第十章「水賊」06


「―――!?」
 突然脳裏に描き出された何本もの剣に突き刺されるイメージに、一瞬遅れて足裏が床を蹴り、身体を後ろへと飛ばす。
 動いてから驚きの感情が込み上げる……そしてそれにさらに一瞬遅れ、木製の扉から十本近い鋭い刃が突き出されてきた。けれどその時には既に、何も持っていない左腕で舞子ちゃんの腰を抱え、さらに一歩、大きく後ろに跳躍していた。
「え?……な、なんですか、今の……?」
「説明は後。……気をつけて。来るわよ」
 二歩も下がれば、背中はもう壁際だ。逃げ場を使い切った分だけ広がった扉との間合いを意識しながら木棍の先端を向けると、刃が引き抜かれ、穴だらけになった扉の向こうからなんとも場違いな拍手の音が聞こえてきた。
「素晴らしい……完全に不意を突いたと思ったのですけどね」
「……これはどういうこと、依頼主さん?」
 穴だらけにされた扉はドアノブまで壊れたらしく、軋んだ音を立てながら外から内へと開き、端がベッドへぶつかると床へ倒れ落ちた。
 塞ぐもののなくなった出入り口の向こうには、声で判断したとおりの人物……あたしをこの船に乗せた仕事の依頼人が屈強な船員を従えて立っていた。顔には笑顔……けれど今まさに殺そうとしたあたしへ向けるのには、あまりに場違いすぎる笑顔だった。
「やはりあなたの実力には目を見張るものがある。いや、事情が事情でなければ、ぜひとも私と専属契約を結んでいただきたいところですよ」
「そう言う話じゃなくて……どうしてあたしを殺そうとしたのか訊きたいんだけど」
「そんな! 貴女を殺すだなんてとんでもない!」
 いささかの苛立ちと、心を締め付けるほどの不安。……本来なら足も踏み入れたくない状況のど真ん中にいて、今すぐにも逃げ出したっておかしくないほどだ。
 それでも踏みとどまっていられるのは、後ろに舞子ちゃんがいるからであり、綾乃ちゃんがまだ戻ってきていないからだ。あたしが受けてしまった依頼に巻き込まれた二人を置いて逃げ出すわけにはいかない……そんな想いを抱いて踏みとどまっているというのに、まるでこちらの神経を逆なでするかのように演技がかった仕草で依頼主は両腕を天井に向けて広げた。
「どうして私があなたを殺すのですか。まだ何も聞き出してはいないと言うのに。そして、弟の復讐も終えていないと言うのに」
「聞き出す? 弟の復讐? 一体何のことよ!?」
「私の言っていることが分かりませんか? では……彼の顔を見ればどうです?」
 そう言うと依頼主の商人は、出入り口の陰から一人の男を引っ張り出した。
「あ…あんたは……」
「へへ……こんなところでまた会えるとは思っていなかったよ、女冒険者さん」
 男の顔に見覚えがあった。―――忘れるはずもない。冒険者ギルドで散々あたしを冷たくあしらい、山賊と結託していたのがばれて軍の兵士に連れていかれた受付の男だ。
「どうしてあんたがここに……」
「脱獄してきたんだ。軍の連中が街に出張ってくるってんで、元から逃げ出す予定だったんだよ。仕事もやりづらくなるしな」
「あんたの仕事って………まさか!?」
 ある過程に思い至り、あたしの目が依頼主へと向けられる。
 山賊に情報を流していた冒険者ギルドの男。その男を脱獄させてこの船に乗せていると言う事は……
「つまり……兄のほうも山賊だったってわけね」
「いいえ、ちがいます。―――私は“水賊”です」
「なっ……!?」
「アマノの街で運搬業を営む商人とは仮の姿です。私を含め、この船の乗員は皆、他の船を襲っては積荷と金品を奪う水賊こそが本来の姿なのですよ」
「じゃ、じゃあ、水賊からの護衛って依頼は……」
「誰にも邪魔されないこの船の中にあなたを招きいれるためです。じっくりと腰を据えて聞きたいことがあったのでね」
 ―――じゃあ、4000ゴールドの依頼料も嘘……く、くぅぅ…!
 胡散臭い仕事だと前もって分かってはいたけれど、改めて実入りがないと分かると精神に多大なダメージを受ける。温泉探しで結構準備にお金をかけたし、アマノの街では依頼料もらえなかったし、このところの金運の悪さは普通じゃない気がしてきた。
「……それで、あたしに訊きたい事ってなんなよ。それ話したら、この船から降ろしてくれるんでしょうね?」
 考えろ……金運はともかく、舞子ちゃんと綾乃ちゃんの二人を連れてこの船から逃げ出すためには、あたしのなけなしの脳味噌でもフル回転させて考えないといけない。……そのための重要な鍵になるのが、“あたしから訊き出したい事”だ。この狭い船室で不利に戦うよりも、なんとか上手く立ち回って―――
「話が早いのは私としても助かります。アジトに連れ帰って拷問など、私もしたくありませんからね」
「同感。あたしも弱いものいじめはしたくないの。あの全滅させられた山賊たちみたいになりたくなかったら、おとなしくしている事ね」
 この言葉は、依頼主……水賊たちのボスに向けた言葉じゃない。その左右で部屋に足を踏み入れる事無く剣を構えている船員たちに向けた言葉だ。
 強がっているだけのあたしの目からも、何故か怯えているのは見て取れた。それが「あたしが一人で山賊退治した」と言う自分でも信じられない噂の効力のおかげだと思い至り、ちょっとだけ脅かしてみたのだが……効果は思いのほか高く、互いに顔を見合わせるなど動揺が広がっていく。
「そのように身構えられては私どもが困ります。穏便に話し合いといきませんか?」
「あたしは構わないわよ」
「では……彼女にもこの場に同席していただきましょうか」
 いちいち演技がかった動きをする水賊のボスにいい加減イライラするものを感じる。
 話し合いなんて悠長な事はせずに強襲してたたき伏せて人質にしてやろうか……切羽詰っているせいか、その考えが至極真っ当で最良方法のように思えてくる。
 ―――同じ事を、相手が実行していた事にも気付かずに。
「なっ……綾乃ちゃん!」
 ボスが合図をし、ボスの弟が連れてきたのは、縄で縛り上げられた綾乃ちゃんだった。
「せ…先輩………」
 その顔には涙の後。必死に抵抗したのだろう、グルグル巻きの縄からはみ出している衣服の何箇所かには裂けた場所が見て取れた。
「あ、あんたたち、話し合いとか言っといて人質なんかとるわけ!?」
 ―――あたしの悪い予感は、見事に的中していたわけだ。声を荒げてはいるけれど、綾乃ちゃんが捕まったのには、無理についていかなかったあたしにも責任がある。……それが分かっているから、声を震わせてしまうのだ。
「人質とは人聞きが悪いですな。私はただ、この彼女にもっとも安全な場所で話を聞いていただきたいのですよ。なにしろ、私の傍には彼女の“命”に手を掛けようと言う輩はおりませんからな」
「……“身体”に手をかけても、絶対に許さないからね」
「そう凄まれましたら、こちらの方が怯えるだけですよ?」
 そう言うと、顔に貼り付けた笑みは一切崩さず、自分の横へ連れてきた綾乃ちゃんのアゴを強く掴んで引き寄せる。恐がって何も喋れないでいる綾乃ちゃんの反応を楽しむように顔を近づけ、大きな口から生暖かい息を吐きかけながら軟体動物のような不気味さを漂わせる舌をレロンレロンと蠢かせ、あたしへと見せ付ける。
 このボスの男……商人のような出で立ちはしているけれど、あたしのなけなしの迫力で怯むような玉じゃない。そして、反抗的な態度をとる事を許すような玉でもない。
 ―――反抗したら、綾乃ちゃんが……って事ね。
「お姉様ぁ……」
 打つ手を絶たれて困惑していると、舞子ちゃんが涙声を漏らしながら背中にすがり付いてくる。
 ……たった二人だけなのに、助けて守ってするのって、スゴく大変なんだね……
 けれど、綾乃ちゃんのことだけに目を奪われていたあたしにとって、舞子ちゃんの存在はちょうどいいストッパーだ。
 なにも、対抗策全てが使えないわけじゃない。胸の奥にわだかまった重たい空気を一息で吐き出すと、木棍を脇に挟んで頬を両手でパチンとはたく。―――うし、気合はいった。
 頭の中は熱くなったままだけど、とりあえず冷静な判断は戻った。そして水賊のボスへ視線を向けると、一歩も引かない意思表示として両手で木棍を水平に持ち、口を開いた。
「それで、こうまでしてあたしに訊きたい事ってなんなのよ。いい加減、腹を割って離してくれないかしら」
「これは残念。もうからかえなくなってしまいましたか。……それでは訊かせてもらいましょう」
 唇がつりあがる。……室内からのランプに照らされ、陰影が突いた水賊のボスの顔は、まるで微笑む悪魔のようだ。それでも涙目になってあたしを見つめている綾乃ちゃんの前で同様は見せられないと、必死に気勢を張り続ける。
 そして、
「貴女が盗んだ山賊の財宝……その在り処を教えていただきたい」
「知らないわよ、そんなの」
 ………話し合いは十秒掛からずあっさり終わった。
「し…知らないはずはないでしょう。あなたが一人で私たちの仲間である山賊たちを壊滅させ、軍が到着する前に何処かへ隠したはずだ。私が手に入れた情報では国軍は財宝を発見してはいない。つまり、あなた以外に掠め取った方はいないんですよ。この期に及んでウソをつくなど――」
「嘘じゃないわよ。あたしだって軍隊の人に助けてもらうまで気を失ってたんだもん。身体ってボロボロで、治療術師の人がいなかったら今でもベッドでウンウン唸ってたんだから」
「だがあなた以外にありえない。誰一人として逃げられなかったのだ。私が商船を襲い、陸路で横流しして溜め込んだ財産を、ネコババしたのはお前だろうがぁあああ!!!」
「………ハァ…そのお金が汚いだとか、あんたの地が丸見えになってることとか、とりあえずそう言うことは置いとくわ」
 何であたしがこんな目に……盛大な勘違いで罠にはめられて綾乃ちゃんを人質に取られてしまったのかと思うと頭が痛くなってきた。
 ―――仕方ない。あたしはそんな財宝なんて欠片も手に入れていない証拠を突きつけるとしよう。
「少し考えれば分かるでしょ……そんな財宝、欠片でも手に入れてたらねぇ、わざわざ船代惜しんだり依頼料貰えなくて拗ねたりしないわよ、この馬鹿ッ!」
 そう叫び、自分で地雷を踏んだ事に今更気付く。
 ……心が痛い……いや、お金はないわけじゃないんだけど、娼館で稼いだお金だし、あんな事をされなければお金を稼げないと言うのも……ある意味金運がない証拠でもあるわけで…シクシクシク……
 あたしがガックリとうな垂れてしまうほど精神にダメージを負ったけれど、これで誤解が解けたはず。何はともあれ一件――
「ふん、そんな戯言に惑わされるものか。知らないと言い張るなら、拷問をしてで吐き出させてやる!」
 ―――落着させてはくれないようだ。
 言葉を放った水賊のボスが綾乃ちゃんを抱きかかえて一歩下がり、周囲に示すために腕を前へと振る。その指示の意味するところはあたしを捕らえること……けれどあたしの事を怪物女とでも思っているのだろうか、入り口からうかがうだけでなかなか襲い掛かろうとしてこなかった。
「ええい、何をしている! あの女を捕らえたヤツには分け前をやる。千…いや、二千ゴールド出すぞ!」
 怯えていた男たちの表情が一気に変わる。こんな盗賊家業をしているだけあってお金には目がないらしい。
「よ、よく見れば、かわいいただの女じゃないか……やってやる、やってやらぁぁぁああああああ!」
 金欲に背中を押され、奇声を上げながら水賊の一人があたし目掛けて突っ込んでくる。……が、なんか目があたしの胸や股間ばっかり見てるし、ズボンの前がものすごくテントを………って、
「女の子の前で卑猥な行動は慎めぇ―――!」
 背後にいる舞子ちゃんの身体をすくめた気配が、こいつを近づけてはいけないと警鐘スイッチを入れる。
 とりあえず足も身体も震えはない。とりあえず木棍で迎撃を………と思っていたら、


 ―――コキン♪


「はうあうぉぬぉぉぉ!?」
 ―――いや、軽く突き出しただけ。追い返すように木棍の先端を前へ出しただけだったんだけど……その先端が、突っ込んできた男の勃起した股間に、吸い込まれるように突き刺さってしまった。
『………はうっ!』
 白目を剥いて突っ込んできた男が倒れこむと、後ろでは水賊一同が股間を抑えて腰を引っ込めていた。
「えっと………わ、わはははは、見たか、必殺のゴールデンクラッシュ! さあ、男の子をやめたい人からかかってらっしゃい!」
 我ながら、えげつなくて痛い必殺技だなぁ……床でピクピクのた打ち回って泡吹いてる男の人の痛み苦しみが分かってしまうだけに、あたしも思わず太股に力を込めてしまう。
「そ、そんな必殺技、嘘っぱちだぁ〜〜〜!」
「仲間の仇だ、や、優しく犯してやるだど―――!」
 続けざまに今度は二名、そしてそれに続けと通路の奥から新たな水賊たちが顔を覗かせる。
 人海戦術を取られると、こんな狭い部屋では身動きが取れなくなってしまう。だから狭い入り口の利点を生かすため、あたしは一歩前へ出て木棍を振るった。
 カキン! コキン!
「パピッぶゥ!?」
「ペッポォ!?」
 ………ゴールデンクラッシュ、再び炸裂。……ああ、こんな嫌な手ごたえ、さっさと忘れてしまいたい。
 だけど非力なあたしが一撃で相手を殺さずに昏倒させられるのだから、急所突きが有効なのは間違いない。……いっそ死んだ方がマシかもしれないけれど、今後の人生をどう生きるかは本人に選んでもらうとしよう。
 攻撃した場所はともかく、瞬く間に三人を倒すと、木棍の射程が部屋の入り口へ届く。前に出た人間が倒されて動きを止めた水賊の頭を右と左の一個ずつを、縦に回した木棍の先端でかち上げ、通路の壁に背中を押し付けた水賊のボスへと迫る。
 ―――狙いは綾乃ちゃんを抱えているほうの肩。そこを突けば……!
 倒すよりも、まず救う事を。―――戒めを受けている綾乃ちゃんを助け出すため、端を掴んだ木棍を最大射程で突き込んだ―――が、
「―――!?」
 ボスへ届く前に木棍が上へとはじかれる。アゴを一撃されて気絶した男の後ろから現われたまた別の水賊の剣があたしの木棍からボスを守り、千載一遇のチャンスを物に出来なかったあたしは、屍のように動かなくなった床の男たちの上を飛んで元いた舞子ちゃんの傍まで後退せざるを得なくなる。
 ―――けれど、これも作戦だ。
 後一歩のところまで迫れたのは僥倖ではあるけれど、どのみち綾乃ちゃんを助け出せてら部屋へ引き返すつもりでいた。
 揺れる船の中でも支障なく動ける身軽さを利用しての一撃、そして後退……それに続くのは、勢いに乗った水賊たちの室内への殺到だ。
 そんな連中を一網打尽にする罠が、既に部屋の入り口に仕掛けてある。契約したモンスターの蜜蜘蛛を封じ込めた魔封玉を、こんな事もあろうかと扉の上枠に仕掛けておいたのだ。元々はあたしがトイレに行っている間の部屋の警戒のためだったんだけれど、はずし忘れていたのが功を奏した。
 同様に、やはり一人でトイレに行かせるのが心配だったので、こっそり綾乃ちゃんの服の襟に黒装束のリビングメイル、ゴブアサシンの魔封玉を忍ばせている。
 ―――蜜蜘蛛の糸で数人まとめて絡めとって動きを封じて、その直後にゴブアサシンで綾乃ちゃんを助け出す!
 あたしが退いた直後、そのタイミングはすぐにやってくる。仲間の屍――死んではいないけど――を乗り越え、新たに二人が部屋へ飛び込んでくる。
 この二人の動きを封じれば、水賊たちの突入を遅らせて綾乃ちゃんを助け出す余裕が出来る――木棍の中ほどを持って振り回して相手の突入の勢いを弱めると、蜜蜘蛛を魔封玉から開放する為に唇を開いた。
「蜜蜘蛛、出番よ!」
「邪魔だ。僕と彼女の間に立つんじゃない!」
 ―――なっ…い、今の声は!?
 聞き覚えのある声が聞こえてきた直後、同時に三つのことが起こった。
 一つ目は、蜜蜘蛛を開放しようと光を放った魔封玉が、どこからともなく室内へ飛び込んできた包帯のような白い布に巻きつかれ、そのまま床に落ちたこと。
 二つ目は、水賊のボスが何もないはずの通路の壁へと振り返り、綾乃ちゃんや手下を連れて逃げ出したこと。
 そして三つ目は―――
「舞子ちゃん、こっち!」
「え……きゃあっ!」
 全身へ叩きつけられる巨大な振動弾のイメージが脳裏を突き抜ける、
 少し先の運命を読む……と説明され、反応することにも慣れてきた直感に迷う事無く従い、あたしは舞子ちゃんを両腕で抱きかかえ、運良く自分の背負い袋までをも抱え込みながら、二段ベッドの下の段へダイブした。
 着地は背中。勢いがありすぎて壁にまでぶつかったけれど、辛うじて攻撃のイメージの範囲外へと飛び出す。そして―――
「ぎゃあぁあああぁぁぁぁぁぁ―――――――――!!!」
 倒れていた男も、立っていた男も、あたしと舞子ちゃん以外に部屋の中にいた五人の人間を巻き込みながら、巨大な振動弾は部屋を突き抜け、入り口の向かいの壁を粉砕した。
「今の…は………」
 振動弾が通り抜けた後には何もなかった。壁も、天井も、そして巻き込まれた男たちの姿も……アレほど巨大な魔法攻撃を受けて生きていられるかどうかは判断しづらいけれど、生きていたとしても、壁の外……嵐の吹き荒れる大河へと放り出されてはどうしようもないだろう。
「……これで邪魔者はいなくなった。これからは、キミとボクだけの時間だよ、たくや」
 この声……できることなら、もう二度と聞きたくはなかった。
 あたしは怯えている舞子ちゃんをベッドへ残したまま、いつ床が抜けてもおかしくないほどに痛んだ床を踏みしめて声の主と対峙する。
「そう……その顔だ。あれから一瞬たりとも忘れる事はなかった。護るべき誰かを背後にかばい、まっすぐにボクを見つめるその瞳……やはりキミは美しい、憎らしいほどに美しいよ」
 水賊のボスと綾乃ちゃんを後ろに残し、声の主――黒いローブで全身を隠した男が部屋へと踏み入ってくる。
「あんたはすっかりミイラ男ね。見違えたわ」
 ローブの下の素顔は見えない。隠れているわけではない。顔全体を覆うように包帯が巻きつけてあるのだ。
 ―――ミイラ男と言うネーミングは、あまりにひねりがなさ過ぎたか。
「僕は照れ屋なのでね。一度離れ離れになったキミの前に姿を晒す勇気がなかったんだ……だから、今から見せてあげる。生まれ変わったボクの素顔を……」
 正直言って、見たくない。見たく“も”ない、と言った方が正しいかもしれない。
 魔道師には不利な、たった二歩しかない間合い。だというのに、目の前の男はフードを脱ぎ、顔の包帯に手を掛ける。
 ―――攻撃するなら、今しかない。
 完全に油断している今なら、一撃でたたき伏せられるかもしれない。金的でもいい。どこでもいいから木棍での一撃で……だけど、そこまで考えていながら身体が動かない。まるで蛇を前にしたカエルのように、全身が萎縮して指一本動かせない。
「ッ………!」
 白い包帯を全部はずし終えると、魔道師は袖から取り出したメガネを顔にかける。……そして優雅さを感じさせる仕草で上を向いた顔を見た瞬間、あたしはあふれ出す感情を押し止める為に奥歯を音が鳴るほど強く噛み締めてしまう。
「覚えているかい、ボクの事を。忘れていないかい、この世の支配者になるボクの事を!」
 忘れようとしても忘れられない……あたしの目の間にいるのは、フジエーダの街を襲撃して混乱に陥れた黒い魔道師、佐野本人に間違いがなかった。―――だからあたしは、前に飛んだ。
「このぉおおおおおおっ!」
 木棍を投げ捨て、抜剣したショートソードを大きく振り上げる。そして笑みを浮かべてあたしを見つめている佐野の顔目掛け―――全力で振り下ろす。



 ……フジエーダで、石をぶつけられたところが痛かった。


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