X.真琴


「ま…真琴…さん?」 「タク坊…すまなかったな。少し遅くなっちまった。だけど後の事はあたしに任せて安心しな」  タク坊たちを梅さんからかばうように立ったあたしの後ろから、心配そうに……ていうか、あたしがここにい ることが信じられないと言った感じの声が聞こえてくる。  ま、ヒーロー(注:真琴さんは女です)の登場のタイミングにしちゃあ、ちょっと出来すぎな気がしないでもな いけど……  あたしは後ろを振り返ってタク坊たちに優しい言葉を掛ける事もせず、窓際へと移動した梅さんから視線を外 さなかった。まぁ……下半身はなるべく見ないように…ほら、あたしもやっぱり乙女だし(注:繰り返して言い ますが真琴さんは女です)。 「梅さん…いや、杉田梅吉。あんたが後ろの男とグルだってのは、とっくにばれてんだよ。そう言うわけだから 大人しくして、神妙にお縄を頂戴しな」 「……何の事じゃ?」 「へぇ…チ○ポさらしたこの状況でしらばっくれるとは、いい度胸じゃねえか。こりゃどう見たって、おもいっ きり婦女暴行の現行犯じゃねえか」  自分の悪事の現場を押さえられたと言うのに、いつも通りのほがらか口調で話す梅さん…いや、梅吉の態度に、 あたしのこめかみが引きつるのを感じる。 「何を言う。それはそいつらがそうした方が喜ぶからそうしたまで。廊下にまで聞こえんかったか? こやつ等 の喘ぎ声が。男に抱かれて喜んでおったのよ。まあ、未通娘のおまえに言っても分からんか」 「お…未通(おぼこ)……だと……!!」  梅さんは下半身丸出しでありながら、て言うか勃起させながら、いつもと変わらない飄々とした表情。自分が 悪い、と言うところを全然見せない。  だが、それよりもあたしがネンネでがさつで胸無しの男女といったのは許せん(注:そこまで言ってません)! ! それに言うに事欠いてタク坊たちが自分から抱かれてただって…!!  朝からあたしたちがタク坊を探していたのは梅さんだって知っていたはずなのに、ここにいる事を教えなかっ た……その事だけで十分共犯だと言っているようなもんだけど、あたしは今にもブチ切れそうに血管がヒクつく のを感じながら、なるべく冷静に冷静にと念じつつ口を開く。 「そ…そうかいそうかい、そこまでシラ切るなら教えてやるよ」 「ほう…何を教えてくれるというのじゃ?」 「あんたが悪人だって言う事を…さ」  あたし初かにすべり止めにテーピングを巻いた木刀を肩から下ろし、片足を引いてタク坊の側から離れて畳の 上に転がっている眼鏡男の顔を指し示す。 「後ろの奴、夏目とか言ったな。こいつは会社の金を横領して指名手配されてる、そうだな?」 「……はて…何の事じゃ?」 「おいおい、とぼけんなよ。一ヶ月と半月前、しっかりと使命手配されてるしニュースにまでなってるんだぜ。 タカ坊に町の駐在のとこに行って顔を確認してもらったし、新聞だって…ほれ」  木刀を持っていない方の手で懐に入れておいた新聞を取り出す。手首を使って広げると、小さな記事だが「夏 目」と言う名前がしっかりと書きこんである。 「今ごろ気付いたか。まぁ、気付いただけでも誉めてやるか」 「おろ? もうちょっと動揺するかと思ったんだけどな……ま、そうだな。うちの旅館じゃ新聞を隅から隅まで 読んでるのはあんただけだったからな。あたしやタカ坊はテレビ欄だけだし、あゆみは仕事ばっかしてるから新 聞なんて読みもしねぇ。ま、この記事見つけたのはあゆみのヤツだけどな」 「……何故今ごろ気付いた?」 「杉田梅吉、あんただよ、あんたがあたしの気付かせたんだ」 「なに?」  初めて梅さん顔の表情に変化が出る。あたしが部屋の入ってきた時から表情を崩さず飄々としていたがあたし の一言で眉がピクリと動く。  その表情の変化に気を良くしたあたしは、込み上げる笑みの衝動を押さえながら話しを続ける。 「あんた、一昨日タク坊が濡れて帰って来た時、「早く制服をとってこい」って言ったな。何で知ってたんだ?  タク坊の制服があの時着ているので最後だったって」 「…………」 「タク坊は一日目に一着盗まれ、二日目に一着を暴漢に破られ、三日目のあの時には三着目は洗濯中。あの時着 てたのはあゆみのお古だ。それじゃあ聞こうか、何であんたはあの時着てたのがタク坊の最後の制服だって知っ てたんだ? どうしてあゆみが制服を仕立て屋に頼んでた事を知ってたんだ?」 「それは…あゆみから聞いて……」 「言ってないそうだぜ」 「あ…あ〜あ〜、あれは坊ちゃんから聞いたんじゃったかのぉ。なんでもたくやが襲われたといってな」 「確かにタカ坊なら言いそうだけど、残念ながらあいつも制服を盗まれた事を知らないんだ。知ってるのは聞き 出したあたしとその場にいたあゆみ、そして服を盗まれた本人のタク坊。その事まで知ってるのは…なんでだ?」  あたしが指折り知っている人間を数え上げる。 「……二人が嘘をついてるかもしれんぞ? あゆみがワシに教えたのに、それを忘れておるだけかも知れぬしの」 「あんだとぉ……」  証拠を突き付けられたのに無理のあるいい訳をする梅吉の態度に、今度はあたしの眉が跳ねあがる。  双方とも口以外にはそれぐらいしか動きが無い。静かな部屋に、あたしの声がやけに大きく響き渡る。 「確かにその可能性も捨てきれない。なら次はどうだ? 二日目、タク坊が何者かに布団部屋で襲われた時、あ そこに行けって言ったのは、梅吉、あんただよな。あの直後に布団部屋を調べたんだけど、布団は壁際から中央 へ向かって崩れていた。つまり犯人は布団の山の中で隠れていて、タク坊が入ってくるのを待ってたんだ。つま り、これは行きずりではなく計画的な犯行で最初からあそこに隠れてたって事になる」 「それがどうした? だから儂がたくやを襲った犯人だとでも言うのか。じゃがあの時ワシは――」 「知ってるよ。あの時あんたは旅館の掃除をしていた、それはあたしだって見てるからな。襲ったのはあのスケ ベ三人組の内の一人だろうよ。あんたは計画し、下準備をした。三日目もタク坊が出かけなきゃ襲うつもりだっ たんだろ? あん時のあんた、かなり食い下がってたからな」 「それは推測の域にすぎん」 「だったら三つ目、後ろの男の馬鹿な下っ端が洗いざらい吐いちまったよ」 「な!…あの馬鹿ども!こんな時でも足を引っ張りおって」  いいかげん梅さんの態度にイラつきが募ってきたあたしがアクセントをつけずにそう言うと、横手からその馬 鹿の親玉の声が聞こえてくるが、今はそんな事どうでもいい。 「あゆみが廊下で苦しそうにお願いしただけでヒョイヒョイ付いて来たぜ。確かにあいつらは馬鹿だけど、あん たも馬鹿馬鹿言う前にもうちょっと手下の教育しな」 「くっ……」  あたしに目も向けてもらえずに馬鹿にされたのがよほど悔しいのか、歯軋りの音が聞こえてくる。  けけけ、悔しがれ悔しがれ。 「そして最後に四つ目……」  あたしは木刀の切っ先で梅さんの顔を指し示す。 「今の自分の顔を触ってみな。それが無実の人間って顔かよ」 「……………」  口でどう言いつくろっても、今の梅吉の顔には笑みはなく、細い目をさらに細め、全身に殺気を張り巡らして いる。殺意と憎悪で梅干のように歪んだその顔は普通の人にできる顔じゃない(皺じゃなくて)。 「…………ク………ククク……ククククク………」  あたしに言われたように顔を触るでもなく、顔が少し嗅げる程度にうつむいていた梅吉が、突然、笑い始めた。 いかにも私は根暗な悪人です、と言うように喉の奥で小さく笑っている。 「何がおかしい。まだ言い逃れする気か? それとも…自分の悪事がばれて気でも狂ったかい?」 「クククク……いやいや、大した物じゃ。まさかおまえがそこまで調べ上げるとはな。探偵ゴッコもここまでく れば立派なもんじゃ」 「そうかい。そいつはありがとよ」  あたしは片手で真っ直ぐ前に構えていた木刀を肩に担ぎ直すと、腰に手を当てて梅吉の見え見えの褒め言葉を 鼻であしらう。  気に入らないな……なんか逆転の手でも隠し持ってるってのか…… 「だが詰めが甘い」  ゴリッ  あたしの後頭部に鉄の棒のようなものが押し付けられる。 「動くな」  ………なるほど…こう言う事…ね……  後ろから夏目が脅しを掛けてくる。押し付けてられているものは竹輪でも金太郎飴でもない。この冷たい感触 は金属…… 「なんだぁ?」  右足を引いて振り返ると、眼前にあったのは黒光りする拳銃だった。  要は…たいした事も無いと思っていた野郎に拳銃突きつけられて脅されているってわけだ、あたしは。  それでもあたしは慌てず騒がず……というよりも慌てる気さえ起きずに、銃口を正面から至近距離で見つめる。 「動くなと言っているだろうが!」 「夏目! 早く撃て!」  おいおい……拳銃の弾って当たると死ぬんだぞ。さすがにあたしもそれはイヤだなぁ…… 「トカ○フか…安物だな。そんなもんであたしを殺そうってのか? 笑っちゃうね」 「何をしておるか!! 早くそいつを殺せ!!」  語気を荒立ててますます物騒な事を言う梅吉だが、夏目のほうは引き金に指をかけているだけで、引こうとは しなかった。 「今殺すのはまずい。旅館内に人間が多すぎる。それにこいつはもうなにも出来ないんだ。今から口封じ代わり に徹底的に嬲り尽くしてやるさ。死んだ方がマシだと思うぐらいにな」  格闘に持ちこまれて銃を奪われるのを防ぐために右手で銃を構えたまま壁際まで下がる。  やはり大金を持って逃げるだけの根性とそれに見合う場数は踏んでいるらしく、その目は冷静にあたしの動き を見つめ、いつでも撃てるように身構えている。 「ふん、犯れるもんなら犯ってみな。だけど、あたしの身体は高いぜ……それはいいけど、あんた、銃の扱いは 素人だな。セーフティが掛かったままだぜ」 「ふん、そんな子供  ドンッ!  言葉の途中で、いきなり銃から弾が発射された。 「きゃぁあああ!!」 「グァァ!」  タク坊の悲鳴が響く中、夏目が指がいびつに折れ曲がった右手から銃を取り落とす。  ふん…誰がお前の話を最後まで聞くかってんだ!  話の途中であたしが腕を伸ばして振りまわした木刀に右手を下から叩かれて銃が暴発したのだ。銃身がそれた ので弾は当然明々後日。誰にも当たらず、あたしの張るかは囲碁の壁に小さな穴を空けただけだった。ついでに いえば手首も明後日の方を向いている。 「馬鹿が……」  梅吉がうめく様に呟く。 「まだまだ!」  あたしは一撃だけですませる気なんてさらさらなく、右手で振った木刀に左手を添えて速度を制御し、そのま ま右鎖骨に叩きつける!  グシャ  骨が砕けるイヤな音がしても木刀の勢いは止まらない。  振り下ろした木刀を手首を返して振り上げ、右切上で肋骨をごっそりまとめて砕ききる。 「ガ…ゴ……」  夏目が壊れた操り人形のように一撃ごとに身体を躍らせ、口から血の混じった泡を吹くが、背後か壁なので倒 れる事も出来ない。  それでもあたしは情けをかけず、上へと飛んでいこうとする木刀に身体を巻きつけるように右へ半回転、慣性 を円運動へと変換し――  ゴゥン!!  ――遠心力まで加えた一撃をどてっぱらに叩きこむ。 「あっ……ガ………」  あたしが木刀を引いても夏目はしばらくの間、壁に張り付いて引きつっているかのように身体を震わせ、その まま白目をむいてズルズルとずり落ちていった。だらしなく開いた股の間からは臭いションベンを垂れ流し、完 全に気を失いやがった。 「死ぬよりはマシだろ。命があるだけありがたく思いな」  ま、死んだ方がマシかもしれないけどね、これじゃあ……  ヒュンッ  そして再び梅さんに振り向こうとしたその時、視界の隅に飛来する物が! 「ちっ!」  咄嗟に木刀で打ち払うが、それは蛇のようにあたしの持つ木刀に巻きついた。 「っとぉお!?」  そしてあたしの手から木刀をもぎ取るように強く引かれる力に抗うため、刃の部分を左手で持って慌てて引き 返す。 「ちっ…持ってやがったか……動かねぇから…油断してたな……」 「おまえこそ相変わらず鉛入りの木刀か。一撃で骨を砕くとは流石じゃな」  普通の木刀でも骨砕きはできます。良い子と良識ある人は絶対に真似しないように。  なんて言ってる場合でも思ってる場合でもない。木刀に絡みついた細い鎖……それは梅さんの手へとつながっ ていた。  鎖鎌。  このクソジジィがこの武器の達人だって事は分かってはいたけど、まさか持ち歩いているとは思わなかった。  シワだらけでごつごつした指に握られている鎌は以前に見た物よりも数段小さく、暗器の類いのようではある が、木刀の表面に食いこむその威力と鉄の分銅は……あたしのとっては夏目の拳銃よりも恐るべきモノだった。 「しかし、それでは儂に勝てん事は知っておるじゃろう? 以前もこの状態で負けたのを忘れたか?」 「くっ……!」  そのままの状態で互いの武器の引き合いが続く。  ただ引くのではなく、時に強く引き、時に力を抜き、互いのバランスを崩そうと一本の鎖で繋がった静かな戦 い……  しかし、この戦いは相手のほうが圧倒的に有利だった。自分の土俵で達人が負けるわけが無い……あたしも出 来れば鎖を躱しながらの勝負に持ちこみたかったんだけど……夏目を踏み台にして得たこの状況に、梅吉の唇が 不気味に釣りあがる。 「なぁ…頼みがあるんだけどな……」  そんな最中、あたしは両手は木刀を引いたまま、鎖でつながった梅さんに話し掛けた。 「何じゃ、いまさら許してくれとは言わんじゃろうな?」  梅さんも神経を手に集中し、用心しながら返事を返す。 「自首…してくれないか?」  一瞬だけ、鎖に微妙な揺れが走る。 「……何をバカな事を」 「本気で言ってるんだ。こんなの一時の気の迷いだろ。本当の梅さんは……」  梅さんとはあたしがここの板前になってから…長い付き合いだ……怒られたり、叱られたり、怒鳴られたり、 説教されたり、雷落とされたり……それでもいっしょに働いてきた仕事仲間にこれ以上の悪事に荷担して欲しく なかった…… 「……一つ聞こうか。この事を知っておるのは…お前以外に誰がおる?」 「……あたしとタカ坊、そしてあゆみ。客には何も言ってない。今なら……今ならまだ……」  いまならまだ………間に合うんだろうか……一体なにに……  ここまできた以上、警察に捕まらなければならない……でも…でも……  あたしはそれ以上言葉を発さずに、無言で鎖を引く。  携帯用なのだろうか、細い鎖が両端から引かれ合い、今にも切れてしまいそうなほどに張り詰めながらギチギ チと音を立てる…… 「そうか……隆幸には薬とたくやでもあてがえば骨抜きにできるじゃろう」 「な…なにっ!」 「悪いがあゆみも調教するしかないのう…くっくっく……」  静かな……それゆえ不気味な笑い……肩を震わせ、心の底から嬉しそうに笑う老人の姿に、あたしの背中に冷 たい物が流れ落ちる…… 「マジで言ってんのか! タカ坊はあんたにとっちゃ孫同然だろ!? それに…それにあゆみのお腹には子供が いるんだぜ!!」 「全く…好々爺を演じておるうちに隆幸に先に食われてしもうた。処女でなくなったから興味を失っておったが …あの巨乳は一度食うてみたいのう。さぞや良い乳が搾り出せるじゃろうて。腹の子なぞは邪魔なだけじゃなか らの。妊婦好きにでも犯させて堕胎させてやるわ」  そう言って梅吉は唾液で濡れ光る舌で唇を舐めまわす。  演技じゃない……本気だ……このジジィ…本気で言ってやがる…!! 「ザ……ザケんな!!!」  あたしは怒りに任せて木刀を引く。  梅吉は予想していたように、それに合わせて一瞬だけ力を込めて鎖を引き、あたしの力がさらに強く木刀に伝 わったところで右手から鎖を滑らせ余裕を作る。  力の加減を狂わせながら木刀を振り下ろした時に鎖を引けばあたしの手から木刀は離れ、梅吉の勝ち。  そうなるはずだった。  けどあたしは木刀を振り下ろさず、逆手に構えてその切っ先を畳に突き刺した! 「なっ!?」  予想外の事に梅吉が途惑う内に、あたしは柄の根元のテーピングを引き裂き、順手で持ちなおし、右足から一 歩前へ!  柄が折れる。いや、前に傾いた鞘から刃が…真剣が引き抜かれる! 「りゃあ!!」  チィーン!  裂帛の気合と共に振り下ろした刀で鎖を断ち切る!(素人には出来ません、真似しないでください)  梅吉がバランスを崩す。 「もらった!!」  部屋の端にいるとは言っても突撃すれば二歩の距離。  左足を踏み出して身を低くし  右足を踏み出しながら左片手突き!  狙いは水月!  誰が…遠慮なんてするか!!  怒りに任せ、本気で刺し貫くつもりだった。  けど――  今度は梅吉があたしの予想外の行動を取った。  刃が届く一瞬の間に梅吉は手に持っていた鎌を投げつけてきたのだ。 「ヤバっ!」  回転して飛んでくる鎌を咄嗟に刀で弾くが、バランスを崩したあたしはその場に倒れこんで、消せない勢いの ままに畳の上を一回転し、梅吉から視線をはずしてしまう。  急いで身を起こすが、そのあたしの目の前で、梅吉は鎌を投げた勢いのまま、その場で回転すると一挙動で窓 を開けてベランダに出ると、手摺を越え、外へと飛び出した! 「マジ!?」  山野旅館は窓からの景観を確保するため、客間部分は森の上に突き出した造りになっている。学校の一階のよ うに、窓からすぐ運動場ではない。落ちれば数メートル下の森まで真っ逆さま。  しかしあたしの予想を裏切り、梅吉は空中で身を捻ると懐からもう一つ鎖鎌を出して二階の手摺へと投げつけ た。そして、飛び出した勢いを殺さぬまま空中で一回転して、二階へと飛び移った。 「嘘だろ!? なんなんだよ、あの猿ジジィは!? ここまで来て逃げんのか――」  パリーーン!! 「うわっ!?」  梅吉を追ってあたしもベランダに出ようとするが、硬質の砕ける音の直後に上から降ってきたガラスの粉の輝 きに慌てて首を引っ込める。 「くっ…くぅぅ……」  どうする? 完全に出遅れた。  恐らく奴はあたしが真剣を持っているという予想外の出来事から逃げ出したんだ。となると、急がないとこの 状況から逃げ出すために二階の客が人質になっちまう。  下で向かい撃つか、上に追いかけるか……前者は下策、人質取られちゃなにもできねぇ。一番じゃないけど上 に行く。  なら同じように屋根から追うか、階段から行くか。  屋根から逃げるだろうが、鉢合わせしても人質取られちゃどうしようもない。それに屋根をよじ登るのは時間 がかかるし、時間が掛かったらあっちにチャンスを見す見す与えることになる。  なら…とっとと階段で追いかける! 「ま、真琴さん、待って、ちょっと待って!」 「悪い、タク坊、ちょっと待ってろ!!」  瞬時にそこまで判断したあたしは身体の向きを変え、タク坊にそれだけ言って日本刀片手に大急ぎで部屋から 飛び出した。  そう言えばこの上の部屋って…………  ガシャン!  二階の客間に一室にガラスの割れる音が響き渡る。それと同時に、外へと何かしらの薬品の臭いが溢れ出る。  その不可視の臭いの向こう、こちらに背を向け、何かしらの実験を行っている女。その身にまとう色香は薬品 の臭いよりも強くワシの鼻に届いた。 「……何なの一体? 用事なら後にしてくれるかしら。あとちょっとで終わるから」  白衣を着た黒髪の女性は畳に正座し、窓からの来訪者だと言うのに振り向きもせず、試験管内の薬品を別の試 験管の薬品に少しずつ混ぜ合わせる。そしてある時、その薬品の色が赤から緑色へと変わる。 「ふぅ〜、これでようやく完成ね。それでな……」  女が振りかえるより速く、口を開くよりも早く、背後に迫ったワシは喉元に鈍く光る刃を押し当てる。横に引 けばその湾曲した刃は女性の喉を掻き切るじゃろう。 「………番頭さん、これは一体どう言う事かしら? こんなサービスを頼んだ覚えは無いんだけど……」 「すみませんな。こちらも少々急ぎますので。理由は追々説明いたしますので、失礼ですがワシについて来て頂 けませんかのう?」  いつ真琴が追い掛けてくるかと焦る心を抑制しつつ、お客様に接するようにいつも通りやさしく語りかける。  首に刃を押しつけておるから意味は無いかもしれんが…… 「いやだと言ったら?」  こちらの内心とは真逆に平然とつぶやく女。  恐怖で逆に冷静になりおったか? 「それでもついて来て頂きます。力ずくでも」 「しょうがないわね。でもちょっと待ってて。この試験管を……」 「そんな時間はありませんでしてな。さぁ」  丁寧な口調を維持しつつも、ワシは女性の脇に手を差し入れ腕をつかみ、強引に立ちあがらせた。  その拍子に女性の白魚のような指から試験管から滑り落ちて行く。  そして女が声を出す間も無く、試験管は机の上に落ち、そして中の液体もろとも細かく砕け散った。


Y.運命へ