stage2「聖天の主」-00


 その部屋には、彼女しかいなかった。
 四方は不必要なほどに広く、天井も不必要なほどに高い。けれど窓はなく、扉もない。
 身体を動かすことには何一つ不自由はないけれど、光も音も、温もりもにぎやかさも何もない。
「……………」
 彼女は閉じ込められていた。
 室内――そう呼ぶには広すぎる空間ではあるが――にいる限りは、彼女の自由は何一つ束縛されはしない。
 けれどこの室内にいる限り、他人と接触する全ての行為が禁じられている。
 ここは牢獄だった。
 彼女が部屋の隅に座り込んでから、どれくらいの時間が経っただろうか。
 閉じ込められた当初は、壁のどこかに外へ繋がる場所はないかと念入りに調べた。
 出入り口がどこにも無いと判ると、壁を手で叩き、爪で削り、穴を開けようとした。
 それらの努力が無駄な努力であると、彼女はなかなか認めようとはしなかったが……その心が折れたとき、広大な牢獄には彼女の絶叫が木霊した。
 光の差し込まない暗闇が、彼女を絶望で押し包む。
 冷たい空気が、彼女の心を凍らせる。
 そして、誰の声も聞こえないことが、彼女を想いを孤独で締め上げる。
 長い、長い時間、彼女は一人でずっと泣き続けた。
 だが、その声は誰に届くこともない。
 だから、誰かが助けに来ることもない。
 声が嗄れ、涙が涸れ果てると、彼女を支え続けていた気力までもが涸れ尽す。そして座り込むと、揃えて抱えた膝に額を押し当て、そのまま二度と立ち上がれなくなった。
 何がいけなかったのだろうか……沈み行きながらも、まだかすかに残る意思が、自分が行きついた結論に理由を求めようとする。
 彼女はただ、人と共に暮らしていただけだった。
 朝は人と共に起き、昼は人と共に語らい、夜は人と共に愛し合う……そんな世界中にありふれた日常を過ごしたことが、彼女へこれほどに罰が与えられるほどの大罪なのであろうか?
「………………」
 きっと、罪なのだろう。彼女の主がそう断じたのなら、その時点で彼女は絶対の罪を犯している。
 でも―――膝を抱える手に力がこもる。
 彼女にはわからない。彼女のしたことが何故罪なのか。誰かと共に日々の生活を営むことを罪と認めてしまえば、この世に生きる人間・亜人の全てが、彼女と同じように大罪に対する大罰を受けねばならない。
 彼女の罪は絶対である。でも、その罪は世界の大半に捌きを与える理(ことわり)となる。
 わからない。何もかもがわからない。
 真理が、正義が。
 以前の彼女にはあり、今の彼女が失ったものが。
 何が正しくて、何が間違っているのかが。
「………………」
 答えの出ない……出せない自分への問いかけは、何も考えていないことと変わりはしない。
 だから彼女は、考える事をやめた。
 例え彼女に罪がなかったことになっても、罪の烙印は消えない。一度与えられた罰は消えない。それはこの部屋に閉じ込められた状況だけではなく、彼女の身体に既に刻み込まれている。
 どうしようもない。百年考え続けたところで、何も変わりはしない。
 顔を上げることさえも意味はない。上げたところで何も変わらないだから、額を膝に押し付けて、彼女は意識を闇へと沈める。
 目蓋を閉じることには意味がある。楽しかった日々の出来事を思い出すことが出来るのだから。
 けれど記憶は磨耗する。この部屋には何もなくて、何もすることは出来ないのに、彼女の記憶は時の流れに合わせて刻々と薄れて消える。
 いつかは愛した人の顔さえも忘れ、また、以前の自分に戻ってしまうのだろうか……



 彼女の主は神。万物の創造主。世界樹の頂点の先にある天上に在り、世界樹の幹を失って生まれた世界を見下ろす者。
 やがて、彼女がいた地は幾度となく名前を変え、彼女と言う存在がいたことを知るものがいなくなっていく。
 そのことを悲しむものはなく、哀れむものもいない。
 けれど確かにそこにはまだ……闇に震える己の身体を抱きしめる“彼女”がいた―――













 Xchanger−F stage2 「聖天の主」













「―――今ではこの話は、伝説と言うよりもおとぎ話になっている。街の住人も、話を知ってはいても誰一人として信じていない。自分たちの近くに天使がいるとは思ってもいないさ」
 穏やかな日差しの下、あたしたちを乗せた馬車が北に向かう街道を進む。
 そもそもは留美先生が一人で旅をするための馬車なので、決して大きくはない。そこにあたしと綾乃ちゃんが二人して乗り込んでは窮屈で仕方がない……はずなのだけれど、外見は以前のままなのに、中の広さは乗合馬車並みに広くなるよう空間を“改造”されていた。
 馬車を引く二頭の馬の手綱を握るのは、黒い甲冑に身を包んだ自動人形・デュラハン。
 御者台に座る彼の隣に並んで腰をかけて背後を振り返ると、娼館建設のついでにと建築ギルドの職人さんに特注で作らせた家具やソファーで彩られたくつろぎ空間を、連絡用の小窓から覗くことが出来る。はっきり言って、馬車の内装というよりスィートルームを思わせる立派な作りだ。
 以前、大商人が長旅の際に居住用として使う馬車に招かれたことがあるけれど、留美先生の馬車と比べると作業場と貴賓室ほどに差がある。大商人形無しだ。……もっとも、大賢者のほうが社会ステータス的には上だけど。
 しかも驚くべきことに、この馬車はこの豪華さで車内に二室あるのだ。
 小窓の向かいにある扉を開ければ、三人で寝てもなお余るキングサイズのベッドが置かれた寝室へと繋がっていた。シャワーどころかトイレや浴室まで完備。
 空間加工と言う超々高等魔法に錬金術による浄水装置などまで惜しみなく導入されたこの馬車――しかし機械装置は全て留美先生が自作したものだけれど――は、お城が二個や三個は簡単に買えるんじゃないかと思えるほどに超越技術の塊と化している。
 ……けれどここまでの設備を整えたのが「だって馬車の外に出て用を足すなんて面倒くさいじゃないか」という理由だとは、綾乃ちゃんですら知らないことだ。もし世間様に知られたら、暴動で魔法ギルドが潰されてしまうだろう。
 ―――それにしても、次はカダの街か。随分と北までやってきたなぁ……
 馬車の旅は快適そのもの。ぼんやりしてても目的地に着くなんて、お馬さんありがとう。街に着いたらニンジン買ってあげよう。
 ただまあ、本来なら男のあたしが留美先生や綾乃ちゃんとずっと一緒の車内にいるのは、さすがに気まずい。あっちはあたしのことを同性として扱ってくれてるようだけど、野営時も一人だけ馬車の外で寝るなどあれこれと自粛している。
 ―――そうじゃないと留美先生、あたしの目の前でも平気で脱いで着替えるし。
 それはそれとして、とある魔王の封印が解けるのに巻き込まれてしまい、あたしの身体が女になってから――と言っても、最初の三ヶ月ほどは空白の時間ではあるが――早いもので一年が経過しようとしていた。
 その間、何もしていなかったわけではない。クラウド大陸の南部域をあちこち旅して男に戻る方法を探し続けてきた―――のだけれど、魔王がらみの女性化の呪いは異様に強力で、これがさっぱり解ける気配がない。
 それどころか、行く先々で何度も大きなトラブルに巻き込まれてしまうのが問題だ。
 ―――綾乃ちゃんともども、命の危機に直面したのも一度や二度どころではないじゃないもんね……
 そんなあたしに待ち受けていたのが、立ち寄った漁村での魔王との再会だった。
 運よく居合わせた留美先生の協力もあり、魔王が漁村の村長と結託して企んでいたマーメイドたちの人身売買を阻止することには成功した。けど下半身を人間化させられたマーメイドたちは、海に戻ることが出来なくなってしまっていた。
 そのマーメイドたちの身体的問題は、あたしから魔力を分け与える――その際の手段に成功を用いざるを得なかった件については未だに自分でも納得の行かないものがあるのだけれど――事で、元の姿に変身する力を身に付けさせ、一応の解決を得た。
 ところが、彼女たちは「人間とモンスターの共存のため」と言う留美先生がぶち上げた名目により、漁村の外れに娼館を立て、そこで高級娼婦になることになったものだから、話はややこしくなった。
 共存が出来るのならマーメイドたちは亜人として、大陸中で保護され、今回のような事件は二度と起こらなくなる。そのためには、マーメイドたちが社会に少しでも早く溶け込めるように娼婦としてのイロハ……つまりエッチなことを色々と教えなくてはならなくなった。―――なぜか、本当は男の子のあたしが。
 ―――ううう……三ヶ月って約束だったのに……結局四ヶ月も……シクシクシク……
 急ピッチで建設された娼館がオープンするまで二ヶ月。その間は時には受け、時には攻めとなって、50人近いマーメイドたちの視線に晒される恥ずかしさに身悶えしながらも、毎日のようにSEXをして、毎晩のように精根尽き果てていた。
 娼館がオープンしてからの二ヶ月も大変だった。
 美女揃いのマーメイドたちだけでなく、行く先々で娼婦ルーミットとして人気を得てしまっていたあたしを目的として訪れる男性客も多かった。そして出来たばかりの娼館では、貴族や富豪といった乗客の誘いを無碍に断ることも出来ず、これまた毎日のように昼夜を問わずSEXの日々……その代わり、慣れていないマーメイドたちには無理をさせなくてすんだのだから、誇ってもいいところだろう。
 そしてそんな四ヶ月の間に、漁村はアーマキヤ村と名を変え、トラブル解決・抑制のために冒険者ギルドの出張所が出来た。すると、村に在住しているただ一人の冒険者として、近隣のトラブルが片っ端からあたしのところへ回されてきて、なぜかそのたびにエッチな目にも遭ってしまって……
 結局、大勢のマーメイドたちの面倒を見てあげられる娼館長が娼館ギルドから正式に派遣され、国家レベルでのマーメイドたち友好的な水棲種族の保護活動が始まるまでの四ヶ月。これは数カ国の協働としては非常に短期間ではあるけれど、濃密なエロスの日々を過ごす羽目になったあたしにとっては、まさに地獄の日々だった。
 ………それに比べれば、暖かな日差しが降り注ぐ馬車での旅がなんと穏やかことか。
 このあたりになると、クラウド大陸中央域は目の前だ。
 火山も多く、毎日のように暑い日が続いていた南部域とは違い、中央域は気候も穏やかで過ごしやすいところと聞いている。
 ―――このまま何事もなく旅が続けば良いのに……ふあぁ〜……
 頬を撫でる心地良い風の感触が、あたしを眠りの世界へ誘おうとする。整備された街道を進む馬車が小さく揺れるリズムもまた絶妙で、代わり映えのしない景色が後ろへと流れていく単調さも御者台でずっと見ていると「何も起こらないから寝ちゃいなよ」とあたしに言っているようにさえ感じられてくる。
「―――たくや、私の話も聞かずに大あくびとは良い度胸だな!?」
 やばっ!?―――と感じた時にはもう遅い。
 ダメージ予測は後頭部。気が張り詰めていれば避けることも出来ただろうけど、半分以上寝ていた頭と身体は、危険の察知から回避にまで一秒…いや二秒以上反応が遅れてしまった
 ―――スッカコ〜〜〜ン
「あいたァ!」
 覗き窓は御者台と車内をつなぐ扉についている。あたしが寝ぼけて話を聞いていなかったことに腹を立てた留美先生はその扉が開け、あたしの頭に衝撃弾をぶっ放したのだ。
「今のが“あいた”ですむのか。ふむふむ、やはり衝撃系のダメージに対してはかなりの耐性があるようだな」
「だからって痛くないわけじゃないんですよ!? しかも留美先生、無詠唱でいきなり不意打つし! もしあたしが頭にダメージ受けてバカになったら留美先生のせいですからね!?」
「では次は熱衝撃波をどの程度軽減できるか試してみようか? どうせたいしたダメージは食らわないだろ、悪くて頭がパーになるだけだし」
「いや、死ぬ、焼け死にますって確実に! 留美先生の熱衝撃波って言ったらブラスターの魔法じゃないですか!? レベルAですよ、あれ!?」
「こんがり焼けたら一皮向けるかもしれないじゃないか。物は試し、不必要なほどにデカい胸とか尻をミディアムレアに焼いてくれる」
「いやァ――――――! あたしのオッパイからは肉汁が滴ったりしませんからぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 こんなにやめてと懇願しているのに、留美先生は魔法の機動タイミングとして指先をパチンと鳴らそうとする。
 ―――冗談じゃない。そんな高威力魔法を至近距離で受けたら……って、うわ、目がマジですし!!?
 あたしの特殊能力、数秒後に訪れるダメージ予測が上半身全部を包み込んでいる。
 もはやどうにもなら無いと察したあたしは、左腕につけた篭手の甲を身を守るために前へ突き出した。
 ―――イメージは渦巻く風、回転、厚みより鋭さを……!
 この慌しかった四ヶ月、毎日のように忙しさに追い立てられながらも、何もしてこなかったわけじゃない。
 左手のみに装備した篭手の中央には、金色の大きなメダルが埋め込んである。元々は魔王の書の分厚い表紙にはめ込まれていたものだ。
 これは携帯型万能魔法陣としての能力を持つ一方で、ごく最近、もう一つとてもありがたい特性があることに気がついた。
 ―――あたしの魔力を注ぎ込んでも、壊れない!!!
 あたしと留美先生との間に割り込ませた左腕に、そしてそこからメダルへと魔力を流し込むと、手の平から放つよりも円形に近い魔力壁が発生する。それは空間を歪め、空間を遮り、盾に近い範囲で絶対防御の魔力の壁を形成する。
 ―――ブラスター(熱衝撃波)の魔法は、熱量を収束して放つから、至近距離での効果範囲はそう広くない。これで十分防げるはず!
 直後、視界を赤く埋め尽くす熱波が正面から叩きつけられる。―――が、あたしは無事だ。熱も衝撃も、魔力壁は見事にシャットダウンし、その威力を空へと弾き上げ、
「ほう、なかなか見事。―――だが」
「へ? あれ? あれれ!!?」
 丸焼きにされるのは防げたものの、その威力全てを受け止めきれなかった。
 あたしの身体は御者台から宙へと弾き飛ばされ、


 ―――つまり、馬車から落っこちた。


「きゃああああああああああああああああああっ!?」
 身体は地面に叩きつけられたけれど、馬車がスピードを出していなかったことが幸いした。
 後ろへと飛ばされた身体は背中から舗装された硬い地面に落下し、魔法攻撃の衝撃を逃がすためにゴロゴロ三回転。
 やっと止まった―――と思った次の瞬間には、長旅に耐える頑丈な車輪が車輪が頭の上を通過した
「――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!!」
 あと三センチずれてたら、今ごろあたしの頭はざくろのように踏み潰されていた。
 幸いにしてあたしの頭が潰れていないが、地面に張り付かされて死ぬギリギリのところを車輪が通り過ぎていく風の冷たさは、正直ギロチン並に寿命が縮む思いがするほどだ。
「―――って、危ないじゃないですか、いくらなんでもやりすぎだァ!!!」
 馬車で上位魔法を叩きつけてくるどころか、それで突き落とされるなんて!……もう怒っていいのか泣きじゃくるべきなのか判らず、しばし呆然と固まった後に地面の上を転がった身体を跳ね起こす。
 通り過ぎた馬車はゆっくりと止また。そして、あたしのいなくなった御者台から留美先生が身体を伸ばしてこちらに顔をのぞかせる。
「すまんな。まさか落ちるとは思わなかった。だが立派なクッションがあるだろう、自前のが。ビックリしたけど心配はしなかったぞ、私は」
「そこは嘘でもいいから心配したって言うべきところでしょ!? て言うかクッションって何? 胸!? そんなもので落下事故が防げるわけないでしょうが!!!」
「はっはっは、信頼していると言って欲しいな。たくやがこの程度で死ぬわけ無いだろ」
 ………じ、自分が不老不死だからって……!
 とは言え、原因はあたしの居眠りだし、もしあたしが死んでしまっていたとしても留美先生なら数秒だけ時間を戻って助けに入るだろう。
 ―――時間を自由に出来るから、こうやって平然と人を攻撃できる人になっちゃったのかな……回りにしたら突っ込み厳しすぎていい迷惑だってのに。
 しかしまあ、この程度で腰が抜けなくなってきたあたり、あたしにも度胸が付いて来たと言えなくもない。以前ならオシッコぐらいチビりそうなものなんだけど、今ではすぐさま立ち上がって砂埃を払うほどには平静を持てている。
「たくや、替えのパンツとタオルは?」
「いーりーまーせーんー! 持ってきたら、もっと怒りますからね!?」
「え……そうなんですか? すみません、私、気が利かなくって……」
「―――へ?」
 チビってなんかいないんだから! 本当に本当なんだからァ!……と否定すればするほど漏らしたように思われる気がするのは何故だろうか?
 それはさておき、強めに拒否したタイミングが悪かった。ちょうどそのとき、馬車側面の扉が開き、綾乃ちゃんがタオルとパンツを持って出てきたのだ。
 ―――てか、何で綾乃ちゃんまでパンツ持ってくるの!?
 あたしって、そんなにお漏らしするように思われてるんだろうか……でも綾乃ちゃんに対して怒鳴り散らすわけにはいかない。頭の中で1・2・3……と数字を数えて深呼吸をすると、勤めてにこやかに笑顔を浮かべ、綾乃ちゃんの手からタオルだけ受け取った。
「あの……先輩、お怪我は?」
「大丈夫。だてに鎧つけてるわけじゃないんだし、受身も取ったしね」
「ほぉら見ろ。これも私のつけてやった修行の賜物だ。たくや、敬っても構わなんのだぞ?」
 何しろ受身が取れなきゃ死ぬような依頼も押し付けられてきたのだ。死に物狂いで覚えました。
「よかった……」
 あたしが落ちたと聞いて心配してくれたのだろう――留美先生のような反応がおかしいのは横に置いといて――水で絞ってあるタオルであたしが顔を拭うのを見て、綾乃ちゃんは安堵に顔をほころばせる。
 が、
「あの……それじゃ私、これで……」
 恥ずかしそうに俯き、手の中に残ったあたしのパンツ(洗濯済み)を握り締めると、すぐに馬車の中へと踵を返し、あたしのそれ以上の干渉を拒むように扉をパタンと閉じてしまう。
「綾乃ちゃん……」
「あの様子ではまだまだのようだな」
「そうですね……早く元気になってくれると良いんだけど……」
 馬車の内部は、留美先生が綾乃ちゃんに魔法学を教えられるよう、書物をぎっしり詰め込んだ本棚が設置されており、壁の一部はひっくり返すと黒板になる設備なども整っている。
 けれどアーマキヤの村を出てからと言うもの、それらが使われたことは一度もない。綾乃ちゃんはこれまでずっと「調子が悪いから」と言う理由で寝室に引き篭もっているからだ。
「特に身体の調子が悪いわけじゃない。心が定まれば、おのずと体調もよくなるよ」
「でも先生……」
「たくや、お前まで不安な顔をするな。お前が笑顔でいることが綾乃の支えになると、そう考えておけ」
「わかりました……」
 おそらく留美先生は綾乃ちゃんの不調の原因に気付いている……けど、それをあたしに話してはくれない。その辺りは妙にきっちりしている人なので、旅の仲間と言っても他人であるあたしにペラペラ秘密を喋りはしない。
 結局のところ、自分の悩みは自分で解決するしかないわけなのだけれど……それでも、安堵の笑みと申し訳なさそうに逃げ去る綾乃ちゃんの後姿とを見てしまうと、
 ―――なんとか力になって上げられれば良いんだけど……
 とにもかくにも、移動中の身では出来る行動にも制限がある。
 だからカダの街に着いたら、美味しいお菓子でも差し入れして、少しゆっくりするのも良いだろう。なにしろアーマキヤでは何かと忙しくって二人きりになる時間もそんなになかったことだし。
「そう言えば、カダにはまだ着かないんですか? 確かそろそろって言ってましたよね?」
「綾乃を気遣ってゆっくり馬車を走らせてきたからな。それでも明日の午前中には辿り着くさ」
「………早くつけると良いですね」
「私はもっとゆっくりと行きたいがな」
「え?」
「なんでもない。ほら、早く馬車に乗れ。無駄口を叩いていると、その分だけ到着の時間が遅くなるぞ」
「は〜い」
 問答無用で攻撃魔法をぶっ放したの留美先生なのに……けどそれを口にすればややこしいだけなので、グッと飲み込み、我関せずと騒動に関わってこない自動人形の横に腰を掛け直す。
「でも先生、どうしてカダの街に行かなきゃいけないんですか? あそこって確か―――」
 デュラハンが手綱を握ると、二頭の馬たちが車体を揺らさないよう静かに足を進めだす。規則正しく左右に揺れる馬の尻尾を見ながらふと思い立ったあたしは、この辺りの地図をポーチから取り出す。
 カダの街は南部域と中央域とを隔てる山脈の麓にあり、交通の要所として栄えた街だ。
 南部域の主要な街から北上する道は、全てカダに全て通じている。山を超えて中央域に至るには必ず立ち寄らなければならない南部の玄関口とも言える。
 しかしそれも一昔前の話。
 険しい山脈を越える道は細くて曲がりくねっており、大量の物資の輸送には向いていない。それでも以前は中央域と南部域を結ぶまともな道が他になく、カダには旅人や商人が集まって賑わっていたそうだ。
 けれど、随分と西回りになるものの、安全な街道が出来るとそんな状況は一変した。
 荷馬車が道から車輪を踏み外せば、一財産は瞬く間に谷底へ飲まれていく。荷物だけならまだ良い。転落死する人は毎年二桁を軽く超える危険な山道。命と荷物をかけて危ない道を無理して行くより、遠回りでも安全な道を選ぶ人が増え、また東回りの海上運送の航路も結ばれ、カダの街は徐々に寂れていくこととなる……と言うのが立ち寄った街で聞いた話だ。
 確かにカダから北に向かうのが、中央域、しかもその中でも最も発展したクラウド王国への最短ルートなのには違いがない。けれど馬車でののんびり旅の最中、前から来てすれ違った馬車はなく、後ろから来て追い抜いていった馬車もない。それほどにカダから北へ向かう道は、馬車で行くには不向きなのだ。
「そりゃ男に戻れるなら一日でも早い方が良いですけど、急いで危険な目に遭うぐらいなら遠回りでもよかったんじゃないですか?」
「私たちは何も、北へ向かうためにカダへ行くわけではない。実はカダでたくやに探して欲しいモノがあってな」
「………物凄く嫌な予感しかしないんですけど、いったい何を探させるつもりなんです?」
 多分、あたしのこの予感は当たっているだろう。
 もう前の街に戻るには進みすぎてカダに行くしかない、こんなところまで留美先生が事情を話さなかったことが何よりの証だ。
 ―――留美先生、どうもあたしのことを試してる節があるからな……
 魔法ギルドのギルド長……つまり世界最高位の魔法使いである留美先生から受ける依頼というのは、様々なことを教わる代償と言う意味もある。
 けれどそれ以上に、留美先生はあたしに困難な仕事を押し付け、それを愉しんでいるようなところもある気がするんだけど……と考えていると、突然の言葉に目が飛び出した。
「これは魔法ギルド長としての正式な依頼だから、当然依頼料も発生する。そうだな……1000万ゴールド(約10億円)でどうだ?」
「いっ…せんんんん!!?」
「ははっ、もちろん成功報酬だけど、なかなかに面白い反応を返してくれたな。だが、探すものの名を聞けば、この金額にも納得すると思うぞ」
 どこか意地悪げに、そしてどこか楽しそうに、留美先生は姿を見せぬままに馬車の中から、とんでもないものの名前を口にした。



 探して欲しいのは天使。
 人と共に生きることを選び、神の手によりカダの地に封印され、伝承に謳われ続けてきた堕天使、もしくは彼女がここにいたという痕跡だ―――


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