩が怒らないはずはない。その時こそ完璧に論破し、恩着せがましく協力
してあげて、相原先輩や工藤先輩の様に私のいいなりにさせようとほんの少しだけ思っていなくもなかったんで
すが――一番最初に怒り出したのは相原先輩だった。
で、ですが、どうして相原先輩が? あれ?
「損ねたらなんだって言うのよ! 確かに拓也を男に戻すのには成功したみたいだけど、だからって今回も上手
くいくとは限らないじゃないの。こんなヤツよりも佐藤先輩に頼んだ方が安全だわ!」
「でも千里にだってプライドがあるだろうし、薬を作ってくれた恩も――」
「恩があるから危険な方を選ぶって言うの!? せっかく男に戻れたばっかりなのに、どうしてそうあんたは―
―」
「千里だったら大丈夫。今回だってきっと何とかしてくれるって。これでも部長として千里の頑張りを見続けて
きたわけだし――」
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
間に立っていた私を横に押しやり、言い争い――というよりも、相原先輩が勢いよくまくし立てる言葉に片桐
先輩がわずかな反論を返す――を始めた二人を押しとどめる。そして二人の顔をじっくりと見比べ――それが間
違いなく先輩たちの顔に間違いない事を確認する。
で…では、さっきの会話はなんなんですか!? 相原先輩が片桐先輩を「拓也」と呼び、片桐先輩が相原先輩を
「明日香」と呼ぶ……私をからかっているようにも見えませんでしたし、この二人は一体――
「……そう言えば明日香、あたしたちの事をちゃんと説明したんでしょうね?」
「してるわけないでしょ。ここについてすぐに呼びに行ったんだから……」
この構図は…はっきり言って不気味です。相原先輩が女性の姿をしているのならともかく、男のままで女言葉
とは……いつになく強気っぽいのも変ですが…互いに自分の名前で相手を呼ぶこの状況に、私の好奇心はゆっく
りと鎌首をもたげ始めていた。
「だからって、ここに来る途中で説明するとか……」
「こんな事をどうやって説明しろって言うのよ。あれを見てよ。まったく状況を理解できてないわよ、きっと」
……いや、考えられる事はあります。けれどそれはあまりにもばかばかしくて非現実的なもので、なおかつか
なりお約束……
しかしながら、目の前の二人に対して今さきほど自分で否定した仮説を当てはめてみたら、それがあまりにも
当てはまりすぎている。それは簡単に言えばたった一言で言い表せるけれど、おそらく誰も信じない事でしょう。
ですが――
「なんだかぁ、相原先輩と片桐先輩が入れ替わっちゃったみたい♪」
そう言ってしまったのは、言い争いに参加できずに私たちの後ろで事の成り行きを見守っていた永田さんでし
た。なにも考えずに口にした一言なんでしょうけれど……この場合はまさに正鵠を得る、という感じです。しか
し国語は苦手なはずなのに、どうしてこのようなことわざを知っているか、自分でも不思議です……
「あはは……実はそうなんだよね……」
そう言ったのは、相原先輩がよく見せる、少し困ったような笑みを顔に浮かべた片桐先輩。
「当事者の私も未だに信じられないんだけどね……」
そう言ったのは、腰の手を当てて不機嫌そうに眉を吊り上げ、男の声に女の喋り方が不釣合いな事に気づいて
いない相原先輩。
「じゃ…じゃあ、お二人は……」
二人を指差そうとするけど、震えてしまってどちらを指しているのかいまいちはっきりしない。けれど私の視
線の先では、いつもの二人ならあんまり浮かべないような表情を私に向け、同時に口を開く。
「「実はあたし(私)たち、体が入れ替わっちゃったの」」
「大発見です!」
呆然としている千里と、なぜか付いてきていた舞子ちゃんを席に座らせ、事のあらまし――あたしと明日香が
頭をぶつけてしまって意識が入れ替わってしまったこと――を説明し終わるとすぐに、千里は腰掛けさせていた
椅子から蹴り飛ばすように立ちあがって、感極まったように大声を上げた。
「まさかこのようなあまりにも非現実的な現象が私の目の前で再び起こるなんて……これこそ神の私に対する挑
戦でしょう! ふっふっふ…いいでしょう、やってあげますとも! 天才科学者河原千里の辞書に、不可能と言
う文字はないのです!」
「あの…千里、できれば穏便にね……」
「任せてください! 先輩と片桐先輩は大船に乗ったつもりでいてください!」
まぁ、言うだけ無駄なんだろうけど……ものすっごく不安……
誰が見ても、今の千里は普通の状態とは完全に違っている。あたしを男に戻す事ができたって言う自信を得た
ところに、こんな面白そう――と思われてしまうような事態が起こったのだ。説明したら張りきるだろうとは思
ってたけど……ここまで行っちゃうとねぇ……
「ねぇ拓也、本当に任せて大丈夫なの? 私、心配になってきたんだけど……」
「うん…大丈夫だとは思うんだけど……でも、自分の顔をこうやって見る事になるなんてねぇ……」
袖をクイクイッと引っ張られる感触に顔をそちらへ向けると、耳打ちするために近づいてきていたのは……紛
れもなくあたしの顔。自分の部屋で何度も鏡に写していただけに、今もそこに鏡があるのかと思って手を伸ばし
たら、指先に柔らかいほっぺたの感触が触れる。
「……なんでこんな事になっちゃったんだろ………」
「それは私だって同じよ。せっかく拓也が男に戻ってくれたのに……はぁ……」
「あ、そっかぁ、やっとぁ〜〜分かりました♪」
あたしと明日香が二人向き合って溜息をついていると、その様子をじ〜っと興味深げに見つめていた舞子ちゃ
んが両手を打ち合わせ、ナニが損案に嬉しいのかと思ってしまうほど明るい声で話し掛けてきた。
「えっとですね、おねーさまが片桐先輩でぇ、片桐先輩がおねーさまだからぁ…これからは明日香おねーさまっ
て呼べばいいんですねぇ♪」
「あ〜…それもなんだか違うと思う……確かにあたしは明日香の体の中なんだけど……」
「いいんですぅ♪ 舞子はぁ、これからも先輩のこと大好きなんですからぁ♪」
ピシッ
はうっ…この気配は……
舞子ちゃんが頬を赤らめ、見ているこっちが恥ずかしくなってしまいそうなほど体をくねらせ始めるのと同時
に、あたしの横手から背筋に冷や汗が滝のように流れ始めるほどの殺気が漂ってきた。
確かめるまでもない。この気配の主は…当然、明日香だった……
「拓也……これはどう言う事かしら?」
「そ…それは…その…………男の体に女言葉はやっぱり似合わないかと……」
「はっきり説明しなさい!」
「はいぃぃぃ!!」
いつもと姿形は入れ替わり、いつも怒られるほうだったあたしの体で迫ってきているのに、その口調、迫力に
は決して逆らう事はできなかった。指をゴキゴキ鳴らしながら近づいてくる姿に……あたしは死の予感を感じて
いた……
けれど運命はあたしを見捨ててはいなかった。
「喧嘩はダメですよぉ。ぷんぷん!」
そう言いながらあたしと明日香の間に割って入ってきたのは、柔らかそうなほっぺたを膨らませた舞子ちゃん
だった。ちなみに、千里は黒板にチョークで難しそうな公式や化学式を羅列している……あっちは放っておいて
もいいか。
さてさて、それであたしをかばってくれた舞子ちゃんと、その行動にさらに怒りを増幅させた明日香(inあた
しの体)の対峙はというと……
「そこをどいてくれない? これは私と拓也の問題なんだけど……」
「でも喧嘩はいけない事なんですぅ。舞子がここをどいたらおねーさまが怒られるから、舞子はどかないんです
ぅ!」
男の体になってしまったせいか、いつにも増して明日香の顔に迫力がある。あたしだとあそこまで怖い顔がで
きないのに、人格が変わるとこうも人間って変わるものなのね……
それでも舞子ちゃんは明日香に一歩も引けを取ってはいない。というよりも、明日香の怖さをあんまり分かっ
てないんじゃないだろうか……ふと、そんな考えが頭をよぎる。
「へぇ…おねーさま…ねぇ……」
「そうですぅ♪ 相原先輩は舞子のおねーさまなんですぅ♪ だからぁ、こ〜んな事もぉ……」
すぅ…っと細められた明日香の目――あたしの顔なんだけどね…――に見つめられ、過去の様々な過激苛烈な
記憶を思い出してしまって体を強張らせたあたし…そんなあたしの目の前で舞子ちゃんは急に振り向くと、蛇に
睨まれた蛙状態であたしの抵抗が遅れた隙をつき、その可愛らしい顔を近づけてきて唇同士を触れ合わせてきた
!
「んんん〜〜〜!?んんっ!んっ!?っんん〜〜〜〜〜〜!!?」
温かい感触が触れると同時にぬるっとした舌先が唇の間を割り開いて口の中に入ってくる。ご丁寧に首にもし
っかりと腕を巻きつけられ、口の粘膜を丁寧に舐めまわす舞子ちゃんの口付けから逃れる事ができなかった。
それは「おねーさま、舞子はこんなに愛してますぅ♪」っていうよりも「ほらほら、見てください。舞子とおね
ーさまはこんなに仲良しなんですよ♪」と言うのを明日香に見せるためにやっちゃった事なんだろうけど、これ
は完全に逆効果だった。
腰に届くほどの長い髪を右に左にと揺らすぐらいに抵抗はするけれど、舞子ちゃん相手に乱暴に振りほどく事
も出来ず、為すがままのされるがままに唇をピチャピチャと唾液をかき混ぜるエッチな音を立てちゃうほど吸わ
れている――のを明日香が見ていて、平然としていられるはずがない。唇を奪われる甘い感触に思わず身を委ね
そうになっちゃいながらもチラッと視線を向けると、あたしの姿をした明日香はこちらを凝視しながらも顔は赤
くなったり青くなったり、ひきつけを起こしたかのように全身を震わせている。あたしを殴るつもりだったはず
の拳は握り締めすぎて真っ白になっていた。
や…ヤバい、これはヤバすぎる……
今までこんな明日香の姿――今はあたしの姿での怒り状態なんだけど――は幼なじみのあたしでも見た事がな
い。完全に怒りが頂点を突き抜け、頭の線が二本か三本ぐらいは完全に吹っ飛んでいるような明日香は、それで
もあたしを見つめたまま視線を逸らさず、そして――
「うっ……」
えっ!? もしかして…泣いた?
舞子ちゃんの髪が邪魔でよく見えないけど、明日香(何度も言うけど、あたしの体…)の目かから涙が零れ落ち
たように見えた。
「…………ばかっ」
ええっ!? ちょ、待ってよ、明日香、明日香ってば!!
あたしの手が明日香に向かって伸ばされる……けれど、明日香はそれを拒絶するかのように、短く一言つぶや
いて身を翻し、あたしに怒りをぶつける事無く化学室から出ていってしまった。
「んんん……ぷはぁ。どうですか、片桐先輩。こんな風に先輩もおねーさまと仲良く…あれ? 先輩がいなくな
っちゃってますぅ?」
舞子ちゃんが優に三分ぐらい経ってからあたしの唇を開放してくれた時には、男の姿をした明日香の姿は完全
にあたしからは見えなくなっていた。
けれど、あたしはすぐに追い掛けられずにいた。これが松永先生自己身なのか、想像以上に上手かった舞子ち
ゃんのキステクに骨抜きにされかけ、疼き始めた腰が重かった事もあるけれど、それ以上に明日香の流した涙が
あたしの心に大きな衝撃を与えていた。
「明日香……」
謝ろうにも言い訳しようにも相手はいない。
呆然としたままのあたしは明日香がどんな気持ちだったかを想像することさえできず、そのまま椅子からずり
落ちて明日香の体を床の上に座り込ませてしまった………
第3話へ