第九章「湯煙」01


 ―――小さな水音を響かせて、つま先が水面へと入っていく。
 あたり一面は水面から立ち上る白い湯気に覆われている。南部の気候は温帯で寒さとは無縁であるが、十分過ぎる以上の湿り気を帯びた熱い湯気は、足を水面に浸した女性の肌へ纏わり尽き、心地よい程度に汗を噴きださせる。
「んっ……ここのお湯は相変わらずね。長旅の疲れが抜けて行くようだわ」
 水は温かかった。
 火をくべて沸かしたわけではない。魔法で加熱したわけでもない。
 地熱により温められた地下水が地表に噴き出ていて、それが岩をいくつも組み合わせた窪みの中に溜まっている。―――それは温泉と呼ばれる、天然のお風呂だった。
 クラウド大陸の南部域は火の魔力が強く、大きな火山がいくつも点在している。その一つのマグマが熱した水は平均以上に熱い。温泉の淵の岩へ腰掛けた女性は膝から下だけをお湯に浸からせ、タオル一枚巻いただけの体の表面をしっとりと汗ばませている。
「………これもいらないわね」
 すっかり湿ったタオルの結び目を解くと、女性は恥らう様子も見せずにその美しい四肢を惜しげもなくさらけ出した。
 もしこの光景をまだ女性も知らない初心な男性が見ていれば、一生忘れられないような光景だった。
 緩やかに波打つ長い髪が玉のような肌へ張り付き、その起伏に飛んだ体の曲線を一層強調している。ただ若いことだけを誇る生娘には絶対に出せない妖艶な色気を漂わせながら髪を掻き揚げれば、90センチを軽く超えるたわわな膨らみが体の動きに合わせて重たげに揺れた。これだけ大きければ形が少しぐらい崩れていそうなものだが、完璧とも言える形の美巨乳は温泉の熱気に当てられてほんのり桜色に染まり、乳首をツンッと突き上げていた。
「これで素敵な男性かかわいい子でもいれば最高なんだけど―――」
 まるで美の女神に愛された……いや、女神そのものと言ってもいい美しさを観賞している者は誰一人としていなかった。湯煙の向こうにも人影はなく、残念そうなため息だけが湯煙の満ちた空間へと響いていく。
「―――ご報告いたします」
 不意に……いや、その声は何の前触れもなく、突然聞こえてきた。
 若く、そしてよく通る女性の声だった。
 誰もいないから肌をさらけ出していたと思われる女性だが、後ろから声が聞こえてきても振り返るそぶりすら見せず、湿った髪を後ろへ払い、
「それで?」
 と、一言だけ問うた。
 簡潔な問いに答えたことは一度や二度ではない。この女性の機嫌を伺いながら――ただそれは、彼女が楽しんでいる時間を邪魔しないかどうかと言う事だが――報告した経験は一度や二度ではなく、そもそも軽い失態を犯しても咎めるような事をする人間でないことはよく理解していた。
 しかし、湯煙の向こうに隠れて姿を見せない女性は「報告」をすぐには口にせず、ただ戸惑うような雰囲気だけが湯気のカーテンの向こうから伝わってくる。
「…………………フジエーダは健在です」
 一分以上口をつぐんだ末の答えは、問い掛け同様に簡潔だった。―――だが、その言葉が意味することは一万の言葉でも匹敵できないほどに重要であった。
「―――そう」
 湯船に足をつけた女性は短く答え、傍らに積み上げていたカードから五枚を拾い上げた。
 大きさは伝統的な占いに使われるものと、ほぼ同等。女性の手に平を覆い隠すようなカードは縦長で、表面には芸術家が描いたかのような見事な絵が描かれている。
 熱気と湿り気の多い場所に芸術品とも言えるカードを持ち込んでいることには差して気に留めず、女性が五枚のカードを挟んだ親指を滑らせる。
 ―――『燃える山』
  ―――『堤の決壊』
   ―――『操り人形』
    ―――『折れた剣』
 扇のようにカードが広げられると、描かれた図柄が上のカードの下から現れてくる。現われた四枚のカードの絵柄が何を意味するかは不明だが、最初の一枚――四枚の上に置かれていたカードに描かれているのは、
 ―――『杖持つ悪魔』
「……はじめてかしら。私のカードが間違った運命を描き出したのは」
 間違った、と口にはしたが、その口元にはどこか嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「フジエーダに送り込んでいたのは以前よりこの地にいた者ばかりですが、情報は確かかと思われます。また、この報告を送った間者が―――」
「それ以上は言わなくてもいいわ」
 女性はカードの束から一枚めくると、そこには羽ばたく一羽のハトが描かれていた。
「黒いイメージの付きまとう間者に白いハトでは意味があわない。これが意味するのは黒から白……離反……心変わり……それらは羽ばたくハトのイメージじゃない。大空を目指すハトは間者を辞めて新しい人生を歩みたい心の現われ…と言うところかしら」
 ただのカード一枚でそこまで連想する想像力はさすがであるが、湯気に隠れた声の主は否定も肯定もしない。それは彼女の言葉には常に間違いがなく、わざわざ口に出して湛える必要性もない事を熟知しているからである。
「―――いいわ、許可します。むしろ、そのような思いを抱ける子がいた事を嬉しく思います」
「は、ありがたきお言葉」
「でも、一度詳しく事情を聞いておきたいわ。その子、まだフジエーダにいるのかしら?」
「数日の内にフジエーダを離れ、クラウディアへ向かうと書かれています」
「それなら、この近くを通るときに会いに行きましょう。彼女が何を見て、何を感じたのか……端的な報告ではなく、今回の事には彼女の口から直接聞くだけの価値があるでしょう」
 また一枚、カードをめくる。
 そこに描かれているのは間違いなく運命だった。
 彼女が望めば、そこにはあらゆる未来が描き出される。人の心も、世界の未来も、カードを一枚めくるごとに、彼女にとって全て知り得てしまう退屈な未来を覗き見ることが出来る。―――はずなのだが、
「………ふふふ」
「いかがなさいました?」
「面白い結果が出たわ。―――あなたも見てみる?」
 声は後ろから聞こえてくるが互いに、姿を見せない、姿を確認しないまま。それでも気にせず手にしたカードを後ろへ投げると、四角いカードは、まるで風に運ばれるように空中を飛び、湯煙の中から突きだされた手の中に滑り込む。
「―――白紙、ですか?」
 声の主がカードを確認すると、そこに絵柄はなく、どう見てもただ白い裏地が見えるだけだった。
「真っ白い運命……いったい誰なのかしら。あなたは興味ない?」
「お戯れを……私はただ、御身を命に代えても守るのみ。そのような事へ心を裂く事はありえません」
 あいも変わらず……と、肩をすくめた女性はもう一枚だけカードをめくると、絵柄を確認してから腰を浮かせて立ち上がる。
「数日ここへ逗留するわ。余計な手間をかけるけれど食料の準備など、お願いできる?」
 女性は荘言葉を残すと返事を待たずに水面の上で軽く跳ね、頭からお湯の中へと潜ってしまう。まるで人魚を思わせるようなしなやかな動きで飛び込むと、一気に数メートル先にまで進み、仰向けになって全身から力を抜く。
 熱いぐらいのお湯の水面に浮かんで空を眺める。―――時間は夜。いくら湯煙が濃いと言っても星明りが見えてもよさそうなのに、まるで空全体に湯煙が掛かったかのように月ですらその輝きを見せない。
 と、その時、一陣の風が吹いて立ち込めていた湯気を少しだけ払いのけてしまう。
 そして、重たい湯気の中から声の主が姿を見せる。
「―――御意のままに」
 軽装鎧に身を包んだ女性騎士。
 まっすぐな長い髪が風に揺れる。
 ただその顔だけは、感情を感じさせない声色と同じように、表情を覆い隠す仮面がつけられていた―――








「くはぁ……ご…極楽ぅ………♪」
 肩まで温泉に使ったあたしは、途端に疲れが解きほぐされていくような感触に耐え切れず、恍惚の表情でため息を漏らしてしまう。―――いや、ジジくさいと自分でもわかってるけど、これは一種の快感だからもうどうしようもないな〜と最近思い始めている。ほぇ〜……
 あたしが今いるのはフジエーダからそう離れていない小さな宿場町だ。そこで「温泉」と言うものを初めて知り、佐野との戦いでボロボロになった体をこれからの長旅に備えてゆっくり休めている最中だ。
 旅を甘く見ていたつもりはないんだけど……やっぱり全身の筋肉、骨、血管、神経、ついでに内臓や頭や普段使っていない魔力回路まで痛くて痛くてしょうがない上体でてくてく歩いて旅するのはやはり無謀だった。
 フジエーダからあたしの旅の仲間になってくれた綾乃ちゃんも、元々旅に出るだけの体力がなく、初日の夕暮れには二人して道端にへたり込み、野宿の準備すら出来ないほどに疲れ果て……あそこで馬車が通りかからなかったら、野犬の餌にでもなっていたかもしれない。―――いや、あたしの今までの短い女の子人生を考えちゃうと、犬にも犯されそうでちょっと恐い。
 なにはともあれ、この街にはフジエーダから逃れてきた人も多く、色々と混乱しているようではあるけれど、こうして温泉宿に泊まれたのはラッキー……なんだと思う。本当ならお金もなくて、宿泊どころか食事にさえありつけない有様だったろうし。屋根どころか美味しいご飯に温泉までついてるんだから文句は言っちゃいけない。
「ふぅ……深く考えない方がいいよね……」
 考えすぎるとのぼせるというのもあるけど、ま、色々と訳ありだし。
 それでもかれこれ三十分以上お湯に浸かっていると、全身がほんのり赤くなるぐらいに火照ってしまっている。この火照った体を姿身に映したりしたら、自分の姿だというのにえもいわれぬ色気を発しているような気がして、とても人には見せられないものがある。
 とは言え……上がらなきゃいけない時間まで、もうそろそろと言ったところだ。あたしは人の目が無いとは言え、普通のお風呂の何倍もある岩肌の湯船から立ち上がると、水の滴る裸体を小さな手拭いで軽く隠し……
 ―――やっぱりいやらしい体よね……たはは……
 自己主張の激しいたわわな膨らみを見下ろして、困って、その上恥ずかしくて、それでも頬を緩ませて複雑な笑みを浮かべてしまう。
 フジエーダでの様々な経験は、あたしの中の「女」を十二分に目覚めさせていた。―――いや、あたしは別に男の人とエッチしたいと思わない。思わないんだけど……これだけ大きいのに全然垂れていなくて、そのくせ先端だけはツンッと突き出ている胸の膨らみだけでも、男の人の股間にズンッと重たい感覚を込み上げさせるのに十分な魅力を秘めている。運動なんてろくに出来ないはずのあたしの体なのに腰つきやお尻にもたるんでいるところは一切なく、温泉から上がったばかりの肌は滑らかで艶やか。手の平を当ててスッと撫で上げてみても引っかかるのはおへその窪みぐらいで、太股から恥骨を通り、引き締まったウエストにまで指を滑らせただけで身をよじりたくなる快感を感じるぐらいにも敏感でもある。
 そして一番不思議なのは一番大事な場所……普段は一度も使った事がないみたいにぴっちり合わさっているのに、中はと言うと―――
「はうぅン!」
 あ……やだ、あたし……指、入れてる……さっきまでそんな気持ち…全然なかったのにぃ………
 湯船の淵で立ち尽くしたまま、あたしは形よく盛り上がった恥丘を割り開いていて、その中央でキュッと窄まっている膣口へ軽く中指の先端を差し入れてしまっていた。
「ハァ……あぁぁぁ………」
 軽く腰を引いたあたしの膣内で、熱と湿り気を帯びた粘膜が指に絡みついてくる。温泉のお湯が入ったのかと思ってしまうけれど、ヌルッとした液体は指を押し込めば押し込めるほど奥からあふれ出してきている。
「どうして……いつもこんなに……あぁああッ………!」
 立っている事が出来ず、湯船から洗い場へ倒れこんだあたしは、磨き抜かれた岩肌の上で仰向けに寝そべると、湯気を逃がすために隙間の多い天井へ向けて張りのある膨らみを突き上げてしまう。
「とまんなく……なっちゃう……こんなことしてる場合じゃ…ないのに……あぁぁ…こんなに……感じて………」
 以前よりも膣壁を擦る感触が強く感じられてしまい、両手を股間へあてがったあたしは太股を閉じ合わせたまま身を揺すり、目じりに涙をためてしまう。
 硬くなったクリトリスを転がし、指を往復させるたびに量を増して動きを滑らかにする愛液をかき混ぜる。まだ始めて数分と経っていないのに、指を咥えて離さないヴァギナには痙攣が走り、奥から熱い衝動が込み上げてきてしまう。
「ハァアアアッ! 来る、ああ、ああぁぁぁ……! い…イきそう……イきそ…うぅんんん……!」
 まるで別の生き物のように蠢動する膣内へ二本へ増やした指を押し込み、意思とは無関係に動いた左肘で床について、上半身を右へ、下半身を左へよじって、一段と深い場所を抉りながら震える腰を跳ね上げた。
「あっあっあっあっあああっ、あ、ア――――――――ッッッ!!!」
 長い中指を根元まで突き入れると、コリッとした感触が指先に触れる。それがあたしの女の証……子宮なのだと感じた瞬間、強烈な刺激が背筋を駆け上り、張りのある瑞々しい肉体をビクビクと若鮎のように打ち震わせながらあたしは愛液を噴き上げていた。
 ―――また……やっちゃった………
 この温泉宿に宿泊し始めて六日目。一人になるとついつい指で体を慰めてしまう。こういう事をしてたら男に戻ったときにどうなるか……考えただけで身の毛がよだつけど、それでも快感の味を骨の髄まで教え込まれたあたしの体には、どうしても時々はこういう行為を求めてやまなくなる時が来てしまう。
「はぁ〜……こういうことしてると馬鹿になっちゃうって、本当かも……」
 体を起こし、愛液にまみれた指を見ていると、忘れていた恥ずかしさが込み上げてきて、顔が真っ赤になっていくのが自分でも分かってしまう。
「ああもう! さっさと体洗って出ようっと」
 とりあえず気持ちを切り替える。そう決めると、手近な場所に転がっていた桶でお湯を救い、頭から勢いよくお湯をかぶる。
「―――ぷぅ」
 髪の水気を頭を振って飛ばし、オナニーの事は忘れて体を洗おうと手拭いに手を伸ばす。―――とその時、脱衣所のほうから綾乃ちゃんの声が聞こえてきた。
『せんぱ〜い、着替え、籠の中に入れておきますね』
「うん、わかった。あと体を洗うだけだから〜」
 時間もそれほど残ってない。―――あああああ……やっぱりヤダな、着替えるの……
 ついさっきまでは、こんなところに泊まれるのはラッキーだと思ってたのに、思い込もうとしてたのに、例のあの服を着なきゃいけないのかと思うと、こんな場所に泊まらされる自分のみの不幸を神様に訴えたくなってしまう。
 しかたない、しかたないとどれだけ自分に言い聞かせてみても、心の奥底では納得がいかない。いっそ夜逃げしようかと思ってしまうほどだ。―――だけどここを出て行ってしまったら、あたしは明日にも飢え死にするしかないわけで……ああ困った、どうしてあたしの人生はこんなんばっかなのよぉぉぉ〜〜〜!!!
「あの……先輩、どうかなさったんですか?」
「いや、うん、あのね………って、あ、あ、綾乃ぢゃんんん!!?」
 綾乃ちゃんの声のした方をみれば綾乃ちゃんがいた……のは当然だけど、なぜか裸にバスタオル一枚と言う、男なら生唾を飲みたくなるような格好であたしのすぐ近くに近づいて来ていた。
 ………こうして見ると、綾乃ちゃんの裸もかなり色っぽい。小柄な綾乃ちゃんにはあたしほど胸や腰回りのボリュームはない、あたしより年齢が下である分だけまだまだ発育途上な体つきだ。―――だけど、それがいい。全体的には幼さを感じさせるのに、小さいながらも胸の膨らみは確かにあり、ほっそりとした体つきは一切の余分なところのない見事なラインを描いている。今はお下げの髪をといていて、普段と違う髪型と赤く染まった頬がなんともいえない新鮮さになってあたしの心を鷲掴みにしてしまっている。
 目に焼きついて放れない白い肌。そして抱きしめれば折れてしまいそうな細い体。だけど所々に覗き見えている女性特有の柔らかさ。―――まだ花開く前の蕾のような綾乃ちゃんのバスタオル姿はまさに絶妙のバランスの上に成り立っている危うい魅力があった。
 もしこのまま迫られでもしたら、あたしの理性はどうやっても綾乃ちゃんに襲い掛からずにはいられそうにない……んだけど、考えてみれば、あたし、綾乃ちゃんとそう言う関係を持った事があったっけ……じゃあなに? これはもしかして……お、お、おおおお誘いとか!!?
「い、いけません! 綾乃ちゃんはそんなことしちゃダメ! 神様が許したって、そんな破廉恥な綾乃ちゃん、あたしが絶対に許しませんからね!」
「え……お背中を流して差し上げようって思ったんですけど……あの、余計なおせっかいでしたか?」
「―――ほえ?」
 あ………そうなんだ。あたし、なんかとんでもない勘違いをしてたようで……はは、あはははは……
「私はまだお仕事は出来ませんし、先輩にはいつもご迷惑をかけしてばかりで……ですからせめて、このぐらいのことはさせて欲しいんです」
「それじゃお願いしよっかな………でも、綾乃ちゃんは恥ずかしくないの?」
 あたしはちょっと醜態見せたのが恥ずかしくて、顔は赤いまんまだ。それを隠すように背中を向け、手拭いを太股の上に置く。
 ……けど、綾乃ちゃんもこんな大胆な格好であたしの前へ出てくるなんて……うんうん、ちょっぴりない肯定気だった綾乃ちゃんが大胆になったなぁ……嬉しくもあり悲しくもあり。
「まあ、あたしは目の保養が出来ていいんだけど……」
 つい本音がポロッと口から出てしまうと、綾乃ちゃんも意識したのか顔を赤らめてタオルの胸元を押さえる。
「恥ずかしくないわけじゃないんですけど……昔は妹と一緒にお風呂も入ってましたし、女同士なんですからそれほどは………」
「あたし、男だけど?」
 これだけは譲れない真実。―――誰がなんと言おうと、『あたしは男』と言う事だけは忘れない。………んだけど、
「あ、え……あっ!?」
 ………その驚きようはなんなのかな、綾乃ちゃん?
「そ…そうですよね。先輩、男の人で……やだ、私、あの……失礼しますっ!!!」
「ほえ? 綾乃ちゃん?」
「すみませんすみませんすみませんすみませんすみません〜〜〜!!!」
 振り向いたときには、綾乃ちゃんは脱衣所の扉の前で何度も頭を下げ、混乱したまま浴場から飛び出していった。
 ………忘れてた、のかな?
 フジエーダを出てからだいたい一週間。その間にも旅の目的が「男に戻ること」だと何度か言っていた覚えがあるんだけど……今度から三日に一回は「あたしは男です」と綾乃ちゃんに言い聞かせなくちゃいけないようだ。
「―――やば。時間、もうすぐじゃない!」
 気付いたときには、もうのんびり体を洗っている時間はなくなってしまっていた。しかたないので桶でもう一杯お湯を浴びたあたしは、綾乃ちゃんがいなくなっているのを確かめてから脱衣所へ戻った。
「うっ……昨日よりもなんかこう………また、やらしい服に……」
 体を拭くのも速攻で終わらせ、籠の中へ綾乃ちゃんが入れておいてくれた服を手にしてはみるものの……それはもう服とは呼べないような代物だ。
 スケスケでミニスカ。ゆったりとした衣装は前が開いていて、帯を巻いていないと胸もおへそも全部見えてしまうような極ミニなんだけど……今日は服を着ていても、胸の先端の色が透けて見えそうなほどのシースルー。辛うじて肌に白い色が乗るぐらいで、裸と大差のない衣装を着てこの浴室にいなければ、あたしはこの温泉宿にいるわけにはいかなくなる……ああ、神様、神様の大馬鹿野郎ぉぉぉ〜〜〜!!!
 とりあえずあたしの運命に怒りはぶつけた。―――だけど、それでこの服に色がつくはずもなく、タイムリミットも差し迫っている。
「ああぁ……もう少し、この現実を忘れていたかった……」
 温泉に浸かっていたときの幸福感はいとも容易く吹っ飛んで、あたしは悲壮感に涙しながら男性を誘惑するための衣装に袖を通した………



 あたしが滞在しているのは、温泉宿であってそれだけじゃない。
 正確には「温泉宿、兼、娼館」。世にも珍しい本物の温泉を利用した娼館宿なのだそうだ。
 ―――そう、つまりは、なんて言うか説明にかなり困ってはいるんだけど……いきなり旅費が底をついたあたしは、もう二度と娼婦としては働くまいとの決意を破り、今いるこの温泉付きの個室で男の人相手にエッチなご奉仕をさせられている。
 お金を稼ぐ手段がある事は幸い。だけどそれが娼婦のお仕事である事はどうしようもない不幸……やはりと言うか何と言うか、あたしの男へ戻る旅は最初から、エッチな事から始まったのであった……


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