Call my name・・・


「おばさん、こんにちは」 「あら?明日香ちゃん、よく来てくれたわね」 病院の、いやになるくらい白い廊下で、私はおばさんに挨拶した。 自宅のほうには何度か訪れたけど、病院に来るのは初めてだった。 私はあの後、その場に駆けつけた拓也のお母さんと夏美さんに助けられた。 拓也が電話で助けを求めたらしい。 ただ、二人が駆けつけた時には、その場に拓也の姿はなかった。 「どうですか、あの子の様子?」 「………」 「そうですか……」 「……とにかく会ってあげて。あの子も喜ぶだろうから」 「はい」 扉の前に立つ。 この向こう側に…いるんだ。 そう思うだけで、扉を開けようとする手に力が入る。 「す〜〜、は〜〜」 深呼吸を一つしてゆっくりと、ゆっくりと開ける。 翌日、拓也は発見された。 とあるマンションの一室で手首を切って自殺していた。 その部屋の中にいた全員――男子生徒五人、男性教師一人――が遺体で発見された。拓也によって殺されていた。 そう。血まみれの部屋の中、全身を返り血で真っ赤に染めて、拓也は自分で自分の命を絶っていた。 相原拓也は死亡した。 「あ、お母さん?」 病室に入ると、明るい返事が返ってきた。 私の目に、一人の少女の姿が映る。 壁、天井、床、カーテン、シーツ、白で埋め尽くされた部屋の中で、ただ一つ、色をもっている。 扉の開く音に気付いたのか、ベッドに横たわっていたパジャマ姿の少女がこちらを向き、話し掛けてきた。 私の体が声を聞いただけで硬直する。 髪が少し伸びて、背中に届いている。少し痩せたみたい。でも、胸は前より大きくなってない? その姿を、見慣れてるはずの姿を瞳に焼き付けるように、眺めつづける。 開いた窓から、カーテンを揺らしながら春の暖かい風が入り込み、動かない彼女と私の傍を通りすぎる。 この数ヶ月の間、何度も会いたいと思い、何度も聞きたいと願い、何度も夢にまで見た…… 「あ…あの……」 声が出ない。言いたいことはたくさんある。でも、たくさんありすぎて、その言葉は喉から先に出てこない。 足も動かない。今すぐにでも抱きつきたいのに。その瞬間、目の前の光景が消えてしまいそうで…… 事件は公にならなかった。 部屋から発見された十数本のビデオテープには女子生徒を暴行している現場が撮影されていた。 生徒数人と教師によるレイプ。 犯人はレイプされた女子生徒の恋人で被害者を殺害後、自殺。 学園側にしても、殺害された被害者の家族にしても、そして私にとっても、この事件は思い出したくもないことだった。 そして、警察もどこからか圧力が掛かったらしく、有耶無耶のうちに真相は闇の中へと消えていった。 「えっと…どちら様ですか?」 そしてもう一つ 現場で身元不明の女性が救出された。 彼女も拓也同様手首を切り、自殺を図っていた。 どうやら拓也が部屋に着いた時、数人の男に陵辱されていたらしい。犯人たちの精液が彼女の体内から発見された。 幸い、発見が早く死にはいたらなかったものの、ショックのせいか出血のせいかは不明だけれど、彼女は一切の記憶を 失っており、彼女の身柄は、ある家族に預けられることとなった。 彼女の口から放たれた言葉に、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。 分かってた。知っていた。覚悟もしてた。 でもそんなことは関係無い。彼女の一言が、私を、私の中の何かを壊してしまいそうになる。 彼女の…彼女のほんの一言が…… 「わ…私は片桐明日香。今日からあなたの世話をするの。よろしくね」 自分のすべてを使い、精一杯明るい声で自己紹介をする。 「え…でも、お母さんが……お母さん、どこかに行っちゃうの?」 さっきまで笑顔あった顔が崩れ、今にも泣き出しそうになる。 「大丈夫よ。みんなで一緒に暮らすだけよ。誰も何処へも行かないわ。だから、そんな泣きそうな顔をしないの」 ベッドに近づいて、近くの椅子に腰を掛ける。足が震えてるから、立ってるとそのうち倒れそうだった。 手を伸ばせば、彼女に触れられる。それだけ近い位置にいても、怖くて手が動かない。 太ももの上で握り締めた手は、私の想いには反応せず、握り締められ、小刻みに震えている。 「あの…お姉さんは……」 「むっ、誰がお姉さんよ。あなたと私は同い年なんだから、明日香って呼んで」 「でもあたし、記憶がなくて自分の年齢なんて……」 「記憶なんかなくたっていいの!私が同い年って言ったら同い年なの!分かった?」 「……はい」 詰め寄ったあたしの迫力に負けて、さっきまでの泣き顔は何処かにやって、彼女はコクコクとうなずいた。 ……まったく、何で私が年上なのよ。私ってそんなに大人っぽいのかな?……違う意味なら殺す。 ………あれ? 最初部屋に入ったときのショックは二・三言葉を交わしただけなのに消えていた。いつもの私に戻っている…… 彼女と話しているだけで、彼女が私といてくれるだけで、彼女がこうしていてくれるだけで…… 「じゃあ、ちゃんと呼んでみて」 「え?」 「「え?」じゃないわよ。私の名前よ。さっき教えたでしょ。「忘れた」とか「聞いてなかった」なんて言わないわよね」 目を細めて睨みつける。ちなみに片手はコキコキ指が鳴っている。 「お…覚えてます、覚えてますとも。それじゃ、コホン、え〜と、明日香…さん?」 「「さん」は、いらない。同い年なんだから呼びつけで結構。さぁ、もう一回!」 「そ…そんなぁ……」 「い・う・の♪」 最高級の天使の笑顔で微笑む。ただし両手はコキコキ指を鳴らしている。 「分かりました!分かりましたから、それはやめて!……え〜〜……明日…香」 彼女が照れながら私の名前を呼ぶ。 「もっとハッキリ、大きな声で」 「もう……明日香」 彼女も自棄になったのか、大きな声を出す。 「もう一度!」 「明日香」 その声が…言葉が…… 「…もう一度」 「明日香」 「……もう一…度」 「明日香………あれ?どうしたの、泣いてるの?」 「え?」 いつのまにか私の両目から止めど無く涙が溢れていた。 頬を伝い、顎の先から落ちて、下にあるスカートと手の甲をポツポツと濡らしていく。 「や…やだ。どうしたんだろ。涙が止まんないや。どうしたんだろ…あは…あはははは……」 手で拭っても、目を閉じても、押さえても、擦っても、涙はぜんぜん止まらない。 なのに私の口からは笑い声が漏れ始める。 「ど…どうしよう?えっと、お母さんはいないし……ねぇ明日香、どこか痛いの、それとも悲しいの? あたし、なにかしたかな……」 泣き止まない私を心配したのか、彼女はベッドの端に腰掛け、私の顔を覗き込んでくる。 そのオロオロと困ったような顔は、私の知ってるあの人と…… ガバッ! 「え?ちょっと、明日香?」 私は我慢しきれずに、彼女に抱きつく。 「ごめん。もう一度、もう一度だけ、名前、呼んでくれるかな……」 彼女の肩に顔を押し付け、搾り出すようにお願いする。 「どうしたの?一体なにが……」 「お願い……」 「………明日香」 彼女の手が私の背中に回って、ゆっくりと撫でてくれる。子供をあやすように、ゆっくりと、ゆっくりと…… 「…ごめんね…ごめんね……」 泣きながら、何度も謝る。 彼女には何に謝っているのか分からないだろう。でも…… 「明日香……いいの……いいのよ……」 「ごめん…ごめんなさい……」 拓也は死んでしまった。拓也はもういない。 でも、彼女はここにいる。 私の腕の中に彼女がいる。彼女の腕の中に私がいる。 「私……好き…一緒に…一緒にいるから…いつも…いつまでも…一緒に…いるから……」 「うん……あたしも…あたしも明日香と一緒にいる…一緒にいるから……」 「離さないで……拓也」 もうこの名で彼女を呼ぶことは無い。 私と彼女がいる。それだけでいい。それだけで……… 伸ばされた手は いつか触れ合う 触れ合った指は 互いに絡み合う 二度と…相手を…放さないように………


<完>