第十一章「賢者」16


「う〜ん……来てはみたけれど、本当に何もないわね」
 昨日、弘二が意識を取り戻したという場所に来てみたけれど、目の前が海であること以外、特に目を引くものはなかった。
 すぐ傍には崖がそそり立っている。道の途中で温泉のある崖の上に向かう道と下に向かう道とに分かれていて、あたしと弘二は岩場へと向かうほうの道とは呼べない道を選んでここまで来たのだけれど、めぼしい収穫は何もなさそうだ。
 今いる位置は、あたしが大介に襲われた温泉のほぼ真下に当たり。足元は大きな岩がゴロゴロとしていて、広さだけなら十分にある。滑りやすく、素足にサンダルを引っ掛けているあたしは足元に注意して歩かなければいけないけれど、岩にぶつかる波しぶきを見るには良い位置だ。海岸で見るのとは違った海の別の一面が垣間見える。
 そして視線を上に向けて崖を下から見上げてみると、崖の中腹辺りまで壁面がせり出していてオーバーハングになっている。海に面しているほうには垣根も何もなかった露天温泉だけれど、この岩場からはどんなに頑張っても立ち上る湯気ぐらいしか見ることは出来なかった。
 ―――よじ登るのも不可能よね。覗き対策はばっちりって事か。
 もっとも、下からどういう位置に温泉があるのかを確認してしまうと、崖が崩れ落ちるんじゃないかと怖くなってしまう。反っている場所の真上ではないけれど、崖の高さと形状だけで特に高所恐怖症でもないあたしの背筋に冷たい汗が伝い落ちるほどだ。
「このあたりは満潮時には海面の下に沈んでしまうそうです。だから村の人もあまりここには来ないと聞きました」
「マンチョウジ……?」
「ああ、そう言えば先輩は海が初めてでしたっけ。海は時間によって海面が高くなったり低くなったりするんです。満潮と言うのは海面が最も高くなった時の事を言うんですよ。今は干潮の時間帯ですから水面は低くなってるから、この岩画も顔を覗かせてるんです」
「へ〜、海ってこんなに水がいっぱいあるのに、増えたり減ったりしてるんだ」
「いえ、海の満ち引きは海流や気圧、他に月の魔力の影響とか色々な要因が関わっているんですけど、実際に水の増減というわけではないんです」
「へぇ〜……何が驚きかって言うと、弘二がそう言うこと知ってるのが驚きだわ」
「いやぁ、先輩にほめられると照れちゃいますよ」
 やっぱり実家がお金持ちだけのことはある。そう言う英才教育も受けているんだろうと思ってはいたけれど、ただの粘着質的ストーカーではないのだとちょっとだけ見直してしまう。
「それで、昨日もこのあたりで我に返ったんでしょ? 何か思い出せたことはないの?」
「記憶に残っているのは……先輩の下着から立ち上ってきた僕を惑わす濃厚な先輩の香り……ああ、思い出すだけでボカぁもう!」
「はいはい、バカは一人でやっててね。それと、服の弁償代は後できっちり取り立てるから」
「あ〜ん、置いていかないでくださいよォ!」
 ―――本当ならあんたをここで海に突き落として沈めたい気分よ。
 結局のところ、弘二は本当に温泉に来たことを覚えてないらしい。会話の中で「あたしの服を何処から手に入れたのか?」を一度も口に洩らしていないのが、故意にとぼけていないのだとしたら、本当に温泉にやってきてこの岩場に来るまでの間の記憶を失っていることになる。
「………ねえ、この岩場から上の温泉まで行くには、途中の分かれ道にまで戻るしかないの?」
「どうでしょう……僕の聞いた話では、上りやすい所もあるにはあるそうですけれど……」
 そう言って、弘二は剣の鞘と一緒にベルトに取り付けているポーチから、この村の地図を取り出した。何本か書き込まれている線は、おそらく弘二や大介、他の村の男性たちが警戒して回る巡回ルートだろう。だけど、その線のどれもが岩場にまではやってきていなかった。
 ―――この岩場からマーマンが上陸しても、崖があるから上にはいけないって事か……
 と言うことは、岩場からの進行ルートは途中の分かれ道に向かうルートだけだ。―――けれど上りやすいところがあるのなら別。崖の上の温泉は巡回のルートに入っているし、いくら陸上生活が不慣れなマーマンが相手でも、念のために見て回ることぐらいのことはするだろう。
 ―――そこから目星をつければ大体の位置は分かる……と思うんだけど。
 地図を覗き込みながら歩くこと数分。勘を頼りに崖の上と行き来できる場所を探していると、思いがけなかった物証を見つけることが出来た。
「これって……あたしのジャケット?」
 自分の服だ。見分けが付かないわけがない。昨日、弘二に他の服や下着と一緒に持って行かれたはずの上着が、岩と岩の隙間に端っこを挟み込まれていた。
「よかった……これが服の中じゃ一番高いんだから、見つかって本当に良かった……」
「何を言ってるんですか。僕ならば先輩の下着に一万ゴールドの値をつけても惜しくありません!」
「はいはい、その手の話はもううんざりだから」
 ともあれ、フジエーダからの愛用品が弘二に汚される事なく手元に戻ってきたのは幸運だった。ちょうど肌の露出の多さに恥じらいも感じていたことだし、水着の上から羽織ることにする。
 ―――ここで回収できるんだったら、ナイフの鞘や肩鎧も取り付けたままにしとくべきだったかな?
 温泉に入りに向かうために、ショルダーアーマーなどの武装は取り外していたので、防具としての効果はそれほど期待できそうにない。でも無いよりはマシだ。今いる場所が岩場である事を考えても、鋭い岩肌に身体をぶつけても小さな切り傷を負うことも無いのだから。
 ―――問題は、弘二がここを通ったのが確定的って事ね……うわ、上と行き来が出来ると言っても……
 ジャケットを見つけた位置からなら、崖を上るのは可能と言えば可能だ。けれど角度は70度以上とかなり垂直に近く、おまけに高さもある。温泉の真下のオーバーハングに比べれば上りやすそうではあるけれど、サンダル履きのあたしではちょっと難しそうだ。
「弘二、あんたならこの場所を降りて来れそう?」
「え〜っと……せ、先輩がどうしてもと言うのなら!」
 口でそう言っても、足はちょっぴり震えている……もし昨日の弘二が正気であったのなら、この場所は使わなかったと言うことになる。
 ―――う〜ん……まあ、弘二が何処をどう通って岩場まで降りてきたかが分かっても、特に意味無いかな?
 弘二や大介の記憶が欠落していることから、誰かに操られたり催眠術をかけられたりした可能性を考えてみたものの、誰がなぜそんな事をしたのかが重要であって、弘二があたしの服を抱えて逃走した挙句に何処で自慰にふけったかなって知りたくもない。ところが、現状ではどうして二人の記憶が失われているのか、その目的も手段も皆目見当が付かない。
 二人が温泉に来た間に重大な何かを知ってしまったから記憶を奪われたのか? それとも無差別に記憶が奪われているのか? マーマンの襲撃と関係があるのか? もしくは漁村の人間が行ったことなのか? そもそも、同じ時間帯に温泉にいたあたしには抜け落ちた記憶がないのはどうしてなのか?
「あ〜もう! 訳わかんないことばっかりで頭がゴチャゴチャしてきたァ!」
「でしたらちょうどいい息抜きがありますよ。ほら、そこの岩場の影で僕と二人っきりでグホォ!」
 頭が加熱しているときに肩へ手を回してきた弘二の脇、筋肉に覆われていない肋骨に肘を叩き込んで沈黙させると、いっそ海に飛び込んで頭を冷やしてしまいたい誘惑に駆られながら岩場の奥へと歩いていく。
 ―――あの温泉で、なにかおかしな事があったはず。そうでなければ二人そろって記憶がおかしくなるなんて……
 冒険者をしていても、あたしは元々小さな村の道具屋さんだ。断じて名探偵などではない。
 無い知恵となけなしの記憶力を総動員しても、答えに繋がりそうなきっかけが何も思い浮かばない。岩場を進んでも何も無く、進行方向に回りこむようにせり出してきた崖に行く手を遮られると、あたしはがっくりと肩を落としてため息をついた。
「仕方ない。後は留美先生に報告して終わりにしよっか」
 もう太陽もずいぶん高い場所に上っている。予定していた出立の時間もとうに過ぎているだろうけれど、二泊出来るほどの金銭的余裕が無い。早々に切り上げて宿を出る準備をしなくては、料金割高な宿のお世話にならなければならなくなる。
 帰ろうか……さすがに急所を打撃されてはダメージが大きかったのだろう。遅れ気味の弘二を振り返り、きびすを返そうとすると、
 ―――あ、この音色は……
 竪琴の音色が聞こえてくる。何も無いはずの岩場の端で、周囲には誰もいないはずなのに、どこかからか……そう、岩場のさらに先、行く手を塞いでいる崖の壁の向こうから、昨日温泉で耳にした竪琴の音色が聞こえてきていた。
 ―――なによ、あたしもすっかりこの事を忘れてたじゃない!
 記憶を失っていることは、自分ひとりでは気付けない。大介や弘二が記憶を失っていると分かったのは共通の場所にいたあたしの記憶と比較していたからであって、あたしも含めた三人全員が失った記憶は失っていることすら分かるはずが無かったのだ。
「なんですかこれ? ずいぶんと下手糞な音色ですね」
「ああ弘二、ちょうど良かった。あんた、昨日この竪琴の音を聞いた覚えは?」
 追いついてきた弘二に尋ねると、まったく記憶に無いらしくて腕組みして首を捻る。それでも思い出せないらしいけれど……そんなはずは無い。あたしが大介に犯されているときには始終聞こえてきていたこの音色を、弘二が耳にしていないはずが無いのだ。この稚拙な奏で方はいやでも耳に残る音色なのだから。
 ―――むしろ昨日よりもはっきりと聞こえる。距離が近づいているせいかな?
 とは言え、油断は禁物だ。
 楽器の音色を媒介にして記憶を奪うことが可能かどうかを考えれば……答えは可能。人間の声で魔法を発動させるのに必要な魔導式を組み立てられるのだから、同じく音を操る楽器で魔法を使えないとは言い切れない。催眠術も同様だ。
 それに、
「海で竪琴って言うと、マーメイドを連想しますよね」
 弘二の言うとおりの事をあたしも考えていた。
 マーメイド――人魚の歌声や竪琴の音色には人々を魅惑し、船を難破へと導き、嵐さえ引き起こすと言われている。
 あたしの中にある魔王の力でマーメイドの能力が発動している時は、あたしの魔力が溶け込んだ水を思うがままに操ることが出来る。それが本物のマーメイドが持っている力なのかと言われると確信が無いけれど、噂と共通する部分があるのも確かだ。
 ―――それにマーマンとマーメイド……こっちにも共通があるのよね。
 マーマンはオス型種族、マーメイドはメス型種族の違いはあるけれど、共に半魚半人。詳しくは荷物の中に放り込んである冒険者の手引きを開いてみないとわからないけれど、関わりがないと考えるほうがおかしいだろう。
 ―――って言ったって、竪琴の音色一つでここまで推論するなんてね。
 でも、弘二の目から逃れるために何度もお湯の中に潜っては男湯と女湯を行き来していたあたしは、耳に水が詰まって途中から竪琴の音をあまり聞いていない。そのせいで二人よりも失われた記憶が少なかったのだとしたら説明が付く。
 それに、今いる位置からは竪琴が奏でられている場所が見れない。人の足では踏み入れない崖の壁の向こうから聞こえてくるのだから、海を自在に行き来できるマーマンに疑いが向くのは当然の事と言えた。
「弘二、悪いんだけど大急ぎで留美先生と村長さんの所に行って報告してきて。岩場の向こう側が怪しいって」
「い、イヤですよォ! 先輩と離れ離れになるなんて、僕には耐えられません!」
「いいから行きなさい!……ったく、あんたはマーマンを退治するって依頼を引き受けてたんじゃないの!?」
 あたしはぐずる弘二を見て、睨み、鼻先に指を突きつける。
「よく考えなさい。あたしとこの村の危機とどっちが重要なのかを!」
「で…でも……先輩をひとり残して、もしマーマンに襲われでもしたらって思うと……」
「ふ〜ん、そうやってあたしと二人っきりでいる言い訳をするの?―――サイテー」
「はうッ!」
 あたしの一言が弘二の胸にクリティカルヒット。後ろによろけるのを追撃するように、あたしは辛らつな言葉を浴びせかける。
「自分が引き受けた仕事を色事にかまけて放棄するなんて、冒険者の風上にも置けないわね。なけなしのお金をはたいて雇った冒険者に裏切られた村人の気持ち、考えたことがある?」
「う……あう……」
「そんな事もわかんないんじゃ、さっさと実家に帰って家業を継いだほうがいいわよ? と言ってもどっかの領主さんだっけ? かわいそうよね〜、領民よりも性欲優先。女に現を抜かしてばかりいる領主さまなんて一揆が起こった末にギロチンにかけられても文句言えないわよね」
「そんな……だって………だって!」
「え―――?」
 弘二をきっちりしかりつけて矯正するつもりでいたあたしに、その弘二がいきなり迫ってきて両肩を掴んでくる。
「痛いって、弘二、力が……!」
 ジャケット越しに指先が肩に食い込んでくる。その事を訴えるけれど、深刻な表情であたしの瞳を覗き込んでいる弘二の耳には届いてはくれなかった。
「先輩がいけないんじゃないですか……こんなに真剣なのに、どうして僕の気持ちに応じてはくれないんですか!? 先輩が僕を受け入れてくれれば、例えドラゴンであろうと僕は打ち破ってみせます! それなのに、どうして僕を好きだと言ってくれないんですか……久しぶりに会えたのに、どうしてそんなに邪険に……」
「―――だったらはっきり言ってあげる」
 今にも自殺してしまいそうな悲壮感を漂わせる弘二に、あたしは同情するでもなく、言われた通り邪険に肩を掴んだ手を払いのける。
「あたしはね、絶対に弘二にだけは惚れない」
「先輩!」
「もう先輩とも呼ばないで。名前も呼ばないで。―――ねえ、弘二はどうして冒険者になったの? あたしに初めて出会った時の理想を語って聞かせてくれたあんたは何処に行っちゃったの?」
 起こる気力も無い……ただ弘二と話していると悲しさだけが募ってしまう。
「あたしを追いかけるためだけに冒険者になったんだったら、悪い事は言わないからやめたほうがいい。村の人にも謝って護衛の仕事もやめて、本当に故郷に帰りなさい」
「……う、嘘ですよね? 僕は、先輩のことを本当に、真剣に……愛してるんです、この気持ちに偽りは……」
 あたしが言葉を紡ぐほどに、目の前にいる弘二は今にも崩れ落ちてしまいそうなぐらいにガタガタになっていく。
 だから、
「―――そうやって、あたしを言い訳にしないで」
 右手を振るい、弘二の頬を力いっぱい張った。
 乾いた音が岩場に響く。広い空間には岩や崖で跳ね返った音が余韻は長く残り、それが風に流されて遠くに運ばれてしまっても、弘二は呆然としたまま叩かれた頬を押さえようともしなかった。
「本当に今しなきゃいけないのは、村の人たちを助けることでしょう? それなのに自分が引き受けた仕事を勝手に放り出して付いてきた挙句に愛の告白されたって、嬉しくともなんとも無いわよ。どこにどうやって惚れたらいいのかも分からないわよ」
 まだ目が覚めていないのならもう一回叩かなければならない……他人に説教できるほど立派な人間ではないことぐらい自分で分かっているけれど、重たい気分を振り払ってでも、今ここで、弘二にははっきりと目覚めてほしくて、だから―――
「―――!?」
 突然身体に感じる攻撃の気配……肩に、それに振り上げた手の平に。
「弘二、危ない!」
 我を失い棒立ちになっている弘二を、あたしは両手で突き飛ばし、その反動であたしも後ろへと飛ぶ―――けれど、攻撃を躱すのには十分と言えなかった。
 小波を立てる海面の下からいきなり撃ち放たれたのは、勢いのある水流が三本。一本は弘二がいた空間を、一本はあたしたちの中間を通り過ぎ、もう一本が、
「あうッ!!!」
 弘二を突き飛ばしたあたしの右腕に直撃した。
 ―――ッ〜〜〜! ゆ、油断してた。竪琴とマーマンの関連は気付いてたのに……!
 敵地に足を踏み入れていたことに今更ながら気付くと、攻撃を仕掛けてきた三匹のマーマンが海から飛び出し、岩場に着地する。
 初めて見るけれど、魚の顔に鱗に覆われた身体はかなり醜悪な姿と言えた。けれど水掻きやヒレのある手足には力が込められ、臨戦態勢で敵意をむき出しにしている姿には想像以上の力強さを感じさせる。
「この……やってくれたわね………」
 鉄砲水の一撃を受けたあたしの右腕は、幸い折れてはいない。水の勢いに弾き飛ばされたのが良かったのだろうけれど、他の二本の鉄砲水が崖を貫いて穴を開けているのを見てしまうと背筋に冷たい汗が流れ落ちてしまう。
 ―――右手は痺れてて今すぐには動かせそうに無いけど、モンスターを呼べば……!
 そもそも剣も鎧も身に着けていないあたしが、正面きって戦おうなどとは思っていない。マーマンたちが海中にいるのならともかく、陸上に上がってきてくれたのだ。あたしの契約モンスターたちなら、余裕を持って倒せる相手だ。
 ―――それなのに……どうして!?
 今いる位置なら、村人の目に触れることなくモンスターを呼べる。弘二は……まあ、別にいいだろう。特に問題なく戦えると思っていたのだけれど、ここで問題が発生した。
 突き飛ばされて倒れた弘二は、立ち上がるとあたしとマーマンの間に立ちふさがったのだ。
「あの……さっき言われた言葉、実はまだよく分かっていません」
 背中を見せ、振り返ることなくマーマンへ顔をむけたまま弘二が言う。
「………でも、これでもまだ先輩を守るなだなんて、言いませんよね?」
 手は腰に。剣の柄を握り締めると、皮製の鞘から刀身を抜き、切っ先を三匹のマーマンに向け、そして―――
「今僕がすべきこと、それは―――!」
 あたしを外に置いて、弘二とマーマンたちの戦いが始まった。


第十一章「賢者」17へ