第十章「水賊」17


「ここかぁ!」
 狭い階段の先に設けられていた扉を真上へ蹴り上げると、あたしは勢いを殺しきれずに外へ転がり出る。
 久しぶりに嗅ぐ草の臭いにむせ返りそうになる―――胸を膨らませるように大きく息を吸い、顔を上げれば周囲は未だに薄暗い。既に夜は明けているものの、空は分厚い雲に覆われ光がさえぎられしまっている。
 昨晩から降り注いだ豪雨は小雨へと変わっているものの、踏みしめる草は大量の水を含んでいて、踏ん張る足から力を奪うかのようにぬかるみ、あらぬ方向へとブーツの裏を滑らせる。
「滑りやすいから気をつけて……ああ、もう。佐野の足から靴を脱がせてればよかった!」
「舞子、あんな人の靴を履くのイヤですぅ〜……」
 周囲は森。水賊たちの地下アジトへ繋がる扉は地面に転がる岩にカモフラージュされており、傍目には分からないようになっている。
 あたしの後を裸足で追いかけてきた舞子ちゃんに手を貸し、小さな体を引っ張り上げると、追いかけてくる水賊を防ぐ為に出口の扉を蹴り閉める。そして蝶番のところに尖った石を突き立てて開き難くすると、あたしはマント一枚しか羽織っていない舞子ちゃんを無我夢中で抱え上げ、道も分からぬままに走り出した。
「ッ………!」
 一秒でも早くこの場を離れなければいけないと気持ちだけは逸るけれど、疲労から来る体の重みは、動きを重くするだけで、滑る足を助ける重しの役には毛ほども立たない。それでも目立つモンスターを呼び出すよりも、降り注ぐ雨と薄暗い森とにまぎれて逃げる事を選び、今出せる全力で、けれど倒れて舞子ちゃんを傷つけないように細心の注意を払って、一歩でも水賊たちのアジトから離れるように足を動かし続けた。
 ―――ッ……せ、背負い袋とか……捨てて行った方が……クハッ、ハァ、ハァ……!
 狭い階段通路を通れなかったので、モンスター全部を既に魔封玉へ戻してある。出来れば重い荷物は置いていきたいところだけれど、中には全財産の入った財布や冒険者登録証、その他いろいろ大事なものも入っている。後で回収にこようと思って水賊たちに先に見つけられたら、素性がばれて一生追いかけられて、それどころか下着でアレやコレや変な事をされて、うわぁ、考えただけで身の毛がよだつ。
 ―――まだ精神的な余裕だけはあるみたいね、あたし。
 それはよい事だと心の中でひとしきり頷く。
 ともあれ、上手く山賊たちを撒いて街まで逃げられれば最善の結果だけれど、狭い通路で水賊たちに追い立てられた疲労は色濃く、通り過ぎた嵐の残した雨の冷たさが心地よいほどに肌が火照り、汗が噴き出してくる。
 自慢じゃないけれど、あたしの体力の無さは天下一品だ。このまま女の子一人を腕に抱えて、街がどちらにあるかも分からない森の中を走り続けていられる体力なんて、最初からあるはずもない。それでも裸足の舞子ちゃんに森の中を走らせたくない一心で脚を動かし、
「―――あッ」
 前に踏み出した足が、前下がりになった地面の傾斜と濡れた草に絡め取られてしまう。勢いのままにつま先は前へと滑り、あたしはとっさに舞子ちゃんを抱きかかえると体を回して仰向けに倒れこむ。
「グッ―――!」
「お、お姉様!」
 背中に地面のぶつかる衝撃を受けるのと同時に、腹部へ舞子ちゃんの重みが圧し掛かる。
 胸に溜まっていた空気が一気に押し出され、前と後ろから圧迫を受けた苦しみにあたしの喉から苦悶の声が迸るけれど、それ以上は苦しそうにしてはいけない。なぜなら、
「あのぉ……舞子、重くなかったですかぁ……?」
「グッ……ダイジョウブ…ダヨ……アハハハハッ……」
 ―――例え台詞が全部カタカナになろうとも、女の子に「重い」とは口が裂けても言えません……
 言ったが最後、舞子ちゃんとの良好な関係にピシッと短時間では修復不可能なヒビが入ってしまう。今の状態で舞子ちゃんの機嫌を損ねてしまったら、逃げ切れなくなりそうだ。
 舞子ちゃんに体の上から退いてもらい、よろめきながらも力を振り絞って立ち上がる。けれど一度もつれた脚はすぐに限界を主張し、腹部に残る苦しみに顔を歪めながら手でその場に跪いてしまう。
「や…やっぱり舞子、重かったんだぁ……」
 ―――違うって……と、答えてあげたいけれど、今は喋るのも辛い……
 豊かな胸の膨らみの下で、さっきから心臓が口から飛び出しそうなぐらいに暴れまわっている。その激しい脈動にあわせて全身に血液が駆け巡り、雨で濡れた身体を火照らせていくけれど、短く細かく繰り返される呼吸だけでは身体が求める酸素の量を補いきれない。
 なんとか暴れる胸をなだめつつ後ろを振り返れば、逃げ出してきた水賊たちのアジトの入り口がまだ見える位置にまでしか離れられていなかった。
 ―――見るんじゃなかった。この距離じゃ、誰か出てくればすぐに見つかる……!
 現実に軽い目眩を覚えながら、あたしはとっさに判断を切り替え、体重が重い…と暗に言われたとショックを受けている舞子ちゃんの手を引っ張り、手近な大木の根元へ身を寄せ合うように体を隠した。
「舞子ちゃん、こっちへ」
「お…お姉―――」
「黙って。水賊たちが出てくる」
 逃げられないのなら隠れるより他に手段がない。
 唇に人差し指を立てて舞子ちゃんを黙らせると、程なく、開かない扉が内側から内側から吹き飛ばされる音があたしたちの元へと届く。
 あとは運任せ……蜜からない事を天に祈りながら、じっと息を潜めて舞子ちゃんをかばうように身をかがめる。
「畜生、あの女、滅茶苦茶しやがって。扉を直すの誰だと思っていやがる!」
「二人は山賊のいなくなった街道のほうへ逃げたはずだ。何人かはここに残って、残り全員で追跡する。街道に出られたらどこに人の目があるか分からん。面倒になるから、絶対に森の中で抑えろ、いいな!?」
 枝葉を揺らす冷たい風と雨の中、水賊たちは次々と外へ姿を現し、隊長らしき人の号令に従って森の中へと走り出していく。
 幸か不幸か、あたし達が向かうべき街道は逆の方向だったらしく、何人もの水賊たちが逆方向へと走り出して行く。今いる場所が出入り口より低くなっている斜面と言うこともあって、こっちへ誰かが来ない限りはすぐには見つからないだろう。
 けれど、街道へ先回りされたと言う事は、ほとんど逃げ道を塞がれたに近い状況でもあった。街道と逆に向かえば森の奥に迷い込むか、あの大きな河に出るかだ。下手に逃げれば、水賊は撒けてもより厄介な状況になりかない。
「………舞子ちゃん、移動するよ。静かにね」
 唇に人差し指を立てて小さな声で言うと、舞子ちゃんも自分で自分の口を塞ぎ、黙ったまま頷き返す。
 その表情には長時間囚われていた事による憔悴と追い立てられることへの怯えが見えるけれど、決して何も言わず、よろめくあたしに手を伸ばして歩くのを支えてくれる。
「ごめんね、助けに来たのに迷惑かけちゃって……」
 今回の一連の騒動は、本当なら舞子ちゃんには無関係なものだ。水賊たちが狙っていたのはあたしだけであり、舞子ちゃんも、今は安否を確かめる事もできない綾乃ちゃんも、あたしの傍にいたから巻き込まれたようなものだ。
 そう思えばこそ、ここまで助けにこれたのだけれど……いや、あたしと関係が無くても助けには来ていただろう。だけど状況はさらに悪化するだけで、助けに来た事そのものが無意味、むしろ逆に舞子ちゃんを追い詰めているような気もしてきていた。
 ここまで来て、力を使い果たして何も出来なくなってしまったことへの罪悪感が、あたしの胸を締め付ける。
「あの……元気を出してください、お姉様」
 アジトの出口がなんとか見えない程度に離れたところで、舞子ちゃんは口を開く。
「お姉様がどう思ってらっしゃるかは分かりませんけど……舞子は本当に嬉しかったんです。最初から、男の人を前にして何も喋れなくて、困っていた舞子を助けてくれたときからずっと……舞子はあの時から、お姉さまを好きになっていたんです」
「ぅ………」
 何で今、そう言う事を言うのか……まるで告白のような言葉に、雨で濡れた頭から湯気が立ちそうなほど急速に顔が火照っていく。
 ―――でも、女の子同士での告白なんだよねぇ……舞子ちゃんはあたしが男だって琴も知らないんだから、美由紀さんのときともちょっと違うし……いや、舞子ちゃんはスゴくいい子だって野は分かってる。でもそれとこれとは……
 困惑しながら視線を舞子ちゃんへと向けると、子緒状況だからこそ見せてくれる無防備な姿に、思わず喉を鳴らしてしまいそうになる。密着した身体は例えようもないほど柔らかく、胸元からおへそ、股間、太股へと繋がるラインが歩くたびにマントの合わせ目から覗き見えていて、“送り狼”と呼ばれる男の人の気持ちを少しだけ理解してしまったりしてしまう。
 舞子ちゃん自身もあたしの視線に気付いてはいる。少し赤らめた顔をあたしの方へ向けようとはせず、それでもあたしを支える事をやめて肌を隠す事を選ばず、恥じらいを押し殺し、濡れたマントに包まれた体をますます強く押し付けてくる。
「ッ…………こ、このあたりで少し休もう。舞子ちゃんも疲れたでしょ?」
 水賊のアジトから十分離れたとはまだ言えないけれど、このままではあたしの頭の血管が興奮しすぎてはち切れる方が先になってしまいそうだ。
「ほら、雨が降ってるんだからフードかぶって。風邪引いちゃうわよ」
 雨宿りできそうな大木の根元に木棍を立てかけて背負い袋を置くと、腰を下ろす前に舞子ちゃんが体にまとっているマントの襟に付いたフードを上げ、綺麗な髪がこれ以上濡れないように頭へ被せてあげる。
「で、でも、お姉様の体の方が濡れて……」
「いいからいいから。あたしが濡れるのと舞子ちゃんが濡れないのは無関係。濡れないならそれに越したことないのよ、冷えたら体力消耗しちゃ運d無し―――そうだ。背負い袋の中にあたしの予備の服が入ってるから出してあげる。マント一枚じゃ、やっぱりなにかと意識しちゃうでしょ?」
 あたしも意識しちゃうんです……とは、さすがにつなげられなかった。ものすごく惜しい気もするんではありますが、濡れマント一枚と言う少しマニアックな格好で傍にいられる方が、正直心臓に悪すぎる。
 ………泣くな、あたし。今はここを少しでも離れて生き延びる事だけを考えるんだ……!
「まだまだ逃げ切るまでには時間がかかるし。こうなったら持久戦よ。体力勝負よ。いいわね、舞子ちゃん!」
「は、はい、わかりましたぁ………」
 大きく息を吸い込んで強めの口調で吐き出した言葉に、舞子ちゃんが首を傾げている……ま、ここまで来たら後は気力と気分の問題だ。例え舞子ちゃんにあたしの“男”としての苦悩が理解できずとも、水賊から逃げるためにはあたしは自分の煩悩を捨て去って行動しなくてはイけないのだ。
 ともあれ、休憩すると決めたい場は一秒でも身体を休め、体力回復に努めなければいけない。
 腰を降ろして一息つくと、あたしはおもむろに背負い袋を膝の上に乗せ、無くなったものがないかチェックしながら、中からヒールポーションのビンを取り出し、中の液体を口の中に流し込む。
「んっ……んクッ………」
 地下での乱闘の際に埃を吸い込んでいた喉を軽くうがいをして洗い流すと、行儀が悪いと思いながら、そのまま液体を飲み下す。蜜蜘蛛の蜜ほどすぐには効き目は現れないけれど、休憩を終える頃には舞子ちゃんの手を借りなくても歩けるようにはなっているはずだ。
「はい。舞子ちゃんも半分飲んで」
 甘い味の液体が体の奥底に染み渡って行くのを感じながら、中身の残ったポーションのビンを隣に腰掛けた舞子ちゃんへと差し出す。
「え……お、お姉様と回し飲みですかぁ……そんな、関節キッス……♪」
「……………色々突っ込む気力もないんで、今は黙って飲んでいただけないでしょうか?」
「はいですぅ♪ 舞子はこれで元気百倍ですぅ〜♪」
 ―――この状況で、関節キスで元気が出てくれるなら安いものか。あたしの方はそこまで喜ばれると気恥ずかしかったりするんですが……
 笑顔でポーションを飲んでいる舞子ちゃんの横顔を見ていると顔が熱くなってくるのはさておき、今の内にに舞子ちゃんに着せる服を選んでおかないといけない。
 幸い、背負い袋の中身はさして荒らされてはいなかった。冒険者カードとかもそのまま入ってる。もちろん下着などもそのままになっている……が、舞子ちゃんに貸してもいい服が入っているかは別問題だ。
 ―――あたしのブラを貸したら、思いっきり落ち込ませちゃいそうな気もするしなぁ……
 二度と着まいと心に誓った娼婦用のドレスは逃走には向いてないし、あたしのトラウマに触れるので却下。どうしてドレスを持っているのか解き嗄れたら答えられないし。
 下に履く多少サイズが違っても問題はないだろう……地味なのなら。
 後は普段の着替えのシャツとショートパンツ。寒いのなら、木の枝や葉っぱから肌を護る為にいつも履いているニーソックスの予備も貸してもいい。多少は防寒着の代わりになるだろう。
 余分な荷物(ドレスとか)が多いので、他の余分な荷物(着替えとか)をあまり持ち歩けない。おかげで舞子ちゃんのような可愛い子に着せるのは気が引けるような服ではあるけれど、あたしとおそろいと言うことにすれば逆に喜んでくれるかもしれない。
 残る問題は舞子ちゃんの靴の代わりだ。こればっかりは予備など持ち歩いているはずもない。
 あたしのブーツを貸す……と言うのも考えないではないけれど、水賊に追いつかれた時の事を考えると、裸足では何かと不利になる。自分ばかりが……と舞子ちゃんに悪い気もするけれど、街に着くまでは丈夫な布を足に巻きつけて靴の代用品にしてもらわなければならない。十分に距離を稼げれば炎獣のポチを呼んで、その背中に乗ってもらうのもいいだろう
「こんなところかな」
 一通りの着替えを袋から出すと、あたしは舞子ちゃんを振り返る。
 助け出されたばかりのお姫様は、なぜかポーションのビンとの格闘の真っ最中。中身はとうになくなっているのにチュウチュウと音を立てて吸い続けていた。
 ―――やめときなさい、お行儀の悪い。
 それでも、そんな舞子ちゃんを見ていると、追い詰められていた心からフッと緊張が取れ、楽になる。
「さて、それじゃ舞子ちゃん、これに着替えてくれる? あたしはあっちのほう向いてるから着替えが終わったら教えてね」
 舞子ちゃんに着替え一式を見せると、ポーションのビンから口を離し、その顔へ花が咲いたかのように満面の笑みを浮かべる。予想通り、あたしの服を切れることに喜びを見出してるようなのだけれど――――――
「舞子ちゃん、危ない!」
 あたしの人生は回りの状況に流されてばかりなのだが、言い換えれば、どんな状況の中でも無事に――それこそ子供の頃から生死の狭間で――直感を頼りに生きてきたようなものだ。だからこそ、“それ”に反射的に動く事ができた。
 襲撃だ……突然表れた敵の奇襲に反応すべく、あたしの手から着替えの服は放り投げられていた。


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