第十一章「賢者」31


「これは変化の指輪と言う、れっきとした古代魔法文明の遺産だ」
 懐から取り出した木製の指輪を、留美先生はそう説明する。
「効果は装着者の姿をイメージするままに変えること。実体を有する情報で全身を覆い、感覚も変化した姿に合わせて感じることも出来る。基本パターンがあるのでなんにでもと言うわけにはいかないが、かなりのレアモノだぞ?」
 つまり、それを使えばあたしは男の身体に戻れる……と言うわけなのだけれど、あたしはベッドにうつ伏せに倒れたまま動けないでいた。
 あたしたちは元いたあたしの部屋に戻っていた。食堂からなら階段を上るだけなので移動には三分とかからないのだけれど、異論を挟む暇すら与えられずに留美先生の転移で運ばれたため、度重なる転移酔いでそのままベッドに倒れこんでしまった。まるで眼球がひっくり返りそうな眩暈と頭痛とで平衡感覚が狂っており、立ち上がろうと手を突いてもコロンとひっくり返ってしまう。今はまるで逆さにされた亀のような気分だ。
「あ…あうあうあうゥ……」
「ずいぶんと軟弱だな。最近の冒険者はずいぶんと質の落ちたものだ」
「まだ…日が…浅いもんで……そ、それよりも……」
 そうだ、すぐ目の前に、あたしが元の身体に戻るために探し続けてきたものがあるのだ。こんなところで寝ているわけにはいかない。
 何とか頭だけでも起こそうと気力を振り絞っている間に、留美先生は窓とカーテンを閉め、室内を薄暗くする。そして右手の指をパチンと鳴らすと、そう遠くない海岸で争っている村人とマーマンの喧騒が聞こえなくなり、そして、
「―――――――――!?」
 再び指が鳴らされると、ショルダーアーマーを取り付けていたジャケットが、いきなりなくなっていた。
 ゴトリと音がしたほうに目を向けると、ジャケットはいつの間にかテーブルの上に移動していた。言うまでもなく、これも留美先生のお得意の転移魔法……と思った矢先、連続して指が打ち鳴らされ、剣の鞘にポーチにニーガードにブーツと、身につけていた装備品が次々とあたしの体から消えてはテーブルの上に積み上げられていった。
「きゃああああああァ!!! ちょっとタンマ、留美先生、ストップストップ!」
「言われずとも分かっている……無粋なものはともかく、服は自分の手で脱がせるのが私のルールーだ。安心しろ」
「んなこと言われて安心できますかァ!!!」
「ふふっ……初めてでもあるまいに。だが、抵抗されるからこそ、燃える!!!」
「拳握り締めて何を言ってるんですか、この変態魔道師ィ!」
 転移魔法で問答無用に服を剥がれる強制わいせつ魔法は、留美先生の“個人的な趣味”により、シャツやズボンにニーソックスを残した状態で止められた。いや、そもそも、普通なら大型の魔方陣を作成して発動させる転移魔法を、指を鳴らすだけで行使して服だけ脱がせていくことの、なんと言う才能の無駄遣いであろうか。
「一度に全部脱がせてしまっては面白みに欠ける。まだ気持ちも盛り上がっていないのに全裸にさせては、むしろ興醒めだ。こう言うものは一枚一枚じっくりと脱がしていくからこそ……ふふふ♪」
 ―――い、一瞬でスッポンポンにされないだけ、マシだったって事ですか。
 楽しそうに笑う留美先生に対し、こちらは冷たい汗で背中がぐっしょりだ。そもそも、どうしていきなりあたしに「男になれ」などと言い出したのかも分からない不安もある。―――まあ、その前に「脱げ」と言われているのだから、「面白そうだから」と言う事はないだろう。
 ―――理由、訊けば教えてくれるかな?
 本当なら、綾乃ちゃんを今すぐにでも探しに行かなければいけないはずだ。留美先生自身の口から村から逃げろと言われたのだから、事態がそれほどに逼迫しているのだろう。漁村とマーマンたちの争いの根本的な原因である行方不明のマーメイドたちの問題もあるし、既にあたしなんかの力じゃ関わっても足を引っ張るだけなんじゃなかろうかとも思う。
 それなのに、わざわざ時間を割いてまで服を脱がせて、男に……と言うのも、あまりに辻褄があっていない。留美先生の行動は理解しづらいものがあるけれど、これは現状ではいささか脱線のしすぎだと思う。
 ―――だけど、男に戻れる手段が今、あたしの目の前に……綾乃ちゃん、ゴメン。この機会を逃すわけにはいかないんだ……!
 変化の指輪がどんなものかは分からない。しかし、しかししかししかし! これまで男に戻る手段を探して当てもなくあっちこっちの街や村を順繰り旅して回ってきたのに比べれば、何百倍も元の姿に戻れる可能性が秘められている代物であることには間違いがなかった。
 ―――ここは意を決して……!
「ああ。言い忘れていたが、指輪の効力が暴走すると一生アメーバとして生きていかなくてはいけなくなるからな」
「イヤだ、そんな危険なものに頼りたくない!」
 ―――前言撤回。断固拒否する、そんなもの。単細胞生物になるぐらいなら女として一生過ごすほうがまだマシだ!
「安心しろ。効力の暴走は変身後の自分を思い描いたイメージに不備があった場合だ。私が傍にいるのだから間違いは起こらんさ」
 期待させられたり脅かされたり、本気で心臓に悪い状況の連続だ。その最たる原因である転移酔いで起き上がれないあたしを留美先生は抱き起こすと、ベッドの上で壁にもたれかけて座らせる。
「ヤだ……アメーバーにもゾウリムシにもミトコンドリアにもなりたくないィ!」
「顕微鏡がなければ見えない微生物を、どうしてそんなに知っているんだ?」
 それは故郷の村でそう言うのを研究している人がいたからです……と説明する前に、留美先生があたしの左手を取る。
 ―――これは……
 慣れない転移を連続され、はるか上空から地面に向けて急降下したりもした。おかげでまるで力の入らない手足ではあるけれど、少しひんやりとした留美先生の手に触れられると、何故かそれが心地よくて、ピクッと小さく背筋を震わせてしまう。
 ―――距離が…かなり近いんだけど……
 背もたれがないと身体を起こしていられないあたしに、まるで覆いかぶさるように留美先生もベッドに上がってくる。すると肩口からさらりと零れ落ちた髪の毛からいい香りが立ち上ってきて、あたしの鼻腔の奥を心地よくくすぐってきた。
 ―――ど、どうしよう、ドキドキしてきちゃった……
 これは違うこれは違うこれは違う……劣情を催したら骨も残さずこの世から抹消されてもおかしくない相手だ。必死になって加速して行く脈動を押さえ込もうとするけれど、
 ―――ゆ、指輪を嵌めてるの、左手の薬指――――――!?
 指輪を装飾として身につける人はいるけれど、その場所だけは例外だ。そこは結婚指輪を嵌める場所であり、婚約指輪は左手の中指なので、
 ―――婚約を通り越しちゃってると判断いたしますけど!?
 色々と途中経過がすっ飛んでいる気がする。例えば二人の出会いとか、積み重ねて行く思い出とか、初めて一緒に過ごす夜とか、いくら自分が時間を操れるからと言って、あまりに端折られ過ぎている。―――とか考える以前に、今のあたしは女の身体で、海岸で目にした留美先生の全裸もやっぱり見紛うことなく素敵過ぎる女体なので、つまりは女同士なのに結婚指輪とかにまで想像が飛躍するあたしの頭の方に問題があるような気がしてきた。
 ああ、なんだか頭の中のパニックがさらに混乱したようだ。言葉遣いが変な気もするけど、すぐ目の前で意味ありげに微笑まれると、何か言おうと口を開いてもパクパクと魚のように唇を開閉させることしか出来ない。
「どうした? 顔が赤くなっているようだが、風邪でも引いたか?」
「いや、あの、これは……ご飯食べ過ぎちゃったから栄養分が発熱してるんです!」
 それは言い訳としてどうだろうと自分で突っ込む。まあ発熱のところは本当なのだから今日のところはよしとしておこう、訂正する余裕もない。
「ふふッ……では、早速挑戦してもらうぞ」
「あ、アメーバは……」
「心配するな。いざとなればミジンコで済ませてやる」
 それはなんて五十歩百歩な提案でしょうか!? いや、多細胞生物な分だけ人間には近いのかもしれないけれど……なんて感じに気が緩んだところに、強烈な不意打ちが襲い掛かってくる。
「―――――――――ッ!!?」
 目の前数センチのところに留美先生の顔があり、まるで額の熱を測るようにおでことおでこがくっ付けられる。この至近距離からでは鼻腔どころじゃ済まされない。留美先生の髪どころ全身から立ち上るような甘い香りに全身を包み込まれると、胸の鼓動が命が危ないんじゃないかと思うレベルにまで加速してしまい、心臓がノドから飛び出してしまいそうなほどに跳ね回ってしまっている。
「さあ……イメージしてみろ。自分が男になった姿を」
 ―――そんな事を言われたって、そんな事を考えたら、自分が男だったら目の前の美女にあんな事とかそんな事するのを考えちゃうんです、今は。
「ほほう? 男になったらすぐにでもこの私に後ろから圧し掛かるだなんて……なかなかスケベだな」
「うわ、何であたしの頭の考えてることがわかるんですか!?」
 と、叫んでから気付く。額を押し付けた状態で留美先生が魔法を既に発動させていることに。
 ―――テレパス……いや、リーディング!?
「魔法の知識はさすがだな。だが、焦って脳内イメージが駄々漏れなのはどうかと思うぞ?」
「お、お願いですから一時停止してください〜〜〜〜〜〜!!!」
 言葉を紡ぐたびに互いの唇からこぼれると息ですらくすぐったく感じるほどの至近距離に留美先生がいる……そんな状態では落ち着いて男の姿の自分をイメージすることが出来ないし、頬どころか耳や首までカッカと熱くなっていて落ち着くどころの話でもない。
「生涯ゾウリムシをご所望か?」
「ごめんなさい、煩悩退散してみます!」
 落ち着け、落ち着くんだあたし……頭の中から必死に留美先生の体臭とか形のいい唇とかふくよかな胸の膨らみとかワンピースの上からでも拝見できるウエストから太股へと繋がっていく魅惑的なラインとかを押しのけると、大きく深呼吸してから男だった時の自分の姿を思い出していく。
 ………深呼吸したら留美先生の香りが胸いっぱいに……しまった、これじゃ集中できない。なんて高度な罠なんだ!
 今度は目も口も閉じ、「男…男…男の身体…」と誰かに聞かれたら下手な誤解を受けそうな事を言いながら、夢にまで見た自分の本当の姿を頭の中で編み上げていく。
 ―――女の身体よりも逞しい腕、脚、それに逞しい胸板。あ、そうだ。この際だから身長もちょっと高めにしちゃおう。もう誰にもひ弱だなんて言わせない様にちょっとだけ筋肉もおまけして……そ、そう言えば、あれの大きさは……それなりだとは思ってたよ? だけどオーガとかオークとかデーモンと比べると……んむむむむ、これは意外に難しい……
「おい、その凶悪な形とサイズの男性器は何だ? 私に対して使うつもりなのか!?」
 留美先生の声が聞こえる……けどこれは無視だ。この声に耳を傾けたら、またきっといろんな事を考えてイメージがグチャグチャになるのは目に見えている。
「こら待て。既に体型が人間を逸脱しているぞ!? なんだこのジャイアントやミノタウロスやイエティも真っ青の筋肉ダルマは!?」
 ―――よし、出来た。あたしの理想的な体型像はこんな感じかな。
「だから待て。どう見てもこれは頭と身体の縮尺がおかしい。十二頭身だぞ!? お前は一体どんな化け物になろうとしているんだ!?」
「留美先生、イメージはばっちりです!」
「………修正だ、この馬鹿者………!」
 何故か頭を引っ叩かれ、苦労して編み上げた男の姿はいとも容易く雲散霧消してしまった。
「出来なくても仕方がない。適切詳細な脳内イメージの構築は専門の魔道師でもない限りはそれほど必要とされないスキルだしな。さすがにアメーバになられては寝覚めが悪い。今回は私がなんとかしてやろう」
 出来れば最初からそうして欲しかった。そうすれば無駄な労力を費やさずに済んだのに……
「何事も最初から人を頼ると成長しないからな。言うなれば愛のムチというものだ」
 ―――その愛のムチで死んじゃったりアメーバになったら、成長云々関係なくなっちゃうんですけど?
「ゴチャゴチャ言わず……いや、考えずに頭の中を真っ白にしていろ。イメージが出来上がれば指輪が自動的にその姿を作り上げてくれるからな……」
 イメージリーディングでこちらの考えていることも全部筒抜けだ。
 まあ、一度集中したおかげで今度は労なく頭の中を空っぽにすることが出来た…………………が、
「あれ?」
「口を開くな……」
「でもこれって……ちょっと、え?……あれぇ?」
 おそらくはリーディングの逆、留美先生のイメージがあたしの頭の中に流れ込んできているのだろうけれど、それがいささかおかしい。
 まず最初はあたしの“女”の体が脳裏に浮かんだ。いや、よく見てみると、胸は薄いし、股間にはおチ○チンも付いているので男の体である事は間違いないのだろうけれど、うなじから肩にかけての曲線とか、抱きしめれば折れてしまいそうな腰の括れぐあいとか、後ろから見ると見惚れてしまいそうなほど張りのある形よいヒップや太股とか……て言うか、これはどう見ても女の状態のあたしの体にの胸を減らしておチ○チンをくっ付けただけの、
「これって手抜きだ―――――――――――――――!!!」
「あ、こらバカ!」
 その瞬間、左手の薬指に嵌めた木製の指輪から先行が迸る。
 ―――あれ、もしかしてあたし、アメーバ確定ですか?
 遂に男に戻れぬまま、単細胞生物になって微生物相手の食生活を送るのか……きっとこの光が収まる頃には、そんな事を考える感情もなくなっていることだろう。いい事なんてあまりなかった短い人生ではあったけれど、走馬灯として駆け巡っていくと、
「やっぱりアメーバはイヤだぁぁぁあああああああああ!!!」
 そんなあたしの叫び声と共に室内には強烈な光が問答無用で溢れかえっていた。


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