プロローグ


 私、畑中理緒は職場の慰安旅行で某温泉地の観光ホテルを訪れていた。
 都内の駅に集合してそこからチャーターした観光バスに揺られること数時間。某県の温泉地にたどり着いた後は軽く観光を済ませた後早めに宿に入り入浴。温泉を堪能した後は宴会と、正直目新しさの欠片もないが、不況――上向き傾向にあるとはいえ、当社のような中小が恩恵に与れるほどでは決してない――の元これ以上を望むのは酷であろう。何より集団で観光地をあちこち連れ回されるよりのんびりと大浴場で羽を伸ばす方が好みではある。
 お決まりの挨拶から乾杯を経て、上司達へ一通り酌を済まさせた後は自席に戻り気の合う同僚達との酒を楽しむことにする。
「先輩、お疲れ様です」
 一足先に戻っていたのは後輩の一之瀬真由香。
「ちゃんと挨拶してきた?」
「やだなぁ、一通り済ませてきましたよ、ダッシュで」
 とショートカットに小柄ながら引き締まった体躯という外見に相応しい快活さで答える。
「ダッシュって……」
 学生時代はスポーツで鳴らした彼女とは言え、よもや畳敷きの広間を浴衣で駆け回ったわけではあるまいが。
「はい、先輩もどうぞ」
 差し出された酌を自席のコップで受ける。
「真由香、私にもちょうだい」
と横からコップを差し出したのは同期の藤咲彩乃。緩めのウェーブがかかった髪を、湯上りだからか後ろで軽く束ねている。
「お疲れ様」
「理緒もね」
「でも彩乃は他部署の方まで行ってたんでしょ?」
「ええ、仕事で何回か顔を合わた人もいたからね、それで」
「ふーん、いい男でもいた?なんかサービスしてきたみたいだけど?」
私の胸元への視線を襟元を直す手で遮ると、軽く笑ってそんなんじゃないわよと受け流す。
 まぁこういう席では彩乃に人気が集まるのも解らなくはない、落ち着いた物腰に加えてこの胸だ。カップまでは判らないが……
「そういう理緒だって結構人気あるのよ」
「先輩も美人ですからねー」
「そうそう、よく聞かれるわよ、あの眼鏡の子は?って」
 突然話を振り替えされ、私のぼんやりとした思考は中断させられる。
「眼鏡かけてればなんでも良いとか言うんでしょ、そういうのは」
 ビールの泡を覗き込むようにして素っ気なく答える。
 顔も知らないような相手に好意を持たれるってのも――少なくとも私には――あまり楽しいものではない、とここまで悪い方向に行きかけた思考を、俯いたせいで垂れてきたセミロングの髪と一緒に払いのける。
 せっかくの慰安旅行だ、大いに楽しもう。
 私は気を取り直してコップに残ったビールを飲み干した。はい先輩、とにこやかにお代わりを注ごうとする真由香、こうして温泉宿の一夜はふけて行く。

 観光ホテルの宴会場で行われる慰安の宴もたけなわ、旅館の従業員の司会で余興のマジックショーが行われることが告げられる。
「理緒、マジックショーだって」
「ふうん」
 気乗りしない様子でステージを眺めると、ポール・モーリアのオリーブの首飾りが流れる中、先程まで下ろされていた幕が上がり始めるところだった。
「それでは皆様、拍手でお迎えください、稀代のマジシャン!黒崎誠二氏の登場です!!」
 酒も回りそれなりに盛り上がった場には好意的に受け入れられたのか、歓声と拍手で彼は迎え入れられた。
 壇上のマジシャン、クロサキとか言ったか、は丁寧な口上を述べた後マジックを披露し始める。何も持たないはずの手の中からトランプを出し、大仰にシャッフルして見せたかと思えばそれを再び消して見せたり。
「へぇ〜〜」と目を丸くする真由香、正直ありふれた手品だと思うがこうしてグラス片手に眺める分には悪くないのかもしれない、酒に加え移動の疲れも手伝って心地よい気だるさに包まれながらマジックを眺め続けた。

「さて、次なる魔術は会場のお客様に手伝っていただきましょう、どなたか手伝っていただける方は――」
「理緒やってみる?」
「いいわよ私は」
「えぇーなんか面白そうですよー」
 ざっとマジシャンがやや大仰な仕草で広間を眺め回す。一部隣り合った者同士が「お前やるか?」などと声を交わすが、照れ臭いのかそれとも酔いが回ったゆえの億劫さかそれに答えようという者はない。
「仕方ありませんね、それでは僭越ながらこちらから指名をさせていただきます」
 どこからともなくバラの花を取り出すと切れのいい動きで壇上で背を向けたマジシャンはそれを背中越しに放り投げ――
「誰かなー」

 宙を舞い。

「楽しそうね真由香」

 ――私の前に落ちた。


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