第4章「−?」第1話


 私がそれを見たのは偶然だった。 「きゃあっ!…もう、エッチな風ね」  北風が地面をすべるように私の足元を掛け抜けると、コートとセーラー服のスカートがその重苦しい濃紺とは 裏腹に軽やかに舞い上がった。  慌てて空気をはらんだ布地を手で押さえる。そして周囲を見まわすが時間も遅い事もあって、薄暗い校門周辺 には誰もいない。 「う〜ん…ちょっと無駄なサービスをしたわね。せっかく鼻血もののパンツを履いてたのに」  校舎の窓も確認するけど歩いている教師や生徒の姿を見つける事ができなかった私は、突然のスリルが巻き起 こす刺激的な出来事が続いて起きなかったことに落胆してしまう。  帰りがこれほど遅くなったのは生徒会室で来年度の部費の配分や事務の引継ぎなどの面倒な事務作業を一人で やっていたからだ。誰かに命じてもよかったのだが、生徒会長に就任したばかりの自分の部下となる副会長も書 記も会計もまだ選任されていない。能力的に有能な人間ならばすぐに思いつくが、これから一年間も学園内にあ りながら公然と密室扱いされる生徒会室で長い時間をともに過ごすのだ。できれば美形の男女を集め、楽しい日 々を過ごしたいので、選任作業はことさら慎重にならざるを得ない。  そんな理由はともかくとして、やっぱり誰かに手伝いを頼むべきだった。夕暮れで赤く染まった生徒会室で後 輩の女子に同性愛についての理解を深め合うのもいいし、テクニシャンを自負する男子を誘惑してレイプされる のもたまにはいいかもしれない。 「でもね…最近はほとんどの子を食べちゃったし……」  この学園に入学してから、目をつけた相手とは男女の性別や先輩後輩教師を問わず全て体を重ねてきた。けれ ど今にして思えばもう少し時間を掛けてシチュエーションを味わうべきじゃなかっただろうか…そんな考えが頭 の隅をかすめる。 「はぁ…新鮮なセックスがしたいな……」  誰もいない事に安心してか本音がポロリと唇から零れ落ちる。  ちょうどその時だ。家に帰ろうと止めた足を動かそうとした私の視界の端で何かがまばゆく輝いたのは―― 「んっ…………あれ? ここは…義姉さんや恭子さんは……」  拳に殴られる前に両手で顔をかばったけれど、いつまでたっても予想した衝撃は飛んでこない。それどころか、 急に肌寒く感じるほど周囲の空気が冷たくなり、暗く影を落とした事に疑問を覚えたあたしはキツく閉じ合わせ た恐る恐るまぶたを開いた。  屋上だった。あたりは暗くなっているけれどそれに間違い無い。そもそも、床がコンクリで上が空なのだから 間違え様もないし。  ただしあたしが座り込んでいる場所はさっきまで手錠につながれていたはずの配水管からやや後ろ、低い作動 音を立てつづけている四角いプレートの上へと移動し、その手錠もあたしの手首からなくなっている。 「……また過去にきちゃったのかな?」  本当に突然移動するのよね。最初も部屋から飛び出した途端に屋上にきちゃったし…でも、恭子さんに殴られ なかったからラッキーよね。  戒めから開放されて謂れのない(まぁ…あるにはあったんだけど…)暴力を受けて助かったことは助かったんだ けど――  ヒュウウウウウゥゥゥーーーーー……… 「ウッ…さ、寒い……」  広めの屋上に吹く風は場所も高い事もあってかいつもは涼しいはずなのに、今の風は夜だと言う事を差し引い てもまさに身を切るような冷たさで、あたしはブルルッと身を震わせた。  よ…よく考えれば胸もはだけたまんまだもんね。それにしても寒い…もしかして、今は冬!? あ〜ん、あた しは夏服なのにぃ〜〜!! 「ハ…ハクシュン!…うううっ……ここにいたら凍え死ぬぅ……」  急速に冷え、強張っていく腕をさすりながら、あたしは急いで扉へと歩み寄る。  ガチャ… 「……あれ?」  冷たい金属製のドアノブをかじかんでいく手でつかんで急いで回す。けど妙な手応えが返ってくると同時に回 転は途中で止まり、押しても引いても扉は一向に開く気配を見せなかった。 「……もしかして」  ガチャガチャ、ガチャガチャガチャ!  何度も左右にひねるけど扉は動かない。 「それってつまり…カギがかかってるの!? じょ、冗談でしょ!? いっつも開けっ放しのはずなのに!」  あたしは一気に焦り始めた。今が何年前で何月かは知らないけど、半袖の制服で屋上にいたら風邪どころです むはずがない。最悪、凍死と言う事も…… 「そ…そんなの絶対やだっ!女の姿で死んじゃうなんてイヤだぁぁぁ〜〜〜!! 誰か、誰か助けてぇぇぇ〜〜 〜!!」  生命に危機がすぐそこに迫っている事を察してたまらず混乱してしまったあたしは力いっぱい扉を叩いて助け を呼ぶけど、グラウンドに人影も無いような時間だ。あたしの数分間の努力も空しく、誰もやってきてはくれな かった。  せめてすりガラスとかなら割って入ったりできるのに……まんま泥棒よね、それじゃ。そんな事よりも、こう いうときこそ冷静になってどこかに脱出口を見つけるのよ。それがADVゲームの醍醐味じゃない。  で、今のあたしに取れる行動はと言うと―― 1:扉を蹴破る 2:針金でカギをあける 3:フェンスを乗り越えて階下へ移動  ……う〜ん…扉を蹴破るって……アルミ製だけど結構頑丈よね、これ……  拳で軽く扉の表面を叩いてみると、軽い音が返ってくる。おそらく中空になっているんだろうけど、それでも あたしの力で蹴破ったりは出来ないだろうし、体当たりをしようものなら非力で体重の軽いあたしの方が逆に吹 っ飛ばされそうだ。だから2番の方法で……あっ…針金が無い……  鍵穴は扉のこちらがわにもついているけど、元々男なので髪の毛が短いあたしはヘアピンを使わない。それに なにより、代わりになるようなものがないかとポケットをまさぐるけど…財布が無い……  スカートの隠しポケットに手を差し込んだあたしの頬に冬の空気よりも冷たい汗が一雫。今になって、夏美に まさぐられたときに取られたのだと思い立った。  財布……靴を買ったりしたからほとんど残ってなかったけど、それでも今月の残りをどうやって過ごせば…… 残ってるものって言ったらハンカチぐらいで、これじゃ鍵を開けるなんて事出来ないし……もっとも、針金一本 で鍵を開けるような技術なんてあたしにはないし。  力も無し、使えそうなものも無し、こうも暗いと何か落ちてるものを探すのだって無理だし……残された手段 は……  体感温度は何度だろう、身を切る風の冷たさに体温は次々と奪われていく。吐く息は白く、手の平にはき掛け ても指先が温まる事もなく、もう握る事もできないほど麻痺してしまっている。  人間とは寒いだけでここまで絶望的になるのだろうか……一秒たつごとに暗闇のかかっていく心に背中を押さ れるように、あたしは下から吹き上げる風でギシギシとなる金網フェンスへと歩み寄った。  うっ…高い……高いところはあんまり得意じゃないんだけど……  下に向けた視界には中庭の木々がまるでミニチュア模型のように映る。あれに飛び移って脱出……なんて言う 考えはアクション映画の見過ぎだろう。  金属の冷たさが肌に伝わってくるほど額を金網に近づけて可能な限り下を見れば、足元の真下に壁から突き出 た足場が確認できる。その幅は30cm…あるだろうか? ここから見る限り、あたしがギリギリ立てるかどう かの幅しかない。  しかも屋上の床の高さから足場までは結構距離がある。あそこに降り立つには、屋上の端っこをつかんでぶら 下がり、うまく飛び移らないといけない。  ………うえぇぇ…こ、これもほとんどアクション映画並……一歩間違えば……  ヒュウウウウウゥゥゥーーーーー………  あ…あんなところまでまっ逆さまに……ううう……  まるで恐怖心を煽るかのようにタイミング良く吹き上げてくる夜風にスカートのすそが頼りなげに舞い上がる。  それを恥ずかしがる余裕も無い。日が沈んでいき、高い位置の屋上よりも一足早く闇に染まっていく地面を見 て、あたしの膝はガクガクと震え、力が抜けていきそうになる。  けれど、今にも泣きそうだけどグッと涙を我慢したあたしは右手の指を金網に引っ掛ける。 「お…落ち着いて……金網のぼりぐらい、子供のころに明日香に付き合って無理やりやらされたんだから……」  そのときは途中で落下した……なんていう記憶を思い出してしまうけど、もう後には引けない。どうせこのま まここにいたら寒さで凍え死ぬんだから……  あたしは指に続いてつま先をフェンスに掛けると、自分の身長より高いフェンスをおっかなびっくり上ってい く。 「うっ……いつつっ……!」  少し上って凍えた指で金網の針金をつかむたびに激痛が走る。麻痺して何も感じないと思っていたけど、どう やら痛みだけは別で、冷たい神経にいつもよりも強烈に刺激が走り抜ける。  危険防止とはいえ、ジャンプすれば伸ばした腕の先に上端が触れるぐらいの高さのフェンス。それほど時間も かからずに上にたどり着くと、足をまたがせて反対側へ。そして下が見えずにさっきよりもゆっくり慎重に降り たあたしは、ジンジンと痺れる指先を揉みながら足元を見る。  とりあえず…下のあの場所に足を引っ掛けて、それから窓ガラスを割って……まさに泥棒よね……  さっきまでは早く誰かに見つけて欲しいって思ってたけど、事ここに至ると、誰かに見られれば間違いなく犯 罪者。こんな時間に人目はないだろうけど、誰も下から見ていないことを確認してから屋上の縁に腹ばいになり、 届きそうもない階下の足場に向かって右足を伸ばす…というか、垂らした。  お願いだから…誰にも見付かりません様…に……っと…… 「あら? 誰かと思えばなかなかかわいい子じゃないの。こんな時間にそんなところで何をしているのかしら?」 「……へっ?」  予想外の方向からの声だった。  声の主はあたしと同年代だろう女の子。どこか知性を感じさせるはっきりとした喋り方、そして聞くと同時に あたしの背筋に走り抜けるものすごくいやな予感。それが聞こえてきたのは腹ばいになったあたしの頭上、金網 フェンスの向こう側だった。 「みるとまだ若い様だけど、他校に忍びこむなんて泥棒みたいなこと、やめておいた方がいいわよ」 「ち、違うの! これはやむにやまれぬ事情があって、あたしはただ寒くって――」  あたしは泥棒じゃない。  それが言いたくて下に向けていた顔を慌ててあげて、声の聞こえてきた方向に向けようとするけれど、自分の 状況を失念していた。 「あっ……」  顔と一緒に上げた体がゆっくりと傾いでいく。金網の方ではない。それから遠ざかる様に背後へ、床も壁もな い、虚空の空間へと――  落ちる。  一瞬でそれだけは理解できた。けれど、声を出す暇がない。反動で前に振られたあたしの手は、フェンスに触 れる事無く中をさ迷い、そして――彼女の手にしっかりと掴まれた。 「ふぅ…危機一髪ね。何の遊びか知らないけど、それって危ないわよ?」 「へっ? へっ?…今…飛んだ?…はれ?」 「ふふふ……さあね」  あたしの体が落下しようとしたその瞬間、手を握って引き寄せてくれた女の子はあたしがひーこら言いながら 登った金網をトントンとたったの二歩で跳ね上がり、あんまりスペースのない屋上の縁に軽やかに舞い降りたの だ。落ちそうになったショックよりもそっちの印象が――言いかえると、その身のこなしの美しさが――あまり にも強烈過ぎて、身長は同じぐらいの彼女の胸に頭を抱きかかえられるまで、身じろぎ一つできなかった。 「さぁ、ここは危ないからとりあえず向こうに戻りましょうか。話はそれからゆっくり…ね」  そう言ってあたしの微笑みかけているのは宮野森の制服のブレザーではなく、夕暮れの中でも鮮やかさを失わ ない白いセーラー服を身にまとった長い髪の女の子だった。


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