序章04


 へぇ〜〜、これが神殿の中か。初めて入ったけど…なんかスゴいなぁ……  いつもは立ち入りが禁じられている神殿の中は、思わず自分の目を疑いたくなるほどの別世界だった。  外見上は白い神殿はその全てが白色の大理石で作られていた。そこまでならある程度予測もついたが、湖の中 央に突き出たこの小島もどうやら大理石の柱のようだし、なにより床と天井をつなぐ柱や、湖を眺めるためにそ の面積を減らされている壁の全てにこまやかな彫刻が施されていた。 「………はぁ〜〜」  建物の荘厳さに加え、神殿から眺めるロケーションもすばらしかった。神殿の白と、空の青、湖のきらめきに 森の鮮やかな緑……まるで世界の美しさをここに集めて楽園でも築いたかのように、いや、この神殿こそが神様 の住む宮殿なのではないかと思わせるその光景に、ただただ呆然として息を飲むばかりだった。  こんな神殿に奉ってもらえるなんて……本当の勇者って尊敬されてたんだな。  自分とは大違いだ、などと思いながらもする事をしないと。え〜っと……まずはこの剣を壇上に―――――― ―マッ…テイ…タ…… 「………へ? な、なんだ、さっきの声?」  突然、神殿ないに無気味な声が響く。  なんだ、遠話じゃない。この中には僕しかいないのに……  湖岸から神殿までの距離はかなりある。なにしろアイハランの村がすっぽり入ってお釣りが来るほどの巨大な 湖だ。さすがに村最強の魔法使いのおばさんでもここまで魔力を届かせる事は出来ない。 「気のせい……だったかな?」 ―――――マッテイタゾ……コゾウ  今度ははっきり聞こえた。だれか…ここにいる!?  それほど大きいとは言えない声だが、言葉を発せられるたびに空気がビリビリと振動する。  なんだ? なにがいるんだ、なにが!?  背筋に冷たい震えが走り抜ける。誰もいないなら……モンスターと考えるのがこの世界の常識だ。  この世にもう魔王はいないと言うけれど、一歩でも村の外に出ればモンスターが待ちうける死の世界……とま ではいかないけれど、いろんな魑魅魍魎が人々に襲いかかってくる。  このアイハランの村には勇者の籠とも言える魔物よけの結界が張られているけれど、それだって万全じゃない。 僕が子供の頃には何匹かの魔物が侵入して大事になったことがある。  本当にモンスターなら…なんでこんなタイミングでこんな場所に!? ええい、くそ、なんで僕はこうも運が 悪いんだ!……あ、そうだ、剣、剣!  いまさら自分の生まれついての不運を呪ったってどうしようもない。もしモンスターなら…何とかして逃げな いと…! ――――ナガイ……眠リハ終ワッタ……  なんとか剣が鞘から抜けたのは、この一ヶ月の練習の成果だ!……いや、抜けただけじゃ安全でもなんでも無 いんだけど……それでも武器があると心強い。 「く…来るなら来い!」  相手はまだ姿を見せない……そのままずっと出てこないで!  とにもかくにも、こんなんじゃ祭どころじゃない。まずはモンスターが隠れている神殿から逃げ出して橋にま で出れば、湖岸にいる兵士やおばさんが助けてくれるはずだ……  神殿の中央に向けて剣を両手で構える。その方向に視線を走らせて何もいないのを確認するとじりじりと後退 さっていく。 ―――サイ初ノ贄ハオトコカ…クッ……マァ…イイ……  どこだ…どこにいる……どこだ…どこだ…!!  持ちなれない剣の重みを必死に支えながら目を左右に何度も走らせるが、魔物の姿は依然として見えない。  だが、神殿の中の空気は徐々に変化し始めていた。  胸が…熱い……この魔力量は…なんなんだ…!?  周囲の空間の魔力が充満していく。それは魔力が噴き出るアイハラン村でも感じた事がないほどの膨大な量だ。  それはまるで油のように僕の体にまとわりつき、空気と一緒に吸い込めば肺の奥に焼いたばかりの灰を流し込 まれたように胸が痛み、鼻がよじれて何も感じなくなってしまう。 「っ……!」  こめかみに痛みが走る。抗魔力が皆無の僕が濃密過ぎる魔力に直に触れ、少し魔力あたりを起こした様だ。  この魔物、只者じゃない……早く、早く外に出ないと…!  乗り物酔いに似た吐き気を何とか飲み込み、急いで外に出ようとするが脅える体はそれを拒んでいた。  呼吸もままならず、剣を構える姿もへっぴり腰。けれど常にまとわりつく危険への警戒感は走って逃げる事を 許しはしない。少しずつ、少しずつ、すり足で周囲の安全を確認しながら少しずつ、少しずつ ――――貴様ヲ食ラッテ 「えっ!?」  背後で突然膨らむ存在感。 ―ワシハ外ニデル!!  とっさに振り向いて剣を振れたのは僕にすれば神業的な動きだ。  村の宝と言われてる長剣は振り向く動きに合わせて弧を描き右上から左下へと振り抜かれ――  ――僕の体は勢いよく吹き飛ばされた。 「うあああああっ!!!」  剣を叩きつけた瞬間に甲高い音が響いたかと思うと、僕の全身に正面から衝撃波が叩きこまれた。  小柄で軽めの体重とはいえ男一人の体重が宙を飛び、そのまま神殿の反対側の壁に背中から叩きつけられる。  その威力は押して……知りたくなかった。おそらく鎧が無かったらさっきの一撃で即死していたに違いない。  けれど見栄えを重視した鎧は脆くも留め金が飛んだり砕けたり歪んだりで既に原型をとどめていない。それに 剣は―― 「つっ……!」  右手の甲に激痛が走る。  壁に背を預けたままずり落ち、床に座り込んだ僕は全身から引っ切り無しに湧き上がる痛みに顔をしかめなが らも力なく垂れ下がった右手に目を向けると、剣を握っていた手にはモンスターによる衝撃波とは別に、恐らく は吹き飛ばされるときに剣によって刻まれたであろう傷から噴き出る ――鮮血の赤が視界に映った。 「あっ…ああああああぃいいいあぁぁああああああっ!!」  クックックッ……心地ヨイ悲鳴ヨ……男ニシテハイイ声ナク……サァ…食ワレロ…食ワレロ…  ――ミギテガアツイ  今までこんな怪我はした事がない。  今までこんな痛みを味わった事がない。  今までこんな目に会った事なんてない!  素人同然の自分が剣なんか振った天罰なのか、灼熱の痛みが右手の甲から内側へと貫いている。  あまりの痛みで神経のほうが暴れまわりそうなだ。なんとか血を止めるために左手で手首をしっかり抑えつけ るが、体の方は痛みに耐えきれず白い大理石の床をのた打ち回る。  なんで…こんな…こんな痛い目に僕が!? どうして…どうして…!!  不思議と涙は出てこない。その代わりに右手からは止めど無く温かい血が流れ出し、転がるたびに僕の体は赤 く染め上げられていく。  ドウシタ…逃ゲヌノカ? 怯エヌノカ? 自分ノ血ノ池デ苦シミ悶エルダケカ? ナラバ用ハナイ…… 「くっ……ハァ!……くぅ!!」  お…落ち着け………こんなの痛いだけだ……我慢、我慢して…逃げ、ないと…!!  胸にたまった恐怖と痛みを叫んで吐き出したら頭の方が少しだけ冷静になってきた。とはいえ…痛い。とにか く痛いし、抵抗する気はさらさらない。唯一の武器の剣もどこかに行ってしまったし、どうにかしてこの場から 逃げ出そうとする事しか考えられない。  けど…どうすれば逃げられるって言うんだ? こんな…化け物を前にして……  絶望は、すぐ前にいた。  それは黒い影だった。人の姿はしていない。ゴーストなんかとは明らかに違う、魔力の塊のような存在――そ れが奴だった。  その魔力量も半端じゃない。おそらくおばさんの魔力の数十倍、魔法使いの村アイハランの全ての住人の魔力 を合わせても到底かなわない程の魔力がそこに集まり、一つの容を成していた。  ………言ってしまえば、こうやって目の前にいられるだけで生きている感じがしなかった。おそらくこいつが 気まぐれに動くだけでも僕の心臓は握りつぶされ、五体は肺も残さないほどに焼き尽くされるだろう。  だけど……だからってこんなところで…… 「死にたく…なんか…………」 ――拓也っ!? 「………え…明日…香……明日香!?」  何を呆けてるんだ、僕は! たった右手を怪我したぐらいで…!  痛いのは嫌いだ。だけど今はそんな事を言ってる場合じゃない。  明日香の声を聞いて痛みや恐れが一気に吹き飛んだ僕は、奥歯が砕けそうなほどキツく葉を噛み締め、怪我し た右手を床について体を起こす。 「明日香、来るな来ちゃダメだ、逃げろぉ!!」  僕だけならまだいい、だけど明日香まで…明日香までこんな奴に殺させるもんか!!  冷たく固い大理石の床を踏みしめ、血だまりを蹴り散らしながら立ちあがり明日香に駆け寄ろうとする。  なぜだか分からない。ただ、明日香の声を聞いただけで僕の体は呪縛がとかれたように動きを取り戻す。  だけど……明日香を守ろうとする意思に、吹き飛ばされ、怪我まで負った体がついていかない。前のめりにな りながらも踏み出した足は虚空を蹴り、起きあがったはずの体は一歩進んだだけでもう一度床へと倒れこんでい く。  何も出来ない……あまりに無力な僕の目の前で、黒い影は、入り口から駆け込んできた明日香の方にゆっくり と振り向いて―― 「拓也になんてことすんのよっ!!」 ―――明日香の右拳にぶん殴られて、さっきの僕みたいに勢いよく横の壁へと吹き飛んでいった。 「…………えっと……あれ?」  あんな影みたいな奴でも殴られたら痛いんだろうか? いや、その前に殴れるのか? 向こうが透けて見える ぐらいに実体が無いのに、頭ふらふらさせて「なんで殴られたんだ?」みたいなジェスチャーが……  神殿内に響き渡る轟音。おそらく実態など存在しないはずの魔力の固まりがどうして殴られて壁にぶつかって 音を立てたのかはともかく、どうやら痛みが頭に回って麻痺しちゃってるみたいです…… 「……くや、拓也! 聞こえてるの? 拓也、拓也ってば!!」  あまりにも悲惨で可哀想な感じのする影の方に意識を取られていた僕は、心配そうに側に駆け寄ってきてくれ た明日香の声でようやく我に戻れた。 「あっ…うん。聞こえてるよ」 「こんな怪我して…大丈夫だった? 手のほかに怪我してるとこはないの!?」 「大丈夫…だと思う。壁に叩き付けられたけど鎧も会ったし…それで明日香……どうして……」  ………まずは何を訊くべきなんだろ? どうしてここに? いや、なんであんなのを殴れたのか? いやいや、 それ以外にもちゃんと訊かなきゃいけない事があるような気がするんだけど……  この神殿に立ち入ってからの急速な展開に落ち着きを取り戻した頭がなかなかついていけず、少々困惑しなが らうめく僕の様子に明日香の方も気づいたらしい。するとなぜか頬を赤くしながらそっぽを向いて、 「べ、別にやましい事なんかしてないわよ。ただ拓也が失敗なんかしたらどうしようって心配だっただけで…… 覗きとかそう言うんじゃなくて……」 「………つまり魔法を使って僕の事を見ててくれたんだ……ありがと。助かったよ……」 「………うん。無事でよかった……」  こんな時だって言うのに、僕らは二人そろって顔を見詰め合い……あまつさえ、仲良く顔を真っ赤にしていた りする。  そういえば、明日香とこんな風に見詰め合うのって……いつ以来だったかな……  かたや村一番の落ちこぼれ魔法使い、かたや村最強の美少女にして次期村長。  幼なじみと言う近しい関係にありながら、僕は明日香との立場の違いを無意識に―― ―――ウ…ウオオォォォオオオオオオオオオオオオッ!!!  しまった、こいつの事を忘れてた!  二人とも慣れない雰囲気に回りのことを見ていなかった。その隙をついたわけではないが逆襲のために猛然と 襲いかかってきた黒い影がもうすぐそこにまで迫っていた。  一瞬でもその存在を忘れていた自分を呪い、そして――  明日香は――ダメだ。いつもだったらもう飛んで逃げたりしてるはずなのに反応さえ出来てない。  ヤツが来るまで一秒もない。だから僕は ――――ドンッ  怪我をしていない左手で明日香の体を軽く押す。 「あっ……」  僕にこんな事をされるなんて予測は明日香の頭に無かったはずだ。だからこうも簡単に僕の側から離れていく。  自分でもこんな事をするなんて思ってもみなかった。だから動きはそれで全て終わり。 「たく……」  伸ばされようとする明日香の手。最後の最後まで僕を守ろうとしてくれて……  だけどダメだ。間に合わない。その手が伸びきる前に、ほら、あいつが僕を――  直後、僕の全てが「闇」へと飲みこまれた。 ―――熱い。  ……なんなんだ、これ。僕は死んだんじゃないのか? それとも…死ぬのはこんなに苦しいのか? ―――痛い。  目に映る光景は全てその色を失い、輪郭だけを残して全て黒く塗りつぶされている。 ―――苦しい。  目に映る物体は全てその動きを止め、明日香は後ろ向きに倒れようとする一瞬のまま宙に浮かんでいた。 ―――痛い。  体が痛い。全てが痛い。さっき壁にたたきつけられたときよりも痛い。体が痛い、腕が痛い、耳鳴りがする、 足が痛い、吐き気がする、頭が痛い、指が痛い、お腹が痛い、目が回る、胸が苦しい、背骨が熱い、脳味噌が焼 ける、骨がきしむ、腕がちぎれる、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛 い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!  指一本動かせない。瞼を閉じる事すら許されない。  時すら動かぬ一瞬に永遠が延々と繰り返される。僕の体は無限の痛みにさらされ続け、僕の意識は灼熱の炎に 炙られて解ける前に焦げ付いていく。じりじりと、じりじりと、僕の体と意識はこね回されて別のものへと、僕 じゃない死人の体へと変わり果てようとしている。  ―――くっ…我が依り代に相応しい者を見つけたというのに……邪魔をしてくれたな、小僧。  この声……お前は……  ほとんど残ってはいない僕の意識に何かが語り掛けてくる。聞き覚えがある。さっきの影だ。  ―――よりにもよってお前のような弱そ〜〜なヤツに取り憑く事になるなんてのう……ワシも封印されとって ボケたかの?  だけど僕に返事する気力など欠片も残ってはいない。かろうじて残っている意思は休みなく突き刺さる激痛に 脳を抉られ、砕かれ、つぶされ、温かい脳漿を撒き散らし、鋭利に断ち切られた動脈から血を噴きだし、ただそ れすら判らないまま視線を宙にさ迷わせ、理性が戻れば激痛に殺され――  ―――だが、コレにはコレで面白い能力を持っておるな……むっ…なんじゃ、この魔力は?  あっ……ダメだ………ダメだ………壊れ…る…ダメだ……いたい…手が…頭が…いたっ…いた…いぃぃぃぃぃ ぃぃぃぃ!!!  ―――何故じゃ! 何故にこやつの体は……ぬっ!? いかん、魔力が暴走しよるのか!? 「あああああああああああああぁぁぁあああああっぁあああああああああああああああああぁああああああああ ああああああああっ!!!!!!!!」 「拓也っ!!」  不意に拓也に突き飛ばされた。  目の前にはいつの間にか黒い霧のように実態の存在しないモンスターがいた。ターンアンデットとディスペル を重ね掛けした渾身の拳で殴りつけた「ソレ」は派手に吹き飛んだ割にはさしたるダメージを負った様子もなく、 再び襲いかかってきたその瞬間の出来事だった。  どうして――  疑問の一言が頭の中を通りすぎていく。が、それを考えるよりも先に体は手を伸ばしていた――前に。  けれどその一瞬で全てが手遅れとなり―――  拓也は「闇」そのもののようなモンスターの中に飲みこまれてしまった。 「た…拓也っ!!」  尻餅をつく時間さえ惜しかった。腰が床に着くと同時に手をついて体を回すと、両手に魔力を集め、腰を低く 落として「闇」を再び殴りつける。 「つっ――!」  だが今度は「闇」が吹き飛ぶことはなく、代わりに私の拳の触れた場所から金属同士をぶつけたような高く、け れど耳障りな音が鳴り響いた。  「闇」が展開した障壁だ。 「くっ…拓也、返事をして、拓也、拓也ぁ!!」  最初に殴りつけたときにも障壁の手応えはあった。けれど今回の強固さは先ほどとは桁違いだった。恐らくは その膨大な魔力のほとんどを守りに費やしているのだろう。  でも私は見えない壁を殴るのをやめなかった。拳に集めた魔力一撃ごとに削がれていくがそんな事はお構いな し。私の全身に残っているありったけの魔力を拳に集め、拓也を包むように黒い球体となった「闇」を必死に殴り 続ける。  けれどすぐに、魔力同士がぶつかり合うときに生じる金属音に似た音は、やがて肉と骨が硬いものにぶつかる 時の嫌な音へと変わっていった。十発と少し殴っただけで私の魔力はあっという間に枯渇してしまったのだ。  だけど、私は拳を振るうのをやめはしない。  魔力の加護がなくなって少しして、私の両手は拓也がそうだったように血で真っ赤になっていた。  それも当然。  魔法を使っても貫けない障壁を素手で殴りつけるのは巨大な岩を殴るのと同じだ。とっくに拳の肉は裂け、白 く覗いた骨は砕けている。  痛い。一階殴るたびに激痛が脳天にまで走り抜け、今まで誰にも見せた事のない涙が勝手に溢れ出してくる。  でも殴る事だけは絶対にやめない。拓也がこいつに捕らわれているんだから。助けないと…私が拓也を助けな いと……! 「怪我した手で何やってるの! やめなさい!」  涙を流し、血を流し、それでも拓也を助けたい一心で拳を振るっていた私に、背後から誰かが抱きついた。 「離して、拓也が、拓也があの中にいるんだから、助けなきゃ、助け…なきゃ……」  それに構わずに「闇」を殴ろうとするけれど、まるで拳から滴り落ちる血と一緒に気力まで流れ出したかの様に、 一度動きを止められた私の体からは見る見るうちに力が抜け落ちていく。羽交い締めにしている誰に後ろへ引き ずられて「闇」の球体から少しずつ離れていくたびに、体は魔力消費による疲れと拳の痛みを思い出し、拓也を助 けなければならない両腕には無常なまでに力が入らなかった。 「た…拓也が……いや…拓也が…まだ……拓也…拓也ぁぁぁーーー!!」 「拓也って…くっ……彼は後で私が何とかしてあげる。だから今はあなただけでも脱出して。この神殿はもう持 たないんだから!!」 ―――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……… 「くっ…崩壊が……」 「あっ……」  気づくと大理石で出来た荘厳な神殿が揺れていた。  原因はすぐに察しがついた。私の目の前で拓也を取り込んだ黒い影――それが魔力で作った障壁の繭を小刻み に震わせている。  神殿が、地面が、空間が、目の前の存在に身じろぎ一つで揺れているのだと理解した私はそれを恐れると同時 に、もう拳を握る力も残っていない手を前に向かって突き出した。  無理なのはわかっているけれど……それでもたくやを助けようとして――  そして、それに答えるように、 『あ………あす…………明日香………』 「拓也!? 無事なのね、待ってて、今助けるから――」 ―――ダメ、逃げてぇぇぇぇぇ―――――――――っ!!  拓也の声が――いや、これは拓也の声なのか?  魔力の固まりの中から聞こえてきた叫びに何かしらの違和感を覚えた直後、それまで何とか揺れに絶えていた 神殿が轟音を響かせながら一気に崩壊を始めた。  何らかの歴史を伝えていた壁画はその表面の漆喰がボロボロと崩れ落ち、太い柱に支えられていた天井は床に 落ちて砕きの轟音を撒き散らす。  既に音は質量を持って私の体を打ち据えるほど巨大になっていた。それに踏みとどまり、必死に拓也を見つけ ようとする視線は煙と瓦礫とで遮られていく。 「そんな…返事して、拓也ぁぁぁ―――!!」 「もう諦めて! でなければあなたまで死んじゃうわよ!」 「離して! 拓也が…拓也があそこにいるのに……そんな…私、どうしてぇぇぇ!!」  泣き崩れる私の体は背後の誰かの手で無理やり神殿の外へと引きずり出される。  揺れているのが神殿だけで幸いした。神殿の建つ小島に直接繋がっているけれど橋自体にそれほど揺れはなく、  そして―――座りこんだままの私の目の前で白い神殿は形を失い、内側に向けて崩壊し―― ―――その中央に、突如光の柱が立ち上った 「え…あれは……?」 「まさか!?」  光の柱が天と地をつなぐ、どこか幻想的でさえある光景を間近に見、私と背後の女性は言葉を失い、貫かれた 天空の彼方を呆然と見上げてしまう。  これは…魔力なの?  それは吹きあがる魔力の輝きだった。  柱……いや、塔とも呼べるその巨大な姿は全てが魔力だった。おそらくアイハラン村全員の魔力を集めても、 それでも桁が違う。  さっきの黒い影とは異なる波長の魔力。その質はもとより、総量はもはや測り様もないほどの溢れ出る魔力― ―それがこの光だ。  私の周囲に音はなく、まばゆい輝きが世界を飲み込んでしまう。  視界は白く染まり、それでもなお眩く輝きを増していく魔力の柱は、永遠とも思え、実際には一分に満たない 時間だけ遥か彼方に向けてその力の全てを解き放つと、急速に魔力の量が減退し始めていく。  やがて、光の柱は徐々に細くなり、糸が切れる様に姿を消した跡には神殿も、瓦礫も、湖の中央に存在してい たほんの小さな孤島までもがその姿を消してしまっていた。  そして拓也の姿も、どれだけ探してもどこにも見付からなかった――


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